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お針子エヴァ

「いい加減認めたらどうだ?さもなければ、もっとひどい目に遭わせる」


彼はエヴァを椅子に座らせると、彼女のおとがいを自分の指の腹で何度も撫でた。そのまま顎を優しく摘み、下唇をゆっくりと触る。


「違うって言ってますよね、さっきから」


「その声を俺が覚えていないとでも?随分とナメられたものだ」


彼はポケットから絹のリボンを取り出してエヴァの目をそれで塞いだ。




■■


「いいですか、エヴァ。兵士たちが目の前を通り過ぎることがあっても、驚いたり逃げたりしてはいけません。いつもと同じようすで、当たり前に過ごすのです。自分の名前を尋ねられても、慌てたりたじろいだりしてはいけません。エヴァですとはっきり答えれば良いのです」


使用人のエルサと別れる前、念入りに言い聞かせられた言葉を思い出す。大丈夫、私はエヴァ。マシェルバ国が滅びて生活に困り、隣国のレグニッツへ移住した平民。家族は戦争でみな死んでしまった。エヴァはそう自分に語りかける。



「こちらで暮らしてどれくらいになる?」

「2年と少しです」

「それにしてはレグニッツの発音が上手すぎる」

「もともと国境の町で生まれて、お客さんにレグニッツの人も多かったので自分で学んでいました」



兵士はエヴァの話を聞き、細かくメモを取っている。聴取を受けるのはこれで何度目だろう。前回も前々回も、その前だって聴取を取られたあと何も起こらなかったから、今回もきっと平気。心の中の緊張を悟られないように、少しの面倒臭さを匂わせながら質問に答えていく。


兵士はエヴァの身分証をしばらく眺めてメモに情報を書き写し、それを返すと最後の質問をしてきた。



「この国の英雄の名前は?」

「リヒャルト・ブラバント。ハンサムなんでしょう?いつか会ってみたいわ」


知らないと答えると逆に怪しまれる。ある程度崇拝しているフリをしたほうがいいのだ。


フリが効いたのか、兵士はエヴァをあっさりと開放する。彼女はお辞儀をしてその場から立ち去る。急ぐ気持ちを抑え、早足にならないように自分に言い聞かせた。籠を握りしめる手に一層力が入る。目的地となる店の扉を開けてすぐに閉じると、思ったより力が入ったようで大きな音がした。


「エヴァ、うちの建具は古いんだからもっと丁寧に閉めなきゃ」

「ごめんなさい、ミュシェさん」


ミュシェさんはこの仕立て屋のオーナー・デザイナーだ。子どもが一人いて、旦那さんはいない。気風が良くてお客さんからの信頼も厚い。エヴァは知り合いのツテのツテのそのまたツテを頼ってお針子として雇われている。世間知らずで刺繍が出来る以外の取り柄がひとつもなかった彼女に、丁寧に根気強く向き合ってくれた恩人だ。


「鴨のコンフィとクリームチーズのサンド、ありましたよ。コーヒー入れますね」

「エヴァは何にしたの?」

「クロワッサン。チョコがかかってるやつです」

「いい選択だわ」


抱えていた籠をテーブルの上に置くと、同じタイミングでミュシェさんが作業台から移動してカトラリーをテーブルに並べる。籠の中に入っているパンを眺め、大きく鼻を吸ってバゲットの香ばしい匂いを確かめている。


教わった通りの手順でコーヒーを淹れる。彼女はブラックで、エヴァはミルクを少しだけ。 自分はまろやかになりすぎない味が好きだと知ったのもここ1年の出来事だ。それまでは紅茶一択でコーヒーなんて飲んだこともなかった。


「コーヒー、すっかり美味しく淹れられるようになったね」

「師匠が良かったんですよ」

「最初、出涸らしみたいなコーヒーが出てきたときはびっくりしたわ。そこから教えなきゃいけないの!?ってね」


ミュシェさんはサンドイッチを頬張りながら楽しそうにエヴァをからかう。エヴァはクロワッサンを食べようとした手を止めて彼女に向き合った。


「敵国から来た世間知らずの私を拾ってくださって…ありがとうございます」

「いいのよ、気にしないで。敵国って言っても、私にはマシェルバのお客さんがたくさんいたの。それこそお互いの国が対立する前からね。あなたを紹介してくれたポンパドゥール夫人は駆け出しの頃からお世話になってたのよ」


だから戦争で家族を失った子の面倒を見てやってほしいと言われても二つ返事で了承したの。コーヒーを啜りながら、ミュシェさんは懐かしそうに語る。彼女の昔話を聞くことは好きだとエヴァは思う。何がきっかけで商売を始めたか。旦那さんとはいつ出会ったか、子どもが生まれて、1人でどう育てたか。ミュシェさんは包み隠さず自分のことを話してくれた。それはエヴァを安心させる行為のようにも思えた。


「あなたは?ポンパドゥール夫人とは長い付き合いなの?」

「いえ……ポンパドゥール夫人の知り合いの方に良くしてもらっていて……」 

「……あ、ごめんね。言いづらいことは言わなくていいのよ」


一方でエヴァはというと、自分のことは深く話せない。それがとても申し訳なかった。けれどミュシェさんは「話したくなったら話してくれたらいい。話さなくてもいいのよ」とエヴァに寄り添ってくれる。心苦しいけれど、本当のことはずっと言えそうにない。


エヴァの本当の名前は、ローズ・マシェルバと言う。2年以上前に滅んだ国の先代の王の娘だ。正確には妾の子で、王族と一部の貴族の間でのみ知られる隠された存在だった。母は彼女を産んですぐに亡くなったそうだ。父は年に1度会えるかどうかの存在で、ローズは王宮の離れにある小さな塔でずっと暮らしていた。国が滅ぶ前、クーデターによりローズ以外の王族や高位の貴族はみな殺されてしまった。けれどローズは周りの人に恵まれていたこともあってなんとか逃げ延び今に至る。


「そういえば、昨日王宮に行ってきたのよ。ドレスを1着直して欲しいって言われて」


サンドをすっかり平らげてしまったミュシェさんが、コーヒーを胃に流し込んだあとで喋り始めた。彼女は口元をハンカチで拭い、手を洗ってから預かったドレスを作業台に乗せる。



「王妃様の侍女を務める方のドレスよ。お祖母様からの形見なんですって。この袖の金の刺繍がマシェルバの伝統刺繍らしいんだけど、直せる人が王都にいないからってうちに依頼が来たの」


エヴァも手を洗ってから作業台へ向き合う。ミュシェさんが指し示した部分は確かに凝った伝統刺繍があしらわれている。


「直せそう?」

「やったことあるので大丈夫だと思います。良いドレスですね」

「どれくらいかかる?」

「全体的に解れているので、1週間ほしいです」

「伝えておくわ。糸は足りそう?」

「ここにあるもので大丈夫です」


マシェルバで暮らした16年間、ローズはほとんどの時間を幽閉された塔の中で過ごした。できることは塔にある本を読むことと、お茶をいれることと、刺繍やレース編みをすることくらい。刺繍は特に没頭して取り組んでいた。それが幸いして今では難しい刺繍の仕事が舞い込んできたりする。


作業台の後ろの壁一面には糸やボタン、はぎれがそれぞれに収納された大きな棚がある。この店を初めて訪れたとき、その棚の見事さに惚れ惚れして目を輝かせたエヴァを見て、「この子ならうちの店でもやっていける」とミュシェさんは思ったらしい。


いくつかの棚から目的の糸を取り出して自分の椅子に座る。どの部分から直していくか決めていると、ミュシェさんが何か思い出したかのように教えてくれた。



「王都でね、例のお姫様探しが本格化してるんだって」

「……マシェルバの?」

「そう。マシェルバ王家の生き残り。近衛師団がずっと探してるっていう」

「……私は田舎で育ったので、王様に妾の子がいたことも聞いたことないです」

「私も知らなかったわ。でもあそこまで粘って探してるのを見ると本当っぽいのよね」


エヴァからすればしつこいとしか言いようがない。大体自分が見つかって何をされるのか恐怖でしかないし、姫であったとされる時代も姫らしく育てられた覚えはないのだ。一平民としてお針子の仕事に邁進している今が一番充実していると言っていい。職場にも恵まれているし。


「王都ではマシェルバからやってきた、お姫様と同い年くらいの金髪の子を順番に集めて確認しているそうよ。王都でお姫様が見つからなければ、隣り街でもやるって。そのうちこのギークリスでもやるかも……」


エヴァは顔をしかめた。そうなるとその条件にすべて当てはまる自分も招集の対象になってしまう。


「髪……染めようかな」

「だめよ!せっかくキレイな髪なんだから」


エヴァがこの街にやってきて2年のうちに何十回も取り調べを受けているのは、おそらく年齢と髪の色にあった。どういうわけかこの国の近衛師団は彼女のことを探していて、年齢と髪の色を把握しているらしい。幸福なことにそれ以外の情報は何にひとつ知らないようだ。髪を染めることを何度も考えたけれど、母親がエヴァと同じような豊かな金髪だったらしく、それが心に引っかかってためらっている。

何よりエヴァがローズ姫である確かな証拠なんてどこにもないし、姫として暮らしていた頃に彼女の周りにいて、今も生きている人はみんな信用できる人たちだ。情報を漏らす可能性は極めて低い。堂々としらばっくれていたら、きっとやり過ごせる。安直かもしれないけれどエヴァはそう思っている。


「もう2年も探して見つかってないんですよ?どこかで死んでますって」

「あなた……かつての自分の国のお姫様にそんな不敬なこと言っていいの?」

「もう滅んだ国ですし、私はその国の恩恵なんて全然受けてませんもの。刺繍くらいで」

「まあ…2年探しても見つからないんだから、"英雄様"も諦めてくれたらいいんだけどね」



そうなのだ。敵国の姫を恐ろしい執着で探しているのは、この国の英雄様なのだ。敵国の姫探しが国を挙げての捜索になっているのも、この英雄様のせいである。


そしてその英雄様に熱心に探されているのはエヴァである。身に覚えが……無いわけではない。目の前のミュシェさんには絶対に言えない秘密だ。



「大体そんなに探して、見つかったらどうするんでしょうかね?煮て焼いて食べるつもりですか?」

「重要な伝達事項がある、って話だけど。案外、簡単な理由かもしれないわよ?好きになっちゃったとか!」

「冷静沈着で、スマートで、誰よりも強い『英雄様』がですか?」


第一、恨まれることはあっても好かれるようなことは何一つしていない自信があった。彼がかつてマシェルバで捕虜になっていたときのことを思い出し、そっと目を閉じる。


間違いなくられる。絶対に見つかるわけにはいかない。


そう心に誓って、エヴァは仕事を再開させた。

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