第12話:幸福な家畜の作り方
昼間だが少し薄暗い林の中。
虫や鳥の鳴き声が重苦しい沈黙の中、嫌に響いていた。
アリアは木の根元で膝を抱え、小さく震えている。彼女の心は、守るべき民衆から投げつけられた拒絶の言葉と、石礫の痛みに引き裂かれていた。
そんな彼女の姿を見て、俺の中で抑えようのない苛立ちが沸点に達した。
俺は歩み寄り、座り込んでいたトマスの胸倉を掴むと、荒々しく背後の巨木に押し付けた。
「答えろ、トマス!」
「……ぐっ」
「いつからだ? いつから、あんな狂ったルールを受け入れた? お前はジャーナリストだろ! あれがおかしいことぐらい、分からないはずがないだろう!」
俺の怒声が薄闇に響く。
だが、トマスは抵抗しなかった。木漏れ日に照らされたその瞳は、暗い井戸の底のように虚ろで、どこか諦めの色が漂っていた。
「……一ヶ月前ですよ」
「一ヶ月前?」
「ええ。ある『噂』が流れたんです」
トマスは俺の手を振り払うこともせず、淡々と語り始めた。
「『王都でのスポンサー会議で、リナールへの復興支援の打ち切りが決定した』――と」
「……は?」
俺は一瞬、言葉の意味を理解できず、呆然とした。
そして次の瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「馬鹿な! その議案は確かに一部のスポンサーから提出されたが、即座に却下されている! 『見捨てられたと知れば民衆が混乱する』という理由で、議題に上がったことすら報道を禁じられた最高機密だぞ!」
俺は叫び返したが、トマスは悲しげに首を振った。
「……ですが、現実に食料の配給は止まりました」
その言葉の重みに、俺は息を呑む。
「その噂が流れた翌日から、G-ロジスティクスのトラックは一台も来なくなった。勇者様も助けに来なかった。……それで、誰もが悟ったんです。『噂』は真実だったんだ、と」
俺の手から、力が抜けていく。
トマスの胸倉から手が離れ、俺はよろめくように一歩後ずさった。
(……情報が、漏れている? いや、それよりも実際に支援が届いていないだと?)
あの最高機密の議案を知っているのは、スポンサー会議の上層部や記者だけだ。
俺の脳裏に、ヴィンセント局長の言葉が蘇る。
――『G-ロジスティクスのマルコム常務が見せた、不自然な沈黙への疑念』。
――『リナールからの感謝の手紙』。
線が、少し繋がった気がした。
マルコム常務は、会議での「支援継続」の決定を無視し、独断で輸送を止めたのか? リナールから届いたという感謝の手紙も、悟らせないための自作自演?
彼が勇者の視察を拒んだのは、支援打ち切りを知られないようにするためだったとしたら――。
「先輩」
トマスの静かな声が、俺の思考を現実に引き戻す。
彼は、膝を抱えるアリアの方を一瞥し、そして俺を射抜くように見た。
「僕たちを絶望させたのは、魔王軍じゃありません。あなたたち『側』の沈黙ですよ」
「……っ」
反論できなかった。
俺たちがのうのうと王都で会議をしている間、彼らは信じていた者たちから「見捨てられた」という絶望に晒されていたのだ。
「心が完全に折れて限界が訪れた頃……魔王軍が来ました」
トマスは、どこか夢を見るような口調で続けた。
「彼らは武器を持っていませんでした。暴力を振るうこともなく、ただ広場に、湯気の立つ温かいスープの大鍋を置いて、こう言ったんです。『笑った者にはやろう』と」
俺はトマスの顔を見た。
彼は、その時の光景を思い出すだけで、恍惚とした表情を浮かべている。
「プライド? 人としての尊厳? ……そんなものは、限界の空腹の前ではゴミ屑でしたよ。私は笑いました。必死で、顔が引きつるほどに」
トマスは自分の頬を両手で触れる。
「そうしたら、スープが貰えた。……美味しかったなぁ。あれほど美味いものは、人生で食べたことがない。温かくて、甘くて、涙が出るほど幸福でした」
彼の瞳孔がわずかに開き、異様な多幸感に浸っているのが見て取れる。
異常だ。おそらく、スープに依存性のある薬物でも含まれていたのだろう。だが、それ以上に恐ろしいのは、彼が「屈服させられた」のではなく、「自ら選んで笑い、その対価として救われた」という強烈な成功体験を刷り込まれていることだった。
トマスは懐に手を入れると、潰れかけた小さな黒パンを取り出した。
そして、ふらりとアリアの方へ歩み寄る。
「勇者様、食べますか?」
アリアは顔を上げられない。震える肩が、彼女の無力感を物語っている。
「一度その温かさを知れば、もう戻れません。あの街では、隣人が笑っていなければ、自分のスープも減らされる。だから互いに監視し、励まし合い、無理にでも笑わせ合うんです。『みんなで一緒に幸せになろう』とね」
トマスは優しく、しかし残酷に囁く。
「素晴らしい連帯感だと思いませんか? そこには孤独も、不安もない」
「……私の、せいだ……」
アリアの口から、掠れた声が漏れた。
彼女は自分の膝に爪を立て、血が滲むほど強く握りしめている。
「私たちが……遅れたから……。私が、みんなを……」
トマスの言葉は、毒のようにアリアの傷口に染み込んでいく。
「勇者が来なかったから、私たちは悪魔に魂を売るしかなかった」。その論理は、アリアの存在意義を根底から否定するものだった。
トマスがさらにパンを近づけようとした。
バシンッ!
俺はトマスの手首を払い、黒パンを地面に叩き落とした。
「……もういい、喋るな」
俺はトマスを睨みつける。
トマスは、地面に転がったパンを悲しそうに見つめ、それから肩をすくめた。
「……もったいない。感謝こそが糧なのに」
トマスはそれ以上何も言わず、黙り込んだ。
林の中には再び重苦しい沈黙が降りた。アリアの嗚咽だけが、微かに響いていた。
***
『……人間とは脆い。情報を遮断し、嘘の絶望を囁き、最後に少しの飴を与えれば、自ら進んで首輪をつける。……私が与えたのは、ただのパンじゃない。「魂の空白」を埋める泥だということさ』
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