あなたを映す鏡
桜祭りの当日。朝からスマートフォンがけたたましく鳴り続けていた。その音はまるで、焦燥に駆られた誰かの悲鳴のようだった。私は昼過ぎまでそれを放置し、ようやく電話に出た。
「先生!一体どうなっているんですか!花が咲くどころか、蕾すらつけていないじゃありませんか。本当に大丈夫なんでしょうな!」
電話の向こうで、円光和尚が裏返った声で喚いている。
「言ったではないですか、直前にならないと咲かないと。今あの桜は眠っているのですよ、大丈夫です。日暮れ頃には花をつけますので。私も日が暮れる前にそちらに向かいます。最後の仕上げがありますので」
「本当に夜までには咲くんだろうな!祭に間に合わなかったらどうしてくれる……金は払ったんですからな!」
電話を切り、私は夕刻の準備を整えた。陽が傾き始めた頃、キッチンのかごで眠るレインに「でかけてくるね」と声をかけ、愛車を走らせて寺へと向かった。
寺に着く頃、空はいよいよ茜色に染まろうとしていた。時刻は午後四時。境内には桃色の提灯がそこかしこに彩られ、わずかではあるが夜桜祭りを心待ちにする客が少しずつ入り始めている。
その中、私の姿を見つけるなり、和尚が血相を変えて駆け寄ってきた。
「やっと来たか!一体どうするつもりだ。五時にはいよいよ客が入り始めるのだぞ。今咲いていなかったら、満開になんぞなるわけがないであろう!」
「そうですね。手品でもない限り、咲かないかもしれませんね」
私は和尚に微笑みかけ、動揺する彼をその場に残して桜の根元へと進んだ。背後では、孫の少年が心配そうにこちらを伺っているのが分かった。
彼らに背を向け、私は鞄から杖を取り出し、誰にも見えないように木の根元を叩いた。
「laimatite——時よ止まれ」
空間が凍りつき、喧騒が消える。しだれ桜は、今にも祟り木へと変じようとする禍々しい邪気を放っていた。
「しばらくぶりです」
私が話しかけると、桜は起き抜けのようなしわがれた声を絞り出した。
「うぅ……あぁ……お前さんか。わしはもう、自我を保つのが限界じゃ。今日にも祟り木になり、人を呪うてしまうだろう」
「あなたは、本当に優しい桜ですね」
私は静かに杖を振り、水の玉を空中に浮かび上がらせた。それらは一瞬で結合し、清らかな水鏡となって周囲を照らす。
「whoasheta——見せろ」
水鏡の中に、この六百年の間に桜へ願った人々の姿が次々と映し出されていく。
大学受験に合格して涙を流す人。病を乗り越えて元気に笑う者。いじめを乗り越えて友を得た学生。寺の少年が愛おしく桜を見つめる姿、そして最後に、あの侍が妻子と抱き合い、幸せそうに微笑む。
彼らは皆、口々に「ありがとう」と呟いていた。
「これは……」
「六百年分の『ありがとう』です。あなたが与えてきたものが、映されているのですよ」
水鏡から強い光を帯びた青白い蔓つるが伸び、しだれ桜の全身を優しく包み込んだ。それは孤独を溶かし、真っ黒な邪気を一瞬にして払っていく。
元の姿を取り戻した桜は、静かに囁いた。
「あぁ……わしは…わしは人間が好きだった…。木の魔法使い、わしの最後を……手伝ってくれるか」
「ええ、もちろん。最後の治療を始めましょう」
私は再び呪文を唱え、止まっていた時間を解き放った。
「titealaim——時よもどれ」
空間が動き出す。私は鞄から小瓶を取り出し、黄金色に輝く砂のような薬を根元に撒いた。太陽が西へ沈み、夜の闇が降りてくるその瞬間、誰にも聞こえない声で餞別の魔法を重ねる。
「ronrommaro——春の夢を」
その時、かつて伐採されてしまった若木たちが、淡い幻影となってしだれ桜の周囲に蘇った。
「迎えに来たよ」
「ずっと待ってたよ」
「一緒に行こう」
幻の若木たちが声をかけると、老いぼれていた大樹の枝に、瞬く間に生気のエネルギーが駆け巡る。
「お前たち……お前たち……!」
「もう大丈夫だよ」
「もう痛くないよ」
「一緒に眠ろう」
次の瞬間、蕾つぼみ一つなかった枝先から少しずつ蕾つぼみが現れ、ゆっくりと花が花を呼ぶように咲き誇る。見事な大輪の花々が一斉に溢れ出し、甘く優しい桜の香りが漂った。
しだれ桜は、これ以上ないほど美しく、力強く、満開になった。
幻想の桜林もしだれ桜に共鳴するように花をつけ、桃色の光の粒子が蛍のように寺中を駆け巡る。その光は吊り下げられた提灯の中へと入り込み、魔力の灯火となって夜闇を幻想的に揺らめかせた。
「あぁ……なんということだ。本当に咲いた!咲きましたぞ!」
和尚は真ん丸に目を見開き、歓喜の声を上げて参拝客の方へと駆けていった。
入れ替わるように、あの眼鏡の少年が桜の元へ近寄ってきた。彼は満開の桜を見上げ、涙を流していた。
「先生……桜が、笑っているみたいです」
「そう見えるかい」
「はい。嬉しそうに、笑っているみたいに見えます」
私は桜を見上げた。夜風に揺れる花びらは、確かにどこか穏やかな表情をしているように見えた。
「このしだれ桜の美しさを、よく目に焼き付けておくといい」
「はい……はい……!」
少年は涙を拭いながら、何度も頷いた。その手にはスケッチブックが握られていた。
私は手のひらに落ちた数枚の花びらを、静かに握りしめた。
「仕事は終わった。失礼するよ」
美しい雅楽の音が響き渡る中、私は多くの参拝客が「美しい」と溜息をつく声を背に聞きながら、静かに境内を後にした。




