13話 プース・カフェ
程よく酔ってきた頃、ふと絢香が壁に掛けられた時計に目をやった。
針はちょうど、九時を指している。
空になったグラスをそっとテーブルに置きながら、絢香が呟いた。
「・・・そろそろ出よっか」
「はい。あ、その前にお手洗い、行ってきます」
薫軽く会釈をして立ち上がり、洗面所へと向かう。
その足取りはどこか軽やかだった。
(・・・今日は、本当に楽しかったな)
洗面所に入ったとたん、そんな思いが自然と湧いてくる。
思わず口元に笑みが浮かび、鏡に映った自分の顔を見て少し照れた。
用を済ませて席に戻ると、絢香が静かに立ち上がった。
「お待たせしました。それじゃあ・・・行きましょうか」
「うん」
二人は肩を並べて、会計カウンターへ向かった。
薫がバッグから財布を取り出そうとしたその瞬間、絢香がこちらに顔を向ける。
「もう、支払い済ませたからね」
「え・・・また、ですか?」
驚いたように薫が問い返す。
昼食のときからずっと、薫が財布に手を伸ばすより早く、絢香が支払いを済ませてくれた。
せめて半分だけでもと申し出ても、彼女は首を横に振るばかり。
絢香が店から出ると、薫はあとを追うように店を出た。
夜の街は、すっかり暗くなっていた。
けれど、ビルや看板の灯りが通りを優しく照らしていた。
「美味しかったね」
絢香が少しだけ口角を上げる。
「はい。また、一緒に来たいです」
「だね。じゃあ、そろそろ帰ろうか」
その言葉に、薫の心がかすかに沈んだ。
(え?・・・もう?)
もっと一緒にいたい。
その思いが喉までこみ上げたが、言葉にはできなかった。
彼女にも用事があるかもしれない。
我儘なんて、言えない。
「・・・はい。わかりました」
精一杯の笑顔を作って、頷いた。
「そういえば、時間、大丈夫?」
「え? あ、はい。まだ余裕あります。絢香さんは?」
「私も大丈夫。まだちょっと時間あるから・・・もう一杯、飲んでいこうかな」
その一言に、反射的に言葉が飛び出した。
「私も・・・一緒に行って、いいですか?」
言ってしまった、と気づいた瞬間、顔が熱くなる。
すると思う絢香は笑って言った。
「じゃあ、もう一軒いこっか」
「はい・・・!」
その瞬間。
ふいに、薫の手が柔らかな温もりに包まれた。
「あ、絢香さん・・・!」
思わぬ行動に、薫は驚きながら絢香の顔を見た。
彼女は穏やかに笑っていた。
「手、握っていい?」
「・・・え? 握ってますよ?」
「ううん、“手を握る”って言うのは、こういうのじゃなくて──」
その瞬間、絢香は薫の手を恋人繋ぎに変えた。
手のひらいっぱいに伝わる、彼女の体温。
それだけで、胸の奥がぎゅっとなる。
顔が一気に熱を帯びていく。
それを見て、絢香がふっと笑った。
「可愛いね」
その声が、耳の奥まで染み込んでいく。
恥ずかしさと嬉しさが混ざったまま、絢香は小さく頷いた。
「それじゃあ、行こっか」
恋人繋ぎのまま、二人は夜の街へと歩き出した。
そこからのことはよく覚えていない。
目が覚めたら見知らぬ場所にいて、ベッドの上で裸になっていた。
横を見ると、タバコを吸っている絢香が見えた。
薫が起きたことを認識すると、絢香は優しい笑みを浮かばした。
「おはよう、よく眠れた?」
絢香と買い物を終えた翌日の夜。
相も変わらず薫はいつもの場所でいつもの時間で絢香を待っていた。
あの時の笑みを思い出すと顔が赤くなる。
早く会いたい。
また交わりたい。
そんなことを思っていると、お店の扉が開いた。
扉の方を見ると、そこには薫が買った服を着た絢香がいた。
私を見ると、絢香さんは微笑を浮かばして隣に座った。
「こんばんは薫ちゃん」
あれから数日が経過した。
毎晩、薫は絢香と会い、酒を嗜み、たまに交わる。
この日々が、薫は毎日の楽しみであった。
その日々が続き、少しずつ、薫は絢香の事が好きになり、離れたくない存在へと変わった。




