第10話:調律される希望/アリア
カチ、カチカチ……ポロロン……。
鉄の小箱から流れる規則正しいリズムが、静かな店内に響く。
私は、チョーカーを外した生身の喉に手を当て、そっと息を吸い込んだ。
(……大丈夫。音程は理解した。あの巨人を斬った時のように、最適な出力と波長を計算して、声を乗せるだけ)
私は祈るような気持ちで歌い出した。
自分の中で完璧なピッチを組み立て、発声する。
けれど、その第一声が漏れた瞬間、店主さんの眉間に深い皺が刻まれた。
「――止めろ。耳が腐る」
冷酷な断絶。私は、歌を途中で引き裂かれたショックに立ち尽くした。
「あ、あの……音程は合っていたはずですが……」
「合ってるさ。機械みたいにな。……だが、あんたの歌は、オルゴールの音を殺してる」
店主さんは、私の喉元を指差した。
「いいか、勇者。あんたは無意識に『支配』しようとしているんだ。剣で魔物をねじ伏せるように、自分の声でこの箱の音を従えようとしている。それは歌じゃねぇ、ただの命令だ」
店主さんの言葉は、あまりに重かった。
私はハッとした。
そうだ。私はスキルを自覚した時以来、すべての問題を「計算」と「努力」で解決してきた。だから歌に対しても、「どうすれば効率よく届くか」「どうすれば人を動かせるか」という、勇者としての制御を持ち込んでしまっていたのだ。
「もう一度だ。……極限まで魔力を乗せるな、感情を乗せろ。あんたの中にある『勇者』を捨ててみな。ただの音の波になって、声と一体化しろ」
店主さんに促され、私は再び震える指でゼンマイを巻く。
カチ、カチ……ポロン、ポロン……。
目を閉じる。
計算を捨てる。制御を捨てる。
思考を止めた暗闇の中で、不意に記憶の澱が浮かび上がってきた。
それは、六年前。あの絶望の戦場よりもっと前。
私の歌の、本当の原点。
(……そう。あの時、私が思い出していたのは……)
実家の道場の裏庭。厳しい稽古で体中が痣だらけになり、隠れて泣いて歌で紛らわしていた私に、レオンがそっと声をかけて差し出してくれた、甘いフロランタンの香り。
『アリア、君の歌は、なんだか日向の匂いがするね』
まだ何者でもなかったレオンが、照れくさそうに笑って、初めて私の声を「きれいだ」と言ってくれたあの日。
スキルツリーなんていう無機質な系図に縛られる前の、ただの「アリア」として歌っていた、あの無防備な旋律。
私は、自分が「勇者」であることを忘れることにした。
背負った国の期待も、世界を救う義務も、すべてを店内の古い木材の匂いの中に溶かしていく。
ここにいるのは、ただ歌うことが好きな、一人の女だけ。
「……~~~♪」
二度目の歌声。
それは、オルゴールの澄んだ音色と喧嘩することなく、寄り添うように空気に溶け込んでいった。
支配するのではなく、調和する。
私が「私」であることを誇るのではなく、ただ、そこに在る音を愛おしむように。
その瞬間だった。
私の脳内で、沈黙を守っていたスキルツリーが、これまで見たこともない温かな虹色の光を放った。
――カチリ。
何かが噛み合う音が聞こえた。
先ほど見た『音響理論の理解』という条件項目が満たされ、ロックされていた『聖域』の深部。行き止まりだと思っていた枝の先から、一本の柔らかな新芽が芽吹くのが見えた。
【聖域/神装複合・共鳴:追憶の残響】
<必要条件:音響理論の理解B、魔力制御の放棄、無垢なる楽器との同調、信仰値200000……そして、『飾らない自分』への回帰>
それは、広範囲を強制的に癒す力ではない。
聴く者一人ひとりの心にある「一番大切な記憶」と共鳴し、絶望を忘れ、絶望の侵入を許さない、魂の防壁を展開する力。
歌い終えた私を待っていたのは、静寂だった。
店主さんは、眼鏡を外して目元を乱暴に拭うと、ぶっきらぼうに呟いた。
「……ふん。やっと、楽器の音が聞こえるようになったじゃねぇか」
私は恐る恐る、隣にいるレオンを見た。
彼は店主さんには見えない位置で、その唇が微かに震え、そして優しく弧を描いているのが分かった。
彼は言葉を交わす代わりに、短く、けれど誰よりも深く、私に向かって「きれいだ」と口元だけで伝えてくれた。
(できた……)
私の新しい「一歩」。
それは、剣でも魔力でもなく、かつて誰かに愛された「等身大の自分」を信じることから始まったのだ。
私は拳を握りしめる。
この「共鳴」の力があれば、あるいは――魔王軍の支配する「絶望」すらも、塗り替えることができるかもしれない。
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