たたりドッペル
放課後、クラスメイトの道木佑成に案内してもらい、件の教室に向かう。
外では運動部の生徒が練習に励んでいるはずだが、彼らの声は、5階のまで届かないようで、廊下に響くのは俺、最野下陽夏と、佑成二人の会話だけだった。
「それで、そいつ……えっと……」
「越生たたり。」
カツカツと上履きを鳴らしながら廊下を進む。窓の外から見える夕焼けに照らされて、佑成はその名を言う。
「……越生はそのまま帰ったのか?」
俺は佑成にそう聞いた。
「親御さんに電話して、迎えに来てもらったんだって。また当分は学校に来ないだろうね」
部活の友人から、事情聴取をしたのだろう。スラスラと、まるで見て来たかのように彼は答えた。
「……ふーん」
そうなると、本人に接触するのが難しくなる。どうしたものかと少し考えを巡らせる。外を飛ぶカラスを、なんとなく目で追った。
「……最野下的にはどう思う?」
「どう思うって?」
佑成は視線を進行方向からこちらに向け、だからさ、と続ける
「越生が遭ったのは、お前の言う、怪異なのかな?」
「……お前だって経験あるだろ?」
もう何回もしたであろう説明をさせる気か。そう言う前に佑成は、首を横に振る。
「あの時の話はやめて。」
「……ごめん」
祓えたからといって、完全に忘れたわけではない。今のは確かに無神経すぎた。俺は素直に謝罪する
「……いや、いいんだ」
そこで話を切りやめた。
「ここだよ」
立ち止まり、教室のドアを、ガラガラと音を立てて佑成は開ける。そのまま中に入る彼に俺は続く。
無人の教室は、廃墟を思わる惨状だった。
蛍光灯は割られ、カーテンは床に落ちたまま放置。
教室の真ん中を大きくへこんだ教卓と、備え付けのプロジェクターが占領し。
ゴミ箱の中身は撒き散らされ、まともに立っている机は一つもない、引き出しに入っていたであろう教科書やプリントも床に散乱していた。
叩き破られた窓から、冷たい風がヒュゥと入ってくる。
「……思ったより酷い事になってるな」
俺はなんともなしに近くに落ちている用紙を一枚拾う。
恐らくこのクラスの生徒が逃げる際につけたであろう足跡が、くっきりと残っていた。
「……さっきも言ったけど。中学二年生ぐらいから、今日までの三年間……不登校だったんだよ、越生」
床の物に足を取られないように、佑成は慎重に最後列の机まで進む。
「でも今日、勇気を振り絞って登校して来たんだよ。」
そう言ってその机をよっこいしょと起こし、上に座った。
「……で、ちょうどこの机。この机にあいつは座ってたらしいんだ、右隣が俺の部活の子の席ね」
指をさしたのは右隣ではなく、教室の真前。
机は、文庫本の背表紙ほどの大きさで、長方形の穴が幾つも空いた黒板の下にあった。
「一時間目のはじまってしばらくして、あいつは突然暴れだした。手持ちの文房具を周りに投げつけ、机をひっくり返し、近くにいたやつに殴りかかった。一通り破壊の済んで、周りに誰もいなくなった後は自傷行為を仕出したそうだよ。」
ちらっと佑成が見た先には、数滴の血痕とその際に使われたであろうシャープペンシルが残されていた。
「……その後、隣の教室で授業をしてた先生と三人がかりでなんとか拘束して空き教室に軟禁。俺の友達はそこに盗み聞きしに行ったらしい」
「……」
「事態はなんとか治った、怪我人は出たけど、幸いみんなその時は軽傷で済んだ……済んだんだけど……」
「……自分はやってない、やったのは自分のドッペルゲンガーだ、と言い出した」
俺は佑成の言葉を取り継いだ。
「……うん」
コクリ、と佑成は頷く。
「……もちろん、それを聞いた先生たちも、そんなの……言い方悪いけど、精神的に弱い越生の作り出した妄想だって、そう思った。引き渡す時、親御さんも、一年前、医者にそう診断されたって言ってたしね」
とん、と机から降り、俺の方を見る。ここまでは道中に聞いたが、まだ続きがあったらしい。
「……その後、授業は三階の空き教室で行われる事になった」
三階。三階の空き教室というと、あそこか。俺は思い出す。以前オカルト部設立を試みたときに部室として下見したことがある。この教室より、ひとまわり小さかったはずだが、まあ特に困りはしなかっただろう。
「二時間目は数学だったらしいけど。当然、越生の話題で持ちきりになって、授業にならなかった、そしてそのまま休み時間を迎えた」
その時、ビュゥと、一際大きな風が入ってくる。床に散らばった紙や埃、果てはそこそこの大きさもあるガラス片が舞い上がり、髪を揺らした。
「そんな中、現れたんだ。」
風はさらに強くなり、床を敷き詰めるすべてのものを巻き上げた。
「越生のドッペルが。」
ここからは佑成の話を元に、俺が頭の中で再構築した描写である。
休み時間、クラスの皆がそれぞれのグループで談笑していた。
話題の殆どはやはり越生であったが、それを話す物は先の授業より減っていた。おそらくそのまま行けば、帰るころには誰も話さなくなっていたであろう。
少なくとも、佑成の部活仲間はそう考えていた。
休み時間も半分終わった頃、ある生徒がこう言い出したという、
「さっき、トイレの帰りに越生を見た」
当然彼はその時すでに帰った筈、見間違いでないかと誰もが思った。
実際、クラスの大半が彼を乗せたクルマを校舎から見送っていたので確かである。
しかしそうなると、本当にドッペルゲンガーが現れたのでないかと言うものが出始める、もちろん最初は皆疑い半分で、ふざけて誰か見に行ってこいと言うやつもいた。
だが次第に、越生ならさっき見た、なんなら触られた、怪我を負わされたという目撃、接触情報が湧いてくる。
冗談など言わないような子も、その中にいたのだから、教室の空気は急速に冷え、ガヤガヤと騒がしさは増して行く。
……そして、
「——ッ‼︎……‼︎」
ある女子生徒を起点に、次々と皆声にならない悲鳴を上げ始めた。それはちょうどチャイムと同時で、あったが、かき消されずに、階全体に響き渡る。
腰が抜けながらも、彼女は必死で何かから逃げる彼女らの視線の先、つまり教壇に、気味悪く笑う越生を、多くの生徒が目撃した。
そこからは皆パニックに陥いる。一刻も早く逃げようとする生徒が達に押されて教室後ろの出入り口は塞る。
やってきた先生は何事かと思ったという。
神社前の丁字路を、いつもと反対に曲がる。すでに住所を聞き出して居る佑成に、やはり続く形で。向かうのは、越生宅。
「……結局、それ何に使うのさ?」
「妖怪退治さ」
俺はそれを学生鞄に入れる。
「ふーん」
聞いても教えてもらえないと判断したのだろう。佑成は適当に流す。
「……そういえばさ、さっきのどういうこと?」
ふと廊下での会話を思い出し、俺はそう聞いた。
「……さっきのって?」
「ほら、越生のドッペルが怪異じゃないかもしれないだのなんだの、言ってたじゃん」
「……あぁ、あれ。」
小柄な彼には重そうに見える学生鞄を、よっこいしょと肩に掛けなおす。
「うん、どう考えたって怪異だろ」
「……違うって、俺が言いたいのは……」
数瞬、頭の中で言葉を纏める佑成。
「お前が言うような怪異。つまり、精神病の一種として視えるそれじゃないだろって事。」
「……ん?」
佑成の言いたいことがよくわからず、疑問符がでる。
「……だから、言ったでしょ?心的に、全く問題のない生徒の大半が、実際にドッペルゲンガーを見て。酷い子は骨折だったり、しばらく痕が残るような傷を負ったて。」
「……あぁ、そう言うこと」
以前、佑成が怪異に遭った時、彼にはそれがなんなのか、色々説明をしたが、なるほど。確かに彼が取り憑かれたモノはそのタイプではなかった。中途半端にしか理解してなかったのだろう。
「……じゃあ、おさらいするか?」
「……おさらい?」
「ん、怪異ってのはなんなのかについて。」
蘊蓄話ができると、内心喜んでいた俺に対して、佑成の反応は微妙であった。
「……それってつまり、今回のドッペルも怪異ってこと?」
「ん、そうさ」
俺は気にせず説明を始める。
「……今、お前が言ったように、怪異ってのは人間の心。正確に言えば脳が生み出す幻だ。」
俺はなんとか聞いてもらおうと、声のトーンを調整する。
「受け入れたくない現実から、目を逸らすことで発生する矛盾に、辻褄を合わせようとしたりすることで、視えるモノだ。」
「……うん」
そんな説明は何回も聞いたと思いつつも、大人しく俺の講釈に頷く。
「で、視える、と言ったけど、別に視覚だけに限らない。触れるし、匂いもあるし、音も発する怪異なんてのはごまんと居る。」
俺は人差し指で頭を小突く。
「まぁ、五感なんてのは最終的にここで処理されるわけだから。当然だな」
「……でも、実際に怪我を負うってのは……」
「いるさ、自分でつけたり、元からあったり、他の原因でできた傷だったりをその怪異のせいにしてしまえばいいんだから」
「……だから、それは心を病んでる人だけでしょ?」
越生のクラスメイトの骨折やらなんやらは、どう説明するのさ。
そう聞いているのであろう。文芸部で小説を読み漁ってる書痴の癖に、意外と堪え性の無い男だ。説明には順番というものがあるだろうに。
まあしかし、無質問で聞き流されるよりはずっといいだろう。そう考え直し、俺は続けた。
「……そうだな、じゃあ佑成は口裂け女って知ってるか?」
「ん、まぁ。」
道に転がっていた石ころを蹴飛ばし、そう答える。
「マスクをしてる女の人で、私綺麗?って質問に、綺麗って答えると、これでもかっ!て耳まで裂けた口を見せてくるやつ。……ポマードとか、ベッコウ飴?使えば逃げられるんだっけ」
「そうそう、他には?」
「他にはって……、うーん。一斉休校になるほど社会現象になったりしたんだっけ。確かそれが終息したのが夏休み入って子供の噂が途切れたから……だったっけ?」
「……ん。そうだな。じゃあ、その噂を流していた、少年少女の心は病んでいたのかな?」
「……え?」
少し佑成は考えるが。
「……いや、それ違うでしょ」
と返す。
「噂を流してるだけで、目撃したり、被害に遭ったりしてないじゃん」
「……ところがな、面白いのはそこなんだよ」
「……え?」
「調査をしてみて——もちろん友達の友達、みたいな曖昧な情報はカウントしてないぞ?
わかったんだが、口裂け女との遭遇率、そして被害率は、日頃からどれだけその噂を送受信していたかに比例していたんだよ」
その時、木々が風に揺れ、ザザァッと音を立てた。
砂埃が入ったのか、目を瞑る佑成を見て、少し実演をしてみるか、と思う。
……ん、鎌鼬。と俺は呟いた。
「……鎌鼬?」
ぴっ、と俺は佑成のシャツの袖を指差す。
「……え?」
小さくではあるが、軽く引き裂かれていたそれを見て、驚きの表情を浮かべる。
「いまちょうど通ったんだよ。」
俺の言葉を間に受けて、クルリクルリと首を回して辺りを探す彼は、間抜けに見えた。思わずクスクスと笑い声が漏れる。
「……冗談さ」
俺はすぐに種明かしをする。
「その傷は、教室でついたんだろうな、ガラス片が何個も舞い上がってただろう?」
あぁ、と彼は納得する。
俺は指をピンと上に向ける。
「な?怪異を視るのに、対して心の病みは必要ないだろ?」
引き裂かれた後を見るために袖を引っ張っていた右手を離す。
「……今のは怪異っていうか……ただ騙しただけじゃん」
剝れる佑成に特に意味もなくデコピンをする。嗜虐欲を掻き立たせる奴だ、本当に。
「……そうだな、ちなみに俺そのまま嘘を吐き続けていたら、どんぐらい信じてた?」
「……んー」
腕を組み、しばらく考える様な顔をして、
「わかんない……ていうか多分、割とすぐに忘れるかな……」
最終的にそう答えた。
「ん、……そう、個人の視る怪異ってのは、そいつが病んでるってことが条件なんだ。そうでなきゃ気のせいで済まされて、怪異として心の中に実体化されない。」
ここで一旦言葉を区切り佑成の方を見る。
「……うん」
と相槌を打ったのを見て続けた。
「が、しかし、想像してみろ、仮にこの場にお前以外の人間が……十人ぐらいいたとして、その全員のシャツが斬りつけられていたとしたら?」
「……ん、それは……」
再び腕を組んで考えはじめる彼に、またデコピンを食らわせようとするが。今度はあっさり避けられた。
「……まぁ、信じるかもね……」
「ん、そう」
俺はこくりと頷く。
「集団心理ってのは恐ろしいだろ?例えその状況で、全員が鎌鼬の正体を悟っていたとしても、それを誰も言わず、時間経過と共に非現実的な怪異を認める、なんてこともあるんだぞ?」
「……集団で遭う……怪異?」
「ん、むしろ怪異ってのは、そっちのタイプの方が多かったりするんだが……まあこの場合重要なのは、
構成する人間の精神力はあまり関係なく、遭う時は怪異にあってしまう、ってとこだ。」
「……で、結局今回の事件の真相はなんなの?」
「ん、越生の家まで後どれぐらいでつく?」
「……十分ぐらい?」
「結構遠いな」
まあそれだけあれば十分だろう。
「……じゃあ、解説していくぞ」
長い解説のため、佑成の相槌などは、取り除き、纏めた物をここに書く。
「まず、始めに、お前の話には何点か曖昧なところがあった。
例えば、トイレからの帰りに越生を見たと言う生徒。そいつは一体、誰なんだ?
さっきの口裂け女でもそうだけど、被害者、目撃者ってのは友達の友達ってのが多い。つまり情報源として弱いんだ。
……確か休み時間中は、それぞれのグループで談笑してたんだろ?
だったら、隣のグループの話題を、こっそり盗む奴がいた筈だ。
そう、例えば越生を学外で見たことがあるか、とか、そんな話題を。
人の聞く能力なんて結構いい加減だろ?それを、越生を見たことがある奴がいる、に変換するのなんてあり得ることだ。
そこまでいきなりでなくとも、伝言ゲームを重ねるうちに、ゆっくりとそうなってもおかしくない。
そうして、いつのまにか、目撃者がいることになった。
で、その後、次々と出てきた越生ならさっき見た、という談。これは早い話、さっきの逆、つまり情報の不伝達によるものだろう。
確かにお前の友達目線では、クラスの話題は越生のドッペルに移っていたんだろう。
しかし、そのトレンドに気付いてない奴らもいた筈だ。
……そいつらが越生を見たか、という話題を振られてみろ、見たもなにも、さっき暴れてたじゃないかと言い出すに決まっている。
……後から、一時間目のことじゃなく、休み時間中のことを聞かれていたのだと知っても言うに言い出せない。
そして、同じようなことを聞かれ、見たと答えた奴がいれば、自分とは違って本当に見たんだろうと思うだろう。
そして……女子生徒の悲鳴。
わからないといえばこれもわからないな。
最初に悲鳴を上げたやつは、本当に心から恐怖して悲鳴を上げたのか?
案外、越生のドッペルの怪談話を、冗談半分で話し合っていて、それ対して出たものだったんじゃないか?
その悲鳴が、本当にドッペルを恐怖し、限界が近かった生徒の心を突いた事で、悲鳴の連鎖が起こった。
……次に、教壇にドッペルを見たと言う目撃情報。これは、まぁ、そこまでパニックに陥れば視る奴もいるだろうという話だが……まあそうだな……付け加えるなら、重傷者が出たような事件の後に、お前の友達は無神経にも聴き取り調査をしたのか?
……したんならそいつはマスコミ向きだが……まあしないだろう。
つまり大多数が見たという推測をあたかも事実のようにお前に話しただけ……実際には、クラスのほとんどが、自分は見てないが周りの多くが見た、と考えてるんだろう。
まあ、これも時間の問題で、明日あたりには実際に見るやつが増えるだろうがな……このままじゃ
で、最後に。怪我人について。
これも簡単。
パニックを起こした奴らはどうしたんだ?
……そう、一斉に教室から出ようとした。出口がパンパンに塞がるほどに、押し合いへしあい。
そんな状況なら怪我の一つや二つする。怪我の直後ってのは、したことに案外気づかないもんだ。で、後からドッペルにやられたと思ったんだろう」
推理の発表が終わって、しばらく歩いたところで、越生宅に到着した。意外にも普通の一軒家で、とても怪異を心に抱えた少年がいるとは思えない。
「……よし、これでいいはず」
「……本当にやるの?」
日は完全に落ちていて、すでに月がくっきりと浮かんで見えた。
「もちろん」
「……」
「じゃ、任せたぞ」
「……ん、わかったよ」
そう言って彼は所定の位置に向かう。
角を曲がるのを確認してら、俺は呼び鈴を鳴らした。
『はい』
「夜分遅くにすみません、たたりくんのクラスで委員長をつとめる、最野陽太と言います。」
適当な偽名と身分をでっちあげ、そう名乗った。
『……』
「たたりくんのことでお話しがあるのですが、よろしいでしょうか?」
『……はい、少々お待ちください』
こう言われては逆らえないだろう。マイクの切れる音がした。
しばらくして
ガチャリ、玄関が開く。中から出てきたのは、特徴もない、普通の母親であった。
「こんばんは、改めまして、最野陽太です。」
「……こんばんは」
「……えっとじゃあまず、これ、プリントです。たたりくんに渡して置いてください」
俺は教室から拝借してきたプリントが何枚か入ったクリアファイルを出す。
「はぁ……、申し訳ない。」
「いえ……、で、詳しい話は先生から聞かれてますよね?」
「……えぇ」
母親の顔が目に見えて暗くなる。俺はまだかまだかと、それが来るのを待っていた。とりあえず会話を引き伸ばさなければいけない。
「えっと、それでお話しというのはですね……」
「……はい」
「クラスの誰も、たたりくんが今日暴れた事は、気にしてないって事を伝えてくれませんか?」
「……え?」
意外そうな表情をする母親、
今佑成にやらせてる作戦が失敗した場合のスペアプランである。こうする事で焼石に水程度ではあるだろうが、少しでも越生の心を緩め。次会う機会を確保するのだ。
「……その、……本当ですか?」
「えぇ、もちろんです」
「……すいません」
その時だった。
「——ッアアアアアアアアアアアアアアアアアア‼︎」
上の階から鼓膜を破るような悲鳴が響く。
「……ッ!越生くん!失礼します!」
そのまま俺は彼を心配する善人かの様に玄関から家に突入する。突然の悲鳴に呆然としていた母親を置いて。
階段をドタドタと駆け上がったそのすぐ先が、越生たたりの部屋だった。
彼は腰を抜かして、なんとか部屋から出ようとしている。
「あっ!あだ、あがっ——ッ」
震える手で指差すその部屋の窓の外には、
眼、眼、眼。
他でもない、越生たたりの眼が何十とこちらを見つめていた。
これじゃ、ドッペルゲンガーというより百々目鬼だ。
俺は駆け、鞄の中から、大幣と、御札を取り出し、ざっ、と彼を庇う様に前に立つ。
「……安心しろ、越生。」
ビッと大幣を窓の外の怪異に向け、こう宣言した。
「俺が祓ってやる」
後ろから階段を登る音が聞こえる。振り向くまでもなく母親だろう。
「えっ……」
窓の外に見えるそれに、思わず絶句するも
「故靈ハ他墮ノ源核道經ル嚴ガ亞南手風東ハ否異‼︎」
俺は構わず呪いを唱えると同時に全身を使って御札を飛ばした。
ペラペラとしたそれは、見た目に反して真っ直ぐと進み、パシィッと窓に貼りついた。
瞬間、それら眼は、眩くひかる。
スゥッと光が引いた後には眼は、完全に消えて無くなっていた。
「……え?」
やっとのことで母親からでた言葉がそれであった。この状況では誰だってそうなるだろう。
俺は大幣を鞄にしまい。越生たちの方を向く。彼らの顔は驚き一色であった。
「……今のは……一体」
思った通りの展開に、俺は用意してあった台詞で返す。
「……すいません。」
俺は頭を深々と下げ、そう謝罪した。
「たたりくんのクラスメイトというのは、嘘です……。……彼のドッペルゲンガーの噂を聞いて、いてもたってもいられなくなって……」
「……えっと、ドッペルゲンガー?」
そう言って母親は越生の方を見るが、彼は家族ですら怖いのか、ヒッと驚いたような声をあげ、目を逸らす。
「……たたりくんから聞いてないんですか?」
「……えっと、いや……聞いてはいましたけど……お医者さんに診てもらった時は、精神病の一種だと……」
母親はそう答えるが。
これはいけない。お前に見えているのは幻覚だぞ、などと直接言うのは、そいつの中の現実の否定だ。共感し、寄り添って。認めてあげるのが一番いい治療法なのに。
「……いえ、ドッペルゲンガーはいますよ。」
俺は窓のそばに近寄り、投げた御札を慎重に、ベリベリと剥がした。
「……たった今、オカルト部で作成した御札に封印……しましたが、あれは本体じゃありませんね。」
……分身の本体というのもおかしな話だが……、まあそれはともかく。窓の外に大量の眼が印刷された紙を脇に挟んで退散する佑成が見えた。
簡単なトリックである。紐を通してある金属の輪を、とりもちにくっつけ、窓枠の際に向かって投げる。
それを右斜め上、左斜め上の二点にくっつけ、紐の端に紙を付け、軽い力で引っ張れば、窓にぴったりとくっつく。
あとは小石でも投げつければ、越生は窓の外のそれを視る。
凝視すれば気づくだろうが、精神的にやんでいる彼にはそんな勇気はないだろう。
回収する時は強力な懐中電灯の光を窓に当て、一気に紐を引いてとりもちを剥がせばいい。
細かいタイミングは電話をオンにしたままポケットに忍ばせる事で、合わせた。
俺は部屋の入り口に縮こまる越生に近づいた。
「……本体は、この中に居ます。」
彼の頭を指差す。
「……えっ、あっ、——」
「恐らく今夜……遅くとも明日、恐ろしくもドッペルは君を殺しにくる」
「っ……」
俺はしゃがみ込んで、目線を合わせる。
「俺なら完全に退治することができる、もちろん金なんて請求しない」
……長い沈黙。深い暗闇。聞こえてくるのは越生の小さい呻き声のみ。
「……どうするんだい?祓うのか?祓わないのか?」
質問するが、まともな返事は返ってこない。
「っ……す、、——こっ、。……」
どころか目すら合わせてくれないのだから。
しかしこれは必要な行程である。俺は今期強く待った。
「ろっ……、!こ——っ!!」
次第に言葉になって行く……
「ん?なんだい?いってごらん?」
俺は促す。段々と声が大きくなっていく
「こっ……すっ!——、、」
すっと、体育座りを緩め、床に手をつく。そしてそのまま
「殺す‼︎」
勢いよく立ち上がり、俺目掛けて何かを突き刺そうとする、どこから取り出したのか、リストカットに使っているのであろう、カッターナイフをふるってきた。
間一髪でそれを避けるが、流石に体制を崩し、床に倒れる俺。
母親が悲鳴をあげるが構わずに彼はそれを振り回し、突進する。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
そのまま俺に馬乗りになり、カッターナイフを両の手で持ち、一気に振り下ろそうとする。
俺は学生鞄でそれをガードし、そのまま起き上がり、勢いで越生を落とす。そのままカッターを取り上げられればよかったのだが、そうもいかない。
まだ彼の手に、しっかりと握られたままだった。
俺は何か武器になるものがないか探すも、大したものは転がってなかった。
「殺す」
月に照らされ、ひかる瞳は、狂気一色。間違いない、ドッペルに憑かれている。
俺は鞄から取り出した御札を投げつける。
ただの紙だと考えたのか、気にせず突き進む越生。しかしそれがバチンと音を立てて凶器を持つ手に当たる。
その御札には十円玉が重石としてついているのだ。
予想外の痛みにカッターを落とす。俺はその隙を見逃さずに、彼に飛びかかる。
武道の類なんて学んだこともないが。なんとか関節技を決め拘束する。
「……ふぅ」
俺は一息吐き、母親の方を見る。彼女は腰が抜けてしまったのか、尻餅をついて口をパクパクさせていた。
このまま落ち着くまで待つか。
「お母さん、何か、手足を縛れるものを持ってきてくれませんか?」
俺のお願いに、コクコクと首を振り、彼女は下の階に向かった。
ゴギッ、バギバギッ。
「え?」
言葉が出たのは、部屋の外に吹き飛ばされた後だった。
「なっ⁉︎」
俺の拘束を解いて、ゆっくりと立ち上がる。彼を見て、俺は驚愕する。
そう、考えてみれば当然である。
関節技なんて、関節を破壊してしまえば効かない。
「はっ⁉︎え⁉︎」
そのままカッターを拾い上げ。
再び俺に襲い掛かって
グサッ
来なかった。
刺したのは、自分自身であった。
「あっ……」
あまりにも突然の光景であったが、ストンと納得し、変に冷静になってしまう。
あいつの視点に立てば。
部屋に突然ドッペルゲンガーが現れて、お祓いに来てくれた人が襲われた。そう見えたはずだ。
だとすれば、俺がドッペルからの攻撃を庇っている様に見える
ドッペルの目的は、オリジナルの殺害。
ならば部屋の外に出された俺を深追いするより、無防備になった越生を殺そうとするだろう。
「……っ」
そんなことを考えている場合じゃない。早く助けに行かなくては。立ちあがろうとするも、全身に鋭い痛みが走る。
吹き飛ばされた時に、やられたものらしい。
これでは止めに入れない。
こうしているうちにも、越生は自傷を続けているというのに。
しかしそれでも、考え、迷っている暇はない。出来ることをしなくては。
「……っ!越生‼︎」
俺は唯一動く口を使い、適当な嘘をでっちあげる。
「その鞄の中に!黒字で書かれた札が一枚ある!一際強力な奴だから、それを貼ればドッペルはしばらく動けなくなる‼︎」
都合の良すぎない嘘で、彼に信じ込ませる。
越生は鞄の方をぐるりと向いて、右手を伸ばそうとする。
が、反対の手がそれを阻止する。
カッターを手放したその手はギチギチと万力の様な力で右手を握りしめた。
爪の食い込んだところから、やはり赤黒い血が出る。
それでも諦めようとしない右手に、ドッペルは思いっきり噛みついた。
「あっ、ぐっ!」
激痛に倒れ込む越生。しかし左手は止まらない。
手探りで近くに落ちたカッターを拾い上げ、勢いよく突き刺した。
「——ッ〜〜〜‼︎」
肉貫通するカッターを抜き、再び刺す。
それを何回も繰り返した。
ここままだと本当に死んでしまう。
再び適当な嘘を考える俺であったが
その時、俺の真横をすごいスピードで何かが通過する。
その何かはそのまま部屋に突入し、越生を蹴飛ばした。
「っ!佑成!」
「!、実名出すな!」
佑成に遅れて階段を登ってきたのは越生の母親だった。
……彼女が家に入れたとして、なんで佑成に越生の危機がわかったんだろう。そう思ったが、別に難しいことではなかった。
「あ、電話……」
ポケットの中をまさぐると、やはり、着きっぱなしになっていた。
蹴飛ばされた痛みにうずくまりながらも、ゆっくりと立ち上がろうとするドッペルに対しても、佑成は冷静だった。
「……で、黒字の御札、だったっけ?」
そういって鞄から御札を取り出し、ペタッと貼り付けた。
「……っっっ——‼︎」
ドッペルの動きは止まり、ガタリと意識を失った。
次の日の朝。と言ってももう十時であったが。
「……ん、わかった。ありがとう」
ピッと電話を切る佑成。
結局あの後越生宅に泊めてもらうことになり、学校で発生したドッペルゲンガーの対処は、俺の妹、最野下京子にやってもらうことにした。
「……京子ちゃん、ドッペルゲンガー捕まえたって」
「……やっぱりそんぐらいに実体化してたか」
このままほっといてたらどうなっていたことか。想像するだけで恐ろしい
「少なくとも学年の話題程度には広まってたってとこだな。」
そのまま階段を登り、越生の部屋に向かう。呼吸や脈拍に異常はなかったので、そろそろ目が覚める頃だろう。
ガチャリ、とドアを開けると、たった今起きたであろう越生が、母親に謝り倒されていた。
「……んっ……あっ……えっと……」
やはり怖いのか、目を合わさない。
俺たちが部屋に入ってきたことに気づいてさらに怯える。御札が貼ってあるので大丈夫だが、そんな嘘は長続きしないだろう。
「……で、どうするんだ?お祓いするの?しないの?」
俺のそんな質問にやはり、途切れ途切れの言葉、いや、音で返す。
「……お祓いしてほしい。と言うことがまず重要なんだ。そうじゃないと出来ない」
「ひっ……ごっ、、ごめんなさい」
はっきりしない彼の態度に少し苛立ち、思わず声にそれが出、彼を怖がらせてしまう。
「……お願いします」
母親はそう言うが。
「……お母さん。あなたじゃない、僕は彼に聞いているんだ」
俺はそう返した。
「っ……ぇっ——ぁ……」
俺の言っていることが理解できているのか、それすら怪しい。
彼のドッペルは、恐らく対人恐怖症によって生まれたものだろう。
人を信用するのが怖い、人と喋るのが嫌だ、人が嫌いだ。
そう思うようになったきっかけがなんなのか。それはまだわからない。
しかし、中学二年より前までは、普通に学校に通っていたという。
ならば、彼を変えた出来事が、何かあったのだろう。
そうして、不登校になり、引き篭もり。人との関わりを彼は断ったのだろう。
が、しかしどうしても毎日一緒にいなければならない人がいる。
他でも無い、自分自身だ。
「……っく、あっ、ぉ……」
もちろん、対人恐怖症患者に、会話するよう強要するなんて、やってはいけないことだ。
「ねっ……、ぃっ……」
だが、それでも、少なくとも、勇気を振り絞って学校に来たということは。
「お……がっ、、い」
変わりたい、そう思っている証拠だ。
「……おねっ……がっ、、いぃ。——しまっっ——す、。……‼︎」
まずは、人を信用すること、我が身を預ける事。それが、ドッペルを祓う本当の第一歩だ。
窓を全て開け放ち、空気を入れ替える。
式場の準備のために、部屋を片付けるのだ。
掃除機で埃を全て吸い。
布団を洗濯機にかける。
右腕を骨折しながらも、佑成にはそれに参加してもらう。
雑巾をかけ、床を汚す血を拭い去り、ゴミを分別する。
「なぁ、越生、これ捨てていい奴か?」
「……!だっ——め!」
「ん、じゃあこっちは?」
「そっち——もっ、て……ていうかっ……ほ、ほんは——すてちゃっ……だめっ」
「え、最野下⁉︎本を捨てる気だったの⁉︎」
「え?いやだってこんなボロボロだし……」
「……古本だからでしょ……って、初版⁉︎」
「……んっ——そうっ、、ですっ」
「……いやこれラノベじゃん」
「お前は何もわかってない‼︎」
部屋が綺麗になる頃には、もう夕方になっていた。
「……じゃあはじめるぞ?」
「……」
こくりと頷く越生。
陣の描かれた模造紙の上に彼は正座していた。
部屋の外で母親と佑成が見守る中、儀式ははじまる。
「……今から適当な単語を言っていく。お前はそれから一番最初に連想される言葉を答えてくれ……なるべくすぐにな」
「……はいっ」
「水」
「冷たい」
「ガラス」
「鋭い」
「青」
「空」
「縄」
「糸」
「目」
「黒」
「鳥」
「カラス」
「家族」
「……母親」
「写真」
「カメラ」
「建物」
「階段」
「ノート」
「鉛筆」
「学生服」
「黒」
「宗教」
「神」
「誕生日」
「……旅行」
旅行?と佑成の顔に浮かぶのが見えたが、俺は続ける。
「時計」
「丸」
「お金」
「金属」
「本」
「小説」
順調に、自由連想を続けていく中
「離婚」
「…………」
越生が黙った。
「……どうした?離婚だぞ?離婚」
「……おっ、——、、おとう……」
越生の額に玉のような汗が滲む。目をギュッと瞑り、歯を食い縛る
「ん?なんだって?」
俺は小さくなる越生の声にそう聞き返した。
「おとう……さんっ!」
目に溜まっていた涙がポロポロと溢れだす
母親の方をチラリと向くと、彼ほどでないにしても、彼女もまた苦しそうな表情をしていた。
「……」
俺はぺらりと写真を取り出し、それを越生に屈んで見せた。
「あっ……あぁ‼︎——っあ、」
と、掠れた叫びを上げる。
信じられないものを見るかのように、口をあんぐりと開け、目を剥いてそれを見る。
「……何をそんなに怯えているんだ?」
俺は聞く。越生は写真を両手で持つ。
「お父さんが、、俺のことっ、」
ドッペルが出たあの時のように、越生の体が震える。
母親は、自分の息子を今にも助けようとするが、佑成がそれを静止する。
「俺のっ……こと——嫌いだって!」
そう叫んだ。
ビリッ
写真の枠が千切れる。
「そう言って出て行った‼︎」
「……」
ガクガクと震える彼に、俺は質問する。
「……お前は、お父さんのことは好きだったか?」
「っ、もちろん!でもあいつは!」
「あいつ?」
「……!」
俺は逃さない
「質問を変えるぞ?」
俺は佑成の方に手を伸ばす。すかさず投げられた学生鞄をキャッチし、大幣を取り出す。
「お前は、今でもお父さんの事が好きか?」
「……」
彼が人間を信用できなくなった理由。それは、前日の、誕生日まで仲良くしていた父親に、突然裏切られたから。
だけではない。
大好きだった父親に裏切られた、
ただそれだけのことで。
彼が憎くて憎くて堪らなくなってしまった。
そんなに簡単に、人間を嫌いになれることを、知ってしまったから。
掃除の過程で出てきた日記を読んで、それがわかった。
「大っ嫌い……」
「……それでいい」
俺は肩にポン、と手を乗せる。
「簡単に人を嫌いになる。それでいいんだよ。」
窓から差し込む夕日も相俟って、涙でぐしゃぐしゃの越生の顔は真っ赤であった。
「その分、人を好きになるのは難しい。難しいから価値があるんだ」
スッと、越生の頭上を大幣ではらう。
「……これでお祓いは終了。」
泣き続ける越生を残し、俺は部屋を後にした。
越生宅での帰り道。
「あ、陽夏!佑成!」
「ん?」
振り向くと、そこには、制服姿の少年がいた。彼の名前は富勝友。佑成と同じ文芸部で、怪異関連の本が好きという点で、俺とも仲がいい。
「ん、今学校帰りか?」
「まあね。……いや、そんなことより」
友は自分の隣を指差す。
「こんな可愛い妹がいたんだな!お前!」
「……あぁ、いたんだ。気づかんかった」
「はぁ⁉︎ひどくね⁉︎」
そう言って剝れた。
「京子ちゃん、捕まえたドッペルは?」
佑成がそう聞く。
「それならほら、この通り」
そう言ってポケットから綺麗に畳まれた紙を取り出す。開いて見せると、何十枚もの御札で構成された雑な網になった。
「枚数的にギリギリだったから、部室から何枚か持ってったけどね」
ポリポリと頭を掻いて、でへぇと誤魔化すような笑みを浮かべる。
「……それは使い方が悪いだけ……上手くやれば一枚で封印することだって出来るはずだ」
俺はそういうも、友はいやいや違うと手を振る。
「それは実物見てないからそういえるんだって!俺が協力してギリギリだったんだから」
「……それは」
単に実力が半人前以下ということでは?そう言いたかったが、めんどくさくなりそうなので。
「……そうだな」
そう締めた。
神社前の丁字路に差し掛かる。
「じゃあ、俺たちこっちだから。」
そう言って二人と別れた。






