朝日
授業が始まっても、彼女の震えた声と同級生の奇異の視線が、何度も頭の中でフラッシュバックした。
きっと彼らは気づいたことだろう。彼女が朝、触れ回っていたことが原因でこの事態が引き起こされたのだと。それを聞き流した人も、快く承諾した人も、居心地の悪さを感じたことだろう。それを想像することは、耐え難いほどの苦しみだった。
まだ朝だというのに、僕は疲れ切ってしまっていた。授業に全く集中できない。体がだるくてほとんど動きたくないのに、心だけはせわしなく焦燥をつのらせていく。何かしなければいけないとは感じるのに、実際に何をすべきかは全く分からない。ゆっくりと、しかし確実に何かを失いつつあるのを、僕は結果的に傍観していた。
クーラーがまだ効いておらず、教室が湿っぽい上に暑い。窓を閉めていても聞こえてくる蝉の声が耳障りだ。文字を書き間違えて消しゴムで消そうとしたら、ノートがくしゃりと音を立て皺になった。ひとつひとつの些細な不快が、今の僕の心を強烈にえぐってくる。汗がぽつりと垂れてノートの文字を滲ませると、僕は泣いてしまいそうになった。気を抜くと目から溢れそうな感情を、押し殺した重くて長いため息で吐き出す。
「あの、堂本君。大丈夫?」
「え?」
不意に隣から声をかけられた。平山さんだ、と理解するのにすら少し時間がかかった。
「おせっかいだったらごめんね。さっきから、少し気分悪そうだったから」
ぐい、と彼女の方へ体が引っ張られた気がした。平山さんは不安そうな目でこちらを見ている。
単に僕の具合を心配しているだけではないだろう。彼女はきっと、僕が本当は平気だった場合のことも考えて不安に思っている。そうしたら、彼女の行為は「大きなお世話」になってしまうから。僕と同じ思考だから、分かる。
「ごめん、大丈夫だよ。暑くて参ってただけ。心配してくれてありがとう」
「ううん、こっちこそごめん。何もないならよかった」
再び彼女は授業に集中し始めた。そしてもうこちらを気にする様子もない。その距離感に安らぎを感じてしまう。夏の暑さも蝉の声もすべてかき消す、この安らぎをずっと感じていたいと思ってしまう。頭の中をかすめた最低の発想に自己嫌悪した。僕の求めていたものがまさにこの距離感だったのだとしたら、僕がそれを追求するのであれば、僕は永遠に独りだ。
人生で一番長い授業を終えて、僕は帰宅した。朝以降、秋穂には会っていない。偶然か、彼女が避けていたのか、あるいは僕が避けていたのかもしれない。いずれにせよ、僕は彼女を見かけることすらなかった。最後に聞いた秋穂の声は「大っ嫌い」のままだ。
いざ帰宅してみると、何やら自分が取り返しのつかない失敗をしてしまったような気がして、玄関で靴を脱ぎかけたまま僕は停止した。
「あれ? おかえり。ちょうどご飯できたよ」
ちょうど居間の扉が開いていて、夕食の盛り付けをしていた母が僕に気づいた。
玄関から見える居間のテーブルには、夕食の皿が並んでいる。見たところ今日はハンバーグのようだ。いつもなら喜ぶところだが、今日はそんな気にはなれなかった。空腹感はあるはずなのに、食欲が全く湧かない。いっそ胃の中のものを吐いてしまいたいくらいだった。居間からただよってくる肉汁とソースの匂いが鼻につんとつく。それだけで気持ち悪くなってしまった。
「ごめん。食欲ないから今日はもう寝る」
「ええ? せっかくハンバーグ作ったのに」
「明日食べる」
「具合悪いの?」
「別に。そういうわけじゃない」
母はまだ何か言いたげにしていたが、僕はその視線を振り切り自室へと急いだ。
部屋に入ると、電気もつけずにベッドに倒れこんだ。ここは僕が持つ唯一の、完全に独りの空間だ。洗濯は任せてしまっているけど、ここで寝るのは僕だけ。染みついた汗もにおいも、すべて僕だけのものだ。そう思うと、抑え込んでいた感情の堰がとうとう切れた。
涙が溢れて止まらない。家族は下で夕食を食べているだろうから、せめて声だけは抑えなければいけないのに、嗚咽すら止めることができない。壊れた蛇口みたいに、一切の我慢がきかなくなった。こんなときばかりうるさくなる僕の声に、激しい怒りを覚える。必要なときには出てくれないのに、いらないときばかり出るのであれば、こんなものは必要ない。
机の上のペンスタンドに収まっているハサミに目がいく。これで喉を切り裂けば、静かになるだろうか。ベッドで寝たまま手を伸ばし、ハサミを取った。両手で刃を開いて、その間に首に軽くはさんでみると、それだけで心臓の鼓動が痛いくらい早まる。心臓が、殺されまいと必死に抵抗しているみたいだった。
このまま思い切りハサミを閉じるだけで、僕はいとも簡単に死ぬ。血を噴き出して、ベッドを真っ赤に染めて死ぬ。その事実に気づくと、たまらず僕はハサミを投げ捨てた。
床に転がったハサミを見ていると、自分の行為の何もかもが嘘臭く感じた。今感じている苦しみも溢れる涙も、すべてがポーズであるかのように感じた。とてつもない虚無感に襲われ、僕はベッドの上で丸まった。部屋の中で、僕の嗚咽が、しばらく響いた。
目を覚ましても周りは真っ暗闇で、自分が今まで寝ていたのだと気づくのに時間がかかった。泣き疲れて寝てしまったらしい。ベッドに置いてあるデジタル時計のライトを灯すと、十一時五分と表示された。
このまま寝ていたかったが、朝が来るのは怖かった。僕はゆっくりと体を起こして電気をつけた。それからぼんやりと頭を働かせる。今日、夕食は食べていない。風呂にも入っていない。思い出したように腹が鳴り、また全身にぴっとりと張りついた汗が気になり始めた。
辺りを見回すと、机の上に置いてある数切れのりんごが目に入った。横にはお茶らしいものが入ったコップもある。用意した覚えはない。おそらく母が置いてくれたのだろう。
起こさないで黙って軽食を用意してくれた母の気遣いが、骨の髄にじんわりと沁みていく。しかし、なぜか同時に秋穂の姿が浮かんで、寝る前の現実が再びぞわぞわと這い出てきた。携帯電話を確認する。着信もメールもない。それを残念に思う自分の中に、彼女から仲直りを持ちかけてくるのを待っているだけの僕を見つけ、無性に苛立って携帯電話をベッドの上に放り投げた。
再び机の上に目を戻す。食欲の有無は別にして、かなりの空腹状態であることには違いない。ともかく食べなければ回復しない、と考えてから、いったい僕は何の病気を治すのかとおかしくなった。まだ寝ぼけているらしい。そういえば、なんだかこの状況は僕がひどい風邪を引いたときに似ている。
まずお茶を飲んで喉を潤した。それから、ゆっくりとりんごの一切れをかじった。味は感じられる。しかし、やはり喉を通らない。どれだけ噛んでも、飲み込むのが苦しい。飲み込むたびに、最後に聞いた秋穂の声が頭の中で響く。でも、この丁寧に切られたりんごを食べないわけにはいかないと、僕は咀嚼を続けた。まだ僕は、生きなければならない。
続けるうちに、必死に聞かないようにしていた彼女の声が愛おしくなった。彼女の声を聞きたい。彼女に会いたい。今すぐ会いたい。初めはかすかだった願望は、風船のように膨らんでいく。
このまま彼女が動くのを待っているだけではいけない。何もかも彼女に任せておいて、いざ気に入らなければ「大きなお世話」だなんて、都合がよすぎる。
実際に、自分が何を求めているのか、もはや僕には分からない。秋穂なのか、平山さんなのか。愛なのか、渇きを満たす水なのか、心地の良い距離感なのか。
でも、理屈っぽいことに悩んでいたって進みはしない。感情が秋穂に会いたいと叫んでいる、今はそれで充分だ。何が引き金となったか、今の僕は目の前の現実と戦う意志を宿していた。幼き頃の僕のような、無鉄砲で熱い心が。
ベッドの上に放られた、何も受信しない携帯電話へと向き直る。携帯電話でもう一度時刻を見ると、十一時三十二分とある。もうすぐ日を跨ごうかという時間帯に少しだけためらうが、今さら止めようとも思わない。長電話が過ぎてこの時間まで切らなかったことなら何度もある。遠慮することはない。履歴から秋穂の携帯電話の番号を見つけて、そうしてまたほんの少し迷ってからかけた。
ルルルル、と呼び出し音が鳴る。一度切れて、また鳴る。また切れる。そして鳴る。僕はできるだけ何も考えないようにして、無感情の音を聞き続けた。
そしてプツ、と音がした。そして無音。次に聞こえるのは、声か、音か。
「……なに。こんな夜遅く」
聞こえてきたのは、感情を殺した声だった。秋穂本人なのか一瞬考えるくらいに低くて愛想のない声。でもなんとなく、あえて作った声のようにも聞こえた。
「今から会えないかな」
「は?」
「会いたいんだ」
「意味がわからないよ。寝ぼけてるの?」
「目は冴えてるよ。もちろん秋穂がこっちに来る必要はない。僕が君の家に行く」
「やっぱり寝ぼけてる。私は君のご近所さんじゃないんだよ」
「電車で一時間。寝ぼけてないよ」
電話越しにため息が聞こえる。今、彼女はどんな顔をしているだろうか。
「じゃあ、酔ってるんだね。黙っててあげるから、今日は早く寝なよ」
「未成年なのにヤケ酒なんかしないよ。僕が生真面目なのは君だってよく知ってるだろ」
「じゃあ、頭のネジでも抜けた? 今から急いだって、行きが終電に間に合うかどうかでしょ。帰れないじゃん」
「帰れなくたっていい。後のことなんてどうでもいい。とにかく秋穂に会いたい」
「もう、なんなの。眠いんだけど」
「そこをなんとか」
「あのね。明日も学校なんだよ。バカなのに寝不足で授業受けなきゃいけなくなる私の身にもなってよ」
「お願いだ。わがままはこれっきりにするから」
ここで折れるわけにはいかず、僕は必死に頼み込んだ。そういえば、僕が秋穂にわがままを言うのなんて初めてだな、と自分で言いながら気づいた。初めてのわがままは、はたしてどう転ぶか。僕は秋穂の返事を待った。
「……勝手にすれば」
しばらくの沈黙の末、とうとう秋穂が先に折れた。折れた、と明言できることばではないかもしれないが、今の僕には肯定的に捉えることができた。
「ありがとう」
礼への返事はなく、そのまま電話を切られた。僕はすぐ準備にとりかかった。準備といっても最低限で、財布と携帯と腕時計だけ。彼女の言う通りで、下手をしたら行きの電車があるかどうかすらすら怪しい。でも、もし間に合わなかったとしても、そのときは歩いてでも行こうとすら考えていた。
結局、幸いにして終電の電車には間に合った。もうすでに日付は変わっている。人がまばらに座る車内で、誰も座っていないシートを見つけてその端に座った。終電に乗るのは初めてで、どことなく落ち着かない。対照的に、周りの大人たちは落ち着いて本を読んだり寝たりしていた。高校生は見たところ僕だけ。
そういえば補導の心配を考えていなかった。塾帰りを装って教材を詰めた鞄でも持っていくべきだったか、と後悔する。今さらながら、ずいぶんと無計画に行動したものだと、いっそ感心した。
不意に携帯電話の着信音が鳴り、僕は慌ててマナーモードに設定した。見てみると、秋穂からのメールだった。
着いたら電話して
十文字にも満たないそっけない文だったが、つい顔がほころんだ。彼女がようやく、ちゃんと僕のわがままを認めてくれたような気がした。この30分間で、彼女は何を考えたのだろう。考えれば考えるほど、彼女に会いたい気持ちはつのっていった。
携帯電話をズボンのポケットにしまいこんで、ほっと息をつく。無計画が災いしていくつも小さな穴が空いていたが、あとは気を付けることと言えば居眠りで駅を通り過ぎてしまわないようにすることくらいだろう。それと、行く途中で補導されないこと。
眠気覚ましに警察に見つかった場合の言い訳を考えながら、目的の駅に着くのを待った。
結局警察の姿を見ることなく、無事に秋穂の家に着いた。拍子抜けだ、と思ってしまうあたり、やはりネジが二、三本抜けてしまったのかもしれない。
近くの電柱に寄りかかって秋穂に電話をかけると、今度はワンコールも終わらないうちに繋がった。
「着いたよ」
「うん。今出る」
やがて、玄関の重い扉がゆっくりと開いて、秋穂が顔を出した。とはいっても、暗くて表情まではわからない。一方僕の顔は電柱に寄りかかっているから、きっと電灯でよく見えることだろう。どうだろう、僕はどんな顔に見えているだろうか。いや、もうそんなことは気にならない。
僕は勢いよく駆け出し、そしてその勢いを殺しきれないままに秋穂に抱きついた。小さい悲鳴が漏れる。けれど、拒絶はなかった。
「ちょっと。危ないよ」
「ごめん」
謝りつつも、抱きしめる力は緩めない。やっとだ。秋穂の存在を、匂いを、体温を、直接感じられている。秋穂以外の何も感じない。秋穂が好きだ。大好きだ。この気持ちが愛以外の何だというのだろう。どんな理屈であってもこの感情を否定することはできない。
「大好きだよ、秋穂。酷いこと言ってごめん。どうか許してほしい。もう僕を嫌いにならないでほしい」
十秒にも満たないことばで、僕が彼女に言いたかったことはすべて言い尽くした。抱きしめていて顔は見えないけれど、彼女のかすかな笑い声が耳をくすぐった。
「許すけど、嫌いにならないでっていうのは無理かな」
「どうして?」
「そんな悲しい声出さないでよ」
今度は苦笑い。彼女の困ったような笑顔が頭に浮かんだ。
「好きな人だって嫌いになることくらいあるよ。絶対許すもんかって思うこともある。でもそれは、その人が大好きだからだよ」
いつの間にか、秋穂の声はとても穏やかになっていた。いや、気づくほどの余裕がなかっただけで、本当はもっと前から穏やかだったような気もする。
「好きとか嫌いとか、嬉しいとか悲しいとか、楽しいとか寂しいとか、そういうのぜんぶ含めて愛なんじゃないかな。少なくとも私はそう思ってる」
たどたどしく語る彼女の声を、黙って聞く。彼女のことばが耳を通り全身へと流れ、全身に散在するしこりを溶かしていく。すう、と、さらさらの涙が頬を伝い、秋穂の服に染みこんだ。
「……なんか言ってよ。恥ずかしくなってきた。深夜テンションって怖いね」
「うん、ごめん。でも感極まっちゃって。すごいね、秋穂。達観してるね」
「やめてよ、恥ずかしい」
秋穂はくすぐったそうに笑った。そのまま二人でしばらく笑い合った。暗闇だけど、怖くはない。こんなにも近くに愛しい人がいるから。
ひとしきり笑ったあと、秋穂は抱きしめていた手を放した。そうして、お互い向き合う形になる。秋穂は軽く一度だけ息を吐いてから、僕の目を見た。
「ごめんね。私も悪かったよ。もう好意を押しつけたりしない。私の悪い癖だっていうのは、わかってるんだけどね」
「いいんだ。僕が君と対等になれるよう頑張ればいい」
そう言うと、秋穂は眉を寄せてむず痒そうに「んん」と声を漏らした。
「対等とか対等じゃないとか、そういう問題じゃないと思うんだけどなあ。私が世話好きっていうだけのことで」
「そうかな。でも実際、僕に抜けてる部分があるから秋穂がそれを埋めようとしてくれたわけだよね?」
「私が世話好きなのと同じで、テツは少し抜けてるところがあるだけだよ。それ自体がプラスとかマイナスって話じゃなくて、ただ単にそういう特性なんだよ。もちろん、それが自分と合わなくて、直してほしいって思うことはあるけどさ。対等っていうのはそういうのじゃなくて、私が君を愛して、君も私を愛してくれる、ただそれだけのことだと思う」
言い終わった後、恥ずかしくなったのか彼女はうつむいてしまった。彼女の思う対等がそういったものであるなら、僕と彼女が本当に対等なのか、やはりわからない。少し、不安になった。
「僕は、秋穂のことをちゃんと愛せているのかな」
秋穂は一瞬きょとんとした顔をして、そしてすぐにふっと吹き出した。
「なにバカなこと言ってるの。テツが私のことを愛してないんなら、この暴挙は何?」
僕は、きっと先ほどの秋穂と同じ顔をしてしまった。そして意味を理解して、やはりふっと吹き出した。そのまま、なぜか笑いが止まらなくなる。
「ああ、そう、そうだね。確かにそうだ。僕って秋穂のこと大好きなんだなあ」
「なにそれ。やっぱりネジ抜けてるんじゃないの」
「そうみたいだ。秋穂のネジ、一本ちょうだい」
「ダメだよ。私のも抜けてるもん」
二人で大笑いした。特に僕など、あまりに声が大きくなるものだから必死に声をひそめて笑った。
どうやら僕には、こんな馬鹿げた質問を「バカなこと」と一蹴してくれる人が必要なようだ。でないと、岩になった自分自身に潰されてしまう。そしてその役割をこなせるのは、この世界で秋穂だけだ。
僕にはまだ愛の定義などわからない。ただ、彼女の言う通り、好きも嫌いも嬉しいも悲しいも楽しいも寂しいもすべて含めて愛ならば、ただ与えるのも愛で、ただ奪うのも愛だろう。世話焼きも愛で、わがままも愛だろう。今はそれでいい。それを信じてみよう。
「愛してるよ、秋穂」
「私も哲也を愛してる」
目をそらさず、互いに想いを届け合うと、僕らは再び抱きしめ合った。頬をすり合わせ、そのまま流れるようにキスを交わした。長く、長く、キスは続いた。少しも動いていないのに、決して飽きることはない。このまま夜を明かしてもいいとさえ思えた。本当に久しぶりに、柔らかな沈黙が僕らを包み込んでいた。
それから、ゆっくりと唇が離れた。軽いキスだったため、あまり抵抗もなく離れる。でも、心は満ち足りている。顔を見合わせると、秋穂はふにゃりと頬を緩ませた。僕は思わず、彼女の髪を撫でた。彼女は眼を閉じて、僕の手を受け入れてくれた。でも、やがてうつらうつらと頭が揺れ始めた。
さっと視界が開けていき、気づけば空には穏やかな薄明かりが広がりつつあった。そんなまさか、と時計を見ると、時刻は四時を回っている。えっ、と叫ぶと、秋穂が重たげにまぶたを開けた。
「今、何時?」
「四時……」
「そっか。眠いわけだねえ」
今の今まで時間の経過に全く気づかなかった自分に、呆れを通り越して笑いがこみあげてくる。そういえば、お腹がすいた。なんでもいいから食べたい。今なら朝からハンバーグでも構わない。
そうだ、もう朝が来たのだ。恐れる間もなく朝が来た。昨日の僕に、こんなすがすがしい朝が来たということが少し信じられない。
同時に、これなら大丈夫だ、と確信した。今日、秋穂とここにいたのだという事実さえあれば、僕はどこでだって生きていける。無鉄砲に愛をぶつける僕がいることと、僕の愛を受け取ってくれていた彼女がいることを知れたから。
「朝だね」
「え? うん、そうだね」
再び顔を見合わせた。秋穂は眠たそうに、だけど柔らかな笑顔で僕を見た。朝、人に会ったときにすることを、僕らはもう知っている。
「おはよう」
「おはよう」
どちらからともなく、挨拶を交わした。