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第4話 君のための薬

「ただいま」


重たい玄関のドアをギギギと押し開けて中に入ると、廊下の奥から眩い速さで小さな白い影が飛んできた。パタパタと高速で翼を動かし、雀ほどの大きさの鳥が私の肩にふわりと着地する。


「先生、おかえりなさいませ。本日の仕事の来客はありませんでしたよ。あっ、新田のおばあさまが、裏口に野菜を置いていかれました」


「また野菜をくれたんだ。何かお礼をしなくてはね」


肩の上で嬉しそうに話すのは、オスの白文鳥レインだ。


「今日は、『魔法自然史』の第三章、風の魔法について学んでいました。私は魔法を使えませんが、知識を蓄えておけば、いつか先生のお役に立てる日が来るかもしれませんので」


レインに文字を教えてやって以来、私が留守の間、彼は小さな翼で本をめくり、熱心に学んでいるようだった。


「勤勉だね。嬉しいけれど、そんなに私に尽くす必要はないんだよ。君は、私の家族なんだから」


「いえ、それでは私の気がおさまりません。あの日、先生が捨てられた私を救い出してくださらなければ、今、私はここにいないのですから。こうして長く生きていられるのも、先生のおかげなのです」


レインは、生まれて間もない頃にダンボールに入れられ、山の木の下に捨てられていた小鳥だった。息も絶え絶えだった彼を私が見つけ、治癒の魔法をかけて助けた。その魔法の影響か、彼の寿命は文鳥としては異例なほど長くなっている。


あれからもう二十年が経っていた。


「役に立つために助けたわけじゃないんだよ。ただ助けたかったから、そうしただけなんだから」


「……先生は、いつもそうおっしゃいます」


レインは少し()ねたように羽を膨らませた。私は小さく笑って、彼の頭をそっと撫でた。


「今日の仕事はどうでしたか」


「あの桜の木のことかい。まだ仕事が残っていてね。今からもう少し作業部屋へ籠るとするよ」




そうして私とレインは一階の一番奥にある作業部屋へ入った。


作業部屋のランプの灯りを魔法で灯す。ふんわりとした黄金色の灯りが優しく部屋を照らした。レインは部屋にある止まり木に止まり、私の作業を眺め始める。


私は薄緑色の作業着から、白い白衣に着替えた。


そして棚からいくつかの材料を取り出すためにビンを開ける。開けたビンからは、色鮮やかな魔力の粒子が舞い、部屋を様々な色へと染めていく。


「『百年草』に、『魚の涙』、『夕陽のカケラ』と……よし」


私はそれらを調合し、出来上がったものを机に置かれた鏡の上に振りかける。そして昼間写真を撮ったスマートフォンを取り出し、木の写真を鏡に映し、呪文を唱えた。


「rimshemorimshemo(リムシーモ)——記憶を映し出せ」


そう唱えると緑、青、橙の細かい光の粒子が鏡の上で混ざり合い、鏡から光を発してしだれ桜の木の記憶が走馬灯のように浮かび上がった。




映し出されたのは、満月の夜だった。


鎧を着た男たちが桜の木々に近づき、桜を囲んだ。そして刀を地に降ろし、一人の男が話し出した。


「明日はいよいよ決戦だ。俺たちは劣勢、正直に言えば負け戦になるだろう。だが俺は、まだ死にたくはないのだ」


男は静かに涙を流しながら、しだれ桜を見上げた。


「故郷には、妻と幼い子が待っている。もう一度、あいつらの顔が見たい。桜よ、どうかこの身を守ってくれ……」


その祈りが届いたかどうか、男には知る術がなかった。ただ、桜の枝がさわりと揺れた気がした。


男たちは涙を流しながら頭を垂れ、静かにその場を去った。


だが私には、鏡越しに聞こえていた。若い桜たちのざわめきが。


「かわいそうだね」「助けてあげようよ」「うん、助けてあげよう」


しだれ桜は静かに応えた。


「……よかろう。この者たちの命、この桜が預かろう」


しだれ桜は自らの生命力を分け与え、桜の花びらが淡い光を放ちながら、去りゆく侍たちの背を優しく包み込んだ。




鏡の中の映像が移り変わる。


戦場の光景。劣勢だったはずの戦は、奇跡的な逆転を見せていた。桜の加護を受けた男たちは、一人も欠けることなく生き延びた。


そして後日。生還した男は(よろい)を脱ぎ、墨染(すみぞ)めの衣に身を包んでいた。出家したのだ。


「俺はこの桜に命を救われた。残りの人生は、この恩に報いるために使おう」


男は泣きながら桜を見上げ、深く頭を下げた。


「守ると誓う。お前を、この桜林を、子々孫々まで」


しだれ桜の枝が風に揺れ、まるで頷くように花びらを散らした。


やがて男はこの地に寺を建て、桜を(まつ)り、「勝ち桜」として大切に守り始めた。それが、あの寺の始まりだった。




映像が進むにつれ、季節が何度も巡り、世代が移り変わっていく。


寺は大きくなり、参拝客が増え、桜は「勝ち桜」として名を馳せるようになった。しだれ桜の周りには子どもたちのような若い桜が育ち、美しい桜林を作っていた。


代々の住職たちは、最初の約束を守り続けた。桜に語りかけ、桜林を慈しみ、共に生きてきた。


だが、ある代を境に、空気が変わり始めた。




映し出されたのは、現代の光景だった。


あの円光和尚が、石垣で泣いている孫の少年を突き放している。


「子どもは黙っておれ! 庭師がこうした方がいいと言ったんだ。一番大きな木を長生きさせるにはこうせねばならん。お前の代になった時に困らぬようにしてやっているんだぞ!」


「でも、じいちゃん、ひいじいちゃんは桜林を守れって……」


「ひいじいさんはもうおらん! 今はワシが住職だ!」


和尚の合図で、庭師たちがしだれ桜の周囲にいた若い木々に手をかける。


「やめて、痛いよ……」「どうして……」「助けて……」


若い桜たちの悲鳴が響く中、しだれ桜が叫んだ。


「やめろ……! やめてくれ……! わしの子どもたちを……!」


だが、その声は人間には届かない。次々と木が切り倒されていく。少年は泣きながら見ていることしかできなかった。




鏡の表面にピシリと亀裂が入った。


臨界に達した鏡が音を立てて割れ、部屋のランプが一瞬だけ瞬いた。


「……ひどい」


レインが沈痛な声で呟いた。


「そうだね。あの和尚は、取り返しのつかないことをした」


私は割れた鏡の破片を片付けながら、静かに言った。




それから私は、別の調合を始めた。


先ほどとは違う材料を棚から取り出す。『月光の露』、『眠り苔』、そして先日採取しておいた桜の樹皮の欠片。


「何を作っているんですか、先生」


「桜のための薬だよ。和尚に撒かせる」


「和尚に……?」


「この薬は、撒いただけでは効果が出ない。ある条件と私の呪文が重なって初めて発動する。だが、和尚には知る由もない。自分が薬を撒いたから花が咲く、そう思うだろう」


私は調合を終え、淡い桃色の粉末を小瓶に詰めた。


スマートフォンを手に取り、円光和尚に電話をかける。


「ああ、樹木です。……ええ、状態を確認しました。花を咲かせられそうです」


電話越しの和尚の声が、途端に明るくなった。


「おお、それは良かった! さすがは市長の紹介だ!」


「ただし、条件があります。私がお届けする薬を、祭りの三日前に桜の根元に撒いてください。効果が出るまで少し時間がかかりますので」


「わかりました、わかりました! 必ずそうします!」


和尚は上機嫌で「これで寺の収入も安泰だ」と下卑た笑いを漏らした。私は冷めた目でその声を聞き流し、電話を切った。


「……先生、どうしてあんな人間のために力を使うんですか」


レインが不満そうに羽を膨らませる。


「あの和尚のためじゃないよ、レイン」


私は小瓶を灯りにかざし、淡い桃色の輝きを眺めた。


「和尚は金を望んでいる。少年は桜の花を望んでいる。そしてあの桜は……救いを望んでいる。私はただ、それぞれの望みが叶うように力を使うだけだ。それが、私の役目だよ」


「……難しいです」


「そうだね。でも、それでいいんだ」


私はレインの頭を優しく撫で、窓の外に広がる夜空を見上げた。


「あとは約束を果たすだけさ。」



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