挨拶
僕がとりあえず今日からやろうと決めたことは、挨拶。家族には当然、クラスメイトにも。いつも挨拶すべきかどうか迷うような人には挨拶をしよう。そうすれば自然と人とのコミュニケーションも増えるだろう。
しかし改めて挨拶をしようという気になってみると、それが今の僕にとってかなり難易度の高いことだと気づいた。そもそも挨拶というものは習慣であって、だとすれば「挨拶しない」のも習慣なのだ。ある習慣を百八十度転換するということがどれほど難しいことか。そんなことは世の中を見ればすぐにでもわかる。
今まで挨拶しなかった相手に急に挨拶するということに対する、拭いきれない違和感。なんとなく居心地が悪く落ち着かない変な感じ。相手はどう思うだろうか。相手もこの「変な感じ」を抱くのだろうか。相手が僕に対して何か「変な感じ」を抱くかもしれないということが、僕には耐え難い苦痛だった。なぜそんなことを恐れるのか、自分でもよくわからなかった。その「変な感じ」は、別に嫌悪や敵意といった明確な負の感情ではない。だというのに、僕は何が怖くてためらっているのだろう。
挨拶をしづらい理由は、もう一つある。それは相手が僕を見ないということだ。今までろくに挨拶などしたことがなかったから、目と目が合っていないということがどれだけ挨拶の意志を鈍らせるか、想像すらしたことがなかった。僕のような目を合わせる気もない人にわざわざ挨拶をしてくれる人の方が変わった人だったのだ。僕とわざわざ目を合わせようと思う人は、もうあまりいないようだった。僕の今日の決意は、傍から見ればいつもの僕と何ひとつ変わらず映っていたことだろう。
自教室へと伸びる廊下を歩いていると、ちょうどその隣の教室から秋穂が出てきて、こちらの方へ歩いてきた。秋穂と目が合う。昨日のことがあり一瞬怯んだが、しかしそれは本当に一瞬のことだった。
「おはよう」
「おはよう」
どちらからともなく、挨拶を交わした。「秋穂とは挨拶する」習慣だからこそ醸し出せた自然な雰囲気。その雰囲気で、僕が張っていたいくつもの絡み合った緊張の糸がほぐれていく。いつもとほとんど同じ挨拶の調子は、お互いが昨日のことをそこまで深刻に気にしてはいないということを確認しているみたいだった。
「昨日はごめん」
「いや、私もいらいらしすぎてた」
自然と自分の口から謝罪のことばが出てくる。彼女の方も謝罪の意味がこもったことばが返ってくる。僕が昨日自分の今までの人生を振り返り、その一大転換まで決意することとなった原因の事件は、挨拶ついでに解決した。これ以降、この事件について僕らが触れることはほとんどないだろう。
僕が彼女を繋ぎ止めるために決意したことは、本来的な意味を失ったことになる。しかし、だからといってあっさりとこの決意を撤回するのも惜しいように感じた。今日、挨拶をしようとして気づいた。当面の問題が解決したとしても、僕はいずれ似たような問題に衝突する。いい年して挨拶もできないなどというのは、第一印象としては最悪だろう。社会に生きる人間としては恥ずべきことだ。今直した方がいいことに変わりはない。
考え直していくうちに、なんだか僕が決意を無駄にしないための言い訳を考えているだけのような気がしてきた。そう考えてしまうと、なんだかこの決意が残飯みたくみすぼらしいもののように思えてきてしまって、すぐにその考えを振り払った。
「今日からは、頑張るよ」
「何を? お昼ご飯の話?」
「うん、まあなんていうか、いろいろと」
曖昧な返事に、秋穂は首を傾げて笑う。
「なにそれ」
「家族に聞いたら、食事が遅いのは喉が狭いからかもしれないって言われた。だから、声を積極的に出せばもっと食事も早くなるかなって」
「へえっ。具体的にどうするの?」
「まずは、挨拶できるようになりたいね」
「へええ」
秋穂は目を輝かせて感嘆の声を漏らす。我が子の成長を見守るような、あるいは痩せた子犬が餌を食べるのを見届けるような目。慈愛の目。
久しぶりに彼女の顔に笑顔を浮かべられたことは嬉しかった。でも、僕はこの決意を彼女に言ったことを少し後悔した。僕は彼女に愛されたいけれど、慈愛を受けたいわけではないから。与えられるよりは、奪われたいから。そう思うのは、きっと僕には与えられるようなものがないからなのだろう。
愛とは、対等なものだ。何もない僕には与え合うことはできなくても、奪い合うことならできる。奪い合うことでなら、愛し合うことができる。現状は、ただの渇き。彼女は僕に与え、僕は彼女から奪う。
「じゃあ、頑張ってね。私も応援する」
「うん、ありがとう」
小さく手を振り合って、僕らは別れた。僕は教室に入り、秋穂は廊下の奥へ。教員室がどこかに用事があったのだろう。彼女の手にはプリントがあったから。おそらく、昨日の授業で出すはずだった宿題だ。
教室の中はいつもよりも少しざわついていた。グループ同士で楽しそうに会話をしているが、オーバーで演技じみた不安や落胆の声が多く耳に入ってくる。後ろの黒板で今日の時間割を確認する。一限は英語。ああなるほど、と納得した。今日返ってくるテストのことか。
どのグループも、教室に入ってきた僕の方には目もくれず自分たちの世界に浸っている。かと思えば、グループの一員が教室に入ってくるとすぐに気付いて声をかける。声をかけられた人はそのままグループの中に溶け込んでいく。彼らにとっては僕など道端の小石と同じ認識なのだろう。見えている。だが見えていることには気づかない。
彼らの間に割って入って挨拶するというのはさすがに変な目で見られる。それとなく挨拶ができそうな人を探しはしたが、結局誰とも挨拶をしないまま僕は自分の席に着いた。隣では平山さんが黙々と本を読んでいる。彼女とはたまに挨拶する。とはいっても、ほとんどは彼女からだ。僕は彼女の前だと道端の小石になることもあれば、ふっといきなり人になることもある。そのたびに驚き戸惑うのは僕自身だ。
挨拶しようか、と悩む。彼女との挨拶は、おそらく秋穂の次に易しい。これができないようならば、僕の決意は何の意味もなさない。けれど、それでも僕は悩んだ。本を読んでいるのを遮ってまで声をかけていいものか。もう僕が席についてだいぶ時間が経っているのに、今さら挨拶をするのは変ではないのか。様々な「挨拶しない」選択を選ぶ理由が浮かぶ。自分が自分をうまくまるめこむための口実を並び立てているようで、惨めな気持ちになった。どうせお前は、挨拶しない楽な道を選びたいだけなんだろう。だったらそう言え、面倒な奴。
彼女へ視線を向けたまま固まっていたせいか、彼女が不思議そうな顔をしてこちらへ顔を向けた。目と目が合う。こうなってはもう、どんな言い訳も無意味だ。
「どうしたの?」
「ああ、いや、おはよう」
「うん、おはよう」
平山さんは、いかなる負の感情も見えない笑顔で挨拶を返してきた。胸に埋め込まれた鉛の玉のようなものが、すっと溶けていく。そのまま彼女は読んでいた本を閉じてこちらへ向き直った。
「堂本君から挨拶してくれるのって珍しいね」
「そう?」
「そうだよー、気づいてなかった?」
彼女はおかしげに笑った。気づいていないわけがない。この疑問はポーズだ。気づいていながらも、あえて挨拶の判断を人に任せ切っていた自分が情けなかったから。気づいていなくても十分情けない奴なのに。僕のプライドはみすぼらしいうえに高い。
「今日の一限、やだね。返ってくるよね、先生そう言ってたし」
「そうだね」
僕は別に嫌ではなかったが、相槌を打つ。そもそも、平山さんもきっと嫌ではあるまい。嫌であれば、こんなに柔らかな笑顔で言えるわけがない。僕は彼女の隣の席だから、彼女の成績がいいことも、いつも返されたテストを嬉しそうに眺めていることも知っている。ただ、「テスト返却を楽しみにしている者は成績優秀者」とされているために、テスト返却を楽しみにすることが間接的に自分の成績をひけらかすことになりうるから形として言っているだけで。
そのほか、二言三言の他愛もない会話を交わした後、彼女は読書に戻った。
彼女はいつも一人で本を読んでいる。でも、彼女は僕のような孤独な人間ではない。お昼になればいつも、平山さんと似た雰囲気の女の子三人と弁当を食べている。そのときは彼女もそこそこ大きな声を出して笑うことがある。僕と話す時よりもいくらか低い声で、楽しげに会話に花を咲かせる。
僕にとっては彼女のような位置が理想だ。目立ちすぎず、でもしっかりと友達が何人かいて、楽しくお昼休みを過ごす。それが一番ちょうどいい。
秋穂と仲良くなったきっかけとなった漫画は、かなりマイナーな部類に入る。だけど僕も彼女も大好きで、普段話せる相手がいない分僕らは意気投合した。僕も、いつもよりずいぶん饒舌だったと思う。
それから、二人でアニメイトに行ったり、その漫画に関するイベントに行ったりと、二人きりで遊ぶことが多くなった。
その漫画を広めようにも、彼女の周りはアニメに興味のない人が多かったし、僕にいたっては広める友達がいなかった。結果として、僕と秋穂はずっと二人で遊び続けた。いつの間にかそれが、漫画の関係ないところで二人で遊ぶことも徐々に増えてきて、気づけばこの状態になった。
気づけば、なんて言い方はあんまりかもしれないが、僕にとっては本当に「気づけば」なのだ。彼女に告白されるまでは、僕は彼女と恋人になることなど少しも考えてすらいなかった。
いや、そう表現するのは嘘になる。男として、男女の関係になるという妄想をしたのは確かだ。だけどそれはあくまで、僕の中では妄想の域を出なかった。彼女との恋愛など、僕にとってはアイドルとの恋愛のように遠い妄想だったのだ。
彼女は誰からも好かれていた。容姿も整っているし、誰にだって優しい。それでもしっかり怒るときは怒るから、八方美人らしさもない。ある意味でアイドルよりもアイドルらしい人だ。だから僕の例えはあながち間違っているというわけでもない。
だけど、彼女は僕を好きになってくれた。僕を選んでくれた。
二人で放課後、何度目かのアニメイトに行った日の帰り道で、彼女は「ちょっと疲れた」と言って公園に立ち寄り、そこのベンチに座った。僕もその隣に座った。公園とはいっても、遊具もなく空き地同然の場所だ。そのため空のオレンジに黒が差しかかるころには、いつも人気がすっかり消え失せ、カラスの鳴き声ばかりが響くようになる。
僕らの間に会話はなかった。いつもそうだった。僕は話すのが苦手だから自分から話すことはあまりないし、そのうえ長い間話していると疲れてしまうから、こういうときに無理に話題をつくろうとしないのが暗黙の了解となっていた。
僕は二人で保つこの沈黙が好きだ。その日も、やや汗ばんだ体を撫でる涼しい風を感じながら、その柔らかな沈黙に心を預けていた。しかし、その日は秋穂が唐突に沈黙を破った。
最初に、秋穂はおもむろに僕の手を握ってきた。ゆったりとした手つきではあったのだが、やや手がこわばっていた。でも手をつなぐことくらいは前々からしていることだったから特に驚きもせず、どうしたのだろうと思って彼女の方を向いた。すると、彼女は熱っぽい目で僕を見つめていた。
「好きです」
そして、秋穂は僕にはっきりと告白をした。
「付き合って、ください」
彼女は消え入りそうな震える声で、しかし目だけはしっかり僕を見て告白をした。僕は、目の前で言われたことをしばらく理解できなかった。秋穂が見たこともない顔で、聞いたこともないことばを言っている。僕の妄想の中に出てきた秋穂と、目の前の秋穂が重なった。空の色も、カラスの声も、風の冷気も、すべて彼女に奪われた。