ヤマアラシのジレンマ たった一つの冴えた解き方
1
「ヤマアラシのジレンマって知ってる?」
貴子の問いに、弘毅は、ヤマアラシのジレンマ? と同じ言葉繰り返した。
「なんだそれ、ヤマアラシとハリネズミが混同されるのが嫌だとかそういう話?」
それを聞いて、貴子はやっぱりこの人は何も知らないなあ、とため息をついた。
貴子が弘毅と付き合うようになったのは高校1年の夏のことだった。貴子と弘毅は同じブラスバンド部の一年生で、弘毅はトロンボーン、貴子はパーカッションをやっていた。パーカッションというとかっこいいが、要するに打楽器のことである。
どこでもそうなのかは知らないが、彼女たちの通う高校のブラスバンド部では演奏や練習をする際、指揮者を中心としたふわりとした半円に広がる。その時、トロンボーンは識者から見て一番奥の左半分、打楽器はその隣の左の端っこに座って演奏をする。自然トロンボーンと打楽器の間に交流が生まれた。
貴子はそれまで誰とも付き合ったことがなかった。もっとも付き合おうという気持ちが全くなかったわけではない。誰かと恋人になってみたいと思ったことはあったが、それ以上に自分から行動を起こして誰かと付き合おうとするなど、とても億劫に思われた。なので具体的な行動に移さなかった。あるいは今はまだいいか、そのうちやろう、と延々と先延ばしにして、結局何もしなかった。
だから、いきなり弘樹が告白してきたときにはとても驚いた。
恋というものにあこがれがあったし、それになにより「好きだ」と言われるのは本当に嬉しかった。それから半年、貴子の中で恋へのあこがれというのは少しずつしぼみつつある。
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「ヤマアラシのジレンマって言うのはこんな話よ」
貴子は話し始めた。
「ヤマアラシって背中に棘がたくさんあるでしょ? だからヤマアラシ同士で近づいて体を温め合おうとしても、お互いの棘が邪魔であんまり近くに近寄れない。だから泣く泣くお互いの棘が刺さらないぐらいの距離で妥協して、かすかなぬくもりで満足しなくちゃならないって話」
「本当かよ?」
弘樹が疑わしそうに貴子を見る。弘樹はヤマアラシについて詳しいわけではないが、いくらなんでも馬鹿な生き物がいるとは思えなかった。それにヤマアラシの棘は常に逆立っているわけではない。それくらいのことは弘樹も知っていた。けれど貴子はそんな視線気にも留めずに胸を張った。
「Wikipediaに書いてあったわ!」
「……そうか」弘樹は呆れた。
「本当よ! それに私、ヤマアラシが泣いてるところ見たことあるんだから」
絶対嘘だろ、と弘樹は思ったが黙っていた。
それから貴子は後ろを振り向き、スマホでWikipedia を検索した。ヤマアラシのジレンマ、なるほど、貴子はつぶやいた。
振り返る。
「それにこの話はこれで終わりじゃないの」貴子が自信満々に続ける。「これは比喩よ。人間の社会をわかりやすく表現するための童話みたいなものよ! 本物のヤマアラシが泣くわけないじゃない!」
弘樹は突っ込みたかったがぐっとこらえた。
「つまり人もヤマアラシと同じだって言いたいのよ。人は誰かと一緒にいたいと思う。でも、あんまりに近すぎると煩わしいし、傷つけることだってある。だから人と人との間に壁を作って接してる。それが礼儀ってものなのよ!」
なるほど、貴子の話は納得できないものではない。確かに弘樹自身、そういうところはあるだろうと思う。というか、当たり前の話だ。
「それで、貴子はそこから何の話につなげたいんだ?」
弘樹が問う。貴子が答えた。
「私と弘樹の間にも壁がある気がする」
「でも全く壁がないってのも嫌だろ? お前だって俺に知られたくないことくらいあるだろうし、俺のこと全部知りたいかって言われると微妙だろ?」
「そりゃそうかもしれないけど、でももう少し何かあってもいいじゃない。そうよせっかく恋人なんだから、もう少しお互いのこと知るべきだって思うのよ」
だって恋人なんだから、と貴子はいじけたように言った。
弘樹はため息をついた。
「お前って、なんか教師みたいだよな」
貴子は傷ついたように弘樹を見た。弘樹は思わず空を見上げた。別に彼とて貴子を傷つけたくて絵言ったわけではない。
「ヤマアラシのジレンマだか何だか知らないけどさ、そんなの答えは一つだと思うんだ」
「なに?」
貴子が言う。次の瞬間、弘樹は貴子に頭を寄せて言った。
「頭を近づければいいんだろ?」
間近で拝む弘樹の顔は、貴子には妙に輝いて見えた。
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「恋ってもう少し素敵なものだと思ってたんだけどなあ」貴子が言う。
「そうかい」
「でも、まあこういうのもありかもね」
貴子は笑って弘樹を見た。
「あ、それと今日の帰り、伊勢丹寄りたい」
「お前が行きたいなら付き合うよ」
弘樹が言う。
「そろそろ合わせるよ……またあんたたち二人でいちゃついて、練習してたんでしょうね?」
二人を呼びに来た先輩があきれたように言った。二人はそれぞれの楽器を持って立ち上がった。
2
貴子と弘樹はきっとこのまま結婚するんだろうなあ、と周りからは根拠もなく信じられている。