表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10 in BLACK  作者: 森 鸚綠
10/12

2.「Komm, du süße Todesstunde(4)」

            4

 ヒュウ、と口笛が鳴った。

 ――――――汝、来たれ甘き死の時よ。

 ジェローラモ・ヴァレンティーノは微かに窄めた口先から、ただの一つも音程を外さぬまま、器用にも愛するカンタータの旋律を吹き鳴らしていた。

「……先程はご挨拶もせずに。お会いできて光栄です」

 ゆっくりとこちらを振り返きながら、薄い唇を緩め、真正面の男は丁寧な口調で告げた。

 ニューヨーク郊外、長年放置された閉鎖済の元工業区画。

 時刻は二十四時と半時を過ぎたくらいであろうか。

 ――――――手遅れだ。

 間に合わなかった。

 埃を被った街燈すらもない閉鎖区域である周囲は、真夜中の陰翳が壊れた工場や棟の数々に差して、さながら終末を迎えた映画のスクリーンに映る廃墟群のよう。その中でも、すっかり屋根が落ち煉瓦積みの躯体だけが、肋骨のように遺された倉庫跡に、三人の人影が薄らと彫り上げられていた。

 一人目は私。

 二人目は、すらりとした長身の優男――――ジェローラモ・ヴァレンティーノ。

 三人目は、廃墟となった倉庫跡の壁面に磔にされている――――ビル・リットンだった。

 目算で五メートルほど。この距離からでもはっきりと死んでいるのが解った。

 赤茶色の傷んだ煉瓦壁に十字架が掛かけられ、一人の恰幅の良い男が、ゴルゴタの丘で磔刑に処されたイエス・キリストに倣って提げられている。

 どうかしている、と思った。たとえ莫迦にも程度というものがある。

「それは皮肉のつもりなのかしら」

 この結果を、無駄骨、とは結論付けなかった。

 私の仕事はあくまでも被疑者の処断から始まるのだ。

 ビル・リットンの装着していたコンタクトレンズ型の端末に接続し、GPSの探知機能から、拉致された彼と被疑者の現在地を辿って追い縋ってきた。ともあれ、インターネットを介した探索能力だけでは、妨害工作の影響は避けられず、〈ルーン魔術〉で絞り込む羽目になったのは少なからぬ痛手だった。

 〈薔薇十字愛好会〉本部ビルを発ってから、およそ、一時弱が過ぎた頃か。

「まさか。この現場の周囲一帯には、予め呪物による常設結界を仕込んでおきました。勿論、魔術的な方だけでなく、GPS探知を妨害する電波工作もですよ。いえ、これほど早く追いつかれるとは、流石に思いませんでした。よくここが解りましたね」

 私は被疑者、ヴァレンティーノの問いには答えない。優男は気にしたふうもなく、ただ朝の風に吹き流すような口調で続けた。

「流石は〈ルーン魔術〉の権威、といったところでしょうか」

 ――――――ねぇ、ブリギッテ・エッダ・ホーエンローエ陪審員。

 にこり、とごく柔和な頬笑みのまま名前を呼んだ。

 見目の美しい男だな、とは、初見で思っていたことだ。こうして間近に対峙するとまるで、贅肉を削ぎ落とした体躯は、寸分狂わず作られた精巧な偶像のよう。長めに梳いた金髪がレンゲの蜂蜜を垂らしたのにも似て、すう、と透き通った膚は白々と廃墟に反照していた。

 パロット・グリーンの硝子玉の両目が、ひたと、こちらを射貫いて逃さない。

 そこにはやはり確かに、傅きたくなるとでも喩えようか、そんな筆舌に尽くしがたい気配があった。これならば、自らを「救世主」だと吹聴したくなるのも、吝かではないのかもしれぬ。さりとて、傲慢にも救世主を嘯く輩に、唯々諾々、恭しくも傅く気は小指の爪ほども起らなかった。

「そんな綽名で呼ばれるのは、あまり、好きではないの」

 〈ルーン魔術〉。

 スカンジナビア半島で長く使用され、ゲルマン人のゲルマン諸言語を表記するに用いられた、古代ルーン文字に依拠する魔術。そもそもルーン文字自体は、アルファベットに類する音素文字であり、呪術のみならず書簡や碑銘など、日常的な文章全般に使われていたものだ。それが、ラテン文字の普及に反比例して、「神秘的な古代文字」という付加価値を与えられていき、次第に「ルーンの呪術」なる一種の魔術体系へと編纂されていったのだという。

 それすなわち、後世の民衆が見た――――――神秘なるルーン文字の魔術、との幻想が実際のルーン文字を用いた呪術と混淆し、〈ルーン魔術〉として純化され形を為したもの。

 私の出身はドイツ・ヘッセン州ディーブルク。

 一六〇〇年代には黒死病、所謂ペストが流行したせいで、ヨーロッパで「暗黒の時代」と名付けられた間に、かの魔女裁判、悪名高き「魔女狩り」が行われた陰惨な歴史を秘めた伝統ある街だった。今から四百年前、故郷で「魔女」の烙印を捺された人々の数は、約二千弱で、ほとんど死者数と等しいと目されている。その中において本物の魔女は、〈魔術師〉は、幾らもいなかっただろう。

 真の〈魔術師〉は、大半が、権力者と懇意にしていたものだ。

 私の母方の先祖もまた、そうして姑息ながらに生き延びた、〈魔術師〉という人種の一人だった。密かにルーン文字を連綿と受け継ぎ、〈ルーン魔術〉の知識を蓄え、彼女らの子孫に凝縮した一滴として伝えていくことを由とする―――――。

 「〈ルーン魔術〉の権威」などと、こうも修飾された綽名は、誰でも背負いこみたくはあるまい。

 まして、私は〈陪審員〉。

 こんな仕事なぞ、所詮、金請け合いの殺人者。

「そうですか、それは失礼しました。ホーエンローエ女史は〈ルーン魔術〉のみならず、魔術全般について博学多識にして、卓越した腕前、そして教え子に教授する才能は、実に比類がないと聞き及んでいたものですから。確か、〈陪審員〉に就任される以前は、〈連盟〉附属の教育機関でも特任魔術講師として教鞭を執っておられたのでしたか。ええ、あなたとお会いする魔術師は皆、その綽名を忘れずにはいられませんよ」

 ヴァレンティーノは穏やかな口調で滔々述べながら、修道士の衣裳を押さえ、布地に寄った皺を伸ばして砂埃を控え目に払い落した。肩から斜め掛けた紫のストラも、二、三度指先で抓んで位置を整える。それが暗闇の中でとりわけ映え、さも敬虔な信徒のようで、えもいわれぬ異様さを醸しているのだ。

 彼の足下には十字剣が転がっており、目を配れば、周囲に祭壇のようなものが見て取れた。

「そんな大層な者じゃあないのよ。私なんてただの老いぼれ。まだ耄碌していないから、こうして重宝されているようなものだもの」

「御謙遜を」

 私の言葉をやはり頬笑んで受け流したのを、ジッと睨めてから、忍びに目蓋を伏せたまま躊躇いがちに口を押し開く。しかし、ややあって、先んじて尋ねたのは男の方だった。

「あなたも助ける気などなかったんでしょう?」

 ビル・リットン。

 ――――――彼を助けるつもりなど、最初から、なかったのでしょう?

 すっかり濁った陶酔からは醒めていた。

 そもそも自己嫌悪なんてものは安酒と同じ。例えば罪悪感を忘れるのに、手酌で溺れたり質の悪い酔いに任せて済ますなんてのは、愚盲も大概なことだった。

「ええ、そうね」

 冴え冴えとした眼差しを差し向ける。

 すげない断言に満足そうに頷くと、ごくのんびりと、安穏な調子で言葉を並べた。

「彼は〈連盟〉の一部から随分と睨まれていましたからね。その点では、〈連盟〉内の独立機関――――そう建前を掲げた〈陪審院〉も、同じだったのではありませんか?たしかビル・リットンと〈薔薇十字愛好会〉は、どちらも〈連盟〉の上層部、上位顧問クラスの人間と懇ろだったのでしょう?今後の〈連盟〉方針を取り仕切る、ええ、〈議場〉のメンバーにまで取り入っていたようですから。きっと相当な額を贈答していたんでしょうね」

「貴方、知っていたのね」

「ええ、でもお気付きだったでしょう」

 私は首肯して、ヴァレンティーノの言葉を継いだ。

「今回の連続殺害事件……その一連の被害者は、皆〈陪審院〉への移管が内定または検討されていた魔術師ばかりだった。一人目は魔術による一般人の連続殺害犯――――――でも彼女はグルジア政府の高官が子飼いにしている魔術師、原則として国際組織である〈連盟〉の捜査官では摘発できない。だから、独立の権限を持つ〈陪審院〉への移管が内々に決定されていた。これまでに確認された七名は全員、そうした謂わば『込み入った事情』で処分が先送りになっていた魔術師たちだった」

「そのせいで〈連盟〉も躍起になったのでしょう」

 ヴァレンティーノはしたり顔で訊き、それから、こちらを促すように目配せした。

「是か否で答えるなら、イエスよ。〈連盟〉は本来〈陪審院〉が管轄すべき、そして〈連盟〉の内偵課が常に監視していた人物を、こうして野良の魔術師である貴方に殺されたことが我慢ならなかった。彼らの沽券に関わることだもの、真っ当且つ当然の成り行きというところね」

 〈連盟〉が躍起になったのは、何も、被害者の生死が所以ではない。彼らが監視し管理するはずの「罪人」を掻っ攫われたことが問題だった。少し考えれば察しのつくこと。元々殺すつもりだった人間の命など、彼ら〈連盟〉の連中にとって、一滴の露ほども気にする道理はないのだから。

 自尊心。これは〈連盟〉の自負の問題だった。

「何故貴方がそんな面倒な連中を狙ったのかは解らなかった。けれど、その共通項が判明していたのだもの、次の標的が誰になるかは見当がつく。それを〈ルーン魔術〉の占術で死期の近い者として絞り込むことも、容易いことだった」

「それがビル・リットンだった―――――というわけですか」

 こちらに背を向けたまま呟く。

 どうやら煉瓦積みの壁に磔られた死体を眺めているらしい。まるで初々しい青年神父のような、修道服姿のヴァレンティーノの背中へと、私は告解ともつかぬ独白を吐き出した。

「……ビル・リットンは」

 彼の生死はどうでもよかった。

 それが〈陪審院〉の意向であったし、どのみち、〈陪審員〉が殺すことになる相手。

 ――――――貴方の身の安全は必ずや保障します。

 彼をそう甘言で丸め込んだとき、言葉の皮肉さに、まるで腐ったヘドロを飲み干した気分だった。ヴァレンティーノに殺害されてもらっては困るものの、けしてリットンの命など守る心算はなく、次の段階として彼の処分と〈薔薇十字愛好会〉の措置を考えあぐねていたから。

 私が考えていた采配とは、つまり、リットンの始末のこと。

「彼と〈薔薇十字愛好会〉は〈連盟〉上層部のある派閥と懇意だった。彼らは実業家や投資家としての多額の資産と、政財界に持つ有数のコネクションを利用して、〈連盟〉内の特定の派閥の後援者を買って出ていたのね。そして連盟側は見返りに、本来〈連盟〉が許諾しないような性魔術や―――――先刻の〈会合〉なんかを、或いは〈薔薇十字愛好会〉の存在自体を黙認していた。……問題はそれだけではなかったけれど」

 私の調べた限りにおいてでさえ、彼らは〈連盟〉の顧問だけでなく、米議会の両議院や米政府にも、多額の資金を政治活動費の援助、外郭の企業団体や慈善組織への献金などに投じて、組織活動の支援者層を創出しているのが窺えた。もちろん租税回避地、通称・タックスヘイヴンを介して、念入りに資金洗浄された金銭。トップシークレットばりの機密事項とあって、〈連盟〉捜査局のデータから素っ破抜くわけにもいかず、記憶の余白に留めておいたことだ。

 アメリカ政府の高官や上院下院の議員を取り込んでいたことで、〈連盟〉の対立派閥、保守派の連中の反感を、それこそ築山のごとく買い集めてしまったのだろう。仮にも国際連合の傘下組織である〈連盟〉のこと、上層部――――〈議場〉と呼ばれる運営の中枢では、国際政治紛いの駆け引きが行われ、各国の魔術的利権や資源を巡る謀略が蜘蛛糸のように絡んでいる。リットンたちの潤沢な資金に物を言わせ、アメリカ国籍の魔術師たちが〈議場〉や上位顧問クラスに送り込まれていたとしたら、対立するロシアや保守派が黙っているわけはない。

 何より問題なのは、〈薔薇十字愛好会〉の目標。

 ビル・リットンと〈薔薇十字愛好会〉はアメリカの政界と、〈連盟〉内の密通者を通して、薔薇十字団体の一つとして、ローゼンクロイツらの理念を現代に再興しようとしていた。一七世紀に流行した〈薔薇十字団〉の、それに連なる組織としての――――『一般市民の啓蒙』が目標だったなんて、〈連盟〉が知ったら、それこそ是が非でも潰しにかかるに決まっていようもの。

「そうでしょうね」

 相変わらず背中を向けたまま、相槌を打ち、軽く肩を竦めるようにした。

「最初は、ほら、ここに磔にされている――――――ビル・リットンの自宅を訪ねるつもりでいたんです。でも調べてみますと、彼の豪邸も別荘も、ただの資産家にしては尋常ではない警備具合でした。まるで誰かに命を狙われているように、ですよ。そこでフリーの魔術師同士のコミュニティから情報を集めたら、〈連盟〉の保守派に目をつけられていると判ったんです。彼の邸宅の物々しい警備は、アメリカ国内の政府高官や政治家の取り計らい、ということでしょう」

 私はヴァレンティーノの言葉に密かに舌を巻いた。彼のようにフリーランス、所謂野良の魔術師として生きていくには、相応に利く目と鼻がなければ、早々に食いっぱぐれてしまうだろう。全世界の魔術師の総人口は数百万で、そのうちの五割は〈連盟〉や〈連盟〉関連組織で働いている。ここから差し引いて三割弱が各国政府の魔術特務機関や、軍の魔術専門部隊所属といったところ。そして、最後に残った二割がフリーランス、野良と呼ばれる魔術師たちだ。少なからぬ数の魔術師がマフィア、ギャングの類の不法組織や政治家、高級官吏の「子飼い」になっているものの、特定の人物に出仕せずに、フリー同士の相互扶助組織やセーフティネットを通じて生計を立てている者もいるという。

 彼らのような根無し草、流しの民たちは、〈魔術〉を取り巻く政治、裏社会の動向にも敏くなければ生きていくこともままならぬ。

「……野良の魔術師は鼻が利かなくてはね」

「そういうことです」

 ヴァレンティーノが半身を向け、すう、と起伏のない横顔で呟いた。

「〈フリーメーソン〉、または、〈イルミナティ〉……どちらも〈薔薇十字団〉の関連組織としてはもっとも有名な秘密結社です。ともあれ、ここまで都市伝説のように扱われ、世間に周知されてしまっては秘密結社とは言い難いものですが。その点では、彼らの組織は本物の秘密結社、同志の集うサロンだったのでしょう。リットンたちに協力していた人物は、表向き〈薔薇十字愛好会〉の会員名簿にも登録されていませんが、裏名簿には名前が記載されていますからね」

 そう。

 〈連盟〉上層部や〈陪審院〉が目くじらを立てた理由。

 彼らが予めビル・リットンと〈薔薇十字愛好会〉を警戒していたのは、アメリカ国内に数多くの支援者――――――ではなく、賛同者をも獲得していたのだ。多額の政治献金や寄付、資金援助の数々は、裏名簿に名前を載せることを厭わぬ同志たちへの、リットンたちなりの謝恩と保険だった。

「まぁ、どのみち〈陪審院〉が手を下す相手には、違いなかったのですが」

 ことさらあっさりと言い捨てるわりに、ヴァレンティーノの瞳は、ほんの澱も濁りもない清冽な慈悲で潤っている。私が「何故、殺したの」と絞り出した問いに、すると、たちまちしどけなく相好を崩した。

「……彼を殺した理由ですか?」

 そこに立っているのは。

 今まさに勝利の美酒を飲み干したばかり、といった様子の若い男だった。

 僅かに上気したような朱を刷いた頬が、やや浅く小刻みな呼吸に合わせて、細かく震えているのが見て取れる。何が彼の琴線に触れたのか、にわかに興奮し、ほのりと赤らんだ目元を蕩けさせていた。まるで熱病にでも浮かされたよう。

「――――――Komm, du süße Todesstunde」

「今、何と仰いました?」

「……貴方はまるで、祝杯でも呷ったような口ぶりだこと」

 はたと男の瞳孔が私を捉えた。

 それからふいに私の言葉に合点したのか、にこり、と品よく微かに白い歯を見せてから続ける。

 ――――――ええ、当然です。

「僕は哀れな咎人たちを永遠の安寧へと導き、救いを齎す者、すなわちこの世界に産み落とされた新たな『救世主』――――――……。彼らは普く主の導きに於いて、贖いきれぬ罪を負った体を捨て、永久不変の無垢なる魂として遥かな父のまします天に至るのですよ」

 舞台俳優が朗々と科白を詠みあげるようだった。

 予め仕込んだ科白であるかと疑うほど流暢で、しかし芝居がかった嘘くささなど、これっぽちとて鼻につくことがない。

「どうして、これを祝福せずにいられると言うんです?」

 これはよもや、本物の盲者ではなかろうか。

 ともすれば、――――――ああいう連中は救いようがない、との忠告が過ぎる。

 私は立てた外套の襟を整え、それから、男の背後で十字架に張りつけられた死体を見遣った。最早迷うまでもないこと。本当に自然に、やはり乾いたままの口紅の薄れた唇から、驚くほど穏やかに、ピンと張ったピアノ線のような声が洩れた。

「やっぱり、貴方を殺すことになったわね」

 カリスマ。

 これが天性の資質だとするのなら。彼は天才的な愚者だろう。

 私がシンと凍てついた眼差しで見定めているのを、真綿さながらの柔らかさで受け入れていたが、二、三拍の間を挿んでからこれ見よがしに肩を竦めた。

「――――――なんてね。冗談ですよ」

 虚を突かれた。

 ヴァレンティーノは「信じていたんですか?」と悪戯小僧めいて笑っている。

「僕はカリスマなんかじゃありませんよ。……まさかあなたのような方まで、〈聖十字教団〉の連中から、天賦の才だとか吹き込まれたわけじゃないでしょう。彼らが嘘を吐いたとは言いませんが、ええ、あれはただ単に都合の良い偶像を拝んでいただけですからね」

 偶像、と鸚鵡返しに呟く。私はようやく目前の男が何者なのか悟った。それは琥珀色のウィスキーに氷が溶けていくのに似ていた。

「……昔からそうだったんです。今ここで他者が自分に対して何を求めているのか、例えば、どんな返答や役割をということですが、それが手に取るように解るんですよ。そして、それを寸分の狂いなく忠実に果たすことができた。彼らが求めている理想像になりきる、つまり、魔法の鏡のようなものですね。常に相手の望むとおりの姿を見せる。ええ、誰かにとって都合の良い虚像、あるいは偶像……いつだってそうでした」

 ――――――だから、「カリスマ」というのは彼らの理想です。 

 彼から敬虔な神父の面影は消えていた。

 「これは告解に値するんでしょうかね」と、修道服姿で自問する姿は、まだ青々しい青年と言っても差し支えないくらいだろう。まるで別の人物を見ているような気さえする。

「小中学校のあいだ『優等生』で通ったのも、両親と教師が、そう手の掛からない子どもを望んでいたからですし……ああ、そうです、魔術師になったきっかけもでしたね。地元の高校に入学してすぐ、同好会や部活動に誘われましたが、たまたまあの新興宗教のサークルに興味を持っていた子がいて、ついてきて欲しい様子だったので一緒に顔を出したんです」

 まるで草の汁でも飲み干したよう。私は苦渋に顔を顰めたまま、彼の言葉を聞いていた。

 ――――――こんな容易い目利きすら見誤るようでは、全く以て、魔術師なぞ務まるわけはなかろうに。

 つい先日、思ったばかりのことが胸を刺した。

「『子爵(ヴィスコンティ)』、なんて名前も、元々は〈聖十字教団〉の若い子が言いだしたんです。父の先祖がイタリアの子爵だったという話をしたせいでしょう。……彼らのなかには、当時組織を運営していた古株たちが気に食わない、なんて愚痴をこぼしている子もいました。でも、だからといって新しく派閥を立ち上げて、交渉なり独立なりしよう、と率い手を担おうとする人はなかったんでしょうね。それに気がついたから、彼らが求めるような理想のリーダー像を演じたのですが、まぁ、あとの経緯は御存じのとおりですよ」

 フッと翳の差した横顔が随分とやつれて映った。

 ヴァレンティーノは「でも、いつのまにか、それが……」、そうして囁くように続ける。

「それが、本当になってしまったのかもしれませんね」

「本当?」

「ええ、そうでなければ、……七人も『救済』のために殺したりはしないでしょう?汝、来たれ甘き死の時よ。あのカンタータが死による魂の解放、永遠の安寧、主による救済を謳うものだとするのなら。それを少なからず信じていた、信じている盲者であると――――――己を錯覚していたんでしょう。実際、『救世主』だと感じていたのは事実ですから」

 私は目利きを誤った。

 ジェローラモ・ヴァレンティーノという男を見誤っていたのだ。 

 だからといって――――――これからも、私の仕事は、何も変わりはしないけれど。

「死が最も甘美な救済だ―――――我々は、この罪悪に塗れた肉体を離れ、天におわす主によって不壊なる永遠の魂を手に入れる、故にこそ、救われ給う――――――だなんて、バッハのカンタータを聴かせながら、演説を打ち立てたものです」

 そう、とだけ答えた。小さく顎を引いて、薄く乾いた唇をそっと押し開いた。

「死なんてものは、所詮、単なる線引きでしょう。植物状態、脳死……心肺停止、医療が発展するとその『死』すら曖昧になってしまったものだけれど。ええ、でも死は死であって、それ以外の価値はないの。高潔な死も卑怯な死もない。そこに勇敢だとか、惰弱だとかの価値を付随させるのは、愚かなことよ。だから無闇に死を尊ぶようになる。何らかの意味付けを死が齎すとしたら、それは死という契機によって、それまでの人生を総精算できるようになるだけだもの」

 だから、貴方に――――――甘き死なんて訪れない。

「あなたで良かった」

 ――――――あなたのような冷酷で、無慈悲な人で。いずれ見つかるとは解っていました。そして、もしその時が来たら死際を看取る人に告解しようとも。こんな告白を聞かされたあなたには、良い迷惑でしょうけれど、どうか処刑人の情けで聞き届けてやってください。

 ええ、と肯く。それが私にできる最善だろうし、そして、ほかの言葉は不要だろうから。

 「ビル・リットンのこと――――」と、彼が言おうとしたのを、頭を振って制する。

「せいぜい、私の株が落ちるだけでしょう」

 それだけを淡々と述べて、ニワトコの杖を、しかと右の指先に持ち直した。

 最初からリットンの死は決まっていたこと。

 彼に殺されないように身柄を守ったところで、その後、〈陪審院〉から正式な「罪人指定」が下りて、〈連盟〉絡みの執行事案として移管される運びだったのだから。今回の件が私の不手際だったにせよ死んでしまった事実は利用するまでだ。

 死人に口なし、とはよく言ったものだった。

「――――――罪人ジェローラモ・ヴァレンティーノ。要警戒登録魔術師七名(・・・・・・・・・・)を殺害した罪状を受け、〈陪審院〉による死刑が執行されます」

 古びたニワトコを削った杖の先に、インクを填するように呪素を浸し、一つの文字―――――イチイの木、弓、そして生と死を意味するルーン――――の逆位置を「死」の証として刻む。

 じきに〈薔薇十字愛好会〉は贈賄をはじめとする、多数の嫌疑を掛けられ、現行の主要な会員や幹部が根こそぎ摘発されるだろう。現会長だったビル・リットンが一連の首謀者として、〈陪審院〉によって死刑執行を受けたと公表後、正式に〈連盟〉捜査局の大規模監査を受けることになる。数年前の〈聖十字教団〉と同じ。そして、竜骨の抜かれた遺骸だけが残る。

 私は息を引き取った男の傍らで、一本、煙草を喫って灰が落ちるのを眺めていた。


 今節で第2話終了いたします。

 第2話に関しましては、3節を中心に一部の加筆・修正を考えております。予めご了承くださいませ。今回の更新で、一区切りとなりますが、またお付き合いいただけたらと思います。

 読んでくださりありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ