第23話:氷原の灯火/シルフィ
西へ。
太陽が沈む、西の果てへ。
私の体は、風そのものになっていた。
風の魔術を足に纏わせ、地面を蹴るのではなく、滑るように荒野を駆ける。
魔導車を使えば丸一日はかかる距離を、騎獣のごとく、私は一晩で踏破しようとしていた。
肺が焼けそうだ。
筋肉が断裂しそうなほど悲鳴を上げている。
けれど、止まるわけにはいかない。
先行する「運び屋」は、魔物特有の持久力で休まず走り続けている。奴を見失えば、全てが終わる。
(……もっと速く。もっと、遠くへ)
普通の人間なら心臓が破裂する速度域。
けれど、私にはできる。
私は勇者パーティの斥候。誰よりも速く、誰よりも長く、戦場を駆ける風だ。
夜が明け、空が白み始めた頃。
私の視界には、相変わらず赤茶けた荒野が広がっているだけに見えた。
だが、先行していた「運び屋」が、何もない荒野の真ん中で、フッと姿を消した。
……違う。地面に飲み込まれたんだ。
近づいて、ようやく分かった。
大地に巨大な爪痕のように刻まれた、底の見えない大亀裂。
――間違いなく、魔王軍の拠点。
地上からはただの平原にしか見えないが、裂け目の内側、切り立った岩壁をくり抜く形で、禍々しい要塞が築かれていたのだ。これでは、遠目から発見できるはずがない。
人間の生存圏を脅かすには遠いが、侵攻の足掛かりとしては絶妙な距離。
運び屋は、亀裂の底にある重々しい鉄の門の前で合図を送り、その巨大な影の中へと吸い込まれていく。
(……ここが、敵の心臓への入り口)
私は呼吸を整え、早鐘を打つ心拍を強制的に落ち着かせる。
ここからは速度ではない。「無」になる時間だ。
私はスーツの出力を最大にした。
「安全性度外視」の代償として、肌がチリチリと焼けるような感覚が走る。
でも、構わない。
この身が燃え尽きるまで隠し通せれば、それでいい。
私は裂け目を滑り降り、閉まりかけた門のわずかな隙間を、一陣の風となって滑り抜けた。
***
要塞の内部は、異様な静けさに包まれていた。
岩をくり抜いて作られた回廊には、松明の明かりはなく、冷たい魔導灯の光だけが青白く床を照らしている。
すれ違う警備の魔物たち。
彼らは、私のすぐ横を通っても、誰一人として気づかない。
視線が私を素通りしていく。
(……いける)
確信が、安堵に変わる。
私の迷彩は完璧だ。
アイゼンで技術者たちの執念を注ぎ込んだこの装備は、魔王軍の目を欺いている。
私は、運び屋の足跡を追って、より深く、より暗い場所へと潜っていった。
目指すは最深部。指揮官の居場所。
アリアたちが、必ずここを叩き潰してくれる。
私はそのための情報を持ち帰り、道標になる。
長い螺旋階段を下り、巨大な扉の前にたどり着いた時だった。
「――ご苦労だったな」
不意に、背後から声がかかった。
心臓が凍り付く。
振り返らなくていい。反応するな。
私に向けられた言葉じゃない。きっと、他の誰かに……。
「聞こえているだろう? そこにいる『ネズミ』」
ダンッ!
爆音と共に、右太ももに焼けるような衝撃が走った。
「がっ……!?」
私は無様に床に転がった。
透明化していたはずの足から、鮮血が噴き出し、空間を赤く染める。
痛みが脳を焦がす。何が起きたのか理解できないまま、私は顔を上げた。
通路の奥。
待ち構えていたかのように、ずらりと並んだ魔物が、その牙や爪を私に向けていた。
そして、それらの先頭に立つのは、指揮官だと思われる人型の影。
その顔は影になっていてよく見えないが、一瞬見えたそいつの目元を覆っていたのは――。
「……そ、れ……は……」
複数のレンズが埋め込まれた、無骨なゴーグル。
アイゼンで作られた、あの『熱源探知バイザー』。
なぜ、ここに……?
そうか、私が追っていた「運び屋」は、ただの伝令じゃなかった。
奴が運んでいたのは、この対抗手段を完成させるための『最後のサンプル』だったのだ。
「光学迷彩は見事だ。我々の視覚では、そこには『空気』しかないように見える」
指揮官らしき男が、冷ややかな声で告げる。
その声に、私は一瞬、既視感を覚えた。
どこかで聞いたことがある。この、どこか見下した、粘りつくような響き。
……思い出せない。激痛で思考が霞んでいく。
「だが、お前の体温までは消せていない。このゴーグル越しに見れば、お前は暗闇の中で燃え盛る松明のように、真っ赤に輝いて見えているぞ」
(……くそっ)
血の気が引いた。
隠密性に特化した改造。視覚的な欺瞞は完璧だった。
けれど、高速移動でヒートアップした私の体温を完全に遮断することまでは、実現できていない。
敵は、既に見据えていたのだ。
「見えない敵」への対策を。そして、それを即座に奪い、我々人間に向け返してきたのだ。
「逃げられると思うなよ」
指揮官が手を振る。
ダンッ! ダンッ! ダンッ!
左足、右腕、左腕。
正確無比な火の魔術が、私の四肢を貫いた。
「あ……が……っ、あぁ……ッ!!」
私は床に這いつくばった。
動けない。立てない。武器も構えられない。
四肢から流れ出る血が、冷たい石床に生温かい水たまりを作っていく。
あの日と同じだ。
床下で感じた、両親の血の温度と同じ。
私はまた、何もできずに、ただ血の海に沈んでいく。
『魔王様、イカガイタシマスカ……?』
部下の魔物が、指揮官に恭しく問いかける。
……魔王様?
そうか、この肌が粟立つような威圧感。ただの指揮官じゃない。
こいつが、私たちの敵……!
「……勇者パーティの斥候だ。いろいろ活用できる。……そうだな、まずは脳を弄るか。クク、面白い情報が引き出せるだろう」
魔王が、カツ、カツ、と足音を立てて近づいてくる。
革靴が地面を蹴る音。死刑執行の音。
(……ごめんなさい、アリア)
視界が霞む。
痛みはもう感じない。ただ、自分の命が急速に冷えていくのが分かる。
失敗した。
私は、勇者を導く道標になるはずだったのに。
逆に、彼らの情報を敵に売るための、最悪の捕虜になろうとしている。
役立たず。
やっぱり私は、あの日の床下から一歩も進んでいなかったんだ。
(……いいえ)
薄れゆく意識の底で、最期の使命を果たせ、と小さな残り火が揺らめく。
(進んだ。……ここまで、来たんだ)
私は、動かない右手の指を、最後の力で動かした。
懐の中。
血に濡れた『発信機』の硬い感触。
(……お前がここにいるならちょうどいい、魔王……)
これは、助けを呼ぶためのものじゃない。
これは、魔王の喉元を指し示す、死のマーカー。
魔王が、私の髪を掴んで引き上げようとした、その直前。
カチリ。
私の指が、スイッチを押し込んだ。
「……ふっ」
「……何がおかしい?」
私は笑った。
魔王は気味悪いと思ったのか、私を蹴り飛ばす。
「……うぐっ」
壁に打ち付けられ、血の泡を吐いた。
まだだ。まだ終われない。
私が捕まれば、アリアたちの弱点や情報が漏れる。それだけは防がないと。
(……舌を……噛み切って……)
私は最後の力を顎に込めた。
死んで、情報を闇に葬る。それが斥候としての、最後の役目。
ガチリ。
けれど、顎が動かなかった。
見えない万力で固定されたように、口が開いたまま固まっている。
「……無駄だ」
魔王が、冷酷な瞳で私を見下ろしていた。
その指先が、指揮者のように私に向けられている。
「許可なく死ねると思うな。お前は貴重な『材料』だ。骨の髄まで使い潰してやる」
(……ぁ……)
絶望が、痛みを上書きしていく。
私は、死ぬことすら許されない。
光学迷彩装備の無理な使用により爛れた皮膚が、ジクジクと脈を打つのを感じる。
薄暗い天井が、遠のいていく。
そのうつろになる視界に、大好きなみんなの顔が浮かんだ気がした。
(……最後まで……役立たずで、ごめんなさい……)
赤い血の色が、私の瞳の中でゆっくりと滲み、そして闇に溶けていった。
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