2.「Komm, du süße Todesstunde」
――――――Komm, du süße Todesstunde.
乾ききった薄皮を引き剥がすように、私の唇が、もう一度同じ言葉をなぞった。
それなりに、齢六十過ぎの老婆にも見合う色の、穏やかな桃色の口紅を引いていたつもりだったが、外気に触れると、たちまちかさついてしまうから困る。
私はどこか他人事のように思いながら、しかし、まっすぐな視線を外すことはなかった。
今まさに勝利の美酒を飲み干したばかり、といった様子の若い男。
僅かに上気したような朱を刷いた頬が、やや浅く小刻みな呼吸に合わせて、細かく震えているのが見て取れる。彼は興奮しているのだ。
見目の美しい男だな、とは、初見で思っていたこと。
こうして間近に対峙するとまるで、贅肉を削ぎ落とした体躯は、寸分狂わず作られた精巧な偶像のよう。そこにはやはり確かに、傅きたくなるとでも喩えようか、そんな筆舌に尽くしがたい気配があった。これならば、自らを「救世主」だと吹聴したくなるのも、吝かではないのかもしれぬ。
「今、何と仰いました?」
「……貴方はまるで、祝杯でも呷ったかのような口振りだこと」
ええ、当然です。
僕は哀れな咎人たちを永遠の安寧へと導き、救いを齎す者、すなわちこの世界に産み落とされた新たな「救世主」――――――……。彼らは普く主の導きに於いて、贖いきれぬ罪を負った体を捨て、永久不変の無垢なる魂として遥かな父のまします天に至るのですよ。
「どうして、これを祝福せずにいられると言うんです?」
私は立てた外套の襟を整え、それから、男の背後で十字架に張りつけられた死体を見遣る。
これが、今しがた――――人を殺しておいて、言う科白というわけね。
そうだとすれば、最早私が迷うまでもないことだった。本当に自然に、やはり乾いたままの口紅の薄れた唇から、驚くほど穏やかに、ピンと張ったピアノ線のような声が洩れた。
「やっぱり、貴方を殺すことになったわね」
第2話、これよりスタートいたします。
予定としては前話と同じ全4節構成ですが、更新は、数日置きのつもりでおります。
こちらの話もどうぞ、最後までお付き合いいただけたら、幸いです。