第30話:悪意の継承、あるいは愉悦の訪問者/魔王
私は、古い記憶を持っている。
それは私個人の記憶ではない。遥か昔、この地で「先代魔王」と呼ばれ、当時の勇者に討たれた存在の記憶だ。
焼けつくような剣の痛み。
肉体が崩壊する感覚。
そして何より、虫けらだと思っていた人間に敗北したという、焼きごてのような屈辱。
先代は、力を過信していた。
恐怖で支配しようとした。力でねじ伏せようとした。
だが、それは間違いだったのだ。
人間という種族は、追い詰められれば追い詰められるほど、「希望」という名の爆発的なエネルギーを生み出す。そして勇者というシステムは、その希望を糧にして際限なく強くなる。
だから、私は学習した。
邪神の戯れか、再び魔王に転生した。
そして、この人間に擬態し、私は決めたのだ。
――勇者を倒すのに、暴力はいらない。
必要なのは、「希望」の供給源を断つこと。
人間同士の信頼を、信仰を、希望を、腐ったドブ川のような「疑念」に変えて流し込めばいい。そうすれば、勇者は勝手に腐り落ちる。
***
王都エーテルガルドの郊外。
静寂に包まれた森の中に、アークライト通信社が所有する保養所(別荘)がある。
表向きは社員の保養施設だが、実際には、不祥事を起こした記者を世間から隔離するための「軟禁施設」だ。
私は、手土産の果物が入ったバスケットを手に、小道を歩いていた。
足取りは軽い。笑いがこみ上げてくるのを抑えるのに必死だ。
計画は順調――いや、完璧だ。
あの拠点での敗北すら、私のシナリオの一部だ。
一度、勇者を持ち上げる。
「奇跡の生還」「完全勝利」と持て囃し、民衆の期待を極限まで膨らませる。
その上で、あの怪文書を落とした。
効果は劇的だった。
高低差があればあるほど、落下した時の衝撃は大きい。
今や世界中は勇者アリアへの失望と、その愛を一身に受けていた記者レオンへの憎悪で満ち溢れている。
「……クク、いい気味だ」
以前、南部の街リナールで味わった「絶望」の味を思い出す。
支援を打ち切られ、飢えと寒さに震える人々。
彼らがプライドを捨て、私が差し出した薬入りのスープを啜り、へつらうように笑った時の顔。
あれは最高に甘美だった。勇者が守ろうとした尊厳が、泥にまみれて崩れ落ちる音を聞くのは、何よりの娯楽だ。
そして今、私はメインディッシュを味わいに来た。
本当は、アリアの顔が見たかった。
あの気高い勇者が、世界中から石を投げられ、どんな風に泣き腫らしているのか。その絶望に染まった顔を特等席で眺めたかった。
だが、彼女は現在、本社で厳重に隔離されている。さすがに近づけない。
ならば、ターゲットを変えればいい。
レオン。勇者専属記者。
アリアが誰より信頼し、そして今回、全てを失う原因となった男。
彼が今、どんな顔をしているのか。
自分の存在が愛する勇者を破滅させた事実を突きつけられ、どれほど自分を呪っているのか。
想像するだけで、ゾクゾクと背筋が震える。
別荘の前に着いた。
古びたレンガ造りの洋館。カーテンは閉ざされ、人の気配はない。まるで墓場のような静けさだ。
私は深呼吸をし、表情筋を調整する。
「魔王」の愉悦を隠し、「心配性の後輩記者」の仮面を被る。
ピンポーン。
呼び鈴を押す。
しばらくの沈黙の後、インターホンの魔導伝声機から、ノイズ混じりの声が聞こえた。
『……誰だ』
低く、枯れた声。
レオンだ。その声色だけで、彼がどれほど憔悴しているかが伝わってくる。
「……先輩。トマスです」
私は、痛ましげな声を演出して答えた。
「心配で……差し入れを持ってきました。少しだけでも、会えませんか?」
数秒の沈黙。
拒絶されるか? いや、今の彼は孤独だ。誰かの救いを求めているはずだ。
『……鍵は開いている。勝手に入ってくれ』
ガチャリ、と解錠の音が響く。
「……失礼します」
私は重厚なドアノブに手をかけた。
さあ、見せてくれ。
絶望に沈んだ敗北者の顔を。
お前たちの「愛」や「絆」が、私の悪意の前でどれほど無力で、脆いものだったのかを。
私は口元だけで酷薄な笑みを浮かべ、ゆっくりと扉を押し開けた。
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