第27話:虚飾の玉座、返却された人形/アリア
タッタッタッ……。
私の足音だけが、無機質な廊下に響いている。
背後から聞こえていた人々の悲鳴はもう遠い。あそこはもう大丈夫だ。ゼファーさんとライアンさんが、責任を持って保護してくれている。
ここは、静かすぎる。
壁も床も、継ぎ目のない白い金属で覆われている。先ほどまでの『絶望の生産工場』のような血生臭さはない。代わりに、鼻をつくような薬品の臭いと、肌にまとわりつく冷気が充満している。
「……ッ、はぁ、はぁ」
走るたびに、心臓が早鐘を打つ。
ライアンさんは言った。『頭は常に冷静であれ』と。
分かっている。分かっているけれど、思考の端から怒りが溢れて止まらない。
あの工場で見た光景。
絶望をシステム化し、人を資源として消費する悪魔の所業。
それを指揮しているのが、あの「声」の主だとしたら。
(許さない……絶対に、許さない!)
私は足を速めた。
廊下の突き当たり。巨大な観音開きの扉が、私を待つように開かれていた。
***
扉の先は、ドーム状の広大な空間だった。
壁一面に埋め込まれた青白い魔導ランプが、部屋の中央をスポットライトのように照らし出している。
そこに、玉座があった。
いや、あれは玉座ではない。鉄パイプと配線を無造作に組み上げて作った、悪趣味なオブジェだ。
そこに座って足を組んでいる人影が一つ。
黒いコートを纏い、顔にはペスト医師のような鳥の仮面をつけている。
『――ヨウコソ、勇者アリア。待ッテイタヨ』
仮面の奥から、あのノイズ混じりの声が響く。
「……お前が、魔王」
私は剣を構え、ジリジリと間合いを詰める。
バイザー越しの視界。奴の体温は極めて低い。まるで死体のようだ。だが、その体から立ち上る魔力の密度は、先ほどの獣たちとは桁が違う。
『ソウ殺気立ツナ。……感動ノ対面ダロウ?』
魔王は、私の剣を見ても動じることなく、芝居がかった動作で手を広げた。
『外デハ派手ナ花火ガ上ガッテイルナ。オ前ノ仲間タチハ優秀ダ。我ガ軍ノ主力ヲ巧ミニ外へ「釣リ出シテ」クレタオカゲデ、コノ拠点ハモヌケノ殻ダ』
「……当たり前よ」
私は睨みつける。
「策は完璧なの。あなたたちが外の迎撃に気を取られている間に、私たちは内部の人質を解放した。……あなたの負けよ、魔王」
『負ケ? ハハハ! ソレハドウカナ』
魔王が愉快そうに肩を揺らす。
『確カニ、オ前ハ「肉体」ハ救ッタカモシレナイ。ダガ、彼ラノ「心」ハ? 先程見タダロウ? 解放サレテモ尚、怯エ、泣キ叫ブ彼ラノ姿ヲ。アレヲ救ッタト言エルノカ?』
「っ……!」
図星だった。
私の歌でも、彼らの心の傷は癒せなかった。
『人間トイウノハ脆イ生キ物ダ。一度壊レタ心ハ、元ニハ戻ラナイ。オ前ガ取リ戻シタノハ、タダノ「壊レタ器」ニ過ギナイノダヨ』
「……黙りなさい。私は、詭弁を聞きに来たんじゃない」
私は奥歯を噛み締め、剣に魔力を流し込む。
青い光が刀身を包む。
「シルフィを返しなさい。さもなくば、お前を斬る」
『ククク……イイ目ダ。ダガ、タダデ返スワケニハイカナイ』
魔王が指を鳴らした。
瞬間、彼の足元の影が爆発的に膨れ上がり、数本の巨大な「黒い槍」となって私に襲いかかってきた。
「ッ!!」
速い。
私は反射的に横へ跳び、石床を転がって回避する。
ドゴォッ!
私がいた場所が、紙のように貫かれていた。
『サア、踊レ! コノ「舞台」ノ主役ハ、オ前ダ!』
魔王が玉座から立ち上がることなく、手首を指揮者のように振るう。
それに合わせて、部屋中の影が刃となり、鞭となり、全方位から私を襲う。
斬る。弾く。避ける。
息つく暇もない連撃。
(……強い。でも、単調だ!)
数合打ち合って分かった。
この攻撃には「意志」がない。ただ決められた動作を繰り返しているだけだ。ライアンさんのような駆け引きも、ゼファーさんのような狡猾さもない。
ただの、強力な自動防衛システム。
「はぁぁぁっ!」
私は影の鞭を掻い潜り、懐へと飛び込んだ。
魔王の仮面が目の前に迫る。
『オオッ!?』
「終わりよッ!!」
私は渾身の力で、聖剣を薙ぎ払った。
刃が魔王の胴体を捉え――抵抗なく振り抜ける。
ザシュッ。
手応えは……軽すぎた。
斬られた魔王の体からは、血の一滴も出ない。
代わりに、プシューッという音と共に、黒い煙のような霧が噴き出した。
『……ク、クク……。サスガハ勇者……強イ、ナ……』
魔王の体が、輪郭を保てずに崩れていく。
仮面がカランと床に落ち、その奥には――何もなかった。
空っぽのコートと、黒い霧だけが残された。
「……影武者?」
私は愕然として立ち尽くした。
こいつもまた、作られた人形だったの?
すると、崩れ落ちた黒い霧の中から、小さな鴉が這い出てきた。
そこから、今度はノイズのない、クリアな男の声が聞こえてきた。
『合格だ、アリア。……まさか、あの程度の「影人形」に苦戦するとは思わなかったがね』
「……どこにいるの!?」
『安全な特等席さ。……まあいい。約束通り、褒美をやろう』
男の声と共に、部屋の奥――玉座の後ろにあった壁が、ゆっくりとスライドした。
そこには、小さな「小部屋」があった。
実験室のような、白い部屋。
その中央にある簡素な椅子に、一人の少女が座っていた。
灰色の髪。小柄な体。
見間違えるはずがない。
「……シルフィ!」
私は剣を捨て、駆け寄った。
罠かもしれない。でも、体が勝手に動いた。
「シルフィ! 無事!? 私よ、アリアよ!」
私は椅子に座る彼女の肩を掴み、揺さぶった。
目立った外傷はない。四肢もついている。
よかった。生きてる。本当に、よかった……!
けれど。
「…………?」
シルフィは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳を見て、私の言葉が凍りついた。
焦点が合っていない。
私の顔を映しているのに、何も見ていない。
まるで、ガラス玉のような瞳。
「シルフィ……?」
彼女は、小首を傾げ、乾いた唇を震わせた。
「……あ、り……あ?」
「そうよ! 私よ! 助けに来たの!」
私が抱きしめようとした、その瞬間。
「……ヒッ!」
シルフィが、ビクリと体を強張らせ、私を突き飛ばした。
「え……?」
突き飛ばされた私は、尻餅をつく。
シルフィは椅子の背もたれに体を押し付け、ガタガタと震えながら、頭を抱えていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……いい子にします……情報を、言います……だから、痛くしないで……」
「シルフィ……私よ、アリアよ……痛くなんてしないわ……」
「知らない……知らない……。明るい……眩しい……怖い……」
彼女は、私の「勇者の輝き」を恐れているようだった。
いや、私個人を認識できていない。
彼女の中にあるのは、「光を当てられると尋問が始まる」という、植え付けられた恐怖の条件反射だけ。
「そんな……嘘……」
彼女の記憶が、壊されている。
あるいは、心そのものが。
『感動の再会だろう?』
這い出た鴉の嘴から、愉悦に満ちた声が響く。
『彼女の脳は少し……いや、かなり弄らせてもらった。君たちの情報、弱点、人間関係……全て引き出した後でね』
「貴様ぁぁぁ――ッ!!」
私は鴉に向かって叫んだ。殺してやる。今すぐこの声の主を見つけ出して、八つ裂きにしてやる。
『そう怒るな。約束通り、体は無傷で返してやっただろう? さあ、連れて帰るといい。「奇跡の生還」だ。大衆は喜ぶぞ』
男は笑う。
『ただし、覚えておけ。その娘は、私が君に贈る最高のプレゼントだ。高く持ち上げれば持ち上げるほど、落ちた時の音は響く。……精々、壊さないように大切に扱うんだな』
プツン。
鴉が自害した。
部屋には、空調の音と、シルフィのうわ言だけが残された。
「……うぅ……あぁ……」
私は、震えるシルフィに触れることもできず、ただ立ち尽くした。
勝ったはずだった。
要塞を落とし、敵を倒し、人質を救い出した。
勇者の勝利だ。完全無欠のハッピーエンドだ。
なのに。
どうしてこんなに、寒気がするの。
私はポケットの中の、レオンからもらった焼き菓子を握りしめた。
硬い感触。
……そうだ。レオンは言っていた。『辛くなったら、これを食え』と。
(……こんな結末、許さないから)
私は涙を拭い、意識して深く息を吸った。
魔力を練るな。スキルを使うな。
ただの「アリア」として、友に届く声を。
「……~~~」
私は小さく、ハミングを始めた。
旅の途中、神経が張り詰めて眠れない夜に、彼女の隣で私がよく口ずさんでいた、名前もない優しい旋律。
「……ぁ……」
シルフィの耳がピクリと動く。
うわ言が止まる。彼女の焦点の合わない瞳が、音の出処を探して彷徨う。
私は歌い続けながら、ポケットから包みを取り出した。
包みを開くと、バターの芳醇な香りが、薬品臭い部屋にふわりと広がった。
厚焼きのガレット・ブルトンヌ。
「……シルフィ」
私は膝をつき、怯える彼女の目線に合わせ、お菓子を差し出した。
「見て。秘密のお菓子屋さんが焼いてくれたの。ほら、前にもこっそり分けたこと、あったよね」
シルフィがビクリと肩を震わせる。けれど、その鼻がひくりと動いた。
拷問の痛みでも、尋問の光でもない。
彼女が知っている、優しくて甘い匂い。
「……ん……」
シルフィの虚ろな瞳が、お菓子に吸い寄せられる。
私はガレットを半分に割り、その欠片を彼女の乾いた唇に押し当てた。
「食べて。……しょっぱくて、甘いから」
シルフィは恐る恐る口を開け、小鳥がついばむようにそれを齧った。
ザクリ、という音。
口の中に広がる、海塩の塩気とバターの甘み。
その瞬間。
シルフィの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……あ……」
彼女の脳裏に焼き付けられた恐怖の記憶を、懐かしい味が上書きしていく。
ある冒険の夜。二人でこっそり分け合ってお菓子を食べ、満天の星空を眺めた思い出。
「……おい、しい……」
シルフィが、震える声で呟いた。
焦点が結ばれる。ガラス玉のようだった瞳に、光が戻る。
彼女は目の前の私を見て、今度こそ、私を認識した。
「……アリア?」
「っ……うん! そうよ、私よ!」
私はたまらず彼女を抱きしめた。
今度は、突き飛ばされなかった。
シルフィの細い腕が、私の背中に回され、しがみついてくる。
「アリア……アリアぁ……ッ! 怖かった、怖かったよぉ……!」
「ごめんね……遅くなって、ごめんね……!」
「……ううん、迷惑かけてごめんなさい……」
「違うわ! あなたのおかげで助けられた命がたくさんあった。でも、私はあなたを失ってしまうんじゃないかと……」
私たちは抱き合い、子供のように泣いた。
歌とレオンのお菓子が繋ぎ止めてくれた。壊れかけた心を、ギリギリのところでこの世界に引き戻してくれた。
普段は弱音なんて吐かないシルフィが、子供のように泣きじゃくっている。
それだけで、彼女がどれほどの恐怖に晒されていたかが痛いほど伝わってきた。
まだ、震えは止まらない。心の傷は深いかもしれない。
けれど、彼女は生きている。
味が分かる。温もりが分かる。
「……帰ろう、シルフィ」
私は残りのガレットを口に放り込み、涙の味と一緒に噛み砕いた。
そして、泣きじゃくる友を、宝物のように抱き上げる。
「皆が待ってる。……私たちの家に、帰ろう」
「……うん……うんっ……」
シルフィは私の胸に顔を埋め、何度も頷いた。
外では、世界が私の「勝利」を待っている。
その歓声がどれほど空虚なものであっても構わない。
この腕の中にある温もりだけが、私にとっての真実の勝利だ。
私は、取り戻した大切な友を抱き、虚飾の玉座を後にした。
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