第34話:世界一のスクープ
ある街の片隅に、小さな焼き菓子店がある。
甘いバターの香りが漂うその店は、口数の少ない店主の俺――レオンが一人で切り盛りしていた。
俺は、オーブンから焼き上がったマドレーヌを取り出しながら、カウンターに置かれた新聞に目を落とした。
『勇者アリア、隣国との国境紛争を鎮圧』
『信者数が過去最高を記録』
『各国首脳、勇者の「管理権限」を巡り対立か』
魔王がいなくなっても、世界は平和にならなかった。
いや、むしろ歪み始めている。
圧倒的な力を持つ勇者という存在そのものが、新たな火種となりつつあった。
人々は彼女を神と崇め、その力を利用しようとする者は後を絶たない。彼女は今や、魔王と戦っていた時以上に、世界という巨大な檻に縛り付けられている。
「……違う」
俺は新聞を伏せた。
俺が望んだのは、こんな未来じゃなかった。
彼女を自由にさせてやりたかった。重荷を下ろして、普通の女性として笑ってほしかった。
だが、現実は皮肉だ。俺が彼女を「完璧な勇者」に仕立て上げすぎたせいで、彼女は人間であることすら許されなくなりつつある。
(どうする……。今の俺では表舞台に立てない。ヴィンセント局長やミーナを頼るか? あるいは――)
カランコロン。
思考を巡らせているとき、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
俺は顔を上げ――息を呑んだ。
そこに立っていたのは、深々とフードを被った女性だった。
だが、俺が見間違えるはずがない。その立ち姿、微かに香る日向のような匂い。
「……閉店です」
俺は動揺を押し殺し、冷たく告げた。
俺はもう、彼女に関わってはいけない人間だ。
「まだ、看板は出ていましたよ」
聞き覚えのある、透き通った声。
彼女はフードを外し、真っ直ぐに俺を見た。
少し痩せたけれど、変わらないサファイア色の瞳。
「……久しぶりね、レオン」
俺は溜息をつき、逃げるように店の鍵をかけた。
もう、誤魔化せない。
***
狭いイートインスペース。
俺が入れた紅茶からは湯気が立っているが、二人とも口をつけようとはしなかった。
「……どうしてここが分かった」
「ヴィンセント局長を脅……お願いして、吐かせたの」
「全く……。あまりあの人を虐めないであげてくれ」
軽口で空気を変えようとした俺を、アリアの鋭い視線が射抜いた。
「どうして、連絡の一つもくれなかったの」
「……俺は追放された身だ。勇者様に関われば、君の経歴に傷がつく」
「そんなこと聞いてない!」
バンッ!
アリアがテーブルを叩いて立ち上がった。ティーカップが音を立てて揺れる。
「私が聞いているのは、どうして私を一人にしたのかってことよ! 『さようなら』? 『幸せになれ』? ふざけないでよ!」
アリアの声が震えている。怒り、悲しみ、そして抑えきれない孤独。
「貴方がいなくなってから、私がどんな気持ちで過ごしてきたか分かる!? 毎日毎日、知らない人たちに囲まれて、神様みたいに崇められて……。笑いたくもないのに笑って、誰も私のことなんて見ていない!」
「それは……すまない、俺の思慮不足だった……。だが、君はそれだけのことを成し遂げた」
「貴方がさせたんでしょ!?」
アリアが俺の胸倉を掴んだ。
強い力だ。だが、勇者としての膂力ではない。必死にすがりつくような、乙女の力。
「貴方が私を『完璧な勇者』にしたんじゃない! 貴方が私を『聖女』に仕立て上げた! ……なのに、完成したらポイ捨て? 『あとは世界に愛されて幸せになれ』? ……勝手なこと言わないでよ!」
「君のためだったんだ! 俺と一緒にいたら、君は一生後ろ指を指される!」
「それが私の幸せかどうか、どうして貴方が決めるのよ!」
アリアが俺を突き飛ばした。
バランスを崩した俺は、床に倒れ込む。
起き上がろうとした瞬間、アリアが覆いかぶさってきた。
ドンッ。
彼女の手が俺の肩を押し付け、床に縫い留める。
至近距離にある彼女の顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。
「……寂しかった。怖かったのよ……」
アリアの涙が、俺の頬に落ちる。
「世界中の人間が私を愛してくれても、貴方がいなきゃ何の意味もない……。空っぽの部屋で、毎晩どれだけ貴方の名前を呼んだと思ってるの……っ!」
「アリア……」
「もう限界よ。……だから、決めたの」
アリアの瞳に、危うい光が宿る。
「レオン。私、新しいスキルを手に入れたの」
「スキル?」
「うん。ここ数ヶ月、世界中の人々から向けられる信仰心が強すぎて……私の『聖域』スキルが変質したの。癒やしや守りだけじゃない。人の心に干渉する力」
アリアは自分の胸元に手を当てた。
「『忘却』の力よ。……対象の特定の記憶を消し去り、心の傷を癒やす歌」
「記憶を消す……?」
「試してみたわ。魔王軍に捕らわれていた人たちに歌ったら、彼らは恐怖の記憶だけを綺麗に忘れていた。……これなら、いけるわ」
アリアの瞳に、強い光が宿る。
「レオン。貴方の願いを叶えてあげる」
「俺の願い?」
何を……言っているんだ……?
「私を、勇者の重荷から解放すること。……この力を使えば、世界中の人々から『勇者アリア』の記憶を消すことができる」
俺は言葉を失った。
そんなことが可能なのか? 世界規模の記憶操作。
もしそれが実現すれば、彼女はもう崇拝されることも、利用されることもない。ただの人に戻れる。
「だが……そんな大規模な術、リスクがないわけがない」
「ええ。範囲指定は『世界全体』。特定の個人や物を除外することはできない」
アリアは、俺の目を真っ直ぐに見つめて告げた。
「つまり……レオン。貴方の記憶からも、私のことが消える」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「ふざけるな!」
俺は彼女を押しのけようとしたが、アリアはびくともしない。
「俺が、君を忘れるだと? そんなこと認められるか! あの道場での日々も、二人で旅した記憶も、全部消えるんだぞ!?」
「じゃあどうすればいいのよ!」
アリアが絶叫した。
「このままじゃ、私は一生『勇者』という籠の中よ! 貴方の隣にいることも、手を繋いで歩くことも、名前を呼ぶことさえ許されない! ……貴方は、私に一生『剥製』として生きろって言うの!?」
「だからって、俺たちが出会ったことまで無かったことにするのか!? それは俺たちの人生の否定だ!」
「そうよ! ……レオンと一緒にいられない人生なんて、私には必要ない!」
アリアは俺の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
「私は……貴方と生きたいの。過去の思い出に縋って生きるんじゃなくて、明日も明後日も、貴方の隣で笑いたいのよ……ッ!」
俺の言葉が詰まる。
彼女の慟哭が、俺の「独りよがりな献身」を粉々に砕いていく。
俺は彼女を守っているつもりで、彼女を一番暗い檻に閉じ込めていたのだ。
「……嫌だ。俺は、君を忘れたくない」
俺は絞り出すように言った。
それが本心だった。彼女との記憶こそが、俺の生きた証だから。
だから、必死に言葉を探す。
「他に方法があるはずだ! ほとぼりが冷めるまで隠れて暮らすとか、俺の容姿をもっと変えて別人になるとか……あるいは、俺がまた何か記事を書いて、世論を誘導して……!」
「レオン」
「世界中から忘れられるなんて、そんなの悲しすぎる! 君が積み上げてきた功績も、名誉も、全部ゼロになるんだぞ!? そんなこと――」
「……うるさい!」
言葉は、続かなかった。
アリアが、俺の唇を塞いだからだ。
「……んッ」
柔らかく、けれど拒絶を許さない、情熱的な口づけ。
俺の思考が真っ白に染まる。
口蓋を甘く蹂躙され、俺が必死に組み立てようとしていた「論理」も「言い訳」も、熱の中に溶かされていく。
数秒か、あるいは数分か。
唇が離れた時、俺はただ呆然と、目の前の彼女を見上げることしかできなかった。
「……もう、議論は終わり」
アリアは潤んだ瞳で、とろけるような笑みを浮かべて俺を見下ろしていた。
「好きよ、レオン。……貴方が言葉で何を並べ立てても、私のこの気持ちには勝てない」
「……あ……」
声が出なかった。
完敗だった。
俺はこれまで、言葉を武器に戦ってきた。
だが、彼女のたった一つの口づけが、俺の武器を全て奪い去ってしまった。
「大丈夫よ」
アリアが、俺の頬に優しく手を添える。
「レオン。昔、貴方は言ってくれたわよね。『世界で一番初めに君を好きになった俺が、君を世界で一番愛される存在にしてやる』って」
それは、物語の始まり。俺が彼女に誓った言葉。
「だから今度は、私が頑張る番」
アリアは、俺の手をそっと握った。
「世界に忘れられちゃった私が、また世界で一番初めに、貴方に好きになってもらえるようにするわ」
もはや、俺に抗う術はなかった。
彼女の覚悟に、そして何より、その深すぎる愛に、俺は屈服したのだ。
「……ああ、まいったな」
俺は力が抜けたように笑い、床に身を預ける。
「勝てないよ、アリアには」
「ふふっ。知ってる」
アリアは満足げに頷き、そしてゆっくりと息を吸い込んだ。
スキルを発動して歌おうとする。
だが――。
「待ってくれ!」
「……何? まだ反抗する気? また口を塞がれたいの?!」
「それ、脅しになってないから……。違う……ただ、忘れてしまうとしても、もう少しだけ君の温もりを感じさせてくれないか?」
「……仕方ないわね、レオン。特別だからね!」
俺は上体を起こし、彼女を抱きしめる。
先ほどまでは感情を荒げていたため分からなかったが、アリアの体は小刻みに震えていた。
危うい気配を発していたのは、彼女自身も緊張していたからだったのだろうか。
そんな彼女を慈しむように、俺はいつものように声をかける。
「ずっと愛しているよ、アリア」
「ふふ、レオンはいっつもそれね! 本当に私のことが大好きなんだから」
「はは、君ほどじゃないさ」
***
しばらく抱き合い、覚悟が決まった。
アリアが大きく息を吸い込み、歌が、始まる。
それは魔道具による拡散ではない。彼女の魂から響く、優しく、どこか懐かしい旋律。
あの道場の裏庭で、俺が「日向の匂いがする」と褒めた、あの鼻歌だ。
歌声が、風に乗って広がっていく。
店の外へ、街へ、そして世界中へ。
俺の視界が白く滲む。
アリアの顔が、光の中に溶けていく。
抱きしめているはずの腕の感覚すら、曖昧になっていく。
(……忘れたくない)
(君の笑顔も、泣き顔も、その温もりも)
走馬灯のように、記憶が駆け巡る。
初めて出会った日。クッキーを食べて笑った顔。戦場での凛とした背中。瓦礫の中で交わしたキス。
それらが一つずつ、白い霧に覆われていく。
名前が、顔が、声が、遠ざかっていく。
「……レオン」
消えゆく意識の中で、愛しい声が聞こえた。
「愛してる。……さようなら、私の勇者様」
俺の意識は、そこで白に飲み込まれた。
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