第二章 繰り返しの証明
1
第1075回目のループ。
午前6時2分。目覚ましが鳴った。
深月は目を開け、真っ先に枕元のノートを見た。
あった。
表紙の星空模様。金色の星の箔が剥がれた跡。丸まった角。全部、昨日のままだ。手を伸ばし、表紙に触れる。指先に伝わる微かな凹凸。幻覚じゃない。
最初のページを開く。
「第1074回目。ひとりに出会った。」
その文字は、まだあった。インクは乾き、紙の上にわずかに盛り上がった跡を残している。指でそっとなぞる。一筆一筆の質感が伝わってくる。はっきりと、確かに。
ループが始まってから初めて、何かが残った。
深月は起き上がる。鼓動が少し速い。ペンを手に取り、二行目を書き足す。
「第1075回目。今日はひとつ、やることを決めた。」
少し間を置き、もう一文。
「彼に、ループを証明する。」
書き終え、ノートを閉じる。深く息を吸った。
もし湊が本当に彼女の目の光を覚えているなら。もし彼が本当に彼女の言葉を信じるなら。彼女は証明しなければならない。この世界は繰り返している。彼女は狂っているわけじゃない。ただ、ここに閉じ込められているだけだ。証人が必要だ。
証拠が、必要だ。
ベッドを降り、裸足で畳に立つ。足の裏から伝わる冷たさが、意識を少しだけ冴えさせる。窓辺に歩み寄り、カーテンを開ける。
空は灰色がかった白。低く垂れ込めた雲。昨日と、まったく同じ。コンビニの灯りは、ちょうど消えたところだ。ガラスドアが朝の光を反射し、中は見えない。中庭の雪は、まだ誰にも踏まれていない。一面の白。まるで、何かが書かれるのを待つ紙みたいだ。あるいは、沈黙の証人みたいに。
ベッドサイドの時計を見る。6時15分。
湊はだいたい7時半にゴミを捨てに出る。二十数回のループで観察してわかったことだ。彼には規則正しい生活リズムがある。規則正しいルート。規則正しい購買習慣。規則正しいからこそ、安心できる。規則正しいからこそ、絶望的でもある。
でも今日は、その規則性を利用する。
手早く洗面を済ませ、紺のパーカーとジーンズに着替え、スニーカーを履く。引き出しからペンと付箋を一枚取り出し、何行か書く。折りたたんで、ポケットに突っ込んだ。
6時45分。201号室を出て、階下へ。アパートの入り口に立つ。
冷たい風が襟元から入り込む。首をすくめ、手をポケットに突っ込む。ポケットの中で、付箋が指に握られて少ししわくちゃになっている。でも、離さない。これは予備計画だ。もし湊が覚えていなかったら。もし彼が信じてくれなかったら。この紙で、自分に予知能力があることを証明する。
彼が現れるのを、待つ。
2
7時28分。
アパートのドアが開き、湊が出てきた。
あの生成り色の古いセーター。袖口は緩んで、細い手首が覗く。白い肌の下に、青い血管が透けて見える。下はカーキのチノパン。裾は少し長く、足首にたまっている。足元はあの古びたスニーカー。白いはずのアッパーは黄ばみ、靴紐はゆるく結ばれている。
手には透明なゴミ袋。中にはコンビニの袋と空き缶コーヒー、それに画用紙の切れ端が何枚か。切れ端には鉛筆の跡。スケッチの残骸だ。
髪は、昨日よりさらに乱れている。起きたばかりで、まだ整えていないんだろう。前髪が左目を覆い、顔には表情がない。目つきは少しぼんやりしていて、まだ半分、夢の中にいるみたいだ。階段を下りる。歩みは遅い。一歩一歩が均等で、何かを測っているみたいに。
深月は入り口に立ち、その背中を見つめていた。
湊は、彼女に気づいて、一瞬、動きを止めた。
「おはよう。」声は掠れていた。起きたばかりで、まだ誰とも話していない証拠だ。
「おはよう。」深月も返す。
その目を見つめる。琥珀色の瞳。朝の光の中で、透き通って見える。ビー玉みたいだ。冬の湖面の浅瀬みたいだ。澄んでいる。でも、底は見えない。
「今日、何買う?」直接、尋ねた。
湊はまばたきした。表情に困惑が浮かぶ。「え?」
「コンビニ。」深月は言う。声は静かだ。「ゴミ捨てたら、コンビニ行くでしょ。今日、何買う?」
湊は首をかしげ、この奇妙な質問を咀嚼しているようだった。視線が、深月の顔からコンビニの方へ移り、また戻り、最後に自分の手に下げたゴミ袋に落ちる。
「まだ、決めてない。」彼は言った。
「塩おにぎりと、MAXコーヒー。」深月は言う。一語一語、はっきりと。「レジの前で3秒迷う。二個目のおにぎり、買おうかどうか。で、買う。」
湊は、彼女を見つめた。瞳が、複雑な色に変わる。
琥珀色の奥に、困惑。疑問。そして、言葉にできない何か。警戒心かもしれない。好奇心かもしれない。あるいは、別の何か。彼は何も言わない。ただ、見つめている。長い間。
朝の風が、二人の間を抜ける。雪の後の、澄んだ冷たさを連れて。遠くで烏が鳴く。一声。二声。そして、また静けさが戻る。
「どうして、わかるんだ?」ようやく、彼が口を開いた。
「何度も見たから。」深月は言う。「あなた、毎日同じもの買う。塩おにぎり、MAXコーヒー。で、3秒迷って、もう一個おにぎり買う。毎回、同じ。」
湊は、黙り込んだ。
うつむき、手にしたゴミ袋を見る。顔を上げ、コンビニの方を見る。灯りは完全に消え、自動販売機の赤だけが、朝の光の中でやけに鮮やかに浮かび上がっている。
「一緒に来るか?」彼は言った。
深月は、うなずいた。
3
二人は、並んでコンビニへ向かった。
湊はまず、アパート横のゴミ捨て場へ行く。緑色の鉄製ゴミ箱。蓋は重い。彼は力を込めて押し開け、ゴミ袋を放り込む。手をはたく。袋が落ちるくぐもった音。餌を漁っていた烏が数羽、驚いて飛び立つ。
深月は、二歩後ろからついていく。彼の背中を見る。生成り色のセーターが、朝の光でほんのり輝いて見える。髪が風に吹かれ、さらに乱れる。
彼は歩くのが遅い。本当に遅い。一歩一歩が均等で、何かを数えているみたいだ。あるいは、何かを待っているみたいだ。時々立ち止まり、道端の雪を見る。雪に残った足跡を見る。また歩き出す。
コンビニの自動ドアが開き、無機質な電子音。「いらっしゃいませ」。
暖気が肌を包む。おでんの香り。コーヒーの苦み。深月は入り口に立ち、中には入らない。ただ、湊の背中を見ている。彼が棚の間を動くのを。
彼はおにぎりコーナーの前で立ち止まる。首をかしげ、棚を見上げる。ツナ、梅、鮭、塩、明太子、昆布――どれも透明な包装に包まれ、値段と賞味期限が印字されている。
彼の視線が、おにぎりをなぞる。左から右へ。右から左へ。そして、塩で止まる。
手を伸ばし、一つ取る。
飲料ケースへ。ガラスドアを開け、二列目からMAXコーヒーを一本。アルミ缶に細かな水滴。照明を受けて、きらきら光る。
深月の鼓動が、速くなる。
湊は、おにぎりとコーヒーを持ってレジへ向かう。レジには、あの野球帽の男子。顔を上げ、バーコードを通そうとする。
湊は、レジの前で立ち止まった。
うつむき、手にしたおにぎりを見る。眉が、ほんの少しひそむ。何かを考えている。
一秒。
二秒。
三秒。
振り返り、棚へ戻る。もう一個、塩おにぎりを取る。
深月は、入り口で、そのすべてを見ていた。
ポケットの中で、付箋を握りしめる手に力が入る。爪が、紙を破りそうだ。自分の鼓動が聞こえる。ドクン、ドクン、ドクン。一つ一つが重く、鮮明に。誰かが胸の中で太鼓を打っているみたいだ。
湊はレジに戻り、二個のおにぎりとコーヒーをカウンターに置く。店員がバーコードを通し、金額を告げる。湊が金を払い、釣り銭と袋を受け取る。三十秒とかからない。
振り返り、入り口に立つ深月を見る。
外に出てくる。袋が、手の中で揺れる。かすかに、シャカシャカと音を立てる。
コンビニの入り口。二人は向かい合う。
「君......」彼が口を開き、言葉を探すように止まる。
「当たったでしょ。」深月が言う。
湊は答えない。ただ、彼女を見つめる。琥珀色の瞳に、初めて見る感情。驚きじゃない。恐怖じゃない。もっと深い、何か。長い間眠っていた記憶が、呼び覚まされたみたいな。
「おかしいと思わない?」深月は続ける。「どうして毎日、同じ人が、同じことして、同じ会話するの?あなた、一度も疑ったことない?」
湊は、長い間黙っていた。
長すぎて、コンビニのドアがもう一度開き、誰かが入り、また出て行った。長すぎて、遠くからバスの音が聞こえ、近づき、遠ざかった。長すぎて、空の雲が動き、一瞬、水色がのぞき、またすぐに覆われた。
「信じるよ。」ようやく、彼が言った。
深月は、固まった。
「え?」
「だから、信じるって言ったんだ。」湊は繰り返す。口調は静かだ。今日の天気の話でもするみたいに。「君の言うループ、信じるよ。」
深月が用意していた証拠の数々が、喉の奥で詰まった。
言うつもりだった。コンビニの店員の名前は山田だって。一回のループで名札を見たから。今日の午後、あのカップルが喧嘩するって。彼女はピンクのダウン、彼は黒いコート。夕方、おばあさんが犬の散歩に来るって。柴犬で、名前は「小陽」。いつも数歩で振り返る。何度も観察してきた細部。記録してきた繰り返し。この世界が偽物だって証明できるすべてを。
でも彼は、ただ「信じる」と言っただけだ。
「それだけ?」深月の声が震える。「理由、聞かないの?私、狂ってると思わない?」
「聞いたところで、どうなる?」湊の口調は、とても平淡だった。「もし本当にループだとしても、君の苦しみは本物だ。それで、十分だ。」
深月は、初めて言葉を失った。
立ち尽くしたまま、湊の穏やかな顔を見る。琥珀色の瞳を見る。彼の手に下げられた袋を見る。中には二個の塩おにぎりと、一缶のMAXコーヒー。透明な袋越しに、おにぎりの包装に印刷された「塩味」の文字が見える。
「どうして......」ようやく、言葉を絞り出す。「どうして、そんな簡単に、私を信じるの?」
湊は首をかしげ、その問いを考える。
「君の目の光を、覚えているから。」彼は言う。「君を見るたび、いつも覚えている。具体的なことは何も覚えていない。でも、あの感じだけは。君の目には、とても疲れたものがあった。とても空っぽなものがあった。まるでもうずっと、ずっと長く生きているみたいな。」
少し間を置き、付け加える。
「それに、もしこの世界が本当に繰り返しているなら、僕もとっくに気づいてたはずだ。ただ、認めたくなかっただけだ。」
彼は深月を見つめる。その目には、優しい悲しみがあった。
「だから、ありがとう。教えてくれて。」
4
第1076回目のループ。
深月はコンビニの入り口で湊を待った。彼は時間通りに現れ、塩おにぎりとMAXコーヒーを買い、三秒迷って、もう一個おにぎりを取った。店を出て、深月を見て、一瞬固まり、おにぎりを一つ差し出した。
「食べる?」
深月は受け取り、包装を剥き、かじる。塩味。米は少し硬い。海苔は少し湿っている。美味いとは言えない。でも、不味くもない。二人は入り口の階段に座り、行き交う人を眺めた。
第1077回目のループ。
深月は、湊の散歩についていった。彼のルートは決まっている。アパートを出て、川沿いの土手を橋の向こうまで歩き、折り返す。歩くのは遅い。時々立ち止まり、川面を見る。薄い氷が張り、雪が積もり、一面真っ白だ。空を見る。灰色がかった白。何の変化もない。道端の雪を見る。烏の足跡が、一続きに続いている。
深月は後ろをついていく。何も言わない。ただ、彼の背中を見ている。歩調は均等だ。一歩一歩の間隔が、ほとんど同じ。少し猫背で、何かを考えているみたいだ。
第1078回目のループ。
深月は尋ねた。「毎日、絵を描くの?」
湊はうなずいた。「ずっと前から。」
「何を?」
「夕日。」
「どうして?」
彼はしばらく黙り、それから言った。「夕日は、消えるから。」
深月には、その意味がよくわからなかった。でも、それ以上は尋ねなかった。彼を見る。横顔の輪郭。風に乱れる髪。瞳に映る空。
第1079回目のループ。
深月は気づいた。湊の携帯が、一度も鳴らないことに。彼の携帯は旧型のスマホ。画面には何本かひび割れがある。常にマナーモード。画面を下にして机の上に置かれている。たまに着信があると、画面が光り、数回震え、そして消える。湊は、一瞥もしない。
「電話、出ないの?」
「出るほどのものじゃない。」
「家族は?」
湊の表情が、一瞬で硬くなった。何かのスイッチが、切られたみたいに。うつむき、手にしたコーヒーカップを見つめる。長い沈黙。
「いない。」短く、それだけ言った。
立ち上がり、窓辺に行く。窓の外を見る。その背中は、少し寂しげだった。肩が、ほんの少し落ちている。何かが、のしかかっているみたいだ。
深月は、それ以上尋ねなかった。
第1080回目のループ。
深月は気づいた。湊が、社交をしないことに。アパートの他の住人と挨拶を交わさない。イベントにも参加しない。集まりにも行かない。彼が言葉を交わすのは、コンビニの店員だけ。それも「ありがとう」「袋はいいです」程度だ。たまに店員が「今日は寒いですね」と余計な一言を添えると、彼はうなずき、そして立ち去る。
まるで、透明人間みたいだ。
この世界に存在しているのに、この世界に属していない。
彼女と同じように。
5
第1081回目のループ。
湊が言った。「上がってかない?外、寒いし。」
深月はうなずいた。
二人はアパートに入り、階段を上る。階段は暗い。人感センサーの灯りが、通るたびにぽつりぽつりと点く。湊が先、深月が後ろ。彼のセーターが、薄明かりの中でやけに白く見える。
302号室のドアは鍵がかかっていなかった。彼が軽く押すと、静かに開いた。
開いた瞬間、まず光が目に入った。
この部屋、日当たりがいい。窓は201号室よりずっと大きくて、南向きだ。午前の陽射しが床いっぱいに差し込み、畳の上に明るい斑模様を描いている。その斑は、時間とともにゆっくりと動く。まるで生きてるみたいだ。
間取りは201号室と同じくらい。でも、ずっと整っている。
ゴミ袋の山も、空き缶の山もない。壁際の机の上には、ノートパソコンとスタンドライト、それに画用紙の束だけ。きちんと重ねられて、使われるのを待っているみたいだ。
ベッドもきれいに整えられてる。布団は角ばって畳まれ、枕はまっすぐ置かれている。シーツは薄い灰色で、しわひとつない。
窓辺に、イーゼル。
木製で、古びている。縁のペンキは剥げかけてる。イーゼルには未完成の絵がかかっている。夕日だ。オレンジの空、薄紫の雲、遠くの建物の影。川面に反射する金色の光。絵の具はまだ乾いていない。陽の光を受けて、濡れたように光っている。筆の跡まで見える。
でも、いちばん目を引いたのは、壁だった。
壁一面に、スケッチが貼り詰めてある。ぜんぶ、夕日だ。
深月は入り口に立ち、それを見つめた。言葉が出ない。
色も、角度も、雰囲気も、ぜんぶ違う。この窓から見える夕日。向かいのアパートとアンテナが入ってる。河原から描いた夕日。川面のきらめきと水紋まで見える。屋上から描いた夕日。街のシルエットと、遠くの山のぼんやりした輪郭。
一枚一枚、違う。
でも、一枚一枚、夕日だ。
深月はゆっくり壁に近づき、一枚ずつ見ていった。隅のほうに、ひときわ色の薄い絵があった。水彩を何度も薄めたみたいに。隣には、反対にすごく濃い絵。何層も塗り重ねたみたいだ。その隣は、ほとんど白黒で、夕日の場所だけほんの少しオレンジが残っている。
「どれくらい描いてるの?」ようやく声が出た。
「十年以上かな。」湊は窓辺に歩き、窓台から水筒を取った。「ある日、夕日がきれいだと思って。それからずっと。」
水筒を開け、コーヒーを二つ注ぐ。熱くて、白い湯気が立つ。香りが部屋中に広がる。一つを差し出された。
深月は受け取り、両手で包む。カップは熱い。温度が陶器越しに手のひらに伝わる。指先がじんわり痺れる。カップをのぞき込む。インスタントコーヒー。色は濃く、表面に薄い油の膜が浮いてる。陽の光を受けて、かすかに光る。
「でもループの中じゃ、夕日は同じだよ。」深月が言う。
「そうかな?」湊は窓辺に立ったまま、外を見る。「俺には、今日の夕日は昨日とはちょっと違う気がするけど。」
深月もそばに立ち、同じ方を見る。
窓の外は中庭。雪に覆われた地面。あのコンビニの白い看板。河原の方角。空は灰色がかった白。雲は厚くて、太陽は見えない。午前中だ。夕方まで、まだ何時間もある。
「まだ夕方じゃないよ。」
「わかってる。」湊は言う。「でも、想像はできる。」
振り返り、深月を見る。
「想像できる?」
深月は言葉を失った。
想像してみる。空が灰色からオレンジに変わるのを。雲が金色と紫に染まるのを。太陽が沈んでいくのを。光が強さから優しさに変わるのを。影が長くなって、長くなって、やがて消えるのを。
長い間、想像した。
「わからない。」ようやく言った。「何度も見すぎて、もう区別がつかない。記憶の中でぜんぶ混ざって、同じ色、同じ形、同じ感じになってる。」
湊は黙っている。ただ窓の外を見て、コーヒーを手にしている。湯気が彼の顔の前で揺れ、輪郭をぼんやりさせている。横顔が、湯気の向こうに浮かんでは消える。未完成の絵みたいだ。
部屋の中は静かだ。自分の呼吸が聞こえる。湊がコーヒーをすする音が聞こえる。遠くの車の音。深月はあらためて部屋を見回す。
本棚に何冊か本が並んでいる。画集や技法書がほとんどで、文庫本も何冊か。背表紙に埃が積もってる。長い間、開かれてないみたいだ。その中の一冊、表紙は有名な夕日の絵――モネの『印象・日の出』。深月はその本を長く見つめた。
窓台に、コーヒーカップがいくつか置いてある。ぜんぶ白い陶器で、古めかしい形。湊が今持ってるのと同じやつだ。三つは空で、底に乾いたコーヒーの染みが残ってる。そのうちの一つ、縁に細かいひび割れ。一度落として、またくっつけたみたいだ。
窓台の反対側に、空のフォトフレーム。
木製。濃い茶色。細工は丁寧だ。でも中には何もない。白い裏紙だけが、陽の光の中でやけにまぶしい。
深月はその空のフレームを見つめた。胸の奥に、変な感覚が湧く。
「あのフレーム……」口にしていた。
「ん?」湊が振り返り、彼女の視線を追う。
「どうして空なの?」
湊は一瞬、フレームを見て、表情が硬くなった。うつむき、手の中のコーヒーカップを見る。数秒の沈黙。
「写真、入れてないんだ。」声は淡々としている。「というか、入れたい写真がない。」
深月はそれ以上、聞けなかった。でもわかった。この話の向こう側に、何かがある。彼が話したくない何かが。
6
深月は壁の前に立っていた。夕日の絵を、一枚ずつ見ていく。一枚一枚に日付が書いてある。鉛筆で、隅っこに。小さくて、よく見ないと見えない。
2013年12月24日。
2014年12月24日。
2015年12月24日。
……
ぜんぶ、12月24日だ。
深月の胸の奥が、冷たくなる。
振り返る。湊はまだ窓辺に立っている。背を向けて、何を考えているのかわからない。
「あなた……」声が震える。「12月24日の夕日だけ、描いてるの?」
湊の背中が、一瞬固まった。
振り返らない。でも、肩がほんの少し上がったのがわかる。
「そうだよ。」声は静かだ。「この日の夕日が、一番きれいだから。」
「どうして?」
長い沈黙。
長すぎて、雲がまた少し動いた。長すぎて、陽の光の角度がまた少し変わった。長すぎて、もう答えないのかと思った。
「この日はね。」ようやく、口を開いた。声はとても軽い。「両親が死んだ日なんだ。」
深月は息をのんだ。
「十二年前の12月24日。」湊は続ける。声は静かなまま。他人の話をしているみたいに。「二人とも、事故だった。俺は十四で、家で待ってたんだ。クリスマス、帰ってくるのを。」
窓の外を見ている。目が少し遠い。陽の光が彼の顔に当たって、瞳に淡い光が宿る。
「その日から、ずっとこの日の夕日を描いてる。それが、最後に二人を見た日だから。」
深月は何も言えなかった。
ただ立って、手の中のコーヒーカップを見ていた。カップはもう熱くない。ぬるい。ずっと握っていられる温度。
「ごめん……」やっと言えた。
「謝ること、何もないよ。」湊は振り返り、彼女を見る。「ずっと前のことだ。」
でも、その目が語っていた。過ぎてなんかいない、と。
琥珀色の瞳の奥に、深くて暗い悲しみ。氷の下に閉じ込められた湖みたいに。見えないけれど、確かに存在している。
深月はうつむいた。手の中のコーヒーを見る。
急に思い出した。自分がなぜ12月24日を選んだのか。この日が特別だからじゃない。誰も、この日を覚えてないからだ。クリスマスイブ。みんな忙しい。大事な人と過ごす。孤独な少女が消えても、誰も気づかない。
でも今、知った。湊にとって、この日は特別だった。
そして、彼女にとっても、この日はもう特別になっていた。
7
深月は立ち上がった。
「帰るね。」カップを机に置く。
「もう?」湊も立つ。「もう少しいたら?」
「ううん。」ドアに向かう。「コーヒー、ありがと。」
ドアを開け、廊下に出る。暗い廊下。人感センサーの灯りはまだ点かない。二歩、歩いて、止まる。
思い出した。
振り返り、ドアを押し戻す。顔だけのぞかせる。
「どうかした?」湊がドアの内側に立ってる。
「あのさ……」深月が言う。「絵、もう一回見てもいい?」
湊はうなずき、体を横にずらした。
部屋に戻る。今回は壁じゃなくて、イーゼルのそばへ行く。イーゼルの横に、画用紙の束。完成したのも、途中のも、積み重なって、小山みたいになってる。
かがんで、何枚かめくる。
そして、手が止まった。
画用紙の下から、一枚のスケッチが顔をのぞかせていた。一角だけ。その構図が、彼女の動きを止めた。コンビニの入り口、一人の人間が立っている。手にコーヒー缶。
そっと、上の紙をどかす。
鉛筆で描かれたスケッチ。線はシンプル。でも、正確だ。コンビニの入り口に立つ人。手にコーヒー缶。背中は孤独で、少し猫背。ゆったりしたパーカー。肩に落ちる髪。パーカーの紐。ズボンのしわ。スニーカーの輪郭。
顔は見えない。でも、孤独は見える。骨の髄まで染み込んだ、隠しようのない孤独。
自分だ。
心臓が、一瞬、止まった。
振り返る。湊はドアのそばで、カップを片付けている。背を向けていて、気づいてない。
「この絵……」声が震える。
湊が振り返る。彼女の手にあるスケッチを見て、表情が変わった。歩み寄る。足音が、いつもより少し速い。
「ああ、それ。」彼は言う。「なんとなく、描いただけ。」
「いつ?」
「覚えてない。」手を伸ばし、スケッチを取ろうとする。「たぶん、ある日、君がそこに立ってるのを見て。よく突っ立ってるだろ、ぼんやりと。コーヒー持って。」
深月は手を離さない。
スケッチを見つめる。孤独な背中。パーカーの輪郭。猫背。うつむく頭。だらりと下がった腕。握られたコーヒー缶。細部のひとつひとつが、あまりに自分で、胸が痛い。
「ずっと、見てたの?」
湊は黙った。
手が動き、そして下りた。
「ずっとじゃない。」やっと言った。「ただ、たまに。たまに、君がそこに立ってると、なんとなく……」
言葉を探している。
「なんとなく、すごく孤独そうだなって。」
深月の手が震え始めた。
「俺と同じくらい、孤独だなって。」湊が付け加えた。声はとても軽い。何かを壊さないように、そっと。
深月は手を離した。スケッチが、床にひらりと落ちる。振り返り、ドアに向かう。動きが速い。ほとんど走るように。
「深月――」後ろから声。
振り返らない。
ドアを開け、廊下に飛び出す。階段を駆け下りる。足音が響く。ドンドンドン、ドンドンドン。何かから逃げてるみたいに。
何から逃げてるのか、自分でもわからない。
でも、もしあと一秒でもあそこにいたら、自分が崩れてしまうと思った。
8
深月は201号室に戻り、ドアを閉めて、背中でもたれた。
部屋は暗い。カーテンは閉めたまま。電気もつけない。ただ、そこに立って、大きく息をする。手が震えてる。足も震えてる。全身が震えてる。
目を閉じる。頭の中はあのスケッチでいっぱい。孤独な背中。少し猫背の背中。うつむく頭。自分だ。
彼は、私を描いた。
いつから?どのループから?ずっと私を見てたの?ずっと?
彼の言葉が甦る。「すごく孤独そうだなって。俺と同じくらい孤独だなって。」
俺と同じくらい。
俺と同じくらい、孤独。
深月はゆっくりと、床に滑り落ちた。ドアにもたれ、両手で膝を抱える。心臓の音が、少しずつ落ち着いてくる。でも、変な感覚はまだ残っている。怖さじゃない。緊張でもない。もっと複雑な何か。胸の奥で、何かがほどけたみたいな。扉が、ほんの少し開いたみたいな。
思い出す。彼が夕日を描く姿。「夕日は消えるから」って言った声。差し出されたコーヒーの温度。窓辺に立つ背中。琥珀色の目。
思い出す。「信じるよ」って言った時の、あの静かな声。本当に信じてるみたいな。本当にわかってるみたいな。
このループの世界で。誰も覚えていない世界で。たった一人、信じるって言った人がいる。私を描いた人がいる。私も、自分と同じくらい孤独だって言った人がいる。
初めて、独りじゃないと思えた。
でも、これもまた初めてだった。怖いと思ったのは。
何が怖い?これも幻覚なのが怖い?彼も明日には忘れるのが怖い?それとも……この温もりに、すがりたくなるのが怖い?
わからない。
ただ一つだけわかる。心臓が、こんなに速く打ったことはない。
9
第1082回目のループ。
午前6時2分。目覚ましが鳴る。
深月は目を開け、真っ先にノートを見た。
ある。最初のページに、自分で書いた文字がある。
「第1074回目。ひとりに出会った。」
「第1075回目。彼に、ループを証明する。」
「第1081回目。彼が描いた自分を見た。」
最後の一行を、長いこと見つめる。
ノートを閉じ、起き上がる。
今日は、何をしよう?
昨日――いや、前のループでのことを思い出す。湊の部屋。夕日だらけの壁。窓台の空のフォトフレーム。私を描いたスケッチ。そして彼の言葉。「俺と同じくらい孤独だ。」
会いに行くべき?
それとも……隠れるべき?
深月はベッドの端に座り、窓の外を見る。空は灰色がかった白。いつもと同じ。コンビニの灯りが消えたばかり。中庭の雪は、まだ踏まれていない。何も変わってない。
でも、私が変わった。
変わった。もう、ただリセットを待つ囚人じゃない。会いたい人ができた。確かめたいことができた。逃げたいものができた。
立ち上がり、窓辺へ。カーテンを開ける。灰色の朝の光が差し込む。302号室の窓を見る。カーテンは閉まったまま。中は見えない。
彼は、私がここで見てること、知らない。
私が今、彼のこと考えてること、知らない。
深く息を吸う。振り返り、洗面所へ。
洗顔、着替え、外出。毎回と同じ。コンビニに入り、ツナサンドとホットコーヒーを取り、金を払い、外に出る。
でも、今回は、待たない。
コンビニの階段に座る。自分のコーヒーを飲みながら、行き交う人を見る。あの中年男がコンビニに入り、本を買い、バス停へ消える。あのサラリーマンが電話ボックスで大声で繰り返す。「次は絶対行くから」。あのカップルはまだ――時間が早い。
それらを見ながら、考えてるのは、別の人のこと。
彼は今日、何を買う?三秒迷うかな?私のこと、覚えてるかな?私が来なかったこと、気づくかな?
わからない。
でもわかる。ちょっとだけ、一人になりたかった。
10
昼。深月は、湊がアパートから出てくるのを見た。
あの生成り色のセーター。ゴミ袋を手に、ゴミ箱へ。捨てて、立ち止まり、空を見る。長い間。
それから、戻って行った。
コンビニには、行かなかった。
深月はうつむき、手の中のコーヒーを見る。MAX COFFEE。最近、飲み始めたやつ。彼が「買いすぎちゃって」って言うから。一口含む。冷めてる。ほんのわずかに温かい、苦いだけ。
思い出す。コーヒーを差し出す彼の手。「目、すごく疲れて見える」って言った声。目を細めて、ほんの少し笑った顔。
急に、会いたくなった。
でも、動けない。
ただ座って、302の窓を見てる。カーテンが半分開いて、イーゼルの輪郭。その前に座る人影。絵を描いてる。何を?夕日?それとも、私?
わからない。
夕方。深月は中庭に戻る。夕日が沈みかけ、雪を淡い金色に染めてる。顔を上げ、302の窓を見る。灯りがついてる。暖かい黄色。夕暮れに、やけに優しく見える。
立ち尽くして、見つめる。
長い間。
それから、振り返り、アパートへ。201号室に戻る。
深夜。
ベッドに横たわり、上の階の音を聞く。
ギシ、ギシ、ギシ。
変わらず、軽く、ゆっくり、均等に。一歩、一歩。部屋の端から端まで。そこで止まり、また戻る。
コーヒーメーカーの音。ゴボゴボ。注ぐ音。微かな足音。椅子を引く音。そして、静けさ。
想像する。窓辺に座り、コーヒーを手に、夜景を見てる彼を。コンビニの白い灯りを見てるのかな。遠くの街のネオンを見てるのかな。それとも、窓ガラスに映る自分自身を見てるだけかな。
わからない。
でもわかる。彼は、そこにいる。
寝返りを打つ。天井を見る。ひび割れは、まだある。左上から照明の根元まで。でも初めて、それが怖くないと思った。
ただのひび割れだ。
そして、私の上には、歩く人がいる。コーヒーを入れる人がいる。絵を描く人がいる。ぜんぶがリセットされるこの世界で、ただ一人、変わらずにいる人。彼がリセットされないからじゃない。私の目の光を、覚えているから。
枕元からノートを取る。最初のページを開く。
空白に、新しい一行を書き足す。
「第1082回目。彼に会いに行かなかった。」
その一行を、長く見つめる。
そして、もう一行。
「でも、彼がそこにいることは、知っている。」
書き終え、ノートを閉じる。横になる。
上の階から、また足音。ギシ、ギシ、ギシ。
目を閉じ、その音を聞く。彼の歩く姿を想像する。少し猫背の背中。琥珀色の目。
思う。明日、会いに行こうかな。
わからない。
でもわかる。もう、独りじゃない。




