第35話:日向の匂いのする歌
カランコロン。
ドアベルの音が、静かな店内に響く。
街の片隅にある、小さな焼き菓子店。
今日もまた、穏やかな一日が始まろうとしていた。
「いらっしゃいませ」
俺は焼き上がったばかりのマドレーヌを並べながら、客を迎えた。
窓の外には、暖かな日差しが降り注いでいる。
平和だ。
魔王との戦争が終わり、世界は急速に復興している。
人々は笑顔を取り戻し、街には活気が溢れている。
だが、人々は忘れている。
勇者という存在がいたことは確かだが、それが誰だったのか思い出せない。
魔王の最後の呪いだ、という人もいる。
そのようなことを置いておけば、何もかもが満ち足りているはずだった。
なのに。
(……なんだろうな、この穴は)
俺はふと、胸に手を当てた。
心臓の奥に、ぽっかりと空いた風穴。
何をしても埋まらない、喪失感。
俺は何か、とても大切なことを忘れている気がする。
命よりも大事な、魂の半身のような何かを。
「……店長さん、どうしたの? 難しい顔して」
常連の客に声をかけられ、俺はハッと我に返った。
「いえ……何でもありません。今日はいい天気ですね」
「そうねえ。そういえば、さっき広場で綺麗な歌声が聞こえたわよ。旅の吟遊詩人かしら?」
「歌声……ですか」
俺は愛想笑いを浮かべてやり過ごしたが、その言葉が妙に引っかかった。
***
昼下がり。
客足が途絶えた時間帯。
俺は、無意識のうちに店の外へ出ていた。
風が吹いている。
王都の雑踏に混じって、微かに、本当に微かに聞こえてくる旋律。
「――――」
その歌声を耳にした瞬間、俺の足が止まった。
心臓が、早鐘を打つ。
知らない歌だ。
聞いたこともない曲だ。
なのに、どうしてこんなに懐かしい?
――日向の匂いがする。
脳裏に、強烈な既視感が走った。
温かくて、優しくて、どこか切ない匂い。
俺はこの歌を知っている。
理屈じゃない。魂が震えている。
「……あ」
気がつけば、俺は走っていた。
店のエプロンをつけたままで、通りを抜け、路地を駆け抜ける。
探さなきゃいけない。
見つけなきゃいけない。
誰を? 分からない。
でも、その人はきっと、俺が一生をかけて追い求めるべき「何か」だ。
広場に出た。
噴水の周りには、人だかりができていた。
その中心から、透き通るような歌声が響いている。
俺は人混みをかき分けた。
鼓動がうるさい。呼吸が苦しい。
あと少し。あと少しで――。
「――――♪」
人垣が途切れ、視界が開ける。
そこに、彼女はいた。
噴水の縁に腰掛け、空を見上げて歌う女性。
太陽の光を浴びて輝く、長い金色の髪。
華奢な背中。
時間が止まった気がした。
世界中の音が消え、ただ彼女の存在だけが色彩を放っている。
歌が終わる。
彼女がゆっくりと、こちらを振り返った。
目が合う。
吸い込まれそうな、深いサファイア色の瞳。
「……ッ」
俺の頬を、熱いものが伝った。
涙だ。
止まらない。自分でも訳が分からないまま、ボロボロと涙が溢れてくる。
初対面のはずだ。
名前も知らない。
なのに、どうしようもなく愛おしい。
彼女は俺を見て、驚いたように目を丸くし――。
やがて、春の花が綻ぶように、優しく微笑んだ。
彼女の唇が動く。
声には出さず、けれど確かに、俺の心に届く言葉。
――レオン。
風が吹き抜ける。
甘い日向の香りが、俺たちを包み込む。
俺は涙を拭い、一歩を踏み出した。
彼女の元へ。
これは、世界に忘れられた名もなき女性と、一人の焼き菓子店の店主の物語。
誰も知らない、けれど世界で一番幸せな、「二度目の初恋」の始まりだ。
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