3話 ネグローニ
次の日の夜。
薫は、昨日と同じカウンター席に静かに腰を下ろしていた。
マスターに出されたお冷には手をつけず、ただ入口をじっと見つめている。
やがて、バーの扉が静かに開いた。
薫はすぐに顔を向け、ふっと微笑んだ。
扉の向こうに立っていたのは、絢香だった。
彼女は薫を見つけ、穏やかな声で挨拶を送る。
「こんばんは」
「こ、こんばんは。今日も会えて、嬉しいです」
「私も」
ふたりは隣同士に座り、グラスを傾けながら、夜が明けるまで語り合った。
あれから数週間がたった。
初めは何を話せばいいのか分からず、薫は絢香に色々な話を振った。
それをきっかけに、二人の距離は少しずつ縮まっていった。
絢香は、薫の話を一度も遮ることなく、静かに相槌を打ちながら、最後まで耳を傾けてくれた。
最初の頃は、「つまらないのかな」「ちゃんと聞いてくれているのかな」と不安にもなった。
けれど、次に会ったとき、前に話したことをちゃんと覚えていてくれた。
そのことが、何よりも嬉しかった。
気がつけば、絢香と過ごす夜が、父と話す時間と同じくらい楽しみになっていた。
ある日の夜───
薫は、初めて遅刻した。
理由は大学の課題である。
終わらせるとすぐに支度を整え、急ぎ足で待ち合わせのバーへ向かった。
扉の前で立ち止まり、ポーチから鏡を取り出してメイクを確認する。
乱れはない。
深呼吸をして、心を整える。
(よし、行こう)
意を決し、扉を押して店内に入った。
カウンターの奥に、いつもの席に絢香の姿を見つけた。
歩み寄ろうとした時、薫の足が、ふと止まる。
彼女が、タバコを吸っていたのだ。
今まで一度も見たことがなかった。
煙草の匂いも気配もなかったのに、目の前の彼女は当たり前のようにタバコを吸っていた。
(タバコ、吸うんだ・・・)
驚きと共に、わずかな好奇心が薫に芽生えた。
薫を見つけた絢香は、タバコを灰皿に押しつけた。
薫は自分がどんな表情をしているのか分からないまま近づいて、隣に腰を下ろす。
「こんばんは、絢香さん」
「こんばんは」
「絢香さんって、タバコ吸うんですね」
「・・・幻滅した?」
ふと、彼女は尋ねる。
薫はすぐに首を振った。
「そんなことないです。別に、吸う人を嫌だとは思いませんよ」
「そう」
グラスに口をつけようとする彼女を、薫はそっと見つめた。
「・・・ただ、ちょっと興味があって」
その言葉に、絢香の手が止まる。
絢香は持っていたタバコを差し出した。
「吸ってみる?」
「・・・いいんですか?」
うなずく絢香に導かれるように、薫はタバコを一本取り、恐る恐る口に加える。
火をつけてくれた絢香の仕草に緊張しながら、薫は息を吸い込んだ───
が、次の瞬間、激しく咳き込んでしまう。
「ゆっくり吸って、吐いてみて」
優しい声に、こくんと頷く。
言われた通りにもう一度試すと、咳き込まず、煙が口から漏れた。
「どう?」
「口の中が、ヒリヒリします・・・これが、ニコチン?」
「それ、低温火傷だから」
苦笑まじりに、即座に訂正された。
もう一度、薫はタバコを吸い、吐く。
「このタバコ、少し甘いですね。なんて名前ですか?」
絢香がタバコのケースを差し出すと、薫はタバコのケースを見て、スマホで写真を撮った。
薫はふと気になり、絢香に聞いた。
「タバコに合うお酒って、あるんですか?」
「あるよ。私と同じのでいい?」
「はい、お願いします」
絢香はマスターに向かって、ひとこと告げた。
渡された酒に薫はマスターに軽く会釈をして、グラスを手に取った。
「先にお酒を飲んでからタバコを吸うといいよ」
「はい」
言われた通り、薫はひと口飲み、煙を吹かす。
その瞬間、瞳がふっと丸くなる。
「甘みが・・・増したような?」
疑問符を浮かばす薫に、絢香は頷いた。
「風味が増したんだよ。相性がいいお酒だから」
「そうなんですね」
薫がもう一度試そうとすると、絢香は慣れた手つきで、火をつけ、煙を吐き、グラスを傾ける───その一連の動作を流れるように行った。
その姿に、薫は思わず声を漏らした。
「絢香さん、かっこいい・・・!」
不意打ちの言葉に絢香は目を瞬かせ、手元の灰を落としてしまう。
「ありがとう。そんなこと言われたの、初めてだよ」
照れたように、けれどどこか嬉しそうに笑う。
その夜で、薫は大人の楽しみを覚えた。
二人は煙を漂わせて、二人だけの空間が生まれた。




