第1話 歪んだ春の予感
木々に囲まれた山間の麓に建つ、古ぼけた洋館。その一角にある作業室には、微かな土の香りと古い紙の匂いが漂っている。窓から差し込む柔らかな午後の光の中、私は机の上に置かれた鉢植えをじっと見つめていた。
「レイン、春が来たね」
そっと指先で小さな芽に触れると、そこから微かな、しかし力強い生命の鼓動が伝わってくる。慈しむように目を細める私の傍らでは、白文鳥のレインがパタパタと羽を揺らしていた。
穏やかな時間を破ったのは、デスクに置かれたスマートフォンの無機質な振動だった。画面に表示された「土門 次郎」の名を見て、私は小さく溜息をつく。後見人であり、人間社会では市長を務めるこの大魔法使いからの連絡は、決まって厄介事の持ち込みだ。
「またあの方ですか。……きっと厄介事ですね」
傍らのレインが私の顔を見る。呆れたよう言いながら首を傾げた。
通話ボタンを押すと、案の定、緊張感のない弾んだ声が耳に飛び込んできた。
「もしもしー、光? ちょっとあなたにお客さん紹介したくて。知り合いに樹木医がいるって言ったら、今から向かうって聞かないのよ。報酬は弾ませるから、よろしくねー」
こちらの返事を待つこともなく、一方的に電話は切れた。嵐のような無礼さに呆れていると、間もなく庭に不釣り合いなピカピカのベンツが停まった。
「はい、どちら様ですか」
扉を開けると、そこには恰幅の良い袈裟姿の僧侶が立っていた。首元には袈裟に不向きな金のネックレスが光っている。円光≪えんこう≫と名乗ったその男は、私の姿を見るなり露骨に眉を寄せ、値踏みするように上から下まで視線を走らせた。
「樹木≪きき≫光≪ひかる≫先生のお宅はこちらでしょうか。市長の土門先生から紹介されましてな。……いや、お父さんはおられるかな」
「樹木光は私ですが」
私が淡く答えると、和尚は強張った表情で苦笑いを浮かべた。
「冗談はよして下さい。君のような少年がベテランの樹木医のわけがないでしょう。大切な相談なんだから、大人を呼んでくれるかな」
どこからどう見ても十代半ばの少年にしか見えない。緑色の目に、少し癖のある薄茶色の髪。肌は透き通るように白い。しかし、魔法使いである私の成長速度は人間とは根本的に異なる。土門はあえて私のこの容姿を伏せて仕事を繋ぐ。私の不機嫌を愉しんでいるのだ。
「この家には私以外の者はおりません。私にご相談をなさるのが不安なようでしたら、お引き取り頂いてかまいません」
私が冷淡に言い放ち、門戸を閉めようとすると、和尚は慌てて私を引き止めた。
ようやく彼を書斎に招き入れると、私はお気に入りのアールグレイを淹れ、お茶請けのチョコレートを一粒口に含んだ。カカオの苦味とベルガモットの香りが広がり、至福を感じる。和尚は焦燥を滲ませながら切り出した。
「私の寺には、樹齢六百年の勝ち桜と呼ばれるしだれ桜がありましてね。代々大切に守ってきたのですが、今年になって全く蕾をつけんのです。今まで頼んでいた庭師にも原因がさっぱりわからんと言う。……今やワシらの生活はこの桜と切り離せんのです。なんとかなりませんか」
和尚の言葉には、桜を生命として敬う心など微塵微塵もなかった。あるのは、ただ寺の看板としての資産価値を守りたいという、執着だけのように見えた。
「明日、伺いましょう」
そう告げて和尚を送り出すと、私は冷めた紅茶を飲み干した。レインが心配そうに私を見つめる。
「……さて、レイン。明日になったら、本当の依頼主に会いに行かねばならないね」
私は独り言のように呟き、窓の外に広がる春の空を見上げた。




