ヘンタイ出現
そろそろ夕刻を迎えようというこの時間は、グレイフールにとって真の朝と呼ぶべき時間帯であり、秩序と混沌とが入り交ざる汽水域のごとき様相を呈していた。
大通りに向けて、足早に通り過ぎるばかりの者もいれば、最初から遊ぶつもりでここを訪れる人間もいるし、場合によっては、通り過ぎるだけのつもりだったのが、熱心な客引きなどに根負けして考えを変える者もいるのである。
酒場、娼館、裏カジノ……。
その他、様々な種類の店が開き始め、昼の間に生まれた金を飲み込むべく、手ぐすね引いているのであった。
そんな歓楽街の通りを歩むのは、一人の少女である。
ハッキリと、こう断じよう。
このような刻限、この町を出歩くのは似つかわしくない少女であった。
艷やかな黒髪は左右の頭頂部でくくられ、垂らされており、一歩、踏み出すごとにゆらゆらと揺れて、道行く者――特に、男性の視線を奪ってやまない。
着ている衣服も、ふわりとしたシルエットの逸品で、年頃の少女らしい、やわらかなかわいらしさがあった。
総じて、どこかいいところのお嬢さんとしか思えぬ少女なのだ。
まあ、実際は、この町で長いことスリ師として暮らしてきた女の子なんだけど。
いうまでもないが、これなる少女の正体はエイマである。
普段は、ボロボロのトレンチコートにハンチング帽という格好で練り歩いている彼女だ。
このような格好は、どうにも心もとなさがあるらしく、キョロキョロと落ち着かなげにしながら通りを歩いていた。
あるいは、今この瞬間もどこかからヘンタイに見られているのかもしれないという不安が、彼女にそのような挙動をさせるのかもしれない。
だが、この場合はどちらでもかまわないだろう。
そのような彼女の態度が、見知らぬ場所へ迷い込んだ可憐な少女という雰囲気をいっそう高めていた。
そうすると、どうなるか……。
「お嬢ちゃん、見ない顔だね?
良かったら、おうちまで送ってあげようか?」
「いやいや、こんな町まで来たんだから、何か刺激的な遊びがしたいんだろう?
うちの店はどうだい?
大丈夫、あまり遅くなるようなことにはならないから!」
「いやいや、それならうちが……」
「いやいやいや、うちこそ……」
……女性のお客を当てにしているお店の兄さんたちが、輪になってエイマを取り囲み始めたのである。
――し、しまったあ!
おびき出す必要があるのはヘンタイだけなのに、いらん連中まで引き寄せてしまった!
でも、しょうがないじゃない! せっかくの良い素材だったから、張り切って着飾らせたくなったんだもの!
そんなことを考えながら、人混みに紛れて様子をうかがう。
どうする? どうする? どうする?
いっそ、割って入って兄さんたちを引き剥がすか?
そのようことを考えながら、周囲の様子をうかがっていたその時である。
ふと、とある紳士の姿が目に止まった。
もし、普通に通行人の中へ紛れていたのなら、私はこの人物に注目することがなかっただろう。
それくらい、この王都ではごくありふれた……少しばかりの裕福さと教養を感じさせる、身綺麗な男性であるのだ。
ただ、それが消火栓の陰に身を隠しながら、わなわなと身体を震わせていれば、これは、とてもじゃないが普通の紳士とは呼べなかった。
――釣れたかな?
何となくの直感と共に、紳士の様子を観察する。
無論だが、彼の人相をよく観察することは忘れない。
そうすること、しばし……。
果たして、私の予想は正しかった。
道行く人たちから好奇の視線を注がれようと、指差されながらひそひそ話のネタにされようと、紳士は消火栓の陰で身を震わせ続け……。
やがて、決然と立ち上がると、そのまま路地裏へと歩き去ったのだ。
「――ビンゴ」
つぶやきながら、その後を追う。
まさか、自分が尾けられているとは、夢にも思っていないのだろう。
紳士は、無警戒に複雑な路地裏の中を歩んで行き……。
やがて、周囲に人の気配がなくなったところで、立ち止まった。
「――ふん!」
立ち止まると同時に、まとったスーツのジャケットを脱ぎ捨てる!
すると、おお……どうしたことか……。
脱ぎ捨てられたジャケットで一瞬、私の視界から紳士が隠れた次の瞬間、そこには、黄金の甲冑で身を包んだ男が姿を現していたのだ。
――……は?
自分の目が、点になったのを感じる。
いや、確かに一瞬……ほんの一瞬だけ、ジャケットが邪魔になって私の視界から紳士が消えたよ?
消えて、どうして次の瞬間には、甲冑姿の男が姿を現すのかしら?
落ち着け、ザビー。冷静になれ。
冷静になって、この状況を整理しろ。
まず、状況から考えて、この鎧男は先の紳士と見て間違いない。
つまり、あの紳士は私の視界から隠れた一瞬で、全身に甲冑を身にまとったのである。
…………………………。
いや、何でだあああああ!?
従者がいないと着ることすらままならないと言われる全身甲冑を、どうやって一瞬で装着した!?
つーか、どこに隠してたのよ!? その鎧!
心中でツッコミ続ける私だが、当然ながら、そんな心の声が男に伝わるはずもない。
そもそも、私の存在に気がついていないので、彼は悠然とポーズを決めながらこう叫んだのである。
「さあ、いざ行かん!
ちょっと幼い感じがする美少女のため……正義を遂行するのだ!」
叫ぶや否や、まるで猛牛のように駆け出す――元来た道を。
そうなると、当然ながら尾行してきた私の方へ駆けてくることになるのだが、あまりの早着替えっぷりに動揺していた私は、反応が遅れてしまった。
「――キャ!?」
「――おっと、失礼!」
私にぶつかる直前、華麗に身をひねることで避けた黄金騎士が、片手を振りながら走り去っていく。
うわ……久しぶりに「キャ」とか言っちゃったよ。
ともあれ、ぼう然としている場合ではない。
あの騎士が走り去って行った先には、エイマがいるのだ。
そして、そもそも私は、そういう商売の兄さんたちに絡まれまくった彼女を、放置してここへ来ているのである。
「逃がすかあっ!」
釣り上げた魚をタモですくうべく、私もまた駆け出した。




