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第13話:一番星は泥の中に/アリア

 夜の帳が下りると、林の中は本当の闇に包まれた。

 焚き火は起こせない。煙や光で、街の住民――あるいは魔王軍に見つかるリスクがあるからだ。


 私は木の根元で膝を抱え、小さく震えていた。

 寒さのせいではない。耳の奥で、あの罵声が幻聴のように反響し続けているからだ。


 『偽善者を殺せ!』

 『お前が来ると、ここが楽園じゃなくなるんだ!』


 石礫が当たった額の傷が、ズキズキと熱を持って痛む。けれど、それ以上に胸が痛かった。

 守るべき人々から拒絶された記憶が、勇者としての私の足場を崩していく。


「……住民たちの状態は、明らかに異常だ」


 闇の中で、ゼファーさんの声が響いた。冷静で、乾いた分析の声。


「トマスの証言から予想するに、あれは薬物による重度の依存症だ。幸福感と恐怖心、その両方を支配されている。……治療するには、供給源を断つしかない」


「……供給源……あのスープ?」


 シルフィが問う。


「ああ。これだけの規模だ、街のどこかに大量の備蓄庫があるはずだ。それを押さえ、成分を解析し、解毒手段を見つける。……今夜中に動くぞ」


 ゼファーさんが立ち上がった。それに呼応するように、ライアンさんとシルフィも音もなく立ち上がる。


「案内役が必要だろう。こやつも連れて行くぞ」


 ゼファーさんの呼びかけに、トマスさんは否もなく従うようだ。


 私も、行かなくちゃ。私は勇者なんだから。


「ま……待って……私も……」


 木の幹に手をつき、無理やり体を持ち上げようとする。

 けれど、膝が笑って力が入らない。


「あ……っ」


 無様に地面へ崩れ落ちる。

 情けない。身体能力なら誰よりも高いはずなのに、心が追いつかないだけで、指一本動かせないなんて。


「アリア、お前は残れ」


 ゼファーさんが私を見下ろし、静かに告げた。厳しい口調ではなく、労わるような響きだった。


「今の精神状態では無理だ。学説によると、勇者の力は信仰の総和に、勇者自身の自己肯定感が乗算されるそうだ。今のお主では、隠密行動の足手まといになる。……記者殿」


 ゼファーさんが、私の隣で黙って立っていたレオンの方を向いた。


「アリアを頼む。何、ここならそうそう見つからんとは思うが」


「……記者の私に、勇者の護衛を任せると?」


 レオンが苦笑交じりに返す。けれど、ゼファーさんはニヤリと口元を緩めた。


「謙遜するな。歩き方、重心の置き方を見れば分かる。基礎的な武の心得はあるのだろう? ……それに、今のアリアに必要なのは、剣による護衛ではなさそうだからな」


 レオンは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに短く頷いた。


「それは……。いえ、承知しました。命に代えても」


「よし。行くぞ」


 ゼファーの合図で、四つの影が音もなく森の闇へと溶けていった。

 後に残されたのは、私とレオンの二人だけ。


   ***


 再び、重苦しい沈黙が降りた。

 虫の音が、耳鳴りのようにうるさい。


 私は膝に顔を埋めた。

 自分が惨めで、どうしようもなかった。


(私が遅れたから。私が気づかなかったから……)


 トマスさんの言葉が蘇る。『あなたたち側の沈黙が、僕たちを絶望させた』。

 その通りだわ。バレンシアの復興にかまけて、リナールが地獄になっていることに気づきもしなかった。

 勇者なんて呼ばれても、私はたった一人のおばあさんすら救えない。

 私たちが来たせいで、あのおばあさんは配給を断たれた。

 私は、彼らにとって疫病神でしかない。


「……う、ぅ……」


 嗚咽が漏れる。止めようとしても、歯の根が合わず、震えが止まらない。

 もう、顔を上げてレオンを見る資格さえない気がした。


 その時。

 ふわりと、温かい何かが私の肩を包み込んだ。


「え……?」


 顔を上げると、レオンが自分の着ていた厚手のコートを、私にかけてくれていた。

 まだ彼の体温が残っている。革の匂いと、インクと紙の匂いが混じった、彼独特の香りがした。

 それは不思議なほど、私を落ち着かせる「日常」の匂いだった。


「レオン……?」


「少し待っていてください」


 レオンは私の隣に腰を下ろすと、手際よく携帯コンロを取り出し、小さな火をつけた。

 わずかな明かりの中で、彼は水筒の水と乾燥野菜をコッヘルに入れ、温め始める。

 数分もしないうちに、湯気と共に素朴な野菜スープの香りが漂ってきた。


「どうぞ。……お菓子ではなくスープですけど、よろしければ」


 レオンはそう言って、自虐的に片目を閉じて見せた。

 差し出されたカップからは、温かな湯気が立っている。

 その冗談が、あまりに彼らしくて、私は張りつめていた糸が切れたように涙が溢れた。


「……ごめんなさい……私……」


 受け取る手が震えて、スープをこぼしそうになる。

 レオンは、そんな私の両手を、彼自身の大きな手でそっと包み込んでくれた。

 温かい。カップの熱と、彼の手の熱が、冷え切った指先から心臓へと伝わってくる。


「謝るのは、あなたじゃありません、アリア」


 ゼファーさんたちが十分離れたからだろう。

 レオンが念のため「防音・遮断結界」の簡易魔道具をパチンと発動して、いつもの二人きりの時の口調に戻してくれる。


 レオンは、私と同じ目線の高さで、真っ直ぐに私を見つめた。


「トマスの話から推測した。物流が止まったのは、スポンサー企業の腐敗と裏切りが原因だろう」


「え……?」


「G-ロジスティクスが、意図的にこの街を見捨てた疑いがある。……そして、その背景にはきっと魔王軍の『悪意』がある。リナールへ目を向けることを遅らせ、いつか勇者が再びここを訪れたとき、勇者に『絶望』を与えるために。……現に、今のアリアがこうなっているから、この予想は大きくは外れてないだろう」


 レオンは悔しげに唇を噛み、そして強く言った。


「だが、一か月という早さで気づけたのは良かった。……それに、アリアには俺が付いている。敵も予想はしていなかっただろう。大丈夫、敵の思い通りになんてならない!」


「レオン……」


 彼は、私を一人にしない。同じ泥の中に立つ「共犯者」として手を差し伸べてくれる。

 そのことが、どれほど救いか。

 ……でも、だからこそ。私は彼に縋ってはいけない。


「でも……! 彼らは今、『幸せ』なんでしょう? 薬のせいだとしても、笑っていられるなら……私がそれを壊して、現実を突きつける権利なんて……」


「それは『幸せ』なんかじゃない。ただの『飼育』だ」


 レオンは、私の迷いを断ち切るように、静かに、けれど強く否定した。


「彼らは今、思考を奪われ、感情を去勢され、ただ『笑う機能』を持った家畜として管理されている。……アリア、思い出してくれ。広場で石を投げてきた彼らの目を」


 脳裏に蘇る。満面の笑みで、殺意を向けてきた人々の目を。

 あの目は、どこか焦点が合わず、恐怖に怯えていた。


「彼らは笑っていたんじゃない。『笑わなければ殺される』という恐怖に支配されていたんだ。……恐怖で支配された笑顔に、何の価値がある?」


「……っ」


「魔王軍の狙いは明白だ。人間から『怒り』や『悲しみ』という抵抗の牙を抜き、都合よく搾取すること。……このまま放置すれば、彼らは二度と、自分の意志で泣くことも怒ることもできなくなる。心が死んで、ただ生かされているだけの肉人形になるんだ」


 レオンは私の肩を掴み、真っ直ぐに私を見据えた。


「アリア。君は彼らを『人間』に戻すために戦うんだ。……たとえ今は恨まれても、彼らが再び、自分の意志で怒り、泣き、そして心から笑える日を取り戻すために」


 彼の言葉が、霧を晴らすように私の視界を開いていく。

 そうか。あれは平和じゃない。人間性の放棄だ。

 私が守りたいのは、ただ生きているだけの命じゃない。心を持った、人の尊厳なんだ。


「……それから、さっき君が言った『権利』についてだけど」


 レオンは少し考えるように視線を落とし、そしてまた私を見た。


「君は昼間、石を投げられながらも、あの老婆に食料を渡そうとした。……あれは『勇者』としての義務感だったか? 何か『権利』を行使したつもりか?」


「……違う。ただ、お腹が空いて辛そうだったから……」


「ああ。アリアは反射的に動いた。俺たちの中で一番早く。自分の危険も顧みず。……それは、勇者という肩書きじゃない。アリアという女性が持つ、根源的な『優しさ』だ」


 レオンの手が、私の手に少し力を込める。


「偽りの幸福に溺れる彼らを、アリアは『可哀想だ』と思って泣いた。……その涙が流せる限り、アリアは間違っていない。誰かを救いたいと思う心に、権利なんて必要ないんだ」


 彼の言葉が、私の空っぽだった胸に、熱い芯を通していく。


「勇者は神じゃない。すべての悲劇を未然に防ぐことなんてできない。……だが」


 レオンは空を見上げた。木々の隙間から、わずかに星が見える。


「落ちた泥の中から、一番星を見つけて指し示すことはできるはずだ。……俺は、その星を見つける手伝いがしたい」


 一番星。

 泥の中でも、輝くもの。


 私は手の中のスープを一口飲んだ。

 薄味で、少し野菜の芯が残っている。けれど、それはトマスさんが語ったような脳を溶かす甘さではなく、身体に染み渡る「生きるための味」がした。


「……ありがとう、レオン」


 震えは、もう止まっていた。

 私は残りのスープを飲み干し、深く息を吐いた。

 肺いっぱいに、冷たい夜気を吸い込む。


「私……歌うわ」


「歌?」


「ええ。この地方には、古い民謡があるの。辛い冬を越えて、春を待つ歌が」


 剣は振るえない。演説では届かないかもしれない。

 けれど、歌なら。

 彼らの心の奥底に眠る、薬でも消せない「本当の記憶」に触れられるかもしれない。


「準備を手伝ってくれる? ……私の、専属記者さん」


 私が尋ねると、レオンはどこか誇らしげに、力強く頷いてくれた。


「喜んで。……最高のステージを用意しましょう、勇者様」


 レオンが言い終えると同時だった。

 ふわりと視界が塞がれ、私はレオンの広い胸の中にいた。


「……っ」


 驚いて身を固くする私を、彼の力強い腕が優しく、けれど逃がさないように閉じ込める。

 言葉はなかった。

 ただ、服越しに伝わる体温と、トクトクと力強く脈打つ心音だけが、私の震える魂に染み込んでくる。


 それは、これから向かう罵倒と絶望の嵐から私を守るための、儀式のようだった。

 彼が私に、「勇者」として立つための最後の勇気を注ぎ込んでくれている。


 数秒の後。

 レオンは一瞬だけギュッと力を込めると、名残惜しむように私を解放した。

 その顔にはもう、甘さはなかった。頼もしい「共犯者」の顔で、私に手を差し伸べる。


「さあ、全部救おう」


 私はその手を取り、強く握り返した。


 闇はまだ深い。

 けれど、私の隣には、確かな温もりが一つあった。

最後までお読みいただきありがとうございます!

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