前編
思えば長い旅路であった。
世の趨勢が魔族に傾いてから数十年。数多くの冒険者が、この暗黒の時代に終焉をもたらそうと剣を取った。<神託の勇者・レックス>の一行も、その肩書とは裏腹に、そういった有象無象の一塊に過ぎなかった。ビッグマウスの新人冒険者だと、嘲笑混じりの揶揄を受けたのも、今では大昔のことのように思えた。
彼らの打ち立てた数々の戦果に、いつしか彼らを侮るものはいなくなっていた。それどころか、彼らこそが真の勇者だと、自らの無念を託す者まで現れたほどだ。
人々の期待を背負い、いざ、魔王城へ乗り込もうというその直前。目と鼻の先にそびえ立つのは彼らの怨敵の居城。長い旅路の果てにたどり着いた決戦の地を目前にして、勇者レックスは信じられないことを言い出した。
「ブッペラ、お前にはパーティを抜けてもらう」
それはまさに青天の霹靂であった。遊び人ブッペラは声を震わせて返した。
「と、突然なにを言い出すのですか……?」
「突然じゃない。ずっと前から考えていたことだ」
「そんな……おれが何をしたって言うんですか!」
「何をだと?」
レックスはブッペラの懐に手を入れ、一枚の布切れを奪い取った。果たしてそれはパンティーであった。
「あ、それあたしの」
「違う! おれはやってない!」
「見苦しいぞ、ブッペラ。昨夜、お前がそれを懐に仕舞い込むのを見た。罪を認めろ」
<猛き雄牛>戦士ファラオンが追い打ちをかけた。ブッペラは土下座した。
「ごべんなざい! ゆるじでぐだざい!!」
涙と涎と鼻水が飛び散った。迸る水滴は陽光を反射して閃いた。彼の生き様とは正反対の輝きであった。人は彼を<閃く公害>と呼んだ。
「いいや、もう堪忍ならん。魔王城へは、俺たち三人で行く。お前は追放だ」
「ごべんなざい!! それだげは勘弁じでぐだざい! 何でもじまずがら!!!」
言うと、ブッペラはレックスの靴を舐め始めた。
「じゅるっ! ぶちゅうっ、んちゅるっ、じゅるずずずずっ!! はぁっ! おいしい! おいしいです勇者様!」
「おいお前何して――!」
「さすが名家の出身! 甘美なるお御足! いかな御膳も敵いませんなぁ~っ! ハフっ、じゅる、んぢゅ、ああああオイシい!」
「離れろ! そういうのをやめろって言ってるのがわからないのか!?」
ブッペラはレックスの足にしがみつき、離れようとしない。見かねたファラオンが仲裁に入った。
「二人ともそのくらいにしろ。レックス、お前も言い過ぎだぞ。オレたちは四人パーティだ。戦力を減らせるような余裕は無いだろう」
「いや、そいつはいてもいなくても変わらないんじゃない?」
辛辣な言葉を投げかけたのは<漆黒の天使>レイスだった。「ていうかあたしの下着返してくれない」と続けるが、どさくさに紛れ既にブッペラの元へ渡っていた。
「レイス……。確かにブッペラは、剣や魔法では俺たちに劣る。だがこの中で一番レベルが高いのは彼だ。そもそもオレたちがやってこれたのは四人の連携あってのものだろう? 誰か一人の力ではここまで辿り着くことはできなかった。ブッペラにお前の代わりはできないし、お前にブッペラの代わりはできない」
「下着ドロボーの代わりがいるの? それ以外にこいつができることといったら――」
「『コイン・クレマシオン』!」
ブッペラの叫びとともに金貨が飛び交った。あちらこちらに飛散して、そのうちの一つが、草むらから出てきたウサギ型の魔物に命中した。
「戦えます! おれは戦えます!」
「おい! そのワザ勝手に使うなって言っただろ! ……あああ、あんな雑魚に何ゴールド使ってんだお前!」
「大丈夫です! ポケットマネーです!」
「ポケットマネーだと!? お前どっから盗ってきた!?」
レックスはいつの間に膨れ上がっていたブッペラの巾着を引ったくると、その中身を改めて目を見開いた。
「こんなに……! お前には人の心が無いのか!? 何度言ったらわかるんだ! 人サマの金を盗むな!」
「下着もね」
「ブッペラ……」
「ちがう! これはカジノで増やしたんだ!」
嘘だった。魔王城へと出立する前、最前線の街で餞が行われた。ブッペラは、宴の後に酔い潰れた男女二十七名から五十ゴールドずつ盗っていた。
「レックス、金は後で持ち主に返しに行こう。ブッペラも、それでいいな?」
「いやだ」
「あたしの下着も返しなさいよ」
「いやだ! これはおれのだ! レイスの下着じゃない! 出店で買ったんだ!」
「はあ? あんた何言ってんの?」
ブッペラは捨てられた子犬のように震えていた。
「ねえ、あたしこいつホントに無理なんだけど」
「ブッペラ。下着だけでも返さないか? お前がそう強情では話が進まん」
ブッペラは頑として譲らない。
「聞け、ファラオン。俺がコイツを追放しようというのはな、何も個人的な嫌悪感だけが理由じゃない」
レックスは改まって告げる。
「いいか。このまま俺たちが魔王を討伐したら、コイツは『魔王を倒した勇者一行』の一員だぞ!?」
「あたしもこいつと同じくくりは耐えられないわ」
「そういう問題じゃない! コイツが勇者として地位と名誉を受けたらこの世は終わりだ! 暗黒の時代を照らす光がコイツの垂涎であってたまるか!」
「お前たちの気持ちもわかる。だが、目下一番の脅威は魔王だ。もしブッペラが勇者の地位を利用して悪事を働こうものなら、その時はオレが止める。オレたちでなくてもそれはできる。だが魔王を倒せるのは、もはやオレたちだけだ」
ファラオンは至って真剣だ。元王国騎士の彼はどんな時も冷静かつ聡明だった。庇い立てしている人間がパンティーを頬張っていたとしてもそれは変わらない。
「ブッペラ。出すんだ」
「んむー!」
「取らないから」
おえ、と吐き出された絢爛なパンティーは唾液に濡れ一層、煌めいた。
「レイス。下着は諦めてくれないだろうか。オレが弁償する」
「うん……もういらない、それ。金はそいつに払わせて」
ファラオンはパンティーをブッペラの口内に戻した。
「レックス……仇敵を目の前にして尻尾を巻いて帰れというのはあまりにも酷だ。お前も、彼の覚悟は承知だろう。だからここまで連れてきた。違うか?」
「俺がコイツを認めているかのような言いぐさはやめろ。こんなやつはすぐに死ぬと思ってたんだよ」
「だが、そうはならなかった」
レックスは心底嫌そうな顔をした。
「……ああ。冒険者を志す者なんて、大抵はカッコだけの半端もんだ。本気で魔王を倒そうなんてやつはいなかった。俺たち以外はな」
「そうだ。俺たちは同じ目的を持った同志だ。その同志を、大願の叶う寸前になって突き放すような真似は、オレにはできない。お前もそうだと思っていたんだがな」
神妙な顔でレックスは暫く考え込んだが、結局は諦めてファラオンの言に従った。
「お前の言う通りだ。コイツがこうなったのも、きっと魔族に家族を殺されたからだ。俺は今までそう考えて耐えてきた。コイツに向ける憎しみを、魔王に向けることで正気を保っていた。最後までそうするよ」
「あたし的には、コイツが魔王に殺されるのがベストだと思うけど」
「レイス」
「冗談よ」と言うレイスの顔はちっとも笑っていない。
「行こう。とっとと終わらせるんだ。暗黒の時代――この悪夢を」
「『こうぃん・くえあひお』!」
金貨が飛び交った。ネズミ型の魔獣に二十枚の金貨がたて続けに命中した。
「ブッペラ……やめろと言ったのがわからなかったのか?」
「おえんああ! おへっ、あふいあへあひえ!」
「なんて言ってんのかわかんねえよ、いつまで食ってんだそれ! 出せ!」
「ぶはっ、あああ勇者さま! 申し訳ございません! 今すぐ靴をお舐めします!」
ブッペラは宣言通りレックスの靴を舐めた。舐めてはパンティーでもって靴を磨き、「食べ比べちゃおうかな」と言ってまたパンティーをしゃぶった。
「お前っ……! 気持ち悪いんだよ! やめろ!」
「ねえ、本当に大丈夫なの? こんなんで」
「ああ。きっと大丈夫だ。この四人なら、どんな相手にだって勝てる。――オレはそう、信じてる」
血と涙と涎の流れた日々を思う。それらはこの瞬間に繋がっていた。
そして今。
全てが報われる瞬間は、すぐそこにある。
次で終わりです。