くじら警報発令中
うららかな晴れの日の午後。駅から図書館に向かって歩いていた俺は、足元をよぎった大きな影にふと空を見上げた。真っ青な空の中、ちぢれ雲の下を一頭のクジラが悠々と泳いでいる。体長は二十メートルほど、濃いグレーの尾ひれをゆっくりと動かし、白い腹部は青空に眩しい。
県内放送を告げる音が聞こえてきて、話し中のスマホを耳から離す。並木通りの木にもたれかかっていた少女が空へ目を向けたまま「もうすぐ、来ますね」と呟く。
『発表します、ただいま県内にクジラ警報が発令されました。付近の上空を飛行中のヘリコプターは直ちに旋回、または着陸してください。また、住民は突然の潮吹きにご注意ください。繰り返します、ただいま県内に――』
街中に女性の機械音声が響く。注意報自体は昨日から出ていたが、この付近にクジラが停滞すると再び聞いて思うところがあるのか、道行く人から様々な声が漏れる。「降るかわからない雨のせいで、しばらく傘が手放せないな」というサラリーマンのボヤキから、「洗濯物が干せないじゃない」と主婦の憤慨、「クジラくるの? ねえ、クジラくるのっ?」無邪気な子ども。
スマホを耳に戻せば、友人のテンション高い声が聞こえてくる。
『ねえ大地、今の放送聞いた? クジラ警報って、三週間ぶりだね~。上に観察の対象があるなら、レポートもはかどるんじゃない?』
「だといいがな」
大学の夏休みの課題は、今のところ俺の厄介の種になっている。
『ところでいつになったらこっちへ着くの? 僕もう待ちくたびれちゃってるんだけど』
「もうすぐつくところだ。つーかお前、図書館の中でスマホ使うなよ」
『えー、そんな細かいこと……まあいいや、じゃね』
あっさりと通話が途切れ、俺はスマホをポケットに直した。肩から掛けたカメラを動かして空を見上げてみれば、いつの間にか空のクジラは数十頭になっていた。これは序の口、まだまだ増えるぞ。
「ああいう風に空を飛べたら、きっと気持ちいいんでしょうね」
並木にもたれかかった少女が相変わらず空へ目をやったままぽつりと洩らす。空を飛べたら……か。クジラもそんな気楽な気持ちで空へ来たのかもな。
課題: クジラと○○
クジラが空を泳ぎ始めたのは平成に入ってからだった。もう二十年以上も前の事だが、彼らが空へ進出した理由については、未だに様々な憶測が飛び交っている。ネットで調べればすぐにわかることなので、ここでは省く。
さて、クジラと人間の関係についてだ。クジラの体を覆うゴム皮膚は耐久性や伸縮性から様々なものに利用されているし、体内で生み出される浮遊ガスは哺乳類の突然変異としても特異で、世界の生物学会を震撼させた。
空を飛ぶクジラについての謎は多い。しかし、その辺の理論は別の人に任せておき、ここではクジラの利用方法について考察しよう。
体内の浮遊ガスで空に浮かび、風に乗って移動し、時には気に入った場所に停滞する人迷惑なクジラ。果たして彼らを有効活用にする方法は、あるのだろうか?
「うん、なんていうかね……虫の形をした小型の機械でクジラの脳を支配して飛行船として活用するのはどうかって、もうこれレポートじゃなくて創作ファンタジーだよ」
図書館で俺のレポートを読んだ渚は、開口一番駄目だししてきた。
「やっぱそうか。最後はネタ切れしてきて無理矢理ひねり出したからな」
「無理矢理にしても酷すぎるよ。大学の課題舐めすぎだって」
俺たちは図書館の窓際の席に座って、机に勉強道具を広げている。今の時期、大学の図書館は混んでいるので、こうして県立図書館まで足を延ばしたわけだ。
俺の向かいに座るエイムズ渚が端正な顔に苦笑を浮かべた。同じ大学のクジラ科に所属する渚は、アメリカ人の父親譲りの金の髪と青い瞳をもっている。相変わらずハンサムな友人は周囲の女子の視線をちらちら向けられているが、自覚のない本人は全く気付いていないようだ。俺も気にしないことにして、渚からレポートを返してもらう。
「テーマ自体を変えるべきかもな。渚は何にしたんだ?」
「僕? 僕はクジラと空の乗り物を比べてみたんだ」
と、鞄から数枚のレポートを取り出す。今回の課題はクジラと○○。○○に何か単語を入れて、それとクジラについてまとめろというもの。俺はクジラと便利製品、という題で、空に大量発生しているクジラを有効活用する方法について考えて書いた。
渚はクジラと乗り物との比較らしい。渚が差し出すレポートを受け取って目を通す。
って、オイオイ……序論、本論、結論でわかりやすくまとめられた文章に、参考になる写真。クジラと乗り物との時速の比較は、資料を提示して述べられている。俺のファンタジー妄想なんて入る隙もない。というかレベルが違った。渚のがレポートだとすると、俺のはただの資源ごみだ。
「これがレポートというものかーーーっ!」
クジラゴムでロケットパンチを作れば、伸縮自在のゴム人間に、とか考えている場合じゃなかった。俺は根本的に努力の方向を間違っていたようだ。
「はははっ、大地も元気だしなよ。夏休みはまだまだあるし、余裕だって」
机につっぷした俺の背中を、渚がなく冷めるようにポンポン叩く。俺は不貞腐れたまま窓の外へ視線をやった。青を背景に何頭ものクジラが見える。相変わらず呑気そうだ。
「だいたい、あいつらってなんの役に立つんだ? 停滞したら飛行の邪魔だし、潮吹きのせいで洗濯は干せないし、かといって追っ払おうと撃ち落としたら破裂するし」
クジラが空を飛びだした初期の頃、研究のために射撃でクジラを殺して形態を調べようとしたチームがいた。しかし撃たれたクジラは針でつつかれた風船のように破裂して、あたりには風船の残骸みたいなクジラのゴム皮膚がばらまかれた。若いクジラのゴム皮膚は厚く、意外と重い。しかも製品に使われるゴム皮膚と違い、粘々としていて役に立たない正真正銘のごみだ。
つまり、クジラを撃ち落とした所で研究なんて出来そうにないし、労力の無駄。ゴム皮膚を回収するならば、寿命を迎え帰巣本能で海に戻るクジラを待ちわびるしかない。ずいぶん悠長な話だが、それしか方法がないので仕方ない。
もどかしさを抱えて忙しく日々を過ごす人間とは対照的に、クジラはのんびりと空を泳ぐ。俺はそっとため息をついた。
「はあ、理解しがたいほど気楽な生き物だな」
せっかくクジラがたんまりいるんだし、じっくり観察して見れば? という友人の言葉に頷いて、図書館を出てきたのが数分前。
図書館の前の広場で、カメラの双眼機能を使って一頭のクジラを観察する。
「和名はナガスクジラ、クジラ目ヒゲクジラ亜目に属する。体長は20‐26メートル。髭とかに色々特徴があるが、ここからじゃよくわからない。海にいた時代は熱帯海域には生息しなかった模様だが、空に出てからは関係なくこうして日本で日光浴を楽しんでいる……ってところか」
観察したところでわかる事はそれくらい。基本があっても応用できなければ意味はなさそうだ。
「詳しいですね」
ん? ふと声をかけられて視線をやると、俺と同じ年くらいの少女が立っていた。長い黒髪に、好奇心を宿した大きな瞳。小さな顔は可愛らしく、両肩は華奢だ。シンプルで可愛らしい服を着た少女は、俺に向かってにっこりと微笑みかける。
「さすがクジラ学科の生徒といったところですね、斑鳩大地君」
は? フルネームで名前を呼ばれたわけだが、彼女と知り合いではない。不思議に思いながら記憶を辿ってみるが、思い出したのは数十分前、彼女がクジラの空を見上げて『ああいう風に空を飛べたら、きっと気持ちいいんでしょうね』と呟いていたという事だけ。当然ながら、俺の名前を知っている理由にはならない。
「どこかで会ったか?」
「この前、合同授業しましたでしょう。わたし、長野短大の生徒です」
確かに二か月ほど前に、クジラ学科の合同授業が二時間あった。学科には二十人以上もいたのに、よく俺の名前を憶えていたな。俺は記憶にないぞ。
「悪い、覚えてない。なんていう名前だっけ?」
「空野くじらです」
「それはまた珍しい名前だな」
「斑鳩君も珍しいと思いますよ」
いかるがと読めない人は多そうだが――しかし空野くじらよりはマシだろう。読みは『そらの』じゃなくて『からの』とはいえ、あえてこの時世に、空野の字面にくじらと続けた親の顔が見てみたい。
俺がくだらないことを考えていると、空野さんが俺の袖をくいくいと引っ張った。
「あの……少しお願いがあるんですが、その双眼鏡みたいなカメラで、あのクジラを覗いてみてくれませんか?」
細い指で、一頭のクジラをさす。
「わかった。あれだな」
いたって普通のクジラに見えるが……。
言われるままに双眼機能でクジラの体を観察した俺は、すぐに異変に気づいた。
「怪我、してるみたいだな」
原因はわからないが、背びれの下方に30cmくらいの切り傷があった。空野さんはとうに異変に気づいていたようだ。心配そうな瞳で俺を上目遣いに見つめ、
「なんとか、助けられませんか?」
「…………」
どんな小さな傷でも、怪我をしたクジラは徐々に浮遊力を失っていき、ついには群れからはぐれてしまう。そして、いつかは地上へ墜落する。日本でも年に数件ほどの事例があった。でもそれは、仕方ないことだろう。
俺は論文を発表する理系学者のように淡々と告げる。
「アマゾンの奥地など、人のいない場所にもいろんな動物がいて、当然そこには不意の事故で怪我をする動物もいる。彼らはその怪我が原因で命を落とすかもしれないが、それは自然なことだ。人間が傷付けたのならともかく、そうじゃないなら、わざわざ助ける必要なんてない。冷たいかもしれないが、これが自然の生業だ」
こう言えば諦めてくれるだろう。
しかし俺の予想に反して、空野さんは瞳をそらさなかった。明確な意思を宿した黒い瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。彼女の大きな瞳の中に呆けた俺の顔が見えて、俺の方が反射的に目を逸らしそうになるが、それをも止める妙な引力があった。
空野さんは、ゆっくりと、だけど必死に言葉を放つ。
「それでも、今、ここでクジラ科のわたし達が、怪我しているクジラを見つけたんです。ちょっとした奇跡があっても、いいと思いませんか? 多くの動物が毎日、怪我で命を落としているのは知っています。だけど、見て見ないふりなんてできません。勝手かもしれないけど、助けたいです」
俺はただの大学生で、立派な人間なんかじゃなくて、だから、彼女の真摯な気持ちを否定することはできない。それに、俺だってクジラ科の生徒だ。
「……ならば、080以下略に連絡しよう」
「何処の番号ですか? 救急車みたいな緊急時の連絡先ですか?」
ある意味そうかもな。
「俺の友人の携帯番号だ」
電話が通じた後、俺はその友人が目の前の図書館にいることを思い出した。
同じクジラ科の渚の事を空野さんに紹介しようとしたが、その手間は省けた。
「空野さん、久しぶり」
「お久しぶりです、渚さん。噂の斑鳩君に会えましたよ」
「いや~、よかったね。大地って堅物だけど良い奴だろ?」
二人は知り合いのようだ。
「つーか、お前が空野さんに俺の名前を教えたのか」
「合同授業の時にね。それより問題は怪我クジラについてだよね?」
ああそうだ。なんとかしてクジラを救わなければならない。俺たちは窓際の机に陣取って、会議を始める。
「何かいい方法はありませんか? クジラに近づけさえすれば、わたしが治療できるんですけど」
「どうやってだ?」
「えっと……それは……」
「空野さんはクジラ科で医療の勉強をしてるんだよ」
「はい。そうなんです」
なるほど。たんに考えもなく助けたいと言ったわけではないんだな。
「しかし簡単にはいかないぞ。クジラは非常に臆病な生き物で、ヘリコプターが近づいただけで逃げる。音の出る乗り物は厳禁だ。かといって上空からパラシュート降下は、怪我したクジラに着陸できるとは限らない。どうするんだ?」
二人の顔を見回すと、渚が肩をすくめた。
「大地って、なんか変な方向に頭が回るよね。パラシュートってどんな発想だよ。帰りはどうするの?」
渚は議論中に意味のない文句はつけない。つまり、渚はもう何らかの方法を思いついて、もったいぶっているという事だ。まったく。
「いいから、早く結論を言ってくれ」
「オーケー。気球を使うのはどうかな?」
気球? 確かにあれなら静かに飛行できるし、クジラ達も逃げないだろうが……。
「だれが運転するんだ?」
「僕」
俺と空野さんが目を瞬かせた。
「渚さん、気球を動かせるんですか?」
「うん。ハワイで親父に習ったんだ~。まあともかく、乗り物については僕が手配するから、二人は医療キットを用意してよ」
「それはわたしが持っています。クジラゴムシートと糊ですね」
クジラの皮膚はゴムでできている。縫うよりも特殊な糊でくっつける方が傷口を的確に防げるのだ。もし傷が深い場合も、クジラゴムシートと言われる加工されたゴム皮膚を利用して治療できる。
それにしても、こうもトントン拍子でいくとは思わなかった。
「案外うまくいきそうだな」
「油断大敵だよ。言ってるだけじゃ簡単に見えるかもしれないけど、実際やるとなると危険だし、思うようにいかない可能性もある。……それでも助けるの?」
真剣な表情をした渚が、俺と空野さんに問いかける。空野さんは当然はっきり頷き、俺もまあ一応といった感じで首を縦に振った。乗りかかった船だしな。
話にひと段落ついたので、腰を上げる。
「どこに行くの大地?」
「一応保険に、バイト先へ連絡しておく」
バイトは、俺が下宿する部屋の隣に住んでいる先輩から紹介されたものだ。趣味で無線通信を研究しているおっさんたちの手伝いで、まあまあ小遣い稼ぎになる。俺は先輩に連絡して、小型の無線通信機を二つ手配してもらう。気球に残る側とクジラを治療する側とで、連絡を取り合えた方がいいだろうから。
通話を終え図書館に戻った俺は、聞こえてきた話に足を止めた。
「で、どうだった実際の大地は。思った通りの人だった?」
渚が面白そうに笑いながら、空野さんに問いかける。空野さんはほんの少し嬉しそうに口元をゆるめた。
「えっと、その……えへへ」
「なるほどねー。大地も隅に置けないなあ」
なるほどって……我が友人は『えっと、その、えへへ』から何を読み取ったのか。俺が近づいてきたのに気づかないらしく、二人は話を続ける。
「斑鳩君は、クジラ写真家になるんですか?」
「んーん、どうだろう? 彼にその気はないみたいだけどね」
「え? でも、高価そうなカメラを持っていましたよ」
反射的に俺の手が、首から下げたままのカメラを押さえる。
「あれは大地の父親の形見さ。僕は思うんだけど、大地はやっぱり写真が好きなんだ。だけど父親があんな死に方したからさ、言い出せないんじゃないの?」
「……斑鳩君のお父さん、亡くなっていたんですね」
「うん。クジラ写真家だったんだけど、パラグライダーの事故で……ってヤバッ、人のプライバシー言い過ぎたよ忘れて。僕はつい、よけいな事までぺらぺらといっちゃうんだ。直そうとは思ってるんだけどね」
渚が複雑そうな顔で頭をかく。こいつの今までの経験上、どうせ二日もたてば忘れているな。さて、会話が途切れたようなので俺は二人に近づいた。
「バイト先に連絡着いたぞ。無線を貸してくれるってさ」
「無線ですか?」
「一応、上と下で連絡できる方がいいからね。それじゃあ、準備完了ってわけだ」
「ああ」
視線を交わして、俺たちは無言で頷きあう。
クジラ治療作戦、開始だ!
次の日、俺が待ち合わせ場所の小高い丘についた時には、もう渚も空野さんも来ていた。気球連盟の人たちが、気球を膨らませて飛ぶ準備をしてくれている。
「事情を話したのか?」
「うーん、僕たちクジラ学科でクジラを近くで見たいって言ったら、快く了解してくださったよ」
つまり嘘をついたわけか。
「わたし、頑張りますね」
動きやすそうな体操着姿の空野さんが、治療道具が入ったポーチを腰につけ、気合を入れるように軽く拳をつくった。
準備が整うと俺たちは気球へ乗り込んだ。浮き上がった気球はゆっくりと上昇し、地上がどんどん離れていく。幸いな事に今は夏だから、寒さは感じない。むしろ涼しくて心地よいくらいだ。渚がバーナーを弄り、高度を調節する。間もなく下方に大量のクジラ達が見えてきた。
空野さんが、その中の一頭を指さす。
「あれです! あのクジラに間違いありません!」
渚は慣れた仕草でその方向へ向かう。俺たちは縄梯子を準備しにかかった。ゴンドラから梯子をたらし、上の部分をしっかり固定する。目的のクジラの場所に到着すると、俺と空野さんは互いを一瞥し、言葉もなく離れた。空野さんは緊張した足取りで縄梯子を下っていく。頼りなげな足場が揺れるたびに、俺は息をのんだ。ややあって、空野さんはしっかりと目的のクジラの背に着地した。
渚はその近くに留まるために忙しく高度を調整している。空野さんの姿はすぐに霞んで見えなくなった。
彼女から連絡が来たのは半時間ほどたってからだった。
『空野です。聞こえますか?』
「こちら斑鳩。どうだ状況は?」
『順調です。ちゃんと傷を防げまし――あっ!』マイク越しに、はっと息をのむ気配が伝わる。『もう一か所、尾ひれの上あたりにも傷があります』
下から観察しただけでは、わからない部分だ。だから見落としたのだろう。
「時間は大丈夫そうか?」
「うん。まだクジラ警報が解除される気配はないよ」
渚が持ち込んだラジオを確認して、頷く。
クジラはここへ留まってくれている。
しかし事態はそう甘くなかった。
『ど、どうしましょう。治療に使うシートが足りないかもしれません』
空野さんの声が切羽詰まって揺らぐ。
反射的に下方を覗き込んだ俺の胸元で、ゴンドラにあたったカメラが固い音をたてた。
『ごめんなさい。わたしのミスです。他にも怪我があるかもしれないなんて、想定していませんでした……』
「あ、いや、俺も思いつかなかったし、あんまり気にすんな」
気球は風に流されて、空野さんからずいぶんと離れてしまっている。
「なあ渚、ちょっと、さっきの場所まで戻ってくれないか? 空野さんのとこ」
「え? どうするつもりなの?」
「いいから頼む」
訝しげに首をひねる渚を急かして、目的の場所までこさせる。下を覗き込んでみれば、空野さんの姿がはっきりと見えた。
「これ頼むわ」
俺は、小型マイクを渚に押し付け、反論を待たずに梯子を下った。
乾いた夏の風が耳元を抜けていく。足場があるとはいえ、命綱もなしに高い場所にいるのだ。想像以上にぞくりとして、冷たい汗が背中をつたう。
明確に考えたくない体感数分が過ぎ、ぎごちなくもクジラに降り立った俺は、真っ直ぐに空野さんの背中を目指した。
「空野さん、どうだ?」
「斑鳩君?」俺が来たことに気づいた空野さんが目を見張って、しかしすぐに冷静に続ける。「ええっと、少し難しいかもしれません」
「足りないならこれを使ってくれ」
「え? で、でも……」
差し出したのはカメラだ。カメラのフィルムにはクジラゴムの保護シートが使われている。これがあれば、治療できると思ったのだ。
少し渋っていた空野さんだが、俺の目を見て頷くと、きちんと受け取ってくれた。
「お借りします」
彼女は代わりに無線を俺に差し出した。それから、カメラのフィルムを取り出して、手慣れた仕草で治療していく。俺にはよくわからないが、丁寧に糊付けして、フィルムを張って、上からさらにコーティングしていく。
流れるような彼女の手が止まった時、にわかに周囲がうるさくなった。子どもが人をおちょくっているような高い声の不協和音。クジラの鳴き声だ。
「チッ、もう移動を始めるのか!」
今ごろ偵察のクジラが、次の場所が安全かどうか確かめているところだろう。安全が確認され次第、大移動が始まる。
せわしない空気を感じ取ったのか、足場のナガスクジラがぶるりと震えた。
「きゃっ」
「大丈夫か?」
バランスを崩した空野さんを受け止め、なんとかその場に膝をついた。その時、空野さんの手からカメラが離れて転がる。尾びれからはるか下方へ落ちるはずだったカメラは、幸か不幸かクジラの隆起部に引っ掛かった。
「取ってきます!」
俺の腕の中から空野さんが飛び出す。待て、危険だ――駆ける背中は止める声にも反応せず、俺は内心で舌打ちしながら無線に向かって叫ぶ。
「渚、俺の言うとおりに移動してくれ!」
『え? ちょっとそんなむ――』
「緊急事態だ! 空野と俺の運命はおまえの腕にかかっている!」
とにかく空野を追って駆け出す。このクジラがナガスクジラでよかった。他のクジラだったらこうも走りやすくはない。やっと追いついて空野の腕を引っ掴む。
「何やってるんだ!」
クジラは移動しようとしている。足元が大きく揺れる。その時、気球がすぐそばに近づいた。来たか! 渚、恩に着る! 俺は左手で空野を強く抱きしめ、もう片方は命綱たる縄梯子に伸ばす。縄に手を食いこませて、夢中で足をのせると当時に、俺たちの重さを感じたのか気球が上昇する。
間一髪! 上空へ遠ざかる俺は、足元を何頭ものクジラが東へ移動しているのを見下ろした。あのまま留まっていれば、急速度で移動するクジラから振り落とされて……結末は言うまでもあるまい。
縄梯子に手と足を引っ掛けてしがみついている今の状態も満足とは言えないが、地上へまっさかさまよりはずっとましだ。
『二人とも大丈夫!?』
ほとんど叫ぶような渚の声がポケットに押し込んだ無線から聞こえてくる。
「ああ……」
「な、なんとか……あっカメラも無事ですよっ、斑鳩君!」
俺の耳元で空野が弾んだ声をあげる。って、カメラ一個で命を落としかけたんだぞ。もっといいようがあるだろう。何か文句でも言ってやろうと思ったが、渚に先を越された。
『もう心配したんだからね! 大地は無茶苦茶な要求するし、傾かないように操縦するの難しいし、僕は想定外の出来事は嫌いなんだよ! 地上に戻ったら覚えておいてね! 文句言ってやるから!』
渚が一度文句を言いはじめると、半日が潰れるんだ。それでも命あっての物種だし、俺たちが無事なのは主に渚のおかげなので、謹んで受けよう。もちろん空野も運命を共にしてもらう。
「渚、クジラはどうなったんだ?」
『大丈夫だよ。きちんと手当てできたみたいで、普通にみんなと移動してる』
それを聞いて一安心。これで治療を失敗していたら骨折り損のくたびれもうけだったな。俺はクジラの消えて言った方向を見やる。空にはクジラの姿はなく、ずっと遠くまで薄くにじむような水色が広がっていた。
そういえば、ここは空中なんだよな。
「なあ、今空を飛んでるようなもんだが、どんな気持ちだ?」
ふと、空野の言葉を思い出して問いかける。
長い沈黙の後、消え入りそうな声が答える。
「は、恥ずかしいです……」
「は?」
そこで俺はまだ空野と抱き合ったままだったことを思い出した。は、恥ずかしいって……なんでそんなこと答えるんだ。意識すると急に、空野の体の柔らかさだの、薄い体操着の下の肌などを感じとって、頬が熱くなった。
脳内でくじら警報が鳴り響く。