第一章 最初の囚人
1
午前6時2分。目覚ましが鳴った。
ピッ、ピッ、ピッ。
深月は目を開けた。天井には、あのひび割れがまだあった。左上の隅から照明の根元まで伸びるそれは、稲妻の軌跡であり、決して癒えない傷跡だった。
何度見たか。数えようとしたけど、頭の中は綿を詰められたみたいにぼんやりしている。
数えるのをやめてから、時間はドロドロに溶けた糊になった。あの正の字の羅列、ノート一冊を埋め尽くした数字のすべては、やがて一つの焼き印になった――1073。
第1073回目。
そして昨夜。いや、ついさっき?ここじゃ時間なんて意味ないけど。屋上で会ったあの人。
冬木湊。
彼の言葉がまだ耳の奥にへばりついてる。「ループのことは覚えてない。でも、君の目は覚えてる。ループを重ねるたび、お前の目はもっと絶望の色を濃くしていく。今日は第1073回目だ。」
そして、差し出された手。
「今回だけは、俺にも一緒に見させてくれよ。お前が嫌いなこの世界に、何か残る価値のあるものがあるかどうかを。」
深月は手を目の前に掲げ、自分の指を見つめた。爪、ちょっと伸びてる。ちゃんと切ろうと思わないから、いつもガタガタ。指は寒さで青白くて、関節のあたりは乾燥で赤くなってる。ひび割れたみたいに。
この手は、1073回のループの中で、何度も同じことをしてきた。同じサンドイッチを手に取り、同じ缶コーヒーを握りしめ、同じエレベーターのボタンを押した。でも昨夜、いや、ついさっき、初めて、誰かが差し出す手を見た。
たとえその手を握らなくても。
たとえ今もそれが幻覚だったかもしれないって思ってても。
深月は体を起こした。布団が腰のあたりにずり落ちる。部屋、冷え切ってる。暖房、まだ入ってない。吐く息が白い。小さな溜め息の塊みたいに。ひとつ、震えた、あの感覚のない機械的な震えじゃなくて、本当に寒い。
この感覚、すごく久しぶり。
もうずっと、何かを本当に「感じる」ってことをしてこなかった。暑さも寒さも空腹も眠気も、長いループの中で少しずつ薄れて、使い古したカーボン紙みたいに、最後にはかすかな跡だけ残して、ほとんど気づけなくなってた。
でも今日は違う。
寒い。鼓動を感じる。ドクン、ドクン、ドクン、一つ一つが重くて、胸を突き破りそう。右手を左胸に当てる。肋骨ごしに伝わる鼓動。この確かな、力強い振動を、こんなにはっきりと感じたこと、あったっけ。
言葉にできない緊張感もある。見えない手が胸の内側をそっと押してるみたいに。痛くない。ただ、そこにある。
あの人……本当にいた?
それとも、長いループの果てに、ついに幻覚を見るようになった?
わからない。
でも、彼の目を思い出す。琥珀色の、冬の湖面みたいに静かな目。その奥に、私には読めない何かを隠して。
決めた。
今日、彼を見つける。
2
深月は布団を跳ねのけ、裸足で畳に降りた。
足の裏から伝わる冷たさに、また震える。足の指が本能的に縮こまった。自分の足を見下ろす。指先は冷えで白くて、爪は伸び放題で縁はガタガタ。親指の爪に白い横線、ずっと前に机の角にぶつけてできた跡。ループの中でも、それは消えたことがない。
切らなきゃ。
そう思った。そして、はたと気づく。ループが始まってから初めて、「何かをしたい」と思った。強制された機械的な繰り返しじゃなくて、本当に「したい」と思った。
この感覚も、すごく久しぶり。
部屋は六畳の和室。ベッドと小さな机とクローゼットを置けば、それでいっぱい。壁はクリーム色だけどところどころ黄ばんでて、窓際には染みが広がってる。引っ越したばかりの頃は管理人に連絡しようと思ったこともあった。でも忘れた。やがて気にしなくなった。
机の上はコンビニの袋と空き缶の山。一度片付けようとした。でもループがリセットされるたびに、また同じ場所に現れる。だからやめた。今じゃそれは小さな山になってて、いくつかの缶には乾いたコーヒーの染みが、朝の光の中で鈍く光ってる。一番上の缶は逆さまになってて、口の周りに茶色い輪染みがこびりついてる。忘れ去られたものみたいに。
窓辺に、多肉植物の鉢。
葉はとっくに枯れた。くしゃくしゃに丸めた紙みたいに茶色く縮れてる。土は干上がってひび割れ、乾いた大地みたい。その割れ目の奥には、下に敷いた白い軽石さえ見えてる。この多肉植物、引っ越したばかりの頃に買った。あの頃、深月はまだ普通の大学生で、部屋に緑を置いて、生活を少しでも「まとも」に見せようとしてた。あの頃はまだ、授業に出て、同級生と話して、週末には実家に帰って両親にも会ってた。
それは、いつのことだろう。
ループの中じゃ、時間は意味を持たない。わかるのは、その後、私が休学して、水をやらなくなって、そしてそれが枯れたってことだけ。
なぜ捨てなかったんだろう。わからない。
もしかすると、すべてがリセットされるこの世界で、この枯れた多肉植物だけは、決して変わらないものだからかもしれない。それは決して生き返らないし、これ以上枯れることもない、ただそこに存在して、沈黙の証人として、私のループのたび、目覚めのたび、絶望のたびを見守ってる。時々、深月はそれを眺めながら考える。もしループが終わったら、これはどうなるんだろう。突然生き返る?それともこのまま枯れ続ける?
わからない。
深月は洗面所へ向かい、ドアを開けた。
洗面所は狭い。洗面台とトイレと浴槽がようやく収まるだけ。浴槽は古びた浅型で、白い琺瑯は黄ばみ、縁には長年水が溜まってたことを示すような茶色い汚れが一周してる。洗面台の上の鏡は長方形で、縁の銀色メッキは剥がれ落ち、黒い下地がところどころ露出してる。皮膚病みたい。
蛇口をひねると、水が勢いよく流れ出た。最初は冷たい。温かくなるまで少し待たないといけない。でも深月は待たなかった。両手で冷たい水をすくい、顔に浴びせた。
刺すような冷たさに息を呑む。顔中が針で刺されたみたいで、皮膚が一瞬で引き締まる。水滴が頬を伝って落ち、洗面台にポタポタと音を立てる。もう一度、もう一度。顔中ビショビショになって、まつげに水滴が宿り、前髪が額に貼りつき、雫が先端から滴り落ちて、洗面台に小さな水たまりができた。
顔を上げて、鏡の中の自分を見る。
乱れた黒い髪。濡れて額に貼りつく前髪。窪んだ目に、ひどいクマ。殴られた跡みたいに青紫色に広がるそれが、目尻から頬骨にかけて影を落としてる。肌は青白い。長く陽に当たってない者の肌。あるいは、日の当たらぬ場所でひっそりと育つ植物みたいな、頼りない白さ。
唇は乾燥でひび割れ、皮がむけ、色を失ってる。舌で舐めると、かすかに鉄の味がした、血の味。下唇の真ん中に小さな裂け目があって、そこから真っ赤な血の滴が滲み出てる。青白い唇の上で、それがひときわ鮮やかに映る。
じっと、鏡の中の自分を見つめる。その目を。
黒い、底なしの黒。光がない。感情がない。生気がない。二つのブラックホールみたい。すべてを飲み込むけど、何も残さない。大きく見開こうとしてみる。目に何か光を取り込もうとしてみる。でも、何もない。
湊の言葉が蘇る。「君の目、死んでるみたいだ。」
その通りだ。
自分の目には、何もない。
鏡の中の自分を、長いこと見つめてた。鏡の曇りが消え、顔の水滴が乾き、張りつめた肌とわずかな冷たさだけが残るまで。それからようやく視線を外し、タオルで顔を拭いた。灰色のタオルは縁が毛羽立ってて、肌にあたるとざらつく。かすかにカビ臭い。
部屋に戻り、クローゼットを開ける。
引き戸を押すと、ギイッと軋む。中には、数着の服が掛かってる。グレーのパーカーと紺のパーカー。一本のジーンズ。冬用のコート。下に数枚のTシャツやインナーが畳んであって、どれも灰色、黒、紺、くすんだ色ばかり。
紺のパーカーを手に取った。着てるグレーのよりは厚手で、少なくとも外で凍えはしないだろう。生地はちょっと硬い。洗いすぎて、表面の起毛は擦り切れてる。パジャマを脱ぎ、パーカーとジーンズに袖を通す。最後にスニーカーを履いた。白いはずのそれは黄ばんでて、靴紐は固く結ばれ、靴底の縁は擦り減ってる。歩くと擦れる音がする。
玄関に立ち、ドアノブに手をかける。
金属の冷たさが手のひらに沁みる。指先がしびれるくらい。息を深く吸い込む。冷たい空気が肺を満たす感覚。かすかな埃の匂いも混じってる。
もし、あの人が幻覚だったら、もし302号室に誰もいなくて、すべてが私の頭の中の妄想だったら――せめてそれを確認できる。そうすれば、第1074回目のループを続ければいい。
もし、あの人が本当だったら……
それ以上、考えるのを拒んだ。
ドアノブを押し下げ、ドアを開ける。
廊下の光が差し込んだ。
3
アパートの廊下は、静まり返ってる。
深月の部屋は二階の201号室。廊下の床はクリーム色のタイルだけど、ところどころ擦り減って灰色のコンクリートが剥き出しになってる。まるで禿げた跡みたい。タイルの目地には黒い汚れが染み込んで、いくら拭いても落ちない。壁には色褪せたお知らせが貼ってある。ゴミの分別とか廊下に物を置くなとか。紙の端は丸まって、文字はかすれてほとんど読めない。かろうじて上部の「重要なお知らせ」って見出しだけが、赤マジックで囲まれてるのがわかる。
廊下の両側には、閉ざされたドアが並んでる。202、203、204……どれも同じような濃い茶色の木製ドア。金属製の部屋番号プレート。ドアノブにはいろんなものが掛かってる。「起こさないでください」の札。小さな消臭剤。風鈴。風鈴は、廊下を流れるわずかな空気の動きでかすかに揺れるけど、音はしない。202号室のドアには、色褪せた正月飾りが貼ってあって、「2023」の文字がぼんやり浮かんでる。
深月はそれらの前を、足を止めずに通り過ぎる。
もう、1073回も通った道。
階段は廊下の突き当たり。鉄製で、足を乗せるたびにギシギシ軋む。段の縁は擦り減って滑らかになり、薄暗い照明の下で鈍く光ってる。踊り場の窓から、アパートの中庭が見える。積もった雪と、24時間営業のコンビニ「サニーマート」が。
あの白い灯り、今日も点いてる。
深月は立ち止まり、窓越しにその灯りを見つめた。小さな平屋のコンビニ。ガラス張りのドアの向こうには、棚が整然と並んでるのが見える。入り口に赤い自動販売機が置かれて、いろんな飲み物の広告が貼られてる。雪はその販売機の底に積もり、氷になってる。灯りの下でそれは淡い青い光を放ち、小さな氷の結晶の欠片みたい。
この灯りを、深月は1073回見てきた。
毎回、まったく同じ。まるで、決して閉じることのない一つの眼のように。
でも今日は、その灯りがやけにまぶしく感じられた。生理的なまぶしさじゃない。心理的なもの――明るすぎる。頑固すぎる。消えることを拒んでるみたいに。すべてがリセットされるこの世界で、なぜそれはこうして、揺るがずにあり続けられるんだろう。
深月は視線をそらし、さらに階段を上った。
三階の廊下は、二階とほとんど変わらなかった。同じタイル。同じ壁。同じ色褪せたお知らせ。空気の匂いさえも同じ。消毒液と埃が混ざり合ったような、決して快適とは言えない匂い。病院と古い倉庫を足して二で割ったような、そんな匂い。
302号室は、廊下の中ほどにあった。
深月はその前に立ち、ドアを見つめた。濃い茶色の木製ドアは、201号室のとまったく同じ。違うのは、プレートの数字だけ――「302」。活字体の数字は、ドアの中央よりやや上の位置に貼られてて、その端は少し浮き上がってる。いつ剥がれ落ちてもおかしくない。ドアノブには何も掛かってない。何もない。金属だけが、薄暗い照明の下で、かすかな光を反射してる。
手を上げて、ノックしようとした。
そこで、止まった。
なんて声をかけよう?
「おはようございます。あなた、昨夜屋上で私に話しかけませんでしたか?」
こんなこと言ったら、誰だって頭おかしいと思うよね。自分が昨夜屋上で言ったことなんて、普通の人が覚えてる?誰かが1073回もループを経験してるなんて、信じる?
深月は唇を噛んだ。手を宙に浮かせたまま。鼓動が速くなるのがわかる。ドクン、ドクン、ドクン、一つ一つが鮮明に、誰かが胸腔の中で太鼓を打ってるみたいに。
もしかしたら、一度戻るべき?様子を見るべき?湊が本当に覚えてるのか、まず確かめるべき?夜まで待って、もっと適切なタイミングで来るべき?もしかすると、ドアは、開かなかった。
彼女はそこに立ってた。長い時間、立ってた。長すぎて、廊下の突き当たりの音感知式の照明が消え、周囲が薄暗くなった。部屋番号の数字だけが、かすかな光を反射してる。長すぎて、腕が痺れ始め、ゆっくり下ろした。
そして、手を下ろし、背を向けて去った。
ノックはしなかった。
4
深月は階段を下り、アパートの外へ出た。
冷気が肌を刺す。身を縮める。空は灰色がかった白で、低く垂れ込めた雲は、今にも雪が降り出しそうな気配を漂わせてる。空気に、雪の降る前に特有の匂い。湿り気を帯びた、澄んだ、そしてどこか言葉にできない期待を含んだような匂い。両手をパーカーのポケットに突っ込むと、底に開いた穴に指が触れた。昨日と同じ。一昨日と同じ。ループのたびに、同じ。
コンビニへ向かう。
自動ドアが開き、無機質な電子音。「いらっしゃいませ」。
店内の暖房がよく効いてて、冷え切った体を包み込む。凍えてた頬がじんわり痺れ、指先に感覚が戻ってくる。店内に、かすかにおでんの香り。コーヒーと消毒液の匂いが混じり合ってる。見慣れた棚へ向かい、ツナサンドイッチを手に取る。同じ場所。同じメーカー。同じ包装。透明なプラスチック包装に印字された賞味期限を一瞥する。12月24日。
毎日、この日付。
次に飲料ケースへ向かい、缶コーヒーを手に取る。同じ場所。同じ温度。缶の小さな凹みさえも、同じ位置。
レジに立つのは、夜勤のアルバイト店員。野球帽を深くかぶり、顔はほとんど見えない。顎と唇がかろうじて確認できるだけ。彼はサンドイッチとコーヒーを受け取り、バーコードを通し、金額を告げ、金を受け取り、釣り銭を渡す。その一連の動作、三十秒とかからない。
でも、彼の視線が一瞬、私の背中に留まった。
深月はわかってる。毎回、その視線が背中に落ちるのを感じてる。それはまるで、ひどく軽い羽根のようであり、音なき溜め息のようでもある。でも、決して振り返らなかった。どうせ明日もまた同じ一日。どうせ誰も覚えてない。
店を出て、入り口に立つ。
冷たい風が襟元から忍び込む。首をすくめた。
そのとき、湊を見つけた。
彼は自動販売機の前にしゃがみ込んで、首をかしげ、中に並んだ飲み物をじっと見つめてる。何を買おうか、真剣に考えてるみたい。昨夜と同じ、あの生成り色の古いセーター。袖口は伸びて少し緩み、細い手首が覗いてる。白い肌の下に、青い血管が透けて見える。髪は昨夜よりもさらに乱れてる。起きたばかりでまだ整えてないんだろう。何本かの前髪が、左目を覆い隠してる。
深月はその場に立ち尽くし、彼の横顔を見つめた。
高い鼻梁。少し垂れた目尻。薄い唇が、一直線に引き結ばれてる。その表情、ひどく集中してるみたい。この世界には、自分とこの自動販売機しか存在しないかのように。雲の切れ間から差し込む朝の光が、彼の顔に淡い陰影を落とし、その横顔を一枚の絵みたいに見せてる。
昨夜、屋上にいたあの人と、まさに同じ姿。
でも、昨夜の記憶……本当にあったこと?
「何、見てんの?」
突然、湊が顔を向けた。
深月は咄嗟に視線を逸らしそうになった。でも、こらえた。歩み寄り、彼の前に立つ。そして、その目を見据える。琥珀色の、朝の光の中で透き通るように見える目。ビー玉のようでもあり、冬の湖面の浅瀬のようにも見える。澄んではいるけど、その底は見えない。
「あなた……。」声がかすれた。長いこと使ってなかった楽器みたいに。「昨夜のこと、覚えてますか?」
湊は首をかしげ、困惑した表情。
「昨夜?」彼は言った。「午前3時まで原稿描いてたけど。どうかした?」
深月の心臓が、沈んだ。
やっぱり、覚えてない。
一体、何を期待してたんだろう。
「……なんでもない。」背を向けようとした。
「ちょっと待って。」背後から、湊の声。「その目……」
深月は、立ちすくんだ。
「……すごく疲れて見える。」湊は立ち上がり、缶コーヒーを手にしてた。自動販売機の、アルミ缶のやつ。まだ湯気が立ってる。彼はそれを差し出した。「飲む? 買いすぎちゃってさ。」
深月は、差し出された缶を見つめた。一番ありふれた銘柄。MAX COFFEE。自分から選んで買うことはないやつ。アルミ缶の熱が、指先から伝わる。コンビニのホットコーヒーより、ちょっと熱い。指が痺れるくらい。缶を握りしめながら、その温もりを感じてる。
「名前、何ていうの?」湊が尋ねた。
「……雪村深月です。」
「俺、冬木湊。302の。」彼はほんのわずかに微笑んだ。ほとんど笑ったのかどうかもわからないくらい、かすかなもの。でも、目がわずかに細められ、目尻にうっすらと笑い皺が寄った。「今度会ったら、声かけてよ。」
深月は言いたかった。『次なんてない』って。でも、言えなかった。
彼女はその缶コーヒーを握りしめたまま、朝のコンビニの入り口に立ち、湊の背中がアパートへ消えていくのを見送った。彼の歩みは、とても遅かった。数歩進んでは、ふと立ち止まる。道端の雪を見つめてるのか、それとも単にぼんやりしてるだけなのか。アパートの入り口まで来ると、足を止め、空を見上げた。それからドアを押し、中へ入っていった。
深月はその場に立ち尽くし、そのドアが閉まるのを見つめてた。
うつむき、手の中のコーヒーを見る。アルミ缶の熱は、少しずつ失われつつある。でも手のひらにはまだ、さっきの温もりが残ってる。缶を鼻先に近づけ、匂いを嗅ぐ。普通のインスタントコーヒーの匂い。コンビニのとは違って、もっと苦い。
プルタブを開け、一口、含んだ。
熱い。苦い。慣れ親しんだ味じゃない。でも、そこに立ち続け、少しずつ、飲み干した。飲み終わる頃には、コーヒーはすっかり冷めてた。ほんのわずかな温もりだけが、かすかに残ってる。
空き缶をゴミ箱に投げ入れた。ガチャンって、乾いた音。
そして、歩き出した。
5
この日、深月は初めて「ループを解明しよう」としなかった。
何かを確かめようとも、誰かの運命を変えようともしなかった。ただ、歩いた。そして、見た。
朝の7時15分。あのくたびれたスーツの男が、時間ぴったりにコンビニの前に現れた。灰色のスーツは古びて、肩のあたりはしわくちゃで、袖口は擦り切れてツルツル光っている。糸のほつれさえ見えた。彼はコンビニに入り、雑誌棚の横の文庫本コーナーへ向かった。そして一冊の本を手に取る、毎回、同じ本だ。
深月はコンビニの向かい側、自動販売機の脇に立って、その背中を見つめていた。
彼はレジに進み、本をカウンターに置いた。
その動作は、ひどく優しかった。
まるで、大切なものを扱うかのように。
深月は、彼が店員にお金を渡すのを見た。本を鞄にしまうのを見た。コンビニを出るのを見た。ドアをくぐるとき、彼は空を見上げ、ほんの少し眉をひそめた。雪でも心配しているみたいに。それから、鞄を抱え込むようにして、バス停へ歩いていった。
彼は家には帰らない。バス停へ向かうのだ。
深月は、彼の背中がバス停の人混みに消えていくのを、ただ見送った。追いかけはしなかった。
昼休み。あのサラリーマンがアパートの下、電話ボックスの脇で電話していた。白いシャツの袖は肘までまくり上げられ、ネクタイはだらりと垂れ、襟のボタンが一つ外れている。髪は乱れていた。風のせいか、自分でかき回したのか。声は大きかった。通り中に響き渡るほどだ。「パパが悪かった。次は絶対行く。絶対行くから……」
彼は「絶対行く」を繰り返していた。電話の向こうの相手を説得しているのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか。電話を握る手が震え、肩も震えていた。
深月は彼の横を通り過ぎるとき、その目尻が赤く滲んでいるのを見た。
夕方5時30分。あの若いカップルが、コンビニの前で喧嘩していた。彼女はピンクのダウンを着て、マフラーをきつく巻きつけ、赤くなった目と鼻だけをのぞかせている。彼は黒いコートを着て、うつむいたまま、両手をポケットに突っ込み、「わかってる、わかってる」と繰り返すだけだ。
「あんたなんて、全然気にしてないんでしょ!」彼女の声は鋭く、涙混じりだった。「私がいなくなったら、すぐ忘れるんだから!」
彼は何も言わなかった。ただうつむいたまま、手をポケットに入れている。
深月が横を通りかかると、彼のポケットが微かに震えているのが見えた。
黄昏時。犬の散歩をする老婦人が、柴犬を連れて川辺をゆっくり歩いていた。柴犬は茶色がかった黄色で、ふわふわの毛に包まれている。数歩進んでは振り返り、飼い主を待つ。尻尾はプロペラみたいにぶんぶん振れている。老婦人は濃い灰色のコートに、マフラーをしっかり巻き、毛糸の帽子をかぶっていた。歩く速度はとても遅く、一歩一歩が慎重だ。滑らないか心配しているかのように。
深月は川の土手に立ち、その犬を見つめた。
本当に、ずっと振り返るんだ。
一回や二回じゃない。毎回だ。数歩歩いては振り返り、飼い主を確認し、また歩き出す。また数歩で振り返る。その目は黒くて、澄んでいて、キラキラしている。飼い主がまだそこにいるか、確かめているみたいに。
老婦人は時々立ち止まり、犬に何か話しかける。犬は駆け戻ってきて、彼女の脚にすり寄り、また歩き出す。
深月はそこに立ち、長いことそれを見ていた。
風が川面を渡り、冷たさが漂う。ポケットに手を入れると、またあの穴に指が触れた。
6
夕方。深月はアパートの中庭に戻ってきた。
夕日が沈みかけていた。空一面がオレンジ色に染まり、それはゆっくりと薄紫へと変わっていく。地平線の端っこには、細い金色のラインが残されていた。雪は夕日を受けて淡い金色に輝き、まるで金粉を撒いたようだった。巨大な琥珀のようにも見えた。アパートの影は長く伸び、中庭の反対側まで届き、地面の半分を闇に包み込んでいる。
コンビニの看板が、ちょうど灯ったところだった。
あの白い灯りは、オレンジ色の夕闇の中で、ほんのりかすんで見えた。水で薄められたみたいに。あるいは夕日に負けているみたいに。もうしばらくすれば、夜が本格的に訪れ、あのまぶしい光を取り戻すのだろう。でも今は、ただ静かに灯っている。待っている子供のように。
深月は顔を上げ、302号室の窓を見た。
カーテンが半分開いていて、イーゼルの輪郭と、その前に座る人影が見えた。絵を描いているらしい。横顔で、表情までは見えない。夕日が窓から差し込み、その横顔を金色に縁取っていた。髪の毛の先までもが、淡く輝いている。
湊だ。
深月はそこに立ち、その窓を見つめた。
彼は下を見ようとしない。ただそこに座り、描き続けている。時々手を止め、首をかしげて絵を眺め、また筆を動かす。時々立ち上がり、二、三歩下がって全体を確かめ、また腰を下ろす。その動作のひとつひとつが、とてもゆっくりで、静かだ。まるで、とても大切な儀式のように。
今朝、彼が差し出してくれた缶コーヒーを思い出した。「目、すごく疲れて見える」と言った言葉を。微笑んで、目を細めた表情を。歩くときの、のんびりとした、まるで散歩しているような後ろ姿を。
何を描いているんだろう。
急に、知りたくなった。
夕日は、少しずつ沈んでいく。光はオレンジから暗い赤へ、そしてやがて建物の向こうに消えた。空は赤から紫へ、紫から深い藍色へ。コンビニの白い灯りが、だんだんと明るさを増してきた。ようやく何かから解放されたかのように。
湊の部屋の窓に、灯りがともった。
暖かい黄色い光が、カーテンの隙間から細く漏れ出し、地面に淡い影を落としている。灯りがついたとき、人影がふと動き、またすぐに座り直した。
深月は視線を戻し、アパートの入口へ向かった。
建物に入るとき、もう一度、あの窓を振り返った。
灯りは、まだついていた。
7
深月は201号室に戻った。
部屋は暗い。彼女は灯りをつけなかった。窓辺に立ち、外の夜景を見る。コンビニの灯りは、まだついている。頑固な見張り番みたいに。302号室の窓も、灯りがついている。暖かい黄色で、コンビニの白い光よりずっと柔らかい。
引き出しから、あのノートを引っ張り出した。
表紙は星空の柄だ。濃い藍色に、金色の星が散りばめられている。星の箔はところどころ剥がれ、下地の白が見えている。大学に入ったばかりの頃に買ったものだ。あの頃は、まだいろんなものを信じていた。未来を、希望を、毎日が新しいってことを。最初のページに「今日から大学生活」かなんか書いたっけ。あとで破り捨てたけど。
今ではそのノートは埃をかぶり、表紙は黄ばみ、角は丸まっている。開くと、古びた紙の匂いがした。長い間しまい込まれていた古本みたいに。
最初のページを開く。
白紙だ。
二ページ目を開く。
やっぱり白紙。
第1回目から第1073回目まで、彼女は何も記録しなかった。意味なんかなかったから。誰も見ない。誰も気にしない。何も残らない。たとえノート一冊書き尽くしても、次の日には全部リセットされて、文字は消えてしまう。
でも、今は……
ペンを手に取り、最初のページに一行、書き入れた。
「第1074回目。ひとりに出会った。」
ペン先が紙を走る。サラサラという音。インクがざらついた紙の上でじわっと滲み、わずかに盛り上がった跡を残す。薄暗くてよく見えないけど、指で触れるとわかる。
その一行を、長いこと見つめた。
それからノートを閉じて、枕元に置いた。
8
深夜。
深月はベッドに横たわり、天井を見つめていた。ひび割れは、まだそこにある。左上の隅から照明の根元まで伸びている。数えきれないほど見てきたそのひび割れを、今日初めて、ちゃんと見た。一直線じゃない。枝分かれしている。稲妻のように、木の枝のように、何かうまく言い表せないもののように。主だった割れ目は途中で三つに分かれ、ひとつは右へ、ひとつは下へ、もうひとつはまっすぐ先へ伸びている。まるで川の分流みたいだ。
照明は古い型で、丸いガラスのカバーがついている。中には三つの電球。そのうち二つは点いていて、一つは消えている。いつ切れたのか、このループの中でずっとそのままだった。一度替えようと思ったこともあったけど、忘れてしまった。
上の階から、微かな音。
ギシ、ギシ、ギシ。
足音だ。とても軽く、ゆっくりしている。誰かを起こさないように気をつけているみたいに。一歩、一歩。部屋の端から端まで歩き、そこで少し止まり、また戻ってくる。歩と歩の間隔は一定で、何かを測っているみたい。それとも、ただ歩くのが好きなだけか。
深月はその足音を聞きながら、初めて気づいた。そういえば、上の階からはずっと音がしていたんだ。
過去1073回のループで、上の階の音に気づいたことは一度もなかった。いや、どんな音にも気づかなかった。ただ生きていた、いや、存在していただけだ。世界はミュートのかかった絵みたいなものだった。登場人物はみんな絵の中の人。動いているけど、声はない。音はただの背景で、空気みたいにそこにあるだけで、彼女の意識に届くことはなかった。
でも今は、聞こえる。
足音が止んだ。次に、コーヒーメーカーの音。ゴボゴボっていう、湯の沸く音。天井ごしに、くぐもって、でもはっきり届いてくる。それから、コーヒーを注ぐ音。微かな足音。椅子を引く音。そして、静寂。
湊は、こんな夜中に誰のためにコーヒーを入れているんだろう。
たぶん、自分のため。
たぶん、誰のためでもない。
想像してみる。彼が窓辺に座って、コーヒーカップを手に、外の夜景を見ている姿を。コンビニの白い灯りを見ているのかもしれない。遠くのネオンを見ているのかもしれない。あるいはただ、窓ガラスに映る自分の影を見ているだけかもしれない。
わからない。
寝返りを打つ。窓の方を見る。カーテンの隙間から、一筋の光が漏れている。コンビニの白い灯りだ。壁に細い光の帯を落としている。
今朝の缶コーヒーの味を思い出した。湊が差し出したときの、指の温度を思い出した。「今度会ったら、声かけてよ」って言った言葉を。
「今度」なんて、あるんだろうか。
でも、見てみたい。
9
ループの中で初めて、深月は「やりたいこと」を見つけた。
ループを解くためじゃない。運命を変えるためじゃない。何かを証明するためでもない。ただ、見てみたいだけ。
あの中年男は、なぜ毎回同じ本を買うのか。本を抱えてバス停に向かうとき、あの男はどんな顔をしているのか。誰に会いに行くのか。その本には、何が書いてあるのか。
あのカップルは、なぜ毎日喧嘩するのか。喧嘩のあと、彼はどこへ行くのか。彼女はどれだけ泣くのか。明日になったら、また会うのか。
あのサラリーマンは、電話で誰に謝っているのか。向こうは誰だ。娘か。彼は何をやらかしたんだ。「次は絶対行く」っていう言葉は、本当に実現するのか。
あの老婦人は、なぜ川辺で犬の散歩をするのか。犬に話しかけるとき、何を言っているのか。夕日を見るとき、何を思っているのか。
湊を見てみたい。
なぜ彼は一人で302号室に住んでいるのか。なぜあんなにたくさん、夕日を描くのか。なぜ屋上で、あんなことを言っておきながら、覚えていないのか。コーヒーを入れるとき、階下で誰かがその音を聞いているなんて、想像したことはあるのか。
わからない。
でも、見てみたい。
窓の外で、コンビニの灯りがまだついている。
上の階で、また足音が聞こえてきた。
深月は目を閉じる。まぶたの裏に、ぼんやりとした光の輪が浮かぶ。コンビニの灯りがまぶたを通して差し込む、オレンジがかった光だ。ほんの少し、温かい。
明日もまた、12月24日。
でも明日は、あの喧嘩してるカップルを見に行こう。
10
眠る前に「期待」するなんて、初めてだった。
興奮するような、強い期待じゃない。もっと軽い、ほとんど気づかないくらいの感覚。誰かが心の底に、そっと羽根を置いていったみたいな。とても軽いけど、確かにある。
明日、何が見えるのかわからない。もしかしたら何も変わらないかもしれない。あのカップルはまた喧嘩するだろう。あの中年男は本を買うだろう。あのサラリーマンは電話するだろう。あの老婦人は犬の散歩をするだろう。全部、今日と同じ、昨日と同じ、過去1073回と同じ。
でも、もしかしたら……
もしかしたら、何か、違うかもしれない。
あの人たちが変わるんじゃない。私が変わるんだ。
目を閉じて、上の階の足音に耳を澄ます。ギシ、ギシ、規則正しい、優しいリズム。この世界にはまだ、歩いている人がいる。コーヒーを入れている人がいる。絵を描いている人がいる。それを教えてくれているみたいに。
湊の目を思い出す。琥珀色で、透き通っていて、冬の湖面みたいだった。「目、すごく疲れて見える」って言ったときの声を思い出す。同情でも、憐れみでもない、もっと深い……何かを理解するような響き。
わからない。
わかってるのは、明日は早起きするってことだけ。
あのカップルを見に行く。
この世界を見に行く。
何か、残す価値のあるものがあるかどうか、それを、見に行く。
寝返りを打って、枕の位置を直す。布団の中は少し寒い。体を丸めて、膝を胸の前に抱える。
上の階が静かになった。
そして、眠りに落ちかけたとき、またコーヒーメーカーの音がした。
ゴボゴボ。
かすかに、遠くから、だけど確かに聞こえる。
微笑んだ。
ほんのわずか、笑っているのかどうかもわからないくらい。
でも、確かに、笑っていた。




