07 保育園からの幼馴染です
「――なに?」
呟いて、ユリがギズモを操作する。
ギズモは陽気な音楽を流したまま。
が、ユリが誰かと通信と繋ぐと、自動で音楽が途切れた。
爆音の残響だけが聞こえる、しんと静まり返ったレストエリア。
「――お父さん?」
ユリが言った。ギズモのディスプレイには、「ぱぱ」という文字が表示されている。
パブリックモードの音声通信。
「お父さん、なに?」
『ヒメユリ、今どこだ?』
男の人の声がした。宮佐さん――だろう。
「一階――」
『なんだってそんなとこに。上がって来られるか』
「ジンくんが一緒だよ」
『ジン? 誰だ? ――ああ、透真にくっ付いてる奴か。
別にいい、一緒に来い。行方不明より死亡事故の方が誤魔化しにくい』
ユリが俺を見て、口の形で「ごめんね」と言った。
とはいえ、部外者の俺にも異常事態が発生していることがよくわかるのだ。
宮佐さんも、ふらふら迷い込んできた一般人のことなんか考えていられないだろう。
まあ、俺としては、「家に帰してくれ」としか思えない事態だが。
ユリがギズモを持っていない方の手を伸ばして、俺のスウェットの袖をつまんだ。
そのままぐいぐいとエレベーターホールへ引っ張られる。
「お父さん? なに? 侵入者なの?
今までここをディバイドしたことはなかったよね?」
『ああ――とにかくヒメ、三十階に行け。津布久たちに守ってもらえ』
「トーマくんは? トーマくん――」
透真は産業級の能力者だ。
だが、能力は才能ではなく理屈で動く。
体育よりも数学に近い。
使い方を忘れていれば何にもならない。
「――十二歳からこっちのこと、忘れてるんだよ?」
『大丈夫、俺と貴一が行く。おまえと透真は離れてる方がいい。
――くそ、本当なら透真が助けに来てくれるはずなんだけどな』
「…………」
ユリが黙り込んだ。
俺がエレベーターの呼び出しボタンを押し、間もなくして電子音と共に開いた扉の中にユリと一緒に乗り込む。
扉が閉まり、ユリが通信を切った。
その顔に、凄まじい後悔が浮かんでいたのをはっきりと覚えている。
「――どうしよう、トーマくん、一人で部屋に戻ったよね?」
「二階だから、合流はすぐだけど――」
と言いつつ、俺はホログラムボタンの上で指を迷わせている。「2」と「30」。
が、ユリは決然と言った。
「三十階。――わたしとトーマくんは一緒にいちゃいけない。
わたしは侵入者の前に顔を見せたこともない」
信じて「30」を押してから、俺は、まだどれだけ危機的状況になっているのかがわからないがための軽口を叩いた。
「なにそれ、化学反応的な?」
「違う。トーマくんとわたしはBGSの最高戦力だから。一緒にいてどちらも失うようでは冗談にならない。
それにわたしはトリックスターだから。存在してることを知られちゃいけない」
はっきりとそう言われて、俺は思わず、エレベーターの発光天井にしらじらと照らされるユリの顔を、穴が開くほど凝視した。
「――なあ、その、BGSって……」
エレベーターが上昇する。
「……戦争か何か、してるの?」
ユリは微笑んだ。
「世界安全保障局。
――わたしたちは世界の安全を守っています」
さて、パニック映画もよく見る俺としては、「途中でエレベーターが停まるんじゃ?」という不安に駆られた数十秒後、無事に三十階でエレベーターのドアは開いた。
大きな窓のあるエレベーターホール。
通路にもエレベーターホールにも煌々と照明が入っていて、通路はもちろん無人ではなかった。
見たところ十五人から二十人くらいの人が歩き回っている。
けれども、パニックになっているとか、大騒ぎになっているとか、そんな雰囲気は全然ない。
むしろ、寝てるところを叩き起こされて現場検証に当たっている刑事みたいな、そんな感じの雰囲気が、その場の全員から溢れていた。
エレベーターホールからユリと俺が通路に走り出ていって、それに気づいた人たちが振り返る。
夕方に見た、大学生っぽい人もそこにいた。今は俺とほぼ同じスウェット姿だ。
「スターリリィ」
彼が呼んで、それから俺を見て目を細める。
「……と――?」
「お父さんが一緒にいろって。お父さんはヨザおじさんと一緒に、トーマくんのところ」
ユリがそう言って、何かを続けようとして、黙った。
俺にもその理由がわかった。
そりゃあ、通路が如何にも爆発しましたって感じで大穴が開いていれば、黙りたくもなる。
そして、俺はちょっと黙ってから、囁いた。
「――なあ、あそこ、透真の部屋じゃない?」
そう、目を疑うような大穴が開いている爆心地っぽいところは、夕方案内された透真の部屋、まさにそこ。
そこにでかい穴が開いていて、コンクリと鉄筋の断面がはっきりと見えている。
「侵入者はどこ?」
「さっきまでここにいた」
ユリの問いに、大学生っぽい彼が答える。
侵入者ってなんだ?
なんか、今日はちょいちょい聞いている気がするが、そろそろ気にするべきときだろうか。
「望愛が咄嗟に反撃して、床をぶち抜いていったから、今は二十九階かな」
「あそこを爆発させたの、じゃあ、ノアちゃんなの?」
「侵入者が静かに立っていたことは否定できない」
大学生っぽい彼がそう言って、ユリがはたと気づいたように、「ツフクくんだよ」と彼を示す。
俺はもうなんか鈍感になるしかない時期にきていたので、「はあどうも」と会釈。
「黒川です」
「あ、どうも。津布久です」
津布久さんも真顔でそう応じてから、ギズモを取り出して、プライベート音声通信モードで耳に当てた。
そのままちょっと黙り、通信がつながったタイミングで口を開く。
「あ、与座さん? 僕です、津布久です。こっちにスターリリィが来ました。
え? 透真?」
津布久さんがしばらく顔を顰めて黙って、ややあって耳からギズモを離した。
ディスプレイをタッチして、プライベートモードからパブリックモードに切り替え。
ディスプレイには「与座貴一」の表示。
途端、切羽詰まった透真の声が聞こえてきた。
与座さんの近くにいるらしい。走っているのか、声が揺れて、喘ぐような調子になっている。
『尋ちゃん!? 尋ちゃん、どこ!?』
「え、俺?」
と、間抜けな声を出してしまう。
「俺は三十階。大丈夫――」
『俺もそっちに行く!』
「あ、いや、それなら俺がそっちに行く方がいいと思うんだけど、今は無理して動かなくていいかなー、なんて……」
言いながら、ユリと津布久さんを見る。
よくわからないけど、透真の方にも人が向かったみたいだし、なんかもうよくわからないけど、俺は大人しくしてる方が良さそう。
ユリも津布久さんも、「よしよし」みたいな顔で頷いている。
そう思ったのに。
津布久さんは冷静な声で言っている。
「侵入者は今、推定で二十九階にいます。追跡に当たっているのは森谷――」
『じゃあ森谷は無駄足』
透真の声ではない声がした。
聞き慣れないから咄嗟の判別ができないが、たぶん、与座さんか宮佐さんの。
こちらも走っているらしく、声が揺れている。
『侵入者は今、俺たちの近くにいる』
「はい?」
俺は思わず呟いてしまった。
もちろん、俺が何を呟こうが、他の人の知ったことじゃないが、
――透真、大丈夫か?
侵入者が何なのかはわからないけれど、学校でのことといい今の雰囲気といい、暴力沙汰の匂いしかしない。
『俺もそっちに行く!』って、じゃあ、「合流しようぜ!」っていうことじゃなくて、切羽詰まった「安全なところに行きたい!」だったのか。
「今どこですか」
津布久さんの声は冷静というか、いっそ無関心に思えるほど平静だ。
『六階のモニタリングルームの近く』
「向かいますか」
『全然大丈夫だって言いたいんだけど、頼む。津布久はそこでヒメユリを守って。斉郷と名屋を寄越してくれ。
とにかく透真を落ち着かせないと話にならん』
俺ははらはらして両手を握り合わせた。
――透真。
透真が可哀想だ。
行方不明、記憶喪失、突然「おまえは政府の機関で働いてた」とかいうわけのわからんカミングアウト、そして自分は果たして自分なのかと疑うところまで追い詰められて――
『――尋ちゃん、助けて』
ギズモから聞こえる透真の声は半泣きだった。
そして、自分でも馬鹿だとわかるが、俺は衝動的に言っていた。
「待って、俺も行きます。
透真、俺が行く方が落ち着くかも」
「は?」
津布久さんとユリ、ついでにギズモの向こうの宮佐さんと与座さんの声が重なった。
「ごめん、きみ、透真のなに?」
津布久さんに胡乱な目で見られ、俺は場違いにも真面目に応じていた。
「保育園からの幼馴染です」
エレベーターに乗り込んだのは、俺と、斉郷さんと呼ばれた二十代後半くらいの女性、名屋さんと呼ばれた三十代の男性――ちょうど、俺と透真が愛路さんに連れられてここに来たときに出くわした男性――、それから江守さんと呼ばれた、二十代半ばくらいに見える無精ひげの生えた男性だった。
江守さんは俺のボディガードをしてくれるらしい。
なんか気分としては、アイスランドの紛争地帯に行くことがあればこんな気持ちになるか、みたいな感じ。
勢いで、「俺が行った方が透真が落ち着くかも」と馬鹿なことを言い出した俺だったが、自分でそれを白紙撤回する前に、周りが「それもそうだ」と言ってしまった。
ギズモの向こうからですらそうだった。
「透真、あいつ、BGSに来る前の記憶がぶっ飛んでんだろ。
じゃあ、以前からの知り合いが近くにいた方がいいに決まってる」
津布久さんは、「ギズモで通話しながら落ち着かせるのはどう?」と現実的な案を出してくれたが、「連れてく方が確実」と江守さんが断言。
彼はユリを見て――ユリは事態に目を瞠っていて、賛成も反対もしていなかったが――、ウインクした。
「どのみちあと一時間ちょっとで勝ち確だ」
というわけでエレベーター。
ものの十秒程度で六階に到着し、病院のような印象を受ける廊下に引っ張り出される。
どっちに行けばいいのかわからない俺は腕を掴まれて、細い通路が入り組んだ廊下を走っていく。
壁面自走式の小さな警備ボットが天井付近を滑って走り回っていて、警報音を発し続けている。
このときの俺は、自覚はしていなかったがパニック状態だったのだと思う。
床を踏む足の感覚がなかったことは覚えている。
呼吸も浅くなっていて、頭に血が昇っていた。
ややあって、「モニタリングルーム」というホログラムの白い表示が見えた。
モニタリングルーム前では警告の表示を掲げること、という法令に、しっかりこのビルも従っているらしい。
音が聞こえてきた。
日常生活ではまず聞くことのない、備品や什器が立て続けにひっくり返るような騒音と、ガラスが割れる音、――それから透真の叫び声。
斉郷さんと名屋さんが、それこそドラマで見る刑事みたいな動きで、モニタリングルームの表示の下を駆け抜けて、音がする方向――モニタリングルームの観測室の方へ走っていく。
江守さんは俺を連れてそれに続きながら、顔を顰めていた。
「宮佐さんがいるなら大丈夫かと思ったけど、割とやばめっぽいな」
その三秒後、俺は照明がぶっ壊れ、モニタリングルームの試験室から射す明かりのみが光源となった観測室を見た。
観測室は――どこでもそうだが――二部屋に分かれていて、一部屋は試験室を見守る構造、もう一部屋は、そっちの部屋から送られてくるデータを解析するための部屋だ。
今は、そのどちらに通じるドアも開きっ放しになっている。
能力判定テストを受けたことのない人なんて、それこそ小学生までだと思うが、いちおう補足しておく。
――モニタリングルームというのは能力のモニタリングをする設備だ。
座学を経て能力を発現させられそうになった人が入って、実際にその能力を使ってみるためのものだ。
俺くらいなら、モニタリングルームに入るなんて大仰だなぁと笑っていられるが、産業級の能力者となればそうはいかない。
工場一個を教室で暴発させるわけにもいかないので、特殊加工された壁面・床面・天井を持つモニタリングルームは必須。
試験室を見下ろす特殊ガラスの窓から、試験室を照らす白い光が差し込んでいる。
試験室に降りていくための梯子に通じる小さい非常ドアもあるが、当然ながら施錠中のランプが光っている。
そして、俺が目を疑ったことに、二つの観測室を隔てていたはずの分厚い壁がぶち抜かれて大穴が開き、解析部屋の方ではデスクやPC、棚が幾つも倒れていた。
真っ先に見えたのは、観測室のど真ん中で堂々と立っている人影。
――見覚えがある、いや、見覚えがあるなんてものじゃない、あの黒づくめだ。
真っ黒な野戦服にフルフェイスの黒いヘルメット――目を疑ったことに、右手に小型のブラスターにしか見えない何かを握っている。
しかも、発砲直後を示す高温注意のサインが点いている。
――え、銃撃戦?
俺が仰天している間も事態は切り替わっていく。
ユリのお父さん――宮佐さん。
宮佐さんは解析部屋の方にいて、ぶち抜かれた大穴の蔭で大穴の縁を盾にするような格好になっている。
恐らく、俺が目の当たりにした最初のその瞬間こそが、黒づくめがブラスターの連射を止めたその瞬間だったのだろう――宮佐さんが立ち上がる。
その周囲に、ちらちらと氷の結晶が舞う――宮佐さんの周辺だけ異様に気温が低くなっている――温度の上下を扱う能力の発現現象だが、
黒づくめが、ブラスターの発射ボタンにまた指を置いた。
俺は素直にびびったが、直後、黒づくめはブラスターをベルトに挟んだ。
――みるみるうちに、ブラスターが白く凍りついていく。
機器の異常を知らせるサインが銃身に展開され、それも飲み込む勢いで氷が張っていく。
間違いなく宮佐さんの能力だったが、
――待ってくれ、今この状況で能力を使ったのか?
繰り返すが能力は思考の産物だ。
いや待ってくれ、能力を使っての暴力沙汰は罪が重くて、
このときの俺はパニックのあまり、見慣れない異常事態よりも、まだよくわかる身近な犯罪の方に目がいっていて、
そして――
「透真!」
俺が叫び、透真が顔を上げた。
透真は倒れたスチール棚のすぐそばで、頭を庇ってしゃがみ込んでいた。
「尋ちゃん――」
俺が江守さんのそばから走り出して、観測室の分析部屋に駆け込み、透真の腕を掴む――
――と同時に、どこからともなく湧き出してきた(ように見えたが、当然、俺の視野が狭くなっていただけで近くにいたのだ)、斉郷さんと名屋さんが、俺からすれば「相手は武装してるんですよ!」と叫びたいくらいの躊躇いのなさで、黒づくめのそいつに突進していく。
聞いたことのない耳に痛い音が上がり、斉郷さんが格闘家もかくやという身体捌きで掴んだ黒づくめの腕に紫電が走る。
俺と同系統の能力だが、出力がまるで違う。
名屋さんが、目に見えない何かを引っ張るような身振りを見せた――途端、黒づくめがもんどりうってその場でよろめき、膝をつく。
この時点で俺の喉はからからである。
頭の中は、来るんじゃなかったの大合唱。
とにかく透真を引っ張る。
「透真、逃げよう」
江守さんが俺と透真のそばに来て、座り込んでいる透真の二の腕を掴んで立たせる。
「マジかよ、透真。元のおまえだったらこんなの一瞬なんだけどな」
感慨深そうにそう言われて、透真が明らかに動揺して目を泳がせた。
今、こいつのメンタルケアをしている時間はない。
俺は思わず怒鳴っていた。
「生きてるだけで偉いから! 透真、逃げるぞ!」
ちょうどそのとき、少し離れたところで倒れていたスチール棚が吹っ飛ぶような勢いで動き、「くそったれ」と悪態を吐きながら、その下から与座さんが這い出してきた。
痛そうに脇腹を押さえながら立ち上がり、状況を見て取って、向こう側の部屋へ向かって走り出す。
そして次の瞬間、明らかな異変があった。
――寒いのだ。
肌でわかるほど急速に、この部屋の室温が下がっていく。
鳥肌が立ち、俺は否応なく黒づくめの人物の方を見た。
膝をつかされた黒づくめ、その足許の床が白く凍りついている。
いや、床だけじゃなかった――ぱきぱきと小さな音を立てながら、微細な六方晶の結晶が夥しい数で一気に拡がり、床を氷漬けにし、黒づくめのブーツを這い上がって凍りつかせ、膝に達し、脚全体を覆い――
フルフェイスのヘルメットにも、信じられないことに霜が降り始めている。
「――なにあれ……」
透真が呟く。
吐く息が白くなっている。
――人が普通に持つ能力の一つだ。
温度の変動を扱う能力だ。
さっきも使っているところを見たから、これは宮佐さんの能力だろう――そうわかっているが、でも、ここまで急速に温度を変化させるなんて聞いたことがない。
日常級Bクラスの電気系能力者である俺が、「スタンガン」であるように、温度変化を扱う能力者は「エアコン」なのだ。
そのはずだ。
つまり宮佐さんは間違いなく産業級の、しかも恐らくは大都市クラスの能力者――
急速に氷漬けになっていく黒づくめを囲んで、宮佐さん、与座さん、斉郷さんと名屋さんが立っている。
四人の顔に全く安堵の色がないのが怖い。
俺は透真を引っ張った。
「行くぞ!」
透真が俺を見て、蒼白な顔ながらも頷いて、さっきまでよりしっかりと立った。
それを見ただけで、俺は「来て良かったかも」と思ったが、
「江守!」
名屋さんが叫ぶ。
江守さんが透真を抱え込むようにしてその場に伏せて――
――悪夢再び。
四人に囲まれ、刻一刻と氷漬けになっていたはずの黒づくめの膝下から、白い罅割れが床一面に走る。
冷気で広がる氷の結晶とは全く別種の、異質さを感じる罅割れ。
今日の夕方、透真と二人でいた廊下で見た、まさにあれ。
仄かに輝く罅割れに似た白い輝線が、複雑に入り組み絡み合い、伝播して床と壁、そして天井にまで達して拡がり――
――天井がうねった。