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第52飯 「だってーかわいいんだもん」


神崎家の前に立つのは大体一カ月ぶりだった。


「下僕、ここか」

「ここだ」


「前に唐揚げを食った家じゃな」

「覚え方がそれか」


インターホンを押す。家の中でどたどたと足音がした。なぜか既視感がある。ドアが開く前から嫌な予感がした。


勢いよく玄関ドアが開けられた。


「蓮兄さん!」

「うわ」


黒い髪が顔に当たる。正面から抱きつかれていた。


「お、おい。湊」

「蓮兄さん、蓮兄さんだ」


「久しぶりだな」

「うえーん、やっと蓮兄さんに会えたよぉ」


湊が泣き出した。背は俺の肩より少し下くらい。最後に見たときよりずいぶん背が伸びていた。背の半ばまである艶やかなストレートの黒髪。黒い瞳、静江さんに似て目鼻立ちが整っている。


「泣くな」

「泣くよ!」


玄関先で妹分に泣かれている。近所の人が通ったら誤解されそうな絵だった。


「ちょっと湊、離れなさい。蓮くんが困っているでしょう」


奥から静江さんが出てきて、湊の襟首をつまんで引き剥がした。相変わらず娘には厳しいな。静江さんは。


「お母さん邪魔しないで」

「邪魔をしているのはあなたよ」


湊が渋々離れた。目が赤い。それでもすぐに顔を上げて、俺の体のあちこちをじろじろ見始めた。


「兄さん、怪我してない?」

「してない」


「本当に? あの島のとき、すごい火傷してたって」

「治ったよ」


「見せて」

「治ったって言ってるだろ」


腕をまくられそうになったので、さすがに止めた。こんな往来で脱ぎたくはない。


「あ、静江さん。これお土産です」


静江さんに袋を渡した。先日の旅行のお土産を渡しておく。結局ご当地の物を一通りそろえた。


「あら、沖那和そば。それに海ぶどうまで。……蓮くん、沖那和に行ったの?」

「一昨日、行ってきました」


「あれ? でもお饅頭も入ってる」

「あ、それは大佐華です。沖那和の前日にいってきたので」

「まあ、大佐華も。旅行、いいわねえ」


静江さんが袋を覗き込んで嬉しそうにしている。この人は良い食材や食べ物を見ると、それだけで機嫌が良くなる。喜んでくれるとこちらも嬉しい。


「あの島の後なのに、ずいぶん元気ねえ」

「まあ、はい」


先生が奥から出てきた。


「やあ蓮くん。よく来てくれた」

「お邪魔します」


言ってから気づいた。静江さんがこっちを見ている。にこにこしている。——何も言わずに待っている。無言の圧力がすごい。


「……ただいま」

「はい、おかえりなさい」


満足そうに頷いて、静江さんは台所へ戻っていった。前回もこれをやられた。覚えていたのに、口が勝手に「お邪魔します」と言う。


「あ」


廊下を歩いていると湊の視線が下を向いた。


俺の横でヴィヴィが所在なさげに立っていた。さっきから一言も喋っていないな。湊という知らない人間がいて、珍しく大人しくしているのか。


「……かわいい」

「おい」


「かわいーーーーー!」


湊がヴィヴィにとびついた。


「なんじゃ!?」

「うわ、ちっちゃい。うわ、髪さらさら。うわ、目が赤い。あれ、お耳がとがってる?」


「近い! 近いぞ人間!」

「お洋服もかわいい。フリルだ。ミュールだ。リボンだ! 全部完璧じゃん」


ヴィヴィが後ずさった。湊が同じ距離だけ前に出た。にじり、にじりとお互いが動けなくなっている。


「蓮兄さん」

「なんだ」


「この子ちょうだい」

「やらん」


「えー」

「えーじゃない」


ヴィヴィが俺の後ろに隠れた。


「下僕! この女は何なのじゃ!」

「湊だ。この家の娘」


「わしを物みたいに言うたぞ!」

「そうだな」

「わしは物ではないぞ!」


湊が俺の後ろを覗き込んだ。


「だってーかわいいんだもん」

「理由になっておらん!」


「ねえ、頭撫でていい?」

「よくない!」


「ちょっとだけ」

「だめじゃ!」


ヴィヴィが俺の服を掴んで引っ張っている。助けを求められているのは分かったが、俺にはどうにもできなかった。


湊は昔からこうだ。かわいいものを見つけると理性が飛ぶ。中学のときも部屋がぬいぐるみで埋まっていた。


「変わってないな」


居間に通されるなり湊が言った。


「兄さん、テレビ見たよ」

「なにを見たんだ?」

「兄さんが出てるやつ、全部」


「俺はテレビには出てないぞ」

「大土島の映像が出てたよ。ニュースでも、特番でも、配信でも」


湊がソファに座っているヴィヴィの横に陣取っている。すごいな、湊。ヴィヴィがたじたじだ。


「島の人を全員逃がしたやつ。青いゲート?ってやつが本土の映像に出ていて、そこから人が次々出てきてた。あれ見て私、テレビの前で叫んじゃった」

「叫ぶなよ」

「そうそう、湊がギャーって叫んでたのよ」


台所から静江さんが話した。


「そのあとから蓮くんの映像が結構テレビで流れるようになったのよ」

「ほんとびっくりしたんだよ。蓮兄さんがゲート作って活躍したって聞いて」


先生も静江さんを手伝っている。


「この子はな、蓮くんが映るたびに私を呼ぶんだ。『お父さん、蓮兄さん出てる!』と」

「お父さん言わないで。恥ずかしい」


「事実だろう」

「事実だけど言わないで」


湊が顔を赤くした。この辺は昔と変わっていない。


「ずっと会いたかったんだからね」


そう言われると、返す言葉がなかった。


俺がこの家と連絡を絶っていた二年間。湊はずっとこっちを気にしていたらしい。就活に失敗して顔を見せられなくて、それで勝手に離れたのは俺のほうだ。


「悪かったよ」

「別に怒ってないもん」


「怒ってるだろ」

「……ちょっとだけ」


ちょっとではない顔をしていた。


「湊は今、何の仕事をしてるんだ」


話を逸らす。


「弁護士」


逸らせなかった。


「……弁護士」

「うん。来年から。今は修習中。まだ事務所で実務覚えてる途中だけどね」


「司法試験は」

「去年受かった。予備試験からだったから、在学中に」


……なんとまぁ、在学中にか。


「専門はダンジョン関係。まだ判例が少なくて面白いんだよ。探索者の労災とか、ドロップ品の所有権とか、配信の権利関係とか」


湊が指を折りながら並べている。楽しそうだった。


俺は「そうか」と言った。——やっぱり優秀だな、こいつは。


同じ大学を出て、二つ下で、俺が就活に落ちて逃げ出した街で、こいつは司法試験に受かっていた。少し胸のあたりがちくりとした。


「はーい、できたわよー」


台所から静江さんの声がした。


その瞬間、ヴィヴィが俺の後ろから飛び出した。


「飯じゃ!」

「あっ、待って。まだ撫でてない」

「知るか!」


ヴィヴィが一直線にダイニングへ走っていく。さらに湊がヴィヴィを追いかけていった。


俺と先生が残される。先生が満足そうに笑った。


「……賑やかになったな」

「なりましたね」



 ◇



ダイニングのテーブルの真ん中に、鉄鍋が据えられていた。その横に皿が積んである。


「……静江さん、これ」

「すき焼きにしたのよ。蓮くん、昔から好きだったでしょう」


薄く切られた肉が皿の上で花みたいに盛られている。それが三皿ある。


「多くないですか」

「足りないかと思って」


その隣に、春菊、白菜、長ねぎ、焼き豆腐、しらたき、椎茸。どれも大皿に山盛りだった。ヴィヴィが椅子によじ登って、テーブルの上を凝視している。


「下僕。これは何じゃ」

「すき焼きだ」


「すきやきとはなんじゃ」

「鍋で肉を煮て、卵で食う」


ヴィヴィが首をかしげた。


「焼くのではなく煮るのか。焼きと言うたぞ」

「はは、たしかしな。俺も知らん」



静江さんが火をつけた。鉄鍋が温まって、そこへ牛脂が落とされる。じゅ、と音がして、白い塊が溶けながら滑った。


そこへ肉が一枚。じゅわああ。一気に音が広がった。


赤かった肉の色が、端から茶色く変わっていく。脂が溶けて鍋の底で跳ねる。


そして静江さんが上から割り下を回しかけた。——甘い匂いが、爆発した。


醤油と砂糖が熱に当たって一瞬で立ち上がる。台所の匂いではない。もっと乱暴で直接的な匂いだ。


「ぬおおおお!」


ヴィヴィが立ち上がった。


「座りなさいな」

「無理じゃ!」

「まあ、無理なら仕方ないわね」


静江さんが許した。この家はそういう家だった。


肉が煮えた。静江さんが箸で持ち上げて俺の器。次にヴィヴィの器。次に神崎先生、湊の器に入れる。


「はい、卵につけてね」


ヴィヴィが器を見た。割られた生卵が入っていた。


「ほら、ヴィヴィ。肉を卵につけて食え。うまいぞー」

「いいのか?」


ヴィヴィが疑いの目で俺を見た。それから先生を見た。先生が満面の笑みで自分の器を掲げてみせた。


「ヴィヴィアンさん、これが日本の文化だ」

「騙されたと思って」

「騙されそうじゃが」


ヴィヴィが肉を卵にくぐらせた。黄色い膜が肉を包んで、とろりと垂れる。


口に入れた。三秒ほど、完全に止まった。


そして——


「うっっっまいのじゃぁぁぁ!」


家が揺れた。


「甘い! しょっぱい! そこに卵がまろやかに! 全部が喧嘩しておらん! なぜじゃ!」

「なぜだろうな」


「熱いのに卵が冷たいから口の中がちょうどよいのじゃ! 計算されておる! 誰が考えたのじゃこれは!」

「知らん」

「知らんのか!」


俺も食べた。——肉が薄い。噛む前にほどける。


割り下が染みているのに、肉の味を殺していない。甘さが強いはずなのに、卵がそれを丸めて喉に落ちるころにはちょうどよくなっている。


米が欲しくなる。というか米を掻き込んだ。


「うまい」


三枚目の皿に入ったあたりで、様子が変わった。


「あ、それ私が狙ってた」

「早い者勝ちじゃ」


「ずるい、今のいちばん大きいやつ」

「見えておったのじゃ。わしはずっと見ておった」


湊とヴィヴィが同じ肉に箸を伸ばしていた。


「湊、お客さんに譲りなさい」

「お母さんだって今そっち取ったでしょ」


「私は作った人だもの」

「それ権利じゃないから」


弁護士が言うと説得力があった。先生は先生で、無言で春菊を大量に確保している。


「先生、それ一人で食うんですか」

「春菊は最初が一番いいんだ。しなびる前にな」


「取りすぎです」

「学問に妥協はない」


よくわからない。ヴィヴィが皿の端から二枚まとめて取った。湊が悲鳴を上げた。静江さんが笑いながら次の肉を投入した。先生が今度は焼き豆腐を確保しにいった。


——そうだった。この家は、飯を食うと全員おかしくなる家だった。


麦茶しか飲んでいないのに、酒盛りみたいな声量になっている。


俺は取り合いの外側で、静かに肉を食っていた。


うまかった。



 ◇



食べ終わって、しばらく誰も動けなかった。


ヴィヴィがテーブルに突っ伏している。湊もソファに沈んでいる。先生はベルトを緩めていた。


「あら、じゃあ花火でもしましょうか」


静江さんが台所から出てきて、そう言った。


「花火?」

「去年の残りがあるのよ。ちょうど五人分くらい」


「はなび、とは何じゃ」

「火が出るのよ。きれいなのが」


ヴィヴィの目が光った。


「行くのじゃ」


庭に出た。風が涼しい夜だ。バケツに水を汲んで、蝋燭を立てて、静江さんが袋から花火を出した。


ヴィヴィが一本受け取って、先端を蝋燭に近づけた。


しゅぱっ、と火花が噴き出した。


「ぬおおおおお!」


ヴィヴィが飛び退く。花火を持ったまま飛び退いたので、火花が庭を横切った。


「ヴィヴィアンちゃん、そっち向けちゃだめよー」

「出た! 火が出たのじゃ!」


「そういうものだから」

「聞いておらんぞ!」

「火が出るっていっただろ」


静江さんが笑いながら、自分の分に火をつけた。緑色の火花が散った。


「ほら、こっちは緑」

「色が違う! なぜじゃ!」

「なぜかしらねえ」


二人が並んで花火を振り回している。片方は五百年生きた魔王剣で、片方は五十を過ぎた主婦だ。


先生は縁側に座って、それを眺めながら茶を飲んでいる。


「兄さん」


横から湊が線香花火を二本持ってきた。


「これ、やる?」

「ああ」


しゃがんで火をつけた。先端に小さな玉ができて、そこからちりちりと細い火花が出始めた。


庭の向こうで、ヴィヴィが「次じゃ! 次のをよこせ!」と叫んでいる。静江さんが「順番よー」と応じている。


「兄さん」

「なんだ」

「ずっと聞きたかったことがあるんだけど」


湊が自分の線香花火を見ながら言った。火花が少しずつ大きくなっている。


「蓮兄さんはなんで探索者になったの?」



=========================

蓮「俺も春菊食べよっと」

シュパアァァァん

スカっ

蓮「あれ?」

シュパアァァァん

蓮「と、とれないっ」

ドドドドドド

龍一郎「蓮くん、この家の春菊は、私の物だ」





「だってーかわいいんだもん」

このセリフが蟲柱の人で脳内再生されて困ります。


 

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