第8話:灰の中の第一音/アリア
木剣が空を切る重い音が、バレンシアの朝の静寂に吸い込まれていく。
私は、額に浮かんだ汗を拭うことも忘れ、眼前の「壁」――剣聖ライアンさんの動きに食らいついていた。
「――ふぅ、ありがとうございました。……相変わらず、隙がありませんね。ライアンさん」
私が切っ先を下げて一礼すると、ライアンさんは木剣を肩に預け、豪快に笑った。
「はっ、さっきのを『危ない』で済ませるのが、歴代でも異端と言われる『双響の勇者』の余裕かよ。アリア、あんたの剣はもう、俺が教えることなんてほとんど残ってねぇよ」
ライアンさんは私の視界の端、勇者だけに見える概念の系図――スキルツリーを指差すような仕草をした。
「そのスキルツリーも、『武技』と『理法』は既にカンスト気味だろ? あの巨人を斬った時のような、泥臭い工夫と計算が実を結んでる。……だがよ」
彼の声色が、少しだけ低くなる。
「あんたの代名詞である『聖域』カテゴリー……その『歌』の枝が、ここ数年、ぴたりと止まってるじゃねぇか」
彼の言葉に、私は無意識に自分の喉元に触れた。そこには、勇者へ贈呈された、アイアン・ローズ重工の魔導チョーカーが冷たく鎮座している。
私の頭の中に広がるスキルツリー。そこには、四つの太い枝が分かれている。黄金に輝く「武技」は直接的な攻撃技を司り、白銀に輝く「理法」は身体能力強化を司り、艶のある鈍色に輝く「神装」は装備との同調率強化を司る。そしてもう一つ、美しく、けれどどこか「行き止まり」を感じさせる「聖域」の枝が伸びていた。
「……もう、私にできることは、やり尽くしてしまったのかもしれません。……計算だけでは、どうにもならない領域があるのかも」
「そいつはどうかな。……俺は今でも覚えてるぜ。六年前、あんたが初めてその『力』を見せた日のことを」
六年前。
勇者になって四年。当時の私は、まだ十九歳だった。
剣の理屈は理解しても、まだ心の置き所を見つけられずにいた時期のことだ。
***
あの日の戦場は、今日のような穏やかな朝とは程遠い、地獄のような場所だった。
守るべき街は、魔王軍が放った炎によって赤黒く染まり、逃げ惑う人々の悲鳴が、物理的な圧力となって私の耳を塞いでいた。
私は、狂ったように剣を振るった。
敵を斬り、魔を祓い、道を作る。けれど、どれだけ魔物を塵に変えても、街に満ちる『絶望』は薄まるどころか、より濃く、重くなっていった。
人々の瞳から光が消えていく。魔王はその「絶望」を糧に己と軍勢を強化し、新たな配下を際限なく生み出している。
(……ああ。剣では、届かない)
倒した魔物の数だけ、私は自分の無力さを知った。
魔王軍の攻勢が一時的に止んだ束の間。
「今のうちに避難を……」と促すために辺りを見る。
しかし、崩れ落ちる瓦礫の側で、泣くことさえ忘れた泥に塗れる子供を見た時。私の心の中で、何かが音を立てて折れた。
絶望を集めるため、魔王軍は生かさず殺さずで攻めてきていたことに気づく。
(なんで……だれかたすけて……)
呼吸が荒くなって視界が狭まったとき、レオンの顔が思い浮かんだ。
私がレオンと初めて言葉を交わした思い出。
実家の道場の裏庭で、厳しい稽古の後に、偶然聴かれたレオンに「きれいだ」と言ってもらったあの旋律。
私は、誰に聞かせるためでもなく、震える唇を開いた。
勇者なんていう大層な名前を背負う前の、ただの女の子だった私が、一番大切にしていた日常の断片。
――~~~♪
硝煙の中で、私の独り言のような歌が響いた。
その瞬間だった。
私の脳裏に、これまで感じたことのない、美しく、柔らかく透き通った光が灯った。
【聖域・歌唱:清廉なる加護】
<必要条件:精神力S、魔力制御A、歌唱力A、信仰値55000……そして、『幸福な記憶』>
絶望に染まっていた大気が、熱を帯びたように震えた。
私の歌声が波紋となって広がり、人々の心の中で消えかけていた「生きたい」という灯火に、薪をくべていく。
恐怖が消えたわけではない。けれど、彼らの瞳に「屈しない」という強い光が戻る。
「……こ、これは……?」
近くで避難誘導をしていた騎士や傭兵たちが、呆然と手を止めた。
彼らの震えが止まり、武器を握る手に力が戻っていく。
「力が……湧いてくるぞ! まだだ、まだ守れる!」
誰かが叫んだ。
そのスキルは敵を弱体化させるものではなかった。けれど、魔物が糧とする「絶望」を上回るほどの「希望」と「闘志」を皆の心に点火し、恐怖を乗り越えさせたのだ。
「……みんな、今です!」
私は歌うことを止めず、旋律に乗せて剣を掲げた。
それは号令というより、希望の伝播だった。
正気を取り戻した騎士や傭兵たちが、一斉に鬨の声を上げる。
それが、私の二つ名『双響の勇者』が誕生した瞬間。
剣という破壊の力と、歌という鼓舞する力が、私の中で初めて一つに結びついた日。
***
「……あの時、ライアンさんが私を助けてくれなかったら、私は今ここにいません」
「逆だよ、アリア。あの歌を聴いて、一番救われたのは、俺たちの方だったんだからな。震えていた手が止まって、身体の芯から力が湧いてきたのを覚えてる」
ライアンさんは、寂しげに笑った。
けれど、その視線は厳しかった。
「だがよ、今のあんたの歌は、どこか『完成』を急ぎすぎて、余白がなくなってる気がするんだ。……まるで、無理やり喉を絞り出して、義務で歌ってるみたいにな」
私は何も言い返せなかった。
今の私の『聖域』スキルは、確かに強力だ。
魔導チョーカーで増幅された声は、戦場全域に強制的なバフを与える。けれど、それはシステムの枠内に収まった、効率だけの「兵器」としての癒しに過ぎない。
(剣の壁は、理論と努力で越えた。……でも、歌はどうすればいいの? あの日のような、心からの音は……)
***
その夜。
宿泊先に戻った私は、暗い部屋の中で一人、彼が焼いてくれたクッキーを口に含んだ。
甘くて、香ばしくて、幼い頃と同じ味がした。
私のスキルツリーは、歌の項目だけが沈黙している。
けれど、昨日の炊き出しで感じたあの感覚……オルゴールの微かな調べに合わせて、人々が笑ったあの瞬間。
私の指先は、まだ見ぬ「枝」の先に触れかけていた。
「レオン。……私、もう少しだけ、あがいてみたい」
誰にも聞こえない声で呟く。
剣聖のライアンさんが危惧する「完成」の先にあるもの。
一人の少女として、レオンにだけ届けていたあの「自由」と「平穏」を、もう一度この手の中に。
コッコッ。
その時、部屋の窓ガラスを硬い嘴で叩くような音がした。
私は弾かれたように顔を上げた。
「……来てくれたの?」
窓を開けると、夜闇に紛れるような濡羽色の小鳥が、一羽だけちょこんと留まっていた。
『詠み鳥』。
魔導通信が発達した今では廃れてしまった、古の伝達手段。けれど、魔力波を感知する盗聴器には引っかからない、レオンが見つけ出した私たちだけの秘密の郵便屋さんだ。
小鳥は私の指に飛び乗ると、可愛らしく首を傾げ、そして――愛しい人の声をさえずった。
『――聞こえるかい、アリア。……まだ起きているような気がしたから、この子を届けるよ。……迷惑だったらごめんね』
機械を通さない、少し低くて優しいレオンの声。
それは、私の孤独な部屋の空気を、一瞬で温かいものに変えてくれた。
『歌の力の件で、ずっとスポンサーの打診していたお店があるんだ。明日、抜け出して一緒に王都へ行けるかい?』
私は、くすぐったいような嬉しさを噛み締めながら、小鳥の頭を指で撫でた。
やっぱり、彼はすべてお見通しだ。
「……うん。行くよ、レオン」
私は小鳥に囁き返す。
この声もまた、彼のもとへ届くはずだ。
夜空を見上げる。
厚い雲の切れ間から、わずかに星が覗いていた。
私の歌も、まだ終わってはいない。
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