悪意と呪詛
ホームに詰めかけた人々が、苛立ちと不満を募らせていた。
来るはずの列車は、運転再開の兆しはない。いっそバスか、タクシーを利用すべきだろうか? 一介の学生である彼女は、少ない財産を眺め首を振った。
冗談じゃない。ただでさえ余計な時間を取られているのに、追加で出費を重ねたくない。好きな映画が見れなくなるかもしれないし、ちょっと何かをつまむのも我慢しなければいけなくなる。自分は何も悪くないのに、これ以上損害を増やしたくなかった。
いつも通り電車通学して、いつも通り帰宅するはずだった。けれどちょうど駅構内に降りたところで、大音量のスピーカーが客に無慈悲な放送を流した。
「えーお急ぎのところ申し訳ありません。ただいま○×駅にて人身事故が発生いたしました。現在確認作業中ですが、復旧の目途は立っておりません。お客様には大変ご迷惑をおかけ致しますが――」
淡々と事務的に流れる音声の後、人々はため息やうめき声を上げる。学生の帰宅ラッシュに直撃した事故は、同じ学園の生徒たちに降りかかった。
口々に不満を吐いてから、スマホを取り出し時間を潰す人々。流れた駅名は少々遠いが、複数の路線が通う駅に近い。復帰に時間を取られることは、誰の目にも明らかだ。
「ホント最悪」
動画サイトをポチポチ眺め、お気に入りの新作がないことに失望した女学生は、溜息と共に顔を上げた。
何気なく見つめる線路。彼女の視界に、この世ならざる泥があった。
あるいは影か、それとも闇か。ドロドロの暗い血の色に染まった、人の形をしていた何かがある。腐臭より血と臓物の臭いを漂わせ、一つの人間だった何かが、凄まじい形相でこちらを見ていた。
(何……? 何なのアレ……!?)
鉄の錆びた臭いが嗅覚を刺激し、全身に悪寒が広がる。当たり前にある世界の中に、突如混じった異物に怯えた。
次の瞬間……ソレは目線を変え、少女を無視して別の人間の元へ転移。物理法則を無視した動きに震えが止まらず、同時に標的が変わったことに安堵した。
怨みがましい目線は変わらず、けれど高速で瞬間移動を繰り返しながら、人々へ怨嗟を眼差しを向けるソレ。言葉を無くしたまま観察の続ける少女は、背後から激突されて悲鳴を上げた。
「ひゃあああぁっ!?」
「ちょ、ちょっと! 変な声出さないで」
クラスメイトに軽く叩かれただけだが、あんなものを目にしたら、人なら身構えてしまうもの。てっきり異形に襲われたのかと勘違いし、逆切れして抗議する。
「急にびっくりさせないで!」
「な、何よ何よ。小突いただけじゃない。あぁそっか。電車遅れてカリカリしてるんですな。わかるわかる」
「全然わかってないわよ……」
ソレが見えていないのだろう。いつも通りの様子でじゃれてくる。にひひと一つ笑った後に、彼女も口を尖らせた。
「いやぁでも、迷惑極まりないですな。この時間帯じゃ、沿線の学生はみなプリプリしてるでしょーねー」
「まぁ……そうだね」
「この遅れ方は死んでるよねきっと。どーしてわざわざ、大勢に怨まれる死に方するんでしょうなー……って、どしたん? 顔青いよ?」
クラスメイトの指摘通り、きっと少女の顔色は悪いのだろう。この世ならざるソレが、再びこちらを見つめているのだから。
(来ないで。来ないで来ないで来ないで……!)
言葉を失ったまま、口をぱくぱくさせて祈る。黒色の肉塊が濁った眼球をぎょろぎょろと動かす。ずり、ずりっとコンクリートを引きずって、点字ブロックの凹凸に塊が上下していた。
「本当に大丈夫? かなりヤバそうだよ?」
「う、うん……」
見えておらず、感じてもいない同級生が恨めしい。霊感なんて持ってないのに、どうして今日に限って見えるのか。いっそ何も見えず、感じずに、目の前のクラスメイトのように振る舞えたらいいのに。
ざわつく駅構内の中、ソレは再び別の誰かへ瞬間移動する。差し迫った恐怖から解放され、ほっと息を吐きだした。
(何なんだろう、あれ……)
目の前の彼女を無視してスマホを取り出し、異形の外見を検索サイトに単語化して入力する。気になる記事は引っかからず、ソレは正体不明のままだった。
ただ、都市伝説や心霊系の定番は『気づいている事に気づく』と危険らしい。女学生はガン見してしまったが、肉塊に迫られておらず、むしろ全くのアトランダムに移動し、恨みの籠った視線を向けているように見えた。通説が通用しないのだろうか?
「あーあー災難ですな。体調悪いのに、こんなところで立ちっぱですよ立ちっぱ。ベンチはどこも一杯だし……どうせ死ぬなら、もっと楽だったり迷惑かけない方法で死ねばいいのに」
「……!!」
彼女の言葉を聞いて、脳髄に一つ電流が走った。手に握ったスマホが震えてしまう。
そうだ。今時自殺の方法さえも、インターネットで検索出来るではないか。衝動的な飛び降りや酔っ払いの事故はともかく、電車での飛び降り自殺を選んだ人間は……わざわざその方法を選択して、死んでいるのではないだろうか?
背筋が粟立つ。唇が震える。ソレが再びこちらを標的にしているように見える。前よりも近い距離で、生理的恐怖を催す臭いが迫ってくる。
きっとクラスメイトの感覚は、誰もが抱く普通の感性だ。一人の行動が大勢に迷惑をかけたのならば、その一人を責め立てるのは珍しい事じゃない。お前のせいでこうなったと、誹謗中傷、悪口陰口はよくある事。
けれど、もし。
けれどもし、誰も彼もから悪意をぶつけられたのなら……誰も彼もを呪おうとするのではないだろうか? カタチのない、民衆全体から責められた人間は……民衆全体を害そうとするのではないか?
仮にそこまで追い詰められたとして……当たり前にある世界。当たり前にある日常をどうすれば壊せるだろうか?
……簡単だ。
誰もが普段使っている駅で、誰もが便利に使う電車で、自分の命を生贄に、惨たらしい死体を一つ作ればいい。
直接目にした人間は、血と臓物に染まった日常に嘔吐するだろう。ありふれた世界を、ありふれていた世界へ変貌させるだろう。
そして、大勢の利用客である……つまり今の女学生の立場の人間は、口々に悪意と呪詛を吐く。ずれてしまった歯車に。己の関与しない部分で、躓いてしまった日常に。
ソレこそが、ソレの狙い。
普通に生きる人間を、当然の生活をする人間を、当たり前にある世界を、少しでも汚す呪い。苛立ちを募らせ、好き勝手に悪口を紡ぐほど思い通り。
裂けた口を開き、ぐるんと目玉を回してソレが嗤う。
けたけたけた
けたけたけた
聖人君子などいはしない。ここにいるのは常識的な人間ばかり。
けたけたけた
けたけたけた
人の悪意を嗤い、己の呪詛を成就したそれは嗤い続ける。
けたけたけた
けたけたけた
勝ち誇るように、泣き叫ぶように、肉塊となったソレは、耳障りに喚き続けた。
けたけたけた
けたけたけた……
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