軋轢
僕が決意をした日から数日が経過した。
「おはよう」
「おはよう」
廊下ですれ違いざま、秋穂と挨拶を交わす。決意表明をして以来、彼女は僕の食事の遅さについては触れていない。それどころか、昼休みに僕だけ弁当を食べ続けていても、嫌な顔も退屈な顔もしない。僕は久しぶりに柔らかな沈黙を味わえていた。しかしその沈黙は、僕を包み込めるような柔らかさでなく、むしろ少しの衝撃で壊れてしまいそうな柔らかさだ。僕はその沈黙に身をゆだねながらも、ひやりとした不安を感じていた。
彼女の機嫌のよさを裏切るようだが、僕が挨拶できる人間は未だ増えない。秋穂と平山さんの二人だ。進歩といえば、平山さんとの挨拶が毎日になったくらい。
増やそうとしていないわけではない。初日からずっとスタンスは同じ。挨拶すべきか迷うような人であれば、積極的に挨拶する。
ただ、どうしてもすんでのところで怯んでしまう。彼らは前だけに視線を向けている。僕が視線の先に来ないようにしている。彼らのそんな姿を見ていると、まるで彼らが僕の存在を丸ごとなかったことにしようとしているみたいで、末恐ろしくなった。そして、僕も最近までは当然のように同じことをしていたということを思い出すと、僕は慄然とした。
この数日は地獄のような自己嫌悪に苛まれる日々だった。自身の臆病と、そして無自覚な残酷さに。僕の心のめまぐるしい変化は結局心の中を出ることはなく、誰にとっても僕はいつもの僕でしかなかった。それがまた、死にたくなるほど惨めだった。
問題は、この問題を解決しなくても、当面生きていくことに何ら支障をきたさないということだ。そしてそれを口実に、心に巣食う怠惰な僕が僕に向かって甘言をささやいてくるということだ。こんなことを頑張って何になる。彼女は僕を許したのだ、これ以上続けるのは意地でしかない。こんなくだらない意地で悩み苦しむのは、無意味なことだと思わないか。
心に住む真面目な僕は反論する。社会に出る上で、挨拶というスキルは必須じゃないか。せっかくの機会だ、ここで習得しておかなければ社会に出たとき苦労する。それに、このままではいずれ彼女にも見捨てられてしまうに決まっている。
そのように心で推進派と保守派がせめぎ合っているうちに、いつも人は通り過ぎてしまう。誰か僕を見つけてくれ、と心の中で呟くが、葛や藤にとらわれた小石に、いったい誰が気づくというのだろう。
「どう。挨拶できるようになった?」
今日の昼休み、ついに恐れていた質問が飛んできた。動揺するあまり、口に運ぼうとしていた卵焼きを落とした。僕には嘘がつけない。質問をされた時点で詰みだ。彼女の顔を見ると、期待半分不安半分といったところ。ああ、これから僕は、彼女の顔を失望で塗りつぶしてしまうのだ。胃がきりきりと痛む。
「いや、微妙、かな」
「なにそれ。もっと具体的に言ってよ」
とっさに嘘ではない曖昧なことばが出てくるが、当然それで納得する彼女ではない。僕は閉口してうつむいた。落とした卵焼きは、弁当の中で崩れていた。
「何人に挨拶したの?」
押し黙る僕に痺れを切らした秋穂が、さらに問い詰めてくる。具体的な質問。避けようがない。
「ふ、ふたり」
「はあ?」
秋穂が素っ頓狂な声を上げる。怖くて顔を上げられないが、きっと声と同じく素っ頓狂な顔をしていることだろう。
「二人って、誰」
「秋穂と平山さん」
「私入れて二人なの? 男子は」
「まだいない」
「馬鹿じゃないの!」
不発弾が爆ぜるようにして彼女は声を荒げた。衝撃の波が全身を駆ける。
「挨拶するだけだよ。簡単なことでしょ、どうしてそれができないの」
簡単。挨拶が。僕はこの数日間、挨拶のためだけに、自分への殺意と戦いながら必死にあがいていたのに。
この努力が誰の目にも見えていないことくらい分かっている。でも僕は、何も知らない彼女が僕の努力を全否定したように感じて、癪に障った。
「秋穂は挨拶できるからそう思うんだよ。僕にとって挨拶は難しいんだ」
「何が難しいの」
僕はことばに詰まった。端的に言えば「変な感じ」が発生するかもしれない恐怖を克服するのが難しいわけだが、それを彼女に言ったところで分かるわけもない。
「ね、難しいことないでしょ。明日は私も手伝ってあげるから、頑張りなよ」
難しいと言っているのに。
「手伝ってあげる」ということばにも、近すぎるような遠いような、変な感じの距離感を感じてぞっとする。彼女にとって、いったい僕は何者だというのだ。
しかし僕は、これ以上反論を続けて彼女との関係がこじれるのを恐れた。自分の心と行動のねじれに引きちぎれそうになりながらも、僕はかろうじて「うん」という二音を喉から絞り出した。
さっと視界が開けていって、見えたクラスの光景は、驚くほどいつもと変わらない自然な昼下がりだった。
夜、久しぶりにあの漫画を一から読みたくなり、僕はベッドの上でその第一巻を開いた。秋穂との出会いの漫画。ストーリーは取り立てて斬新というわけでもない。簡単に説明すると、主人公の落ちこぼれ少年魔法使いが、ヒロインの孤高の天才女魔法使いのもとに弟子入りするというもの。少年は、師匠に追いつけるように懸命に努力する。そしてときには一緒に戦い、徐々に愛情を深めていく。少年の努力とともに、二人の恋愛にも重点を置いている漫画だ。
僕らの意見は、「努力する少年の姿が作中で何よりも好き」という点で一致していた。
僕は彼に憧れている。自分の夢のために、誰に何を言われてもくじけずに努力する姿が好きだ。常に前だけを真っ直ぐ見据える彼の姿が好きなのだ。そこまで努力できるほど大切なものを持っている彼が羨ましい。何をやっても中途半端な僕は、彼に自分を重ねることで少しだけ救われる。
最近、たまに思うことがある。彼女と僕の意見は本当に一致しているのだろうか、と。「少年の努力する姿が好き」なのは同じだとしても、はたしてその根源的な理由は同じなのだろうか。彼女は、自身と誰を重ねたのだろうか。
暗くなっていく感情に追い打ちをかけるように、下の階からいがみ合う声が聞こえてきた。居間だ。また父と母が喧嘩をしているのだろう。救いようがなく陰鬱な喧嘩を。
両親の不仲は僕が物心ついたころからだ。僕は二人だけで楽しげに会話しているところを見たことすらない。他愛もない雑談だって、僕か姉が間に入っているときしかしない。
今さら文句を言うつもりもないが、今だけは控えてほしかった。僕は漫画を閉じて部屋の電気を消し、仰向けになった。視界が黒で塗りつぶされてしまうと、より鮮明に両親の声が聞こえてきた。聞きたくはなかったが、耳をふさぐのは自分が両親の不仲から逃げているようで嫌だった。二人とも、こういうときだけは声が大きい。
これが始まると僕も姉も自室で息をひそめる。そしてお互いに干渉もしない。ただひたすら、自分がこの世界に存在していないかのように過ごす。夜が明けてもそのことについては一切触れない。姉も普段は無神経に辛辣なことを言うくせに、この暗黙のルールを破ることはない。
僕があまり家族に自分のことを打ち明けないのは、これらが原因なのかもしれない。
家族としての役割分担はこなす。家族だからと油断して過干渉になることがある。でも、敢えて家族の心の深い部分に入ろうという意志は誰も持っていない。
別に、愛情を感じていないわけではない。僕をここまで育ててくれたのは両親と姉だ。それは、ただ血縁的に家族であるというだけでできることではないと思うし、実際に感謝している。だけど、不仲な二人から生まれた僕は、少なくとも愛の結晶なんかではない。
人は本能的に愛を求めている。でも多くの人は愛の結晶だから、すでに愛を持っていて、さらに違う形の愛を求める。僕は愛を持って生まれず、投げ込まれた愛もうまく受け取ることができなかったものだから、愛に飢えているのかもしれない。愛は心の深い部分にあるから、家族以外の誰かに愛を求めたのかもしれない。
だから僕は、彼女との関係を終わらせたくないのだ。彼女の結晶を、ほんの少しでも削って自分のものにするために。ならば、僕のこの感情はやはり愛などではない。でも、だとしたら、彼女は僕から何を奪うというのか。
得体の知れない怪物が下から這い寄ってくるような感覚に背筋が凍りつく。僕は布団を強く抱きしめ丸くなり、目を閉じた。
次に目を開けると、部屋の中はすっかり明るくなっていた。カーテンを閉めるのを忘れていたから、鬱陶しいくらいに眩しい。再び目を閉じても、光はおかまいなしに僕の目を突き刺してくる。
あまり学校に行きたくない。むしろ、ベッドの上から出たくない。まとわりつくような湿っぽい熱気も嫌になるし、昨日両親が喧嘩した空間に、彼らが何食わぬ顔でいるのも気に入らない。それに、秋穂に会うのが苦痛で仕方がなかった。だけど、同時に心のどこかで秋穂を求めているのも事実だった。なんでもいいから秋穂の愛に身をうずめたかった。
僕はずりずりと這いながらベッドから降りて、時間をかけてゆっくりと立ち上がり部屋のドアノブに手をかけた。
居間では父が何食わぬ顔で新聞を読んでいた。台所を覗くと、母もまた何食わぬ顔で僕の弁当をつくっている。姉はまだ寝ているのだろう。今日は休みのはずだ。家族全員が昨日の喧嘩から目を背けているように思えた。
僕はやや意識的に面白くないような顔をしながら棚からあんパンを取り出し、黙々と食べた。子どもじみてる、と分かっていながらも、今さら顔を戻すことができない自分が滑稽だ。
「どうした、朝から」
えっ、と思わず声が漏れた。父の声だ。新聞を読んでいると思っていたが、目だけはこちらを向いていた。どうやら、自分で思っている以上に面白くない顔をしてしまっていたらしい。だからといって、僕自身も暗黙のルールを破る度胸なんてない。
「別に」
「学校に行くのが嫌なのか?」
何を見当違いな、と心の中でせせら笑った。しかし考えてみれば、それも間違いではないのかもしれないと思い直してしまい、僕は沈黙した。
「嫌ならたまには休んでみればいいんじゃないか」
「ちょっと、やめてよ。休むのが癖になったらどうするの」
「哲也だって馬鹿じゃないんだ、そこらへんは自分で考えられるだろ」
両親の意見が合うところを、僕はあまり見たことがない。そもそもなぜ結婚したのかと思うくらいに考え方がずれている。
僕が微熱を出したとき、母は休んで病院に行こうと言い、父は微熱くらいで休むのかとなじった。それを思い出すと、今回の衝突は面白く見えてくる。あのときは結局どうしたか、もう何年も前だから覚えていない。でも今回は、やはり学校へ行こうと思えた。
教室に入って早々、奇妙なことになっている。なぜか多くの人が僕に挨拶をしてくれるのだ。普段は絶対に僕に挨拶などしないであろう人もちらほらと挨拶をしてくる。僕はわけもわからないまま挨拶を返すばかり。自分がどこか違う世界に紛れ込んでしまったかのような心地でいた。
挨拶されることを望んでいないわけでは決してない。しかし、この状態を素直には喜べなかった。むしろ、挨拶される度に背中に「変な感じ」がまとわりついてきて、僕は恐ろしくなった。
机の横に鞄をかけて、横目で平山さんを見る。彼女は変わらず本を読んでいる。こちらを変に気にしているわけではなさそうだ。その様子を見て、僕は安堵した。
「おはよう、平山さん」
「あ、おはよう」
この数日の成果として、僕から挨拶をすることは珍しいことではなくなった。だから平山さんも、こちらを向いて手を振った後はまもなく読書を再開するようになった。昨日、一昨日はそれが少しそっけないようにも感じていたものだが、今の僕にはそれがとても嬉しい。
それと同時に、この異常を少し冷静な目で見られるようになった。こんな事態が自然発生や偶然の産物であるはずがない。明らかに人為的なものだ。そして、僕に対してここまでの規模の人為的な仕掛けを施そうと考える人物は、この学校内に一人しかいない。
僕はすぐに隣の教室に入った。秋穂は待っていたかのように瞬時に僕を見つけて近寄ってきた。
「おはよう。どう、みんなと挨拶できた?」
「やっぱり秋穂か。みんなに何て言ったんだ」
できるだけ落ち着こうと思ったが、確信を持つと抑えが利かず、早口で問いただすような口調になってしまう。秋穂は僕の様子に少したじろいだようだったが、やがて口を開いた。
「テツが挨拶できないのを直したいから、手伝ってって……テツに会ったら、挨拶してって」
突如、肥大した「変な感じ」が全身を覆い血が凍てついた。かと思えば、心の底から湧き上がってきた激情ですぐに血が煮えたぎった。
彼らは僕の挨拶の練習に付き合わされていたのだ。彼らは、「高校生にもなってろくに挨拶もできない僕」を改めて意識したことだろう。彼らは僕をどんな目で見ていたのだろうか。蔑んでいただろうか。それとも、拾われケージに閉じ込められた子犬の姿を重ねただろうか。いずれにしても、僕にとって嬉しい目線であることはあり得なかった。
こうなる前に僕は、自分から挨拶をすべきだった。自分から挨拶ができれば、僕はまだ精神的にはでみんなと対等でいられた。しかし、僕が挨拶をしようとしていたこの数日間の努力や苦しみは、すべて彼女に台無しにされた。
羞恥や後悔などいくつもの負の感情がぐちゃぐちゃに混ざり合いながら喉に流れ込み、僕は奇声を上げそうになった。なんとか抑え込んで溜まったそのエネルギーは、秋穂へと向かった。
「どうしてそんなことを!」
「ど、どうしてって、挨拶できるようになりたいって言ったのはテツでしょ。だから手伝ってあげたんじゃない」
「僕は、こんなことを求めてたわけじゃない。大きなお世話だよ!」
そう怒鳴ると、秋穂の表情から戸惑いが消え、攻撃の色が浮かんだ。
「なにそれ。人の親切を大きなお世話って、それはないんじゃないの」
「してあげるとか、親切だとか、そんなのもうたくさんだ。確かに君は僕より上等な人間かもしれないけど、上から見下ろされて与えられてばかりだと僕は惨めな気分になるんだよ」
声が震えている。膝も震えている。これ以上はやめろと理性が警告している。けれど砕けたコップに水は戻らない。それは彼女も同じだった。
「私はテツを見下してなんかない。目標をこなすのを手伝うのが、そんなにいけないことだっていうの?」
「じゃあ君は、僕が君の凄惨なテスト結果を教室に掲示して、『誰かこの人に勉強を教えてあげてください』と触れ回ってもいいんだね!」
そう言うと秋穂は黙った。目を見開いて何かを言いたげに口を動かすが、ことばは出てこない。張りつめた沈黙の中で、怒りがその攻撃性を保ったまま冷えていくのを感じた。この際、彼女に対する疑念をすべてぶつけてやろうという気が起きてきた。
「ずっと疑問だった。君のような人がどうして僕に告白してくれたのか」
一度、息を吸って吐く。
「君は、僕みたいな弱くてちっぽけな存在を手元に置いておきたかったんだろう。僕をペットみたいにあれこれかわいがりたかっただけなんだろう。そんなのごめんだ、僕は人間だ。君と対等な人間なんだ。ペットなんかでいてたまるか」
彼女の顔を見ないまま吐き捨てるように言い切ると、急に彼女の顔を見るのが怖くなって僕はうつむいた。心が冷えたのに遅れて、頭も冷えたようだ。
「もう、知らない。そんなに私が信じられないなら、勝手にすればいい。大っ嫌い」
秋穂の声が突き刺さる。僕と同じ、激情と冷淡がぶつかりあって震えている声。顔を上げても目の前に彼女の姿はなかったけれど、どこにいるのかはすぐにわかった。周りの人々の視線は、僕と彼女に注がれていたから。