2.「Komm, du süße Todesstunde(1)」
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まるでガラスを額で小突くようにしながら、フライト中の飛行機の窓から外を眺めていると、やっと地上に都市の陰影が浮かび上がってきた。淡く霞んだ雲海の切れ目から、冴え渡るようなセルリアン・ブルーと無機質な都市の灰色が構成する、不思議なコントラストが覗いている。
ロンドン ヒースロー空港‐ニューヨーク ジョン・F・ケネディ空港を結ぶフライト。
ヴァージン・アトランティック航空が運航する定期便の機内は、そこそこの搭乗率だろうか、見たところ空席は目立っていないよう。ふと視線を移せば隣の席では、仕立ての良いスーツ姿の勤め人の若者が、拡張現実に展開したウィンドウとキーパッドを熱心に叩くのが目に入った。
エコノミークラスでのフライトは、六十七歳の老体には、少々骨身に堪えるものだ。そう思ったところで、膝や肘といった関節や、年甲斐もなく直線を描いた背骨が軋みこそすれど、文句など言いようもない。
私の所属先の予算は、それほど潤沢ではないのだから。
寧ろ、こちらの年齢を慮って、「箒で行け」と言われないだけでも、有り難いことではなかろうか。そうでなければ、今頃は飛行機ではなく、エニシダと白樺製の箒で、大西洋を横断することになっていたはず。
そう独白していると、片眼鏡が、ショートメッセージの受信を告げた。
丸いレンズのクラシックな片眼鏡は、老眼で衰えた視力矯正だけでなく、ウェアラブル端末としても機能している。ブルーライトカット、と呼ばれるやや黄色味がかったレンズを覗き、メッセージを指先でタップすれば、たちまち受信箱からは白い紙片が一枚。小さな封筒を模したアイコン。私の爪が拡張現実のフィルタを乗算した、架空の封筒をなぞり、パチン、と封が切られるまま文面が飛び出してきた。
『飛行機は退屈じゃない?』
思わぬ言葉に、つい、笑みがこぼれた。
つい仕事の話だとばかり思い込んでいたら、どうやら、全く見当違いな内容だったようだ。職場の同僚、という括りになるのだろうか、随分年下の女の子からのメッセージは、彼女らしくいっそ潔いほどに率直な問い掛け。私は呼び出したキーパッドを弾き、彼女に宛て返信を打つ。
『箒で大西洋を渡るよりは気分が良いです』
そう打ち込みながらも、くすり、とえも言われぬくすぐったさが湧いた。
誰が私を「魔女」だと思うだろう?
この飛行機に搭乗している乗客のうち、一体、どれだけの人間が〈魔術師〉の存在を信じているものか。いや、知っている、と言うべきか。例えば、と思う。こうして今も隣で仕事に励んでいる若人は、私が箒で空を飛べる人種だなどとは、全く考えていやしないのだ。
いや。
彼に限った話ではなく、世界中の、ほとんどの人間は魔術など知らぬ。
―――――――そうなるように、この世界は、御膳立てされているのだから。
〈魔術〉。
それは世界を滑らかに動かすための、巨大な機構であり、斯くあれと定められた一つの理のこと。或いは、システムと言い換えても良いだろう。
今でこそ栄華を極めた科学に置換されているものの、それ以前に於いては、〈魔術〉は社会にとって必要不可欠な社会機構だった。恙無く紡がれる人々の暮らしの内には、いつでも不安や、欲から芽生えた願望が蔓延っていたから。それらを解消する手段こそ、〈魔術〉の本質であり、ひいては存在意義そのもの。大昔の人々が病の治癒を神に祈ったように、日照りの暁に雨乞いをしたように、そして、失くしてしまった遺失物の在処を占ったように。
かつて医者がいない時分には、〈魔術師〉は、医者であり呪術師だった。
〈魔術師〉という人種は、様々な名前を持ち、〈魔術〉という機構を運用してきたという。
つまりは、歯車。
私たち〈魔術師〉とは、世界に据え付けられた巨大な機構、〈魔術〉というカラクリを動かすためのごく小さな歯車なのだ。
そしてそれは、二〇二〇年代――――であっても事実には変わらぬこと。
完全に秘匿された〈魔術〉が、たとえ、一般社会には見えざる存在となってしまっても。
私は憂いを帯びたよりは、どこか、郷愁に似た一抹の寂しさを感じながら思う。
そう。
〈魔術〉は秘匿されている。隔離され、徹底的に管理されている。
――――――〈連盟〉。
正式名称は『国際魔術監督機構』。
略称・IMSA。
一九二〇年に創設された国際連盟の発足に合わせ、時の魔術界を牛耳っていた保守派の魔術師と、〈魔術〉を軍事転用可能な特殊資源として占有しようとした各国政府が、一般社会から〈魔術〉を隠避する目的で作り出した巨大組織。当初、『国際魔術連盟』の名を掲げ、世界中の魔術結社や魔術関連団体、宗教組織から、個人の魔術師までも連盟の構成員へと組み込んでいった――――それは、やがて、「国際連合」への再編に迎合するかたちで、完全な傘下組織へと変貌を遂げていた。
今では科学技術とIT分野の著しい発展が齎した、この情報化社会のシステムすらも、〈魔術〉を恒常的に監視する管理体制に利用する有様とは、斯くも恐ろしい。彼らは個々の魔術師を情報登録し、〈連盟〉が運営するデータベースやポータルサイトと連動した、特殊なアカウントを与えることで徹底した管理システムを編み出している。こうなってしまっては、最早、一般市民が〈魔術〉の影を見ることさえ難儀なこと。
誰がここまで閉鎖的な〈魔術〉の未来を予想したろう。
そう思ってはいるものの、私はといえば、この〈連盟〉の手駒に他ならぬ。
なかでも、一番の汚れ役。
――――――〈陪審員〉。
曰く、「魔術師を裁く断頭台」と後ろ指を指される者たち。
〈連盟〉内部に置かれていながら確固として独立した権限を持ち、〈連盟〉とは自主独立の原則に基づいて行動する特務執行機関、それすなわち〈陪審院〉――――――ここに属する実動員こそは、〈陪審員〉と名付けられた黒を纏った処刑人であると。
魔術師ならば、誰でも、一度は耳にしたことがあるはず。
「国際的魔術監視」を掲げる〈連盟〉の、これほど複雑精緻な網の中にあって、それでも奔放かつ気儘に振る舞う者も、いるところにはいるものだ。民衆に対して魔術を用いた犯罪を働き、或いは、魔術の秘匿なんて御題を歯牙にもかけぬ輩たち。彼らはさしずめ〈連盟〉の網の隙間から、非合法と合法の境界から溢れ、泳ぎ回る小魚の群のようだ。そうした銀に光り輝く鰯たちを、いまだ大魚として育たぬうちに捕まえるのが、この世界での精々な後始末。
私たち〈陪審員〉に課せられた役目とは、つまり、〈連盟〉にとって都合の悪い者の始末だ。
これこそ極上の汚れ役というものだろう。それも真っ黒な悪役、としか言い様がないほどの。ましな職業など探せば幾らでもあったろうけれど、私にはこの仕事が「相応しい」ことも、故に選ぶべき選択肢だとも理解していた。二十年前、移籍を求められた時から変わっていない。年相応に腰を落ち着けてもいい頃合いだとはいえ、この仕事が務まる者は、滅多に御目には掛かれない。何時だって人材不足甚だしい、というのが同僚たちの見解だったろうか。ともすれば、私とて早々に引退する、など全く気の引ける話だった。
今日のフライトだって、今回の「任務」のため、ということになる。
私はメッセージを遣り取りするウィンドウを一旦閉じ、かわって今回の『被疑者』に関する情報が詰まったファイルを呼び出す。世界全体に見る魔術人口は、数百万人に及び、そのうちの九割方が〈連盟〉の情報管理下に置かれているという。そんな有数の情報収集力を誇っている〈連盟〉のデータベースから、定期的に更改される登録事項や「捜査局」が握っている最新の捜査状況などを、素っ破抜いておいたものだ。
捜査局、とは魔術関連の事故や犯罪について、初動捜査を担う部署のこと。
彼ら捜査員たちの調査の後、必要があれば〈連盟〉内の魔術裁判所での起訴・量刑を経て、牢獄に収監されることになるか、または無罪放免や情状酌量の執行猶予判決が出るか。そして、捜査員では手に負えない重罪犯――――――に分類される魔術師は、こうして私たちの下に移管されてくる。
ぱらぱら、と拡張現実に映った資料の頁を繰りながら、緩慢に目を通していく。
テキストデータの紙面には9ポイントの黒文字が、延々と羅列されていて、コピー・アンド・ペーストしただけとはいえ酷い有様だった。さながら、白砂糖を覆う黒い蟻の群れのよう。私は片眼鏡のピントを調整しつつ、予め収集しておいた情報を読み取った。
【事件番号:コードC‐0806】
被疑者: ジェローラモ・ヴァレンティーノ(本名)
公の偽名として「ヴィスコンティ」を自称。
要警戒登録魔術師七名を殺害した容疑により移管決定。
この半年間強に殺害された魔術師のいずれも、〈連盟〉捜査局の非公式捜査を受けており、〈陪審院〉への移管を検討される重犯罪傾向が見られた。犯行が行われた場所は、北米大陸やユーラシア大陸など3大陸・6ヶ国に及び、多くは人気のない廃屋。現場に残された物的証拠からの考察では、廃屋を教会に見立て、「洗礼」儀式を思わせる様式に整えたと推測される。被害者は凶器とみられる十字剣で心臓を一突きされた後、「キリストの磔刑」を模倣するかたちで十字架に掛けられていた。
七人目の被害者の殺害以降、被疑者の消息は不明。現在の潜伏先も特定不能。
被疑者の年齢は三十二歳。サンフランシスコ出身。未婚者。
イタリア系アメリカ人の二世。父親がイタリアからの移民で、渡米後、彼の母親と結婚した。幼少期の家庭環境については良好で、クラスメイトなど周囲との関係も円満だった模様。これに関して特筆すべき事項無し。義務教育期間の評価は、終始「優等生」であり、優秀な成績を収める。ハイスクールに入学したことをきっかけに、高校内のキリスト教系の新興宗教サークルに加入し、次第に極端な解釈に基づく教義に傾倒。高校卒業に際し新興宗教団体のメンバーから、アメリカ国内のキリスト教系魔術結社を紹介され、魔術師の道に進む。
二十五歳の時に、魔術結社に思想の過激さ・極端さを危険視され、追放処分。
以降は世界各地を放浪しながら、自己のキリスト教系変質魔術の改良・研究に没頭し、その習得に歳月を投じる。この時期にキリスト教典の極端な解釈による、独自の信仰・思想論を確立させ、行動もエスカレートしていったと推測される。
現在、「要警戒登録魔術師連続殺害容疑」で〈陪審院〉に移管済み。
三等陪審員 ブリギッタ・エッダ・ホーエンローエへの【C-0806】に関する全権譲渡は完了している。
そこまでを読み終えたところで、ニューヨークへの到着を告げる機内アナウンスが、折よく流れ始めた。着陸に備えるようにとの機長の要請を受け、大人しく指示に従っていると、流線形を模ったジェット機の巨躯が滑走路に滑り込む。たしかに箒で飛ぶよりは、聊か味気のない空の旅も、これで御終いということ。名残惜しいわけではないにせよ、旅客機のフライトであれ、私にとって空の旅は数少ない愉しみなのだ。僅かな寂寥を覚えながら席を立つ。
旅客ターミナルのゲートを潜り、入国審査を抜けて、久方ぶりのニューヨークの地を踏んだ。
『仕事終わったら連絡させてよ』
先刻送ったメッセージには、早くも同僚から、蓮っ葉な文言の申し出が返ってきている。彼女もまた世界の何処かに派遣されているだろうから、ニューヨークとの時差を考慮しようにも、終業時刻などとんと見当もつかぬ。まあ、こちらが寝ていたら仕方がなかろう、と思いつつ「既読」の表示が出たのを確認して閉じた。
ここからは専ら、タクシーか箒での移動になる。
私の愛用する箒はスーツケースとともに荷物として預け、こちらの窓口で引き取り済みなので、今から使うとしても問題はない。私たち〈陪審員〉ほどの魔術の腕前ともなれば、白昼堂々、誰にも勘付かれることなく〈魔術〉を使うなど赤子の手を捻るよりも容易いものだ。
とはいえども、C-0806の『被疑者』の居場所さえ、いまだ杳としたまま。私がニューヨークを訪れた理由とて、占いの結果と或る種の勘のみが頼りと、ほとほと心許ないものでしかなかった。
――――――今回は、流石に長丁場になりそうね。
寄せては返す波濤のような人波へと、踵を返し、私はたちまち人陰の中へと溶け込んだ。