第5話:神託の翌日/アリア
――10年前。
私の人生が、「アリア」という個人のものから、「勇者」という世界の共有財産へと書き換えられた翌日。
その日は、驚くほど晴れた青空だったことを覚えている。
実家の道場の前には、街の教会から手配された魔導車が停まっていた。
周囲には、近所の人々や門下生たちが集まり、期待と畏敬の入り混じった眼差しを私に向けている。
「――お迎えに上がりました、勇者アリア様。準備はよろしいでしょうか」
神官の方の言葉は丁寧だったけれど、そこには「拒否」という選択肢は存在しなかった。
私は、小さな鞄一つを抱えて頷いた。中には、最低限の着替えと、昨日の夜、レオンがこっそり持たせてくれた焼き菓子の包みが入っている。
人混みの後ろの方、レオンの姿を探したけれど、見つからなかった。
きっと、彼は来ない。
昨日の夜、私たちは約束をしたから。
次に会うときは、私が「勇者」として、彼が「世界一の記者」として会うのだと。
(……行ってきます、レオン。私は、泣かないよ)
「……だって、もう約束したから」
私は背筋を伸ばし、一度だけ実家を振り返ってから、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる重い音が、私の日常との決別を告げた。
***
王都エーテルガルドの王城は、私が想像していたよりもずっと大きく、そして冷ややかだった。
謁見の間で国王陛下に言葉を賜り、スポンサー制等の勇者の基礎知識を教え込まれ、数え切れないほどの手続きを済ませた後、私は一人の人物を紹介された。
「……君が、今代の勇者か」
低く、落ち着いた声。
現れたのは、深い知性を宿した瞳を持つ、初老の男性だった。身に纏ったローブには、高位の賢者を示す銀の刺繍が施されている。
「ゼファーだ。世間では賢者とも呼ばれている。君の教育係兼、補佐を務めるよう王命を受けた」
彼は私を値踏みするように一瞥したが、そこには侮蔑も過度な期待もなかった。あるのは、これから始まる困難なプロジェクトを前にした、職人のような真剣な眼差しだけだった。
「……アリアです。よろしくお願いします、ゼファー様」
「過度な敬称は不要だ。これから戦場で背中を預けることになる。……まずは、君の『器』を確認させてもらう」
挨拶もそこそこに、私は訓練場へと連れて行かれた。
そこで行われたのは、基礎的な魔力測定と剣技の確認。
道場で鍛え抜かれた私の剣を見て、ゼファーさんは一つだけ頷いた。
「悪くない。基礎はできている。だが……『実戦』は未経験だな?」
「はい。魔物と戦ったことはありません」
「なら、まずはそこからだ。勇者に必要なのは、高潔な精神でも強力なスキルでもない。『殺す覚悟』と『生き汚さ』だ」
***
翌日。
私たちが向かったのは、王都近郊の農村だった。
依頼内容は、畑を荒らす害蟲『アシッド・クロウラー』の駆除。
狩人の仕事ではあるが、私の実力の確認とともに、勇者の名声を上げるための第一歩として、この依頼を受けている。
初めての勇者としての任務。私は、道場で一番いい成績を取った時のような気持ちで、意気込んでいた。
けれど、現実は違った。
「キシャァァァ……!」
目の前に現れたのは、犬ほどの大きさがある芋虫のような魔物だった。
半透明の皮膚の下で脈打つ内臓。口から滴り落ちる緑色の粘液が、地面の草を溶かし、鼻を突く酸っぱい臭気を放っている。
「……っ」
生理的な嫌悪感が、胃の腑からせり上がってくる。
道場の床を踏む音とは違う、ぬちゃりとした足音。
人間のような殺気ではなく、ただ「食欲」だけを向けてくる、無機質な複眼。
「どうした、アリア。剣を抜け」
背後からゼファーさんの声が飛ぶ。
分かっている。抜かなければいけない。
けれど、手が震えて柄を握れない。
これを、斬るの?
この、ぶよぶよとした肉を、私の剣で?
斬ったら、あの液体が飛び散って、私にかかるの?
「キチチッ!」
魔物が跳躍した。
思考が真っ白になる。
私は無様に尻餅をつき、迫り来る黄ばんだ牙を、ただ呆然と見上げた。
――ガァンッ!!
衝撃音。
目を開けると、私の目の前に、半透明の魔法障壁が展開されていた。魔物は障壁に弾かれ、地面に転がって悶えている。
「……初陣としては、落第点だな」
ゼファーさんが杖を降ろし、ため息交じりに言った。
「いいか、アリア。魔物は『敵』ではない。『災害』だ。感情を乗せるな。ただの作業として処理しろ」
彼は冷徹に言い放ち、私を見下ろした。
「立て。君が殺さなければ、この村の畑は全滅し、冬には餓死者が出る。……君は、人々の『希望』になるために来たんだろう?」
餓死者。希望。
その言葉が、凍りついた私の思考を無理やり動かした。
私は、震える足に力を込め、泥だらけになりながら立ち上がった。
剣を抜く。
重い。
道場ではあんなに軽かった剣が、今は鉛のように重く感じる。
(レオン……私、怖いよ)
心の中で、彼の名前を呼んだ。
彼はきっと、こんな私を見ても、笑わないでいてくれる。
「頑張れ」って、言ってくれる。
「……はぁぁぁっ!」
私は、恐怖を振り払うように叫び、剣を振り下ろした。
肉を断つ嫌な感触。飛び散る体液。
けれど、私は目を逸らさなかった。
これが、私の「勇者」としての、最初の一歩だった。
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