マリア
高く、分厚い壁が四方を囲む内側には、広々とした運動場が存在しており、球技や走り込みなど、様々な運動が楽しめるようになっている。
その先に存在するのが、救護院の本棟で、マリアに案内されて内部の施設を見せてもらったが、教室や寝所、湯浴み場に炊事場等々……全ての生活が、ここで完結する仕組みとなっていた。
それも当然のことで、入院した子供たちは、よほどの事情がなければ外へ出されることがなく、ここで眠り、食べ、学ぶこととなるからである。
「口さがない記者の一人には、『まるで刑務所のようです』と言われたわ。
……まあ、事実として、収容所としての側面も持っているのだけど」
救護院の最上階に存在する部屋……。
院長室で手ずからお茶を淹れながら、マリアはそうこぼした。
「必要なことよ。
元々が、秩序など存在しない世界で育った浮浪児たちだもの。
まずは、厳密に管理し秩序というものを教えながら、必要な教育を施していく……。
社会というものに触れさせるのは、それからだわ」
勧められるままソファに腰かけ、さらりとそう答える。
「でも、実際に人狩りへ近いことをしているのは、確かだわ。
もちろん、入院させるにあたっては、本当に頼りとなる身寄りがないのかとか、厳密な調査をしているけれど。
結局……警察の力も借りて、最後は無理矢理に引っ張ってきているわけだし」
「今、下の階で勉強させられていた子たち……。
ひょっとしたら、彼らは今、あなたのことを恨んでいるのかもしれない。
自分たちから自由を奪った。こんな窮屈な所に押し込めた、てね。
でも、十年する頃には、きっとそれが感謝へ変わっているはずよ」
出された紅茶を一口すすり、懐かしい……ほっとする味に目を細めながら、そう告げた。
更生……あえて、更生と言おう。
王子の婚約者という立場から強権を発揮し、無理矢理にここへ押し込んだ子供たち……。
彼らが、本来、この王国で生まれた子供が当たり前に享受できるはずだったものを受け入れ、正しく成長するためには、いくつもの過程が必要となるはずだ。
だが、目の前にいる彼女なら……マリアなら、きっとそれをやり遂げてみせる。
彼女には、それだけの強さと、無限とも思える優しさが存在するのだから。
「ありがとう。
ザビーに言ってもらえると、自信がつく」
「もっと、胸を張っていいわ。
あなたは、学生時代からの夢を叶えたのだから」
「夢を叶えたなんて、そんな……。
ペンドルトン男爵に、アルフォート……そして、女王陛下……。
色んな方々が、あたしを助けて、支えてくれただけよ」
自らも紅茶を飲みながら、マリアがはにかんでみせる。
彼女――マリアの前身は、貧農の娘だ。
口減らしのため、都会へ娘を奉公に出す……。
産業時代を迎え、以前とは比較にならない豊かさを得た我が国においても、いまだありふれた話であった。
ただ、彼女が似た境遇にある他の娘と違ったのは、その内に才能を秘めていたということだろう。
ある日、彼女は奉公先の主人であるペンドルトン男爵から、電報を打ちに行くよう頼まれ、メモの端切れを渡された。
と、いっても、小学校にすら通っていない無学な娘なので、男爵も彼女自身にこれを読ませようと思ったわけではない。
ただ、電信局の人間にメモを渡させることで、自分の言葉や宛先を伝えようとしたのだ。
ところが……。
マリアは渡されたメモを読んで、すらすらと書かれた文面を読み上げてしまったのである。
このことに、男爵は大層驚いた。
奉公生活の中、マリアは男爵たちの生活を観察することで、読み書きを独自に習得してしまっていたのだ。
驚いた男爵であるが、それだけに留まらなかったのは、彼の慧眼といえるだろう。
習わぬ文字を読み解いた才能や、日頃の真面目な働きぶりを高く評価した彼は、マリアの後見人となり、彼女を貴族学校へと入学させたのである。
前代未聞ともいえる、庶民の入学……。
男爵という決して高くはない家格でそれを成せたのは、ペンドルトン男爵が競馬界をけん引する名ジョッキーであったこと……。
そして、やはり、マリア自身の類まれなる才能が大きい。
入学試験に備え、男爵自らが教鞭を執ると、マリアは水を吸い込む綿のような速度でそれを学習し、たちまちの内に入学基準の学力を身につけてしまったのだという。
そのようなわけで、貴族学校に入学し……私と出会った。
出会った当初のことは、割愛しよう。
ただ幼く、世間知らずなだけだったでは済まされない、私の不徳だ。
ただ、彼女はそんな不徳まみれのダメ令嬢に辛抱強く接してくれて……。
それで、自分の間違いを正してもらえた私は、彼女と友達になれたのである。
いや、ただの友達ではない。
親友だ。
向こうがどう思っているかは知らないが、ザビーにとってマリアは、生涯において唯一無二の友なのであった。
「ねえ、ザビー?
あなたにも、あたしを支える一人になってもらえないかしら?」
だから、真っ直ぐな眼差しを向けられながらそう言われて、心が躍ってしまう。
「まだまだ、この救護院には人手が足りないわ。
特に、子供たちへ勉学を教える先生が不足している。
その点、あなたなら打ってつけ……ううん、あなた以上の人材なんて、存在しないわ」
こういった言葉を、心の底から述べることができる……。
それが、マリアの尊敬すべきところであり、ある種、恐ろしいところだ。
そりゃ、私との婚約が破棄となり、自由になったアルフォートが彼女を選ぶ気持ちも分かるわ。
もし、私が彼の立場だったなら、婚約者がいる状況でもそれを破棄して告白するに違いない。
いやまあ、王子の婚約って要するに女王陛下の命による国策だから、それやったらえらいことになるんだけどね。
ともかく、ぐらありと揺れた心を必死に元の形へ押し戻す。
押し戻した上で、返答した。
「……せっかく出来た救護院を、私みたいな人間がうろついていたら、あなたに迷惑をかけてしまうわ。
いや、あなただけじゃない……。
あなたの婚約者であるアルフォートや、ひいては敬愛する女王陛下にも、ね」
「その、二年前のことは残念だったけど……。
あれは、あなたのお父上がやったことで、あなた自身に咎がないことは女王陛下自らが宣言して下さっているわ。
アルフォートだって、検察側という立場上、あなたの罪状にまで言及しないといけなかっただけで、本心でそれを思っていたわけじゃない」
「ありがとう……。
でも、やっぱり駄目よ。
私たちや、あるいは女王陛下がどう思うかが重要なんじゃない。
世間様が、どう思うかが重要なんだもの。
この救護院は、どこまでも清廉潔白でなければならない。
多くの人から助けられ、支えられることで学を得たあなたが、今度はそれをより多くの子供へ与えていく場所とならなければならない。
そこに、私はいるべきじゃないわ」
「そう……。
あなたがそう言うなら、きっと考えを変えることはないんでしょうね……」
そう言って、マリアが寂しげにほほ笑む。
彼女の心遣いは嬉しいし、力にもなってやりたいが、この場合は、距離を置くのが最大の支援である。
本来、こうして訪ねることすら、するべきではないのだから……。
その、すべきでないことをしている理由が思い起こされ、私は口を開く。
「それで、今日ここへ来た理由なんだけど……」
「親友とお茶をしにきただけ、じゃないのね?」
――親友。
彼女が言ってくれた単語に、どうしようもない嬉しさを覚えながら、続きを告げた。
「私、あれから探偵をしていてね……。
実は今、ある犯罪者に狙われている浮浪者の娘を助けるよう依頼されているの。
ただ、その子が寝床にしている場所が分からない……」
「それで、あたしなら知っているかもと思ったのね?
警察に救護院の入院対象となる子供を探してもらい、調査してもらっているから。
でも、犯罪者に狙われているというなら警察に――」
「――警察は無理よ。
とてもじゃないけど、この事件を解決には導けないわ」
つーか、本音を漏らすと私も別に解決したくはない。
ただ、全王国女子のためにやらねばならないというだけだ。
「いやでも――」
「――無理よ」
「――しかし」
「――理由は聞かないで。
……無理なの」
……黄金ヘンタイ騎士という汚れた名を彼女に聞かせたくないため、勢いで押し切る。
そんな私を見て、マリアは溜め息を吐き……。
「……事情があるのね。
分かったわ。
大体の範囲とか、名前や特徴は分かる?」
そう言いながら、背後の本棚に収められた書類――おそらくは警察による捜査資料を、調べ始めてくれたのであった。