16話 サードレール
仕事部屋を飛び出した薫は、廊下をがむしゃらに走っていた。
薫はリビングに置いていたスマホを取りに向かっていた。
スマホを取り、警察に連絡して父親を助けるために。
(早く・・・お父さんを助けなきゃ・・・!)
その瞬間。
左腕を、熱いものがかすめた。
すぐそばの花瓶が砕け散り、水と陶器の破片が床に散る。
反射的に足を止め、薫は振り返った。
そこにいたのは、右腕から血を流す絢香だった。
その姿を見た瞬間、薫の目に涙が溢れそうになる。
「お、お父さんは・・・」
震える問いに、絢香は短く答えた。
「・・・殺した」
その言葉が落ちた途端、薫の頬に涙が伝う。
膝から力が抜け、床に崩れ落ちた。
「そ、そんな・・・お父さん・・・」
父の死。
突然の事に薫は受け入れられない。
泣き崩れる薫のそばへ、絢香はそっと歩み寄った。
「・・・ごめん、薫ちゃん」
その謝罪は、薫の耳には届かない。
絢香はしゃがみ込み、薫の手を包み込むように握った。
そして、静かに告げる。
「薫ちゃん。私と一緒に暮らそう」
握られた手が震え、薫はその手を弾き飛ばした。
「薫ちゃん・・・」
「・・・ってんの・・・」
「え?」
聞き返した絢香に、薫は声を張り上げた。
「お父さんを殺しといて、何言ってんのよ!!」
絢香は息を呑む。
「何が“仕事”なの!何が“ごめん”なの!お父さんを殺しといて!大好きなお父さんを殺しといて!どの口がそんなこと言ってるの!ふざけないで!!返して! 返してよ!!」
それは、薫の心の底から溢れた叫びだった。
恋人を愛しながら、同時に父を奪われたという残酷な矛盾。
その痛みを、薫は受け入れられなかった。
薫の涙を見つめながら、絢香は初めて深い後悔を覚える。
生殺与奪の権利は、絢香にあった。
殺すことも、生かすことも、自分次第だった。
これまで絢香は一度も後悔したことがない。
──────だが、今回ばかりは違った。
三色悠真。
彼は紛れもない悪人だ。
無実の人間を拉致し、あるいは人身売買で買い取り、
目的のために数え切れないほどの実験を施し、殺してきた。
その被害者の数は、絢香が任務として殺してきた“善人”の数など比にならない。
絢香は薫と出会うずっと前から、その情報を掴んでいた。
だから本来なら、ためらいなく任務を完遂できたはずだった。
しかし、絢香は躊躇した。
それは、悠真の一人娘───薫と出会ってしまったから。
薫と過ごすうちに、絢香は彼女を好きになった。
恐らく、これまでの人生で最も深く。
絢香の中で“悠真”という存在の見え方が変わっていった。
薫から聞いた悠真という人間と、薫の大切な存在。
そうして絢香は、任務を放棄しようとまで考えた。
だが、それも叶わなかった。
仕事を完遂しなければ、自分は助からない。
せめて薫の目の届かないところで終わらせ、その後で薫を自分のものにする。
そんな最低な願望まで抱いた。
それすら、うまくいかなかった。
運が悪く、薫に見られた。
結果、薫を傷つけてしまった。
泣き崩れる薫を前に、絢香の胸がはち切れそうになる。
なぜ、任務を放棄しなかったのか。
なぜ、あの部屋で悠真を殺したのか。
なぜ、薫を悲しませると分かっていながら引き金を引いたのか。
逃げ出したい。
薫の視界から消えたい。
絢香が望んでいたのは、ほんの二つだけだった。
悠真の抹殺。
そして、薫と一緒に暮らすこと。
ただそれだけの願いのために、絢香は取り返しのつかないことをしてしまった。
薫が泣く姿など見たくなかった。
その涙の原因になりたくなかった。
もしも、悠真が事故死してくれていたら。
もしも、薫があの時部屋に来なかったら。
もしも、殺す場所を変えていたら。
もしも、薫と出会う時期がもっと遅かったら。
もしも、薫が“父より私”を選んでくれたなら。
都合のいい“もしも”が、際限なく湧き出てくる。
「どうして・・・」
呟いたその時、薫が絢香を睨みつけた。
憎悪と悲しみが入り混じった、これまで見たことのない表情で。
「どうして・・・辞めてくれなかったの・・・?」
その一言が、胸が締め付けられそうな感覚を襲う。
次の瞬間──────
割れた花瓶の破片を握りしめ、薫が叫びながら襲いかかってきた。
絢香は反応が遅れ、頬をかすめる鋭い痛みが走る。
薫は続けざまに二撃目を振り上げると、咄嗟に絢香は引き金を引いた。
一発の銃声。
弾丸は薫の胸を撃ち抜き、薫は糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
口元から血が零れ落ち、薫の呼吸が浅くなる。
その瞬間、絢香の意識が激しく揺れ戻った。
「──────っ・・・!」
倒れる薫を見て、絢香の手が震える。
胸が焼けるように痛い。
喉の奥が締め付けられる。
初めて後悔した。
初めて恐怖した。
初めて愛した人を撃った。
絢香は拳銃を床に投げ捨て、崩れ落ちる薫を強く抱きしめた。
次回で最終話です




