第三章 なぜ私を助けるの
1
第1083回目のループ。
午前6時2分。目覚ましが鳴った。
深月は目を開け、真っ先に枕元のノートを見た。表紙の星空模様は、まだある。金色の星が、朝の光の中でかすかに瞬いている。最初のページを開く。自分で書き綴った文字が、そこに並んでいた。
「第1074回目。ひとりに出会った。」
「第1075回目。彼に、ループを証明する。」
「第1081回目。彼が描いた自分を見た。」
「第1082回目。彼に会いに行かなかった。」
「でも、彼がそこにいることは、知っている。」
インクはもう完全に乾き、紙の上にわずかに盛り上がった跡を残している。指でそっとなぞる。一筆一筆の感触が、指先に伝わってくる。はっきりと、確かに。この文字が、私がここにいる証拠だ。私が狂っていない証拠だ。
最後の二行を、長いこと見つめる。
「第1082回目。彼に会いに行かなかった。」
本当に行かなかった。
あの日、私はただコンビニの入り口に座って、行き交う人を眺めていた。彼の窓を眺めていた。上の階の足音に耳を澄ませていた。部屋には上がらなかった。ノックもしなかった。会わなかった。
でも、彼のことを考えていた。
ずっと。
彼が口にした一言一句を。コーヒーを差し出すときの手の動きを。あの琥珀色の瞳を。壁一面の夕日たちを。『俺と同じくらい孤独だ』という言葉を。彼が描いた、あの孤独な背中を――それは、私だった。
この感覚は、何なんだろう。
1073回のループ、私は何も考えたことがなかった。頭は空っぽだった。心も空っぽだった。全身が空っぽだった。まるで生ける屍のように、繰り返す日々を機械的に過ごし、次のリセットを待つだけだった。
なのに今、頭の中は、もので溢れている。
あの人で、溢れている。
ノートを閉じる。体を起こす。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、床に細い光の帯を描いている。その光の帯を見つめる。光の中で舞う埃を見つめる。そして突然、思う。もう、こんなふうにしている場合じゃない。
一つだけ、聞かなければならないことがある。
第1074回目のループからずっと、心の奥底に重くのしかかっていた問い。何度も湊に尋ねた。でも、彼はいつも言葉を濁すか、沈黙するかだった。その問いは石のように、一つ一つ心に積み重なり、どんどん重く、どんどん深くなっていった。
なぜ?
なぜ、私を助けるの?
なぜ、私の目の光を覚えているの?
なぜ、『俺と同じくらい孤独だ』なんて言うの?
なぜ?
深月は立ち上がる。洗面所へ向かう。蛇口をひねり、冷たい水を両手で受け、顔に浴びせる。冷たさが、意識を少しだけ冴えさせる。顔を上げ、鏡の中の自分を見る――目の下のくまは深い。眼窩は窪んでいる。唇は乾いている。でも、目の奥に、ほんの少しだけ、違うものがある。
決意だ。
タオルで顔を拭く。部屋に戻り、紺のパーカーに袖を通す。201号室を出て、階段を上がる。302号室の前に立つ。
ドアの前で、深く息を吸い込む。廊下は静まり返っている。遠くから、かすかに風の音。自分の鼓動が聞こえる。ドキン、ドキン、ドキン。一つ一つが、やけに鮮明だ。
手を上げる。ノックする。
コン、コン、コン。
ドアが開く。
湊が立っている。あの生成り色の古いセーター。髪は少し乱れ、目は少し眠そうだ。起きたばかりなのだろう。前髪が顔の半分を覆い、覗いた片方の目が、薄暗い廊下の中でひときわ明るく光っている。深月を見て、一瞬、動きを止める。そして、口元がほんの少し上がる。
「おはよう。」
「おはよう。」
誘いを待たずに、部屋の中へ足を踏み入れる。
2
302室は、昨日と同じだ。窓から陽の光が差し込み、床一面に金色を広げている。イーゼルには未完成の絵。昨日の夕日だ。オレンジの空、薄紫の雲、遠くの建物の影。絵の具はすっかり乾き、陽の光を受けて、かすかに艶めいている。
壁のスケッチたちは、陽の光の中でくっきりと浮かび上がる。一枚一枚が12月24日。一枚一枚が夕日。2013年から2025年まで。十二年の夕日。十二年の待機。十二年の孤独。
一枚一枚が、まるで一日のようだ。彼が独りで過ごした一日の。
湊は、後ろからついてくる。深月は窓辺に歩み寄り、立ち止まり、背を向ける。陽光が窓から差し込み、彼女の体を金色に縁取る。髪の先まで、淡く輝いている。
「コーヒー、飲む?」
「いらない。」
振り返る。彼はドアのそばに立っている。彼女の背後の光が、彼の顔に淡い影を落とす。琥珀色の瞳は、逆光の中で少し暗い。底の見えない湖のようだ。あるいは、長い間忘れ去られていた何かのように。
「一つ、聞きたいことがある。」
湊は首をかしげる。表情に、わずかな困惑。
「聞くといい。」
その目を見据える。一語一語、はっきりと。
「なぜ、私を助けるの?」
湊の動きが、止まる。
「最初の日から。」深月は続ける。声がかすかに震える。「屋上で、一緒に見ようって言った。その後、私を信じて、コーヒーをくれて、部屋に上げてくれて、私を描いて、私が孤独だって言った。なぜ?なぜ、私を助けるの?」
一歩、前に踏み出す。
「あなたは、私のことなんて、何も知らないはずでしょ。ループの中じゃ、他の人と同じで、何も覚えていないはずなのに。なのにあなたは違う。私の目の光を覚えている。私の孤独を覚えている。ずっと私を見ていた。なぜ?」
また一歩、踏み出す。
「私がループしていること、知ってる。1073回も絶望したこと、知ってる。屋上に立って、飛び降りようとしたこと、知ってる。なのに、何も聞かなかった。ただ『信じる』って言って、『それはきっとすごく疲れただろう』って言って、『俺と同じくらい孤独だ』って言った。なぜ?」
彼の前に立つ。距離は1メートルもない。彼から、かすかにコーヒーの香り。絵の具の匂い。そして、洗剤の清潔な香り。
「あなたは、一体誰なの?なぜ、私が見えるの?なぜ、あなたは……」
声が震える。
「なぜ、私に、独りじゃないって思わせるの?」
部屋の中が、静寂に包まれる。
陽の光が、二人の間をゆっくりと移動する。遠くから、時折車の音。暖房のゴーという音。自分の鼓動。
ドキン、ドキン、ドキン。
湊は、彼女を見つめる。長い間、何も言わない。
そして、ドア枠に寄りかかる。うつむき加減に、彼女を見る。
「君が、俺と同じだからだよ。」彼は言う。
深月は、固まった。
「どこが、同じなの?」
「目つきだ。」湊は言う。「12年前、俺が鏡の前に立っていた時、まさにその目つきだった。」
3
湊は振り返り、窓辺へ歩く。
窓台から、コーヒーカップを一つ手に取る。空のやつだ。縁に、細かなひび割れがある。そのカップを握りしめ、窓の外を見る。陽の光が彼の体に降り注ぎ、カップを握る指に、淡い光と影を落とす。指は長く、骨ばっている。指の腹には、薄いペンだこ。
「12年前の12月24日。」彼は言う。声は静かだ。他人の話をしているかのように。「その日は、俺の14歳の誕生日だった。両親がケーキを買いに行くって言って、夜に帰ってきて祝うって。俺は家で、二人を待っていた。」
窓の外を見る。瞳の焦点が、少し遠くにある。窓の外は中庭。雪が日光にきらめく。子供たちが雪だるまを作っている。小さな影が、雪の中を走り回る。でも彼の目は、それを見ているのではない。もっとずっと遠く、どこか別の場所を見ている。
「ずっと、待っていた。午後から夕方まで。夕方から暗くなるまで。夕日が沈むのを、窓辺で見ていた。あのオレンジの光が、少しずつ消えていくのを。もうすぐ、二人が帰ってくるって思っていた。でも、太陽が沈んでも、二人は帰ってこなかった。」
少し間を置く。
「その夜、三人分のカレーを作った。帰ってきたら、一緒に食べようと思って。でも、カレーは冷めた。温めては冷め、冷めては温め。最後は、捨てた。」
深月の手が、パーカーの裾をぎゅっと握る。鼓動が、速くなる。
「夜の9時、電話がかかってきた。警察からだった。高速で多重追突事故があって、両親の車も巻き込まれたって。すぐに、病院に来てくれって。」
声は、まだ静かだ。でも、カップを握る指が、微かに強くなる。
「行った。一人で、タクシーで。道中、渋滞していた。どこもかしこも、クリスマスのイルミネーション。笑っている人たちで溢れていた。窓の外のあの灯りを見ながら、頭の中は、真っ白だった。」
長い沈黙。
「二人に会った時、もう……もういなかった。医者に、遺体の確認をさせられた。そこに立って、目を閉じた二人の顔を見ながら、夢でも見ているのかと思った。ただ、眠っているだけのように見えた。ただ、もう目を覚まさないだけだった。」
深月の手が、震える。
「俺もその時、死にたくなった。」湊は続ける。口元が、かすかに上がる。とてもかすかに。「本当に。窓から飛び降りようか、病院へ二人を探しに行こうか、もう何もかもやめてしまおうかと思った。でも、窓辺に立った時、外に太陽が昇るのが見えたんだ。」
振り返り、深月を見る。琥珀色の瞳の奥に、とても深いものがある。長い間凍っていた湖が、ようやく溶け始めたかのように。
「翌日の太陽。それはそこにあった。見たくても見たくなくても、それは昇ってくる。窓辺に立って、あの光を見ながら、思ったんだ……もう一日だけ、見てみようかなって。そしたら、一日が二日になった。二日が一年になった。一年が、十二年になった。」
微笑む。
「十二年。ずっと、あの日の夕日を描き続けている。あの日が、二人を最後に見た日だから。もし描き続ければ、いつか、あの感覚を描けるかもしれない――待つ感覚、期待する感覚、そして失う感覚を。」
深月は、何も言えない。
ただ、そこに立ち、彼を見つめている。その瞳を。その顔を。あの洗い古されたセーターを。その手にある、ひび割れたコーヒーカップを。
「だから、あなたは……」声がかすれる。
「だから、俺は君を助けてないんだ。」湊が、言葉を遮る。「ただ、一緒に見ているだけだ。見るか見ないかは、君の問題だ。」
彼は、彼女を見る。
「俺には、君を助ける方法がない。なぜなら、俺もここに閉じ込められているからだ。でも、一緒にいることはできる。君の目の光を、覚えていることはできる。君に伝えることはできる。君は、俺と同じだって。」
微笑む。とてもかすか。あの日、コンビニの入り口で見せたのと同じくらいの、わずかな弧。
「それで、十分だ。」
4
深月は、立ち尽くしていた。長い間、何も言えなかった。
彼を見ていた。窓辺に立つ彼の姿を。その手にある、ひび割れたコーヒーカップを。壁の夕日たちを。陽の光が彼の体に落とす、光と影を。彼の瞳を見ていた。あの琥珀色の瞳には、悲しみがあった。孤独があった。そして、とても深い優しさがあった。
目尻が、少し熱くなった。
泣きたいわけじゃない。もっと複雑な感覚。何かが胸に詰まっているようで、でも同時に、何かがゆっくりと溶けていくようでもある。十二年の孤独。十二年の待機。十二年の夕日。彼はすべての感情を、あの絵の中に描き込んだ。一枚一枚が12月24日。一枚一枚が夕日。
自分がなぜ12月24日を選んだのか、思い出していた。
この日が特別だからじゃない。誰も覚えていないからだ。クリスマスイブ。みんな忙しい。大事な人と過ごす。孤独な少女が消えても、誰も気づかない。
でも今、知った。
湊にとって、この日は特別だった。
そして、彼女にとっても、この日はもう特別になっていた。
「ありがとう。」やっと言えた。声はとても軽い。
湊が首をかしげる。
「何に?」
「話してくれて、ありがとう。」深月は言う。「一緒にいてくれて、ありがとう。」
湊は何も言わない。ただ、彼女を見ている。琥珀色の瞳に、とても深いものがある。悲しみでもない。温かさでもない。その中間にある感情。夕日が沈む直前に、最後に残るあの一筋の光のように。
「コーヒー、飲む?」ようやく、彼が言う。
深月は笑った。とてもかすかに。
「飲む。」
二人は窓辺に腰を下ろし、コーヒーを飲む。
コーヒーは相変わらずインスタント。でも、もうこの味に慣れていた。少し苦くて、少し渋い。でも飲み干した後、温かい余韻が口の中に残る。カップを両手で包み込み、温度が陶器越しに手のひらに伝わるのを感じる。窓台に、空のカップが三つ。どれも白い陶器で、手にしているのと同じ形だ。そのうちの一つ、縁に細かなひび割れ。さっき湊が持っていたやつだ。
窓の外を見る。
中庭の雪が、日光にきらめいている。子供たちが雪だるまを作っている。小さな影が、雪の中を走り回り、足跡を連ねる。赤いダウンを着た小さな女の子が、雪だるまに枝を刺している。腕にするのだろう。隣の小さな男の子は、雪だるまに帽子をかぶせている――赤いプラスチックのバケツだ。
コンビニの灯りは消えている。ガラスドアが太陽の光を反射し、中はよく見えない。でも、人が出入りするのが見える。手に買い物袋を提げて。
「あのさ……」深月が口を開く。突然、あることを思い出した。
「ん?」
「あのフレーム。」窓台の空のフォトフレームを指さす。「どうして、ずっと空のままなの?」
フレームは木製。濃い茶色。細工は精巧だ。窓台の片隅に、静かに置かれている。中には何もない。白い裏紙だけが、陽の光に照らされて、やけにまぶしい。
湊は、そのフレームを一瞥し、数秒、黙り込む。
「どんな写真を入れればいいのか、わからないんだ。」彼は言う。「両親が亡くなった時、俺は幼くて、ほとんど写真が残っていなかった。その後、祖母と暮らしたけど、あまり撮らなかった。祖母は写真が嫌いで、年寄りは写りが悪いからって。その後、一人で暮らすようになってからは、なおさら撮る気になれなかった。」
その空のフレームを見つめる。瞳の焦点が、また少し遠くなる。
「時々、思うんだ。いつか、写真を入れたいと思う人に出会えるかもしれないって。その時には、このフレームも、空じゃなくなるかもしれない。」
少し間を置く。
「いつか、誰かの写真の中に、俺が写っているかもしれない。」
深月は、一瞬、言葉を失う。
うつむき、手の中のコーヒーを見る。湯気が目の前で立ち上り、視界をぼんやりと霞ませる。湊の言う「その人」が誰かは、わからない。でも、突然、奇妙な感覚が胸の奥から湧き上がる。心の底で、何かがそっと動いたような。とても軽く、風が湖面に残す波紋のように。
「君は?」湊が尋ねる。「入れたい写真、あるのか?」
深月は、考える。
「ない。」言う。「そういう写真も、ないの。家族とはうまくいってないし、同級生ともあんまり連絡取ってないし。スマホの中には、何気なく撮った風景写真が少しだけ。人の写っているのは、一枚もない。」
少し間を置き、微笑む。
「いつか、できるかもしれないね。」
湊はうなずく。それ以上、何も聞かない。
また、沈黙が訪れる。でも、その沈黙は、もう気まずくも苦しくもない。むしろ、不思議な温かさに満ちている。二人で一緒に座って、何も言わなくても、それで十分だと思えるような、そんな沈黙。
陽の光は、ゆっくりと動き続ける。窓のこちら側からあちら側へ。窓台から床へ。光の柱の中を、無数の埃が舞う。細かく、密に。まるで小さな星屑のように。
窓の外の風の音。遠くの車の音。自分の呼吸の音。
そして、もう一人の呼吸の音。
深月は目を閉じる。このすべてを、全身で感じている。
ループが始まってから初めて、時間はこうやって過ごせるものだと思った。リセットを待つのでもない。解明しようと試みるのでもない。絶望的に耐え忍ぶのでもない。ただ座って、コーヒーを飲み、陽の光を浴び、風の音に耳を澄ます。
ただ、生きる
5
コーヒーを飲み終えて、深月は立ち上がった。
「帰るね。」彼女は言った。
「もう?」湊も立ち上がる。
「うん。」深月は入口へ向かう。「やることがあるから。」
湊は後ろについて、入口まで見送る。ドアを開け、廊下に出る。振り返って、彼を見る。廊下は暗い。人感センサーの灯りはまだ点かない。部屋から漏れる光だけが、湊の体を照らし、その輪郭を暖かな黄色に縁取る。
「また明日。」
湊は一瞬、固まる。それから、笑った。
目が細まる。三日月みたいに。
「また明日。」
階段を下りる。201号室に戻る。ドアを閉めて、背中でもたれる。目を閉じる。頭の中は、さっきの光景でいっぱいだ。湊が窓辺に立ち、あのひび割れたコーヒーカップを手に、十二年前の話をする姿。あんなに静かな声だった。まるで、ずっとずっと昔のことみたいに。
でも、わかってる。過ぎてなんかいない。
あれはずっと、彼の心の中にある。あの夕日たちみたいに、一枚一枚積み重なって、壁になった。十二年。四千以上の日々。毎日、同じ日の夕日を描き続ける。それは、追悼なんかじゃない。それは、囚われだ。彼は自分を12月24日という一日に閉じ込めてる。まるで私が、このループに閉じ込められてるみたいに。
窓辺へ。カーテンを開ける。302の窓を見る。カーテンが半分開いて、イーゼルの輪郭。その前に座る人影。絵を描いてる。何を?今日の夕日?それとも、私?
わからない。
でも、一つだけわかる。
今日、あのことをしてない。しようと思ってたこと。あの中年男について行って、どこへ行くのか見ること。
今からでも、遅くない。
時計を見る。午後3時47分。あの男はだいたい朝の7時15分にコンビニに現れて、本を買って、すぐにバス停へ向かう。今からじゃ、もう間に合わないかもしれない。
でも、明日なら行ける。
明日も、ループは来る。
明日、あのことを、できる。一度もしたことのない、あのことを。
ベッドに横たわる。天井を見る。ひび割れは、まだある。左上から照明の根元まで。そのひび割れを見ながら、湊の言葉を考える。「いつか、写真を入れたいと思う人に出会えるかもしれない」って。
その人は、誰?
私、かな?
わからない。
でも、わかってる。私は、その人になりたい。
6
第1084回目のループ。
午前6時2分。目覚ましが鳴る。
目を開け、真っ先にノートを見る。最初のページを開く。昨夜、書き足した新しい一行。
「第1083回。彼が、なぜかを教えてくれた。」
まだある。
ノートを閉じる。起きる。洗面。着替え。迷わない。先延ばしにしない。紺のパーカーを着て、スニーカーを履く。201号室を出る。階下へ。アパートの入口に立つ。
7時15分。
あのくたびれたスーツの男が、時間ぴったりに現れた。
灰色のスーツ。型は古く、肩はしわくちゃ。袖口は擦り切れてツルツル光り、糸の端がほつれてる。髪は灰色交じりで、きちんと梳かれてるけど、少し薄い。顔には深いほうれい線。目の下には濃い隈。長い間、ちゃんと眠れてないみたいだ。
コンビニに入る。雑誌棚の横の文庫本コーナーへ。一冊の本を手に取る。
入口に立ち、ガラス越しに背中を見る。本を手に取り、表紙を見て、ページを開き、確かめる。動作は遅い。注意深い。まるで、大事なものを扱うみたいに。
レジへ。本をカウンターに置く。動作は軽い。何かを壊さないように、そっと。金を払い、本を鞄に入れる、黒いビジネスバッグ。革は擦り減り、縁は少し裂けてる。コンビニを出る。
顔を上げ、空を見る。眉が、ほんの少しひそむ。空は灰色がかった白。雲は低くて、雪が降りそうなのか、ただの曇りなのか、わからない。
バス停へ向かう。
ついていく。
二十メートルくらい、距離を取って。見つかるのが怖い。振り返られるのが怖い。誰かと話すのが怖い。でも、振り返らない。うつむいて、鞄を抱えて、ずっと前へ進む。歩みは遅い。一歩一歩、均等だ。もう何度も、この道を歩いてきたみたいに。
バス停は近い。街角まで、歩いて三分。古い鉄の標識。バスの路線図が貼ってある。色褪せて、縁は丸まってる。隣に自動販売機。赤い。アパートの下のと同じだ。
そこに立って、バスを待つ。
少し離れた電柱の陰から、見る。
普通だ。普通のスーツ。普通の髪型。普通の中年男。でも、鞄をしっかり抱えてる。すごく大事なものを抱えるみたいに。目つきは少し虚ろ。遠くを見てる。何を考えてるのか、わからない。時々、うつむいて鞄を見る。ファスナー、ちゃんと閉まってるか。
バスが来る。
緑のバス。古い。あちこち塗装が剥げて、下の錆が見える。ドアが開く。耳障りな音。ギシギシ。乗り込む。窓際の席に座る。深月も乗る。後ろの方。数席隔てて。うつむいて、フードで顔を隠す。片目だけ出して、見る。
窓の外を見てる。
バスは二十分。
窓の景色が変わる。通りから建物へ。建物から木々へ。最後は、灰色がかった空だけ。いくつかの店を通り過ぎる。ラーメン屋。クリーニング店。閉店した小さな本屋。小学校も通る。校庭には誰もいない。国旗だけが風に揺れてる。
最後、バスは総合病院の前で止まった。
病院は大きい。本館は十階建て。外壁は白いタイル。ところどころ黄ばんでる。入り口に数台のタクシー。果物や花を売る小さな屋台。空気に、かすかに消毒液の匂い。車の排気ガスも混じってる。
男はバスを降りる。慣れた様子で、入院棟へ入っていく。
後ろから、ついていく。
7
病院の中は、静かだ。
廊下に消毒液の匂い。濃くて、少し鼻を刺す。白い照明が、全部を白っぽく照らす。壁は白。床は白。天井も白。看護師の服さえ、白。時々、看護師が車椅子を押して通る。車輪が、床の上でゴロゴロと音を立てる。時々、患者が病院着でゆっくり歩く。手に点滴スタンドを掲げて。点滴チューブが、照明の下でキラキラ光る。
誰もうつむいてる。誰もが、自分のことで精一杯。
男は三階へ上がる。
階段は狭い。段は人造石。縁に滑り止め。歩みは遅い。一歩一歩、注意深い。片手で手すりを支えて。三階。二十三段。後ろで、数を数える。
三階の廊下は、一階よりさらに静かだ。病室のドアが一列に並ぶ。どのドアにもガラス窓。中のかすかな影が見える。一つの病室の前で止まる。まず窓から中をのぞく。それから、ドアを押して入る。
廊下の角に立つ。病室のドアのガラス越しに、のぞく。
ベッドのそばに座ってる。女の手を握ってる。
女は、とても痩せてる。
痩せて、頬骨が突き出てる。痩せて、目が大きく見える。痩せて、骨の形がわかるほどだ。ベッドに横たわり、白い布団がかかってる。布団は、ほとんど起伏がない。髪は短い。まばらで、頭皮に張り付いてる。長い間、手入れされてないみたいだ。
でも、笑ってる。
笑顔は、軽い。かすか。でも、本物だ。男を見て、目の中に、少し光がある。
男が鞄から本を取り出す。女に渡す。女は受け取り、あるページを開く。その上の文字を指さして、何か言う。何の字か、見えない。でも、女が笑う。それから、男が泣く。
声がない。
ただ、そこに座って、女の手を握って、涙が流れる。肩が激しく震える。でも、声がない。うつむいて、涙が布団に落ちる。小さな濃い染みができる。
女がもう片方の手を伸ばす。そっと、男の手の甲を叩く。まだ笑ってる。その笑顔は、言ってるみたいだ。「大丈夫」「私はここにいる」「何でもないよ」って。
深月は振り返る。立ち去る。
足早に。ほとんど走る。廊下を通り抜け、階段を下り、入院棟を出て、病院の外へ。入口に立ち、大きく息を吸う。
消毒液の匂いが、まだ鼻の中に。あの痩せた女の顔が、まだ頭の中に。あの男の涙が、まだ目の前に。
彼らは、誰?
あの本には、何が書いてある?
なぜ、毎日同じ本を買う?
初めて、そんな問いが浮かんだ。それまで、あの人たちはただの「NPC」だった。ループの背景。この世界が偽物だって証明する証拠。同じ動きを繰り返す。同じ会話を繰り返す。魂のないプログラム。
でも今、突然、わからなくなった。
8
どうやってアパートに戻ったのか、わからない。
ただ、ずっと歩いたことだけ覚えてる。通りを抜け、人混みを抜け、あの永遠に変わらない景色を抜けて。空は灰色がかった白。雪は一面真っ白。コンビニは灯りがついてる。全部、毎日と同じ。
なのに、全部が、違って見える。
アパートに入る。階段を上る。201号室の前。ドアを開け、中に入る。ドアを閉めて、背中でもたれる。目を閉じる。
頭の中は、あの光景でいっぱい。痩せた女の顔。声なき男の涙。
あの本に何が書いてあるのか、知らない。でも、わかる。あの本は、すごく大事なものだ。大事だから、毎日新しいのを買う。大事だから、毎日読む。大事だから、病床を隔てても、あんなふうに笑える。
三十年の伴侶。毎日一冊の新しい本を買う、という堅持。あんなに重い病でも、笑えるという勇気。
ゆっくりと、床に滑り落ちる。両手で膝を抱える。
湊の言葉を思い出す。「ただ、一緒に見ているだけだ。見るか見ないかは、君の問題だ。」
今、見てる。
あの中年男を見た。あの女を見た。あの本を見た。二人の間に流れる、見えないものを見た。愛情?家族愛?違う。もっと深い何か。それは、時間。それは、伴侶。それは、あんなに病が重くても、なお笑えるということ。
私に、そんなものがある?
私にも、そんなものができる?
わからない。
でも、わかる。あの人たちは、「NPC」なんかじゃない。血の通った人間だ。過去がある。未来がある。愛がある。痛みがある。涙がある。
湊みたいに。
私みたいに。
長いこと、床に座ってた。長すぎて、窓の外の光が暗くなった。長すぎて、コンビニの灯りが点いた。長すぎて、上の階から足音が聞こえてきた。
ギシ、ギシ、ギシ。
湊だ。
歩いてる。
その足音を聞きながら、ゆっくり立ち上がる。窓辺へ。カーテンを開ける。302の窓を見る。カーテンが半分開いてる。灯りがついてる。暖かい黄色。人影が窓辺にいる。絵を描いてるみたいだ。
しばらく見てる。それから、振り返る。机のところへ。ノートを手に取る。
最初のページを開く。新しいページに、書き加える。
「第1084回。病院までついて行った。あの女を見た。」
その一行を、長く見つめる。
そして、もう一文。
「彼らはNPCじゃない。」
9
第1085回目のループ。
午前6時2分。目覚ましが鳴る。
目を開け、真っ先にノートを見る。最初のページを開く。昨夜書き足した、あの二行。
「第1084回。病院までついて行った。あの女を見た。」
「彼らはNPCじゃない。」
まだある。
ノートを閉じる。起きる。洗面。着替え。201号室を出る。階下じゃない。階上へ。302の前に立つ。
ノックする。
コン、コン、コン。
ドアが開く。湊が立ってる。
あの生成り色の古いセーター。髪は昨日よりさらに乱れてる。起きたばかりで、まだ整えてないんだろう。目に少し血走ってる。よく眠れなかったみたいだ。でも、深月を見て、やっぱり微笑む。
「おはよう。」
「おはよう。」
部屋に入る。窓辺へ。そこに立つ。陽光が窓から差し込み、体に金色の光を投げる。湊は後ろからついてきて、彼女を見てる。
「どうかした?」
答えない。ただ、窓の外を見る。中庭の雪。コンビニの灯り。遠くの河原の方角。中庭の雪だるまは、まだある。あの女の子が挿した枝の腕は、一本曲がってる。帽子は、どこかへ飛ばされたみたいだ。
「昨日ね……」口を開き、止まる。
「ん?」
「あの人、ついて行ったの。」言う。「本を買う、あの中年男。」
湊は何も言わない。ただ、歩み寄る。隣に立つ。肩が近い。体温が感じられる。
「病院まで行った。」続ける。「一つの病室があって、中に女の人がいた。すごく、すごく痩せてた。彼の妻だった。」
少し間を置く。
「彼がその本を渡した。彼女は笑った。それから、彼は泣いた。」
湊が、彼女を見てる。
「何が見えた?」
長い沈黙。陽光が二人の間を移動する。光の柱の中を、埃が舞う。
「あの女の人は、あんなに痩せてて、骨だけみたいだったのに、それでも笑ってた。」言う。「あの男の人は、泣いてた。でも、声がなかった。きっと、すごく愛し合ってるんだろうね。何年も。彼女が病気になっても。彼が毎日同じ本を買っても。」
振り返り、湊を見る。
「あの人たち、ただのNPCだと思ってた。ループの背景で、同じこと繰り返すだけの。でも、違った。過去がある。物語がある。涙がある。」
目が、少し熱くなる。
「私……間違ってたみたい。」
湊は、何も言わない。ただ、隣に立って、一緒に窓の外を見てる。
陽光が二人の体に当たる。二つの影が並ぶ。一つは高く、一つは少し低い。とても近くに、寄り添ってる。
「間違ってないよ。」最後に、湊が言う。「ただ、見てるだけだ。」
振り返り、彼女を見る。
「今、君は見えたんだ。」
深月は、彼の目を見る。琥珀色の、透き通った、冬の湖面みたいな目。でも、今回は、その湖面に、自分の姿が映ってるのが見えた。
私も、見えた。
毎日繰り返すあの人たちを。彼らの物語を。彼らの涙を。湊を見た。彼の孤独を。彼の待機を。自分を見た。自分の変化を。自分の、希望?を。
それが希望かどうかは、わからない。
でも、わかる。私はもう、昔の私じゃない。
10
窓辺に、長いこと立ってた。
陽光はゆっくり動く。窓のこちら側から、あちら側へ。風の音。遠くの車の音。自分の呼吸の音。そして、もう一人の呼吸の音。
「あの本……」突然、口を開く。
「ん?」
「あの本の中には、何が書いてあるの?」尋ねる。「知ってる?」
湊は考える。
「知らない。」言う。「でも、すごく大事なものだってことは、わかる。」
「どうしてわかるの?」
「彼の目つき。」湊は言う。「彼がその本を手に取るたび、目つきが変わる。すごく優しくなる。注意深くなる。まるで、すごく大事なものを見てるみたいに。すごく大事なものだけが、あんな目つきになるんだ。」
深月は固まる。
あの中年男の目つきを思い出す。カウンターに本を置くとき、あんなに軽く、そっと。まるで、大事なものを置くみたいに。今まで、一度も気にしたことなかった。
「あなたも、見たことあるの?」
「うん。」湊はうなずく。「何度も見たよ。彼だけじゃない。あのカップルも。あのサラリーマンも。犬の散歩のおばあさんも。みんな、それぞれの目つきを持ってる。ただ、君が見てないだけだ。見えてないだけだ。」
長い沈黙。
「じゃあ、あなたは?」尋ねる。「あなたの目つきは、どんななの?」
湊は、一瞬、固まる。
彼女を見る。琥珀色の目に、とても複雑なもの。驚き?それとも、別の何か?
「俺の目つき……」考える。「たぶん、空っぽだったんだろうな。最初の君みたいに。」
「今は?」
「今は……」少し間を置く。「今は、少しだけ光があるかもしれない。」
深月は、何も言わない。
ただ、彼を見る。彼の目を見る。その目に、確かに少し光がある。とてもかすかだ。でも、存在してる。
私の目と同じように。
302号室を出た時には、もう昼近くだった。
階段を下りる。201号室に戻る。ドアを閉めて、窓辺へ。外の中庭を見る。子供たちはもう帰った。雪だるまは、ぽつんと立ってる。枝の腕は、さらに曲がってる。
湊の言葉を考える。
「みんな、それぞれの目つきを持ってる。ただ、君が見てないだけだ。見えてないだけだ。」
今、見始めてる。
あの中年男を見た。あの女を見た。あのカップルを見た。あのサラリーマンを見た。犬の散歩のおばあさんを見た。次のループでは、もっとたくさんのものを見に行けるかもしれない。
ずっと無視してきた人たちを。ただの背景だと思ってた人たちを。彼らの物語を。彼らの涙を。彼らの笑顔を。
ノートを手に取る。最初のページを開く。
最新の一行の下に、書き加える。
「第1085回。彼が言った、今、君は見えたんだって。」
その一行を、長く見つめる。
そして、もう一文。
「もっと見に行きたい。」




