咀嚼
僕はどうも、人より食べるのが遅いらしい。そう気づいたのは秋穂と恋人になって約一か月後のことだった。
「テツってさ、食べるの遅いよね」
昼休み。弁当箱を片付けて、退屈そうに頬杖をついてあらぬ方向を見ていた秋穂は唐突に呟いた。「テツ」という彼女がつけたあだ名にまだ慣れていなかったため、反応するのに時間がかかった。
「そうなの?」
「そうなのって、見ればわかるでしょ」
そう言って秋穂は弁当箱を包んだ風呂敷をぷらぷらと揺らしてみせる。
「秋穂が早いんじゃないの」
「私は普通だよ。というか私、今日は君に合わせてゆっくりめで食べてたんだけど」
思い出したように不満そうな顔でこちらを睨む。何を根拠に自分が普通だと言い張るのかと言ってやりたかったが、社交性があり友達も多い彼女は、少なくとも僕よりは「普通」を知っている人だ。
「それはごめんね」
「いいけどさ、別に」
秋穂が再び頬杖をついてあらぬ方向を見始めたのを確認してから、僕は食事を再開した。
「八十七」
僕が一度ご飯を咀嚼し終え飲み込んだところで、彼女はまたしても唐突に口を開いた。しかもさきほどよりも数段不機嫌そうな声で。
発した数字の意味が分からず、ただ黙って彼女を見た。
「噛みすぎ。そりゃあ遅くなるよ」
秋穂が呆れたように言って、僕はその数字の意味を理解した。わざわざ横目で気づかれないように僕の噛む回数を数えていた秋穂も十分呆れたものだ。
「あのね。一口三十回が理想って言われてるんだよ。三十回だよ。テツ、ほぼ三倍じゃん、多すぎるよ」
「でも、ゆっくり噛むことはいいことじゃない」
彼女の責めるような口調に、つい思ってもない言い訳が口から出ていく。しまったと思うが声は口には戻らず、彼女の眉間にわずかにしわが寄った。
「お昼休みの貴重な時間を、ぜんぶ噛むのに当てるのがいいことなんだ」
さらに口調が強まる。何も言えなかった。そもそも、僕だって自分の噛む回数の多さに生まれて初めて気づき、辟易しているのだ。理想の三倍。呆れというよりもかすかな嫌悪が湧き上がり、それがどろりと喉の奥に流れ込んだ。
恋人が一か月で気づいた、というより一か月に差しかかってようやく苦言を呈した自分の異常。そのことに、僕は今まで何の疑問も持たず生きてきたというのか。確かに中学生の時はずっと一人でご飯を食べていたが、それにしたって周りに人がいるのだから普通は気づくだろう。そもそも家族とはいつも一緒に食べているではないか。
「クラス違うから学校だとあんまり一緒になれないし、せめてお昼休みくらい話したいよ」
秋穂はさらに掘り下げていく。僕も彼女の意見を否定したかったわけではないので、素直に「そうだね」と同意した。
「回数減らせないの?」
「やってみるよ」
ミートボールとごはんを口に運んで、咀嚼を始める。「食べる」以外の目的をもった食事には、嫌な種類の緊張感が生じた。さっきまでおいしく味わっていた食べ物なのに、なぜだか味はほとんど感じられない。
十回、二十回と噛む内にミートボールとごはんはぐちゃぐちゃに混ざり合い、やがて原型を失う。食べ物が徐々に潰れて流動的になっていく過程を口の中でまざまざと感じながら咀嚼するのは、食欲をすっかり失うほどの気持ち悪さを伴った。
「三十」
そうとも知らず、秋穂はのんきに噛む回数を数えている。十回、二十回は声に出さなかったのに、わざわざ三十回目で声に出したのは、飲み込めという意味なのだろう。
しかしいざ飲み込もうとすると、どうしてもうまくいかない。喉の手前に薄い膜があるみたいにして、どうしても飲み込む直前で止まってしまう。おそらくこのまま飲み込んだって詰まったりはしない。食べ物は十分なほど流動的になっているのだ。しかし、飲み込めない。いつもよりもやや粗い粒が自分の喉を透過するのを想像すると、喉がきゅっと狭まってしまう。
結局、咀嚼を再開。四十、五十と噛む回数を重ねる度、秋穂の顔が不機嫌になっていく。
「もう飲み込みなよ。できるでしょ」
彼女のことばには首を横に振って答え、結局六十二回目でようやく飲み込んだ。理想の二倍でもなお、喉の奥に何か引っかかった感触がする。実際には引っかかってなどいない。当たり前だ。柔らかい米と肉の塊なのだから。
「ごめん、やっぱり駄目だった」
「なんで。意味分からない」
秋穂のことばが胸をつつく。意味が分からないのは僕だって同じだ。しかも、僕はつい今しがたこの事実に気づいたのだ。きっと彼女よりも混乱は大きい。
「結局直す気ないじゃない、頑固。そんなだから友達もできないんだよ」
「直す気はあるし、頑固とかそういう問題じゃない。それに友達がどうとかは関係ないだろ」
気にしている事実を心の準備のなしに指摘され、つい頭ごなしに否定してしまう。
「テツのために言ってあげてるのに」
彼女は仏頂面をふいっとそらして呟き、それきり何も言わなくなった。さて何を言うべきかと考えているうちに、なんだか言うタイミングを逸してしまったような気がして何も言えなくなった。そして結局、ひたすら弁当の残りを口に入れる作業を進めた。
食べ終わって弁当を片付けると、まもなく昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。その間彼女は仏頂面のまま。小学校のころにいた、食べるのが遅い女の子と、彼女が給食を食べ終えるまでじっと彼女を見ていた先生を思い出した。気まずい沈黙。見張られる息苦しさ。伝わってくる苛立ち。よほど弁当を残してやろうかと思ったくらいだ。
チャイムが鳴ると彼女は無言で教室から出ていった。それでも、どこかで彼女に見られているようで息苦しかった。体にまとわりつくような暑さと耳障りな蝉の声が、その息苦しさに拍車をかけた。
その日はそれきり彼女と会話はしなかった。帰り道を歩きながら今日のことを振り返るうちに、僕の中でじわじわと危機感が募ってきた。もしかして、このまま僕の食べる遅さが改善されなければ、別れてしまうのか。たった一か月で。それだけは嫌だ。
帰宅後も昼の息苦しさは続き、夕食の時間になって目の前にご飯が置かれるとまたしても食欲が失せた。それでもできるだけいつも通りのペースで食べながら家族の様子を見ると、なるほどやはり誰もが僕よりも数段早い。父が一番早く、姉が二番目、そして母が僕を除けば一番遅い。それでも僕と母の差は少し見ていればすぐに分かるくらいだ。今まで気づかなかった自分を改めて不快に思う。
おそらく、気づくとか気づかないとか、そういう問題の話ではなかったのだ。そもそも僕は早い遅いなどという概念を食事に取り入れたことがない。野球において、打球音のオクターブなど誰も言及しないのと同じように、僕にとってそれは思考の外だった。
それを秋穂が強引に思考の内側へと投げ入れたということだ。そして内側に入ってしまった以上、それをむざむざ放置していては収まりがつかない。なぜ遅いのか、遅いと何が問題なのか。僕の疑問は、自然と家族の方に向かった。
「僕って食べるの遅いよね」
「あんた今頃気づいたの」
僕の方を見もせずに姉が言った。何度も話題にしたことがあるかのような反応の薄さだった。
「気づいてたんだ」
「そりゃあ毎日一緒にご飯食べてたら気づくでしょ」
「遅いと何か困ることってある?」
「そうだなあ。やっぱり仕事かな。他はどうだか知らないけど、私のところはゆっくり昼食とってたら昼休み終わっちゃうから」
昼休みという単語に心臓の鼓動が変になる。
「やっぱり、早く食べられるようになった方がいいかな」
「あんたくらい遅いと、確かに少し早くしないと困るかもね」
「いいんじゃないの別に。よく噛んでるってことでしょ」
僕と姉を交互に見ていた母が口を開いた。早く食べることに母が反対したのは、おそらく彼女の看護師という職業柄だろう。
「でも、九十回くらい噛んでるんだよ」
「そんなに? 三十回でいいのよ」
またしても理想と現実の差を確認させられ、少しうんざりしてくる。
「だからもう少し早く食べたいって思ってるんだよ」
「でもねえ……」
母はいまいち賛成できないようだ。仕事として今まで散々「ゆっくり食べて」と言ってきたものだから、早く食べるのを勧めるということの違和感が拭えないのかもしれない。
母の煮え切らない態度に、なぜか姉の方が業を煮やし始めた。
「お母さん、哲也が早く食べたいって言ってるんだからさ。アドバイスでも教えてあげたら?」
「知らないわよ、早く食べるためのアドバイスなんて。そんなアドバイスが必要な人なんて来たことないもの」
それは当然だ。遅く食べるべきなのは健康のためで看護師の領分だろうが、早く食べるべきなのは人間関係のためなのだから。
「それより、奈央がアドバイスしたらどう? あんたも高校生までは食べるの遅かったのに、今はだいぶ早いでしょ」
「私は、特に意識して直したわけじゃないよ。仕事に就いて、昼にゆっくりしていられなくなったから自然と早く食べるようになっただけ」
「じゃあ、そういうことでいいんじゃない。必要になったら自然と早くなるんだから、今焦って早く食べられるようにならなくたっていいのよ」
姉はなんだかうまくまるめこまれてしまったというような釈然としない表情をしたが、それ以上は何も言わなかった。僕もきっと同じような顔をしていることだろう。
しかし、実際には必要なのは今なのだ。そんな自然に任せるようなやり方ではいけない。小手先のテクニックでもなんでもいいから、とにかく時間を短縮しなければ、やっと手にできた大切な人が離れてしまいかねないのだ。
「何かあったのか」
今まで黙って聞いていた父が、唐突に尋ねた。父の質問の真意が、本当に何かあったかどうかの向こう側にあるような気がして、僕はたじろいだ。「いや、なんとなく」と返しはしたが、戸惑いがうまく隠せたかどうかは怪しい。
僕は家族に、恋人ができたことすら伝えていない。だから今さらそういう事情を話すのもはばかられる。しかし、これ以上粘ってもまともな回答は得られそうになかったので、僕は次の疑問を投げかけた。
「なんでみんなは三十回で飲み込めるのに、僕は九十回噛まないと飲み込めないんだろうね?」
「喉が狭いんじゃないの。声も小さいし」
母はこれに関してはあっさりと即答した。
「小学校低学年のときの自分覚えてる? あのときの哲也、食べるの早かったんだよ。もっとよく噛んで食べなさいって何度も注意したくらいだもの」
「そうなの?」
母が口にした僕の意外な過去に少し驚いた。しかし思い返してみればその通りだ。当時の僕は、昼休みに給食を食べるのが遅い女の子を傍目で見ていた。そのときの僕は、確かに給食を食べ終えていたのだ。
「それに、あのときの哲也は今よりもずっと明るかったし声も大きかった。年相応かもしれないけど」
「ああ、そういえばそうだったよねえ。しょっちゅう友達と遊んでたし。今は家にいてばっかりだけど。どうしてこうなったんだろうね」
姉が意地悪気に笑う。いつもなら調子を合わせて笑い返すところだが、そんな気にはなれなかった。人の悩みを、なぜ笑う。
恋人のことに言及しづらい以上、僕の悩みがどれほどのものかはいまいち伝わらない。かといって、話を微妙に変えて伝えるわけにもいかない。僕の嘘はすぐにばれてしまうから。
僕はもともと仏頂面だから、不機嫌になったって誰も気づきはしない。自分で不機嫌だと言うのも癪だ。にっちもさっちもいかない。いつもにこにこしている人たちが羨ましい。いざ傷ついたとき、嫌なことがあったとき、何も言わなくても周りの人が気づいてくれるから。
夕飯は唐揚げに生野菜のサラダと色とりどりだったが、どれもこれも薬のような味しかしなかった。
どうしてこうなったんだろうね。
お風呂から上がってすぐにベッドに倒れこむと、再び姉のことばが頭の中に浮かんだ。電気すらついていない真っ暗闇で枕に顔をうずめると、自然といろいろな記憶が目の前に現れた。
昔は明るかった、ということくらいはさすがに覚えている。確かに僕は小学校の三年生か四年生のときまでは明るかった。友達もそこそこいた。少なくとも今よりは。
それが、徐々に暗くなっていった。何か劇的な事件があったわけでもなく、徐々に。そのまま再び明るくなることはなく、中学生になる頃には、もう友達の作り方すら分からなくなっていた。部活にも入らなかったため、ほとんどの時間を一人で過ごすようになった。
そうして、高校生になってやっと弁当を一緒に食べる人ができた。それが秋穂だ。きっかけは大したことではない。たまたま僕が、彼女が好きな漫画のキーホルダーをリュックにつけていて、それで意気投合して仲良くなった。
彼女が僕のどこを好きになってくれたのか、未だに僕には分からない。僕には何の取り柄もないのに。共通の話題だって、その漫画くらいしかないのに。
自分の取り柄が何もないことを再確認すると、秋穂と別れたくないという思いが一層強くなった。これを逃せば、きっと僕はもう一生人に愛されることはない。確信めいた予感が僕をきつく締め付ける。愛されたい、愛されたい。僕を見てほしい、認めてほしい、抱きしめてほしい。嫌われたくない。僕は彼女と出会って、ようやく愛を知った。一度知ってしまえば、それは中毒のように人を狂わせてしまう。
いや、と思い直す。
これがはたして愛か。僕は愛を知ったのか。求めるだけで与える気のない、こんな身勝手を愛としていいのか。いいわけがない。これはただの渇きだ。僕はきっと彼女が好きなんじゃない。「自分のことを好きと言ってくれる人」が好きなんだ。
そう考えても、やはり彼女が恋しかった。何度でも抱き合い、愛をささやき合い、そして彼女の髪の匂いを感じたかった。
彼女との関係を繋ぎ止めるためなら、どんな苦痛だって耐えてやろう。声を出さなくなって喉が狭くなってしまったというのなら、積極的に声を出していけばいい。それでも駄目だというのなら、飲み込むのが苦痛であることくらいなんだというのだろう。そんなもの、この感情を失うことよりよっぽどましだ。
危機感からようやく芽生えた決意を胸にしまい込む。気づくと目が暗闇に慣れていて、真っ暗な部屋の輪郭がぼんやりと見える。まだ眠る気にはなれなかったけれど、僕は無理やり目を閉じて明日を待った。