06 スイカ嫌いのヒメユリの話
一人になって、ペットボトルのキャップを開けて、じゃっかんぬるくなったココアをこくりと飲む。
甘い。
甘さが嬉しい。
「……重い……」
透真があんなに悩んでるとは知らなかったが、正直重い。
つい先月まで、目が合ったら「よう」と手を振る程度の間柄に落ち着いていたのに、ここ最近の仔犬ムーブに加えて泣き言まで聞かされるとは。
別にいいんだけど、なんかこう、居心地の悪さというか、妙なむずがゆさというか、そういうのがある。
「重かったねぇ」
返ると思っていなかった声が返って、俺はリアルに跳び上がった。
がばっ、と振り返ると、エレベーターホールとは反対側に抜ける通路の入口、観葉植物の蔭に、ユリがいる。
「き――聞いてたの……」
正体不明の熱が顔に集まって、俺は消え入りそうな声を出す。
勘弁してくれ、あんなクサいことを言ってたのを聞かれてたのか。
「ごめん、普通に飲み物を買いに来たら、すごく深刻な話が始まってて」
真顔でそんなことを言いつつ、ユリがとことこと走ってきて、自販機からホットレモンを選んだ。
俺は茫然。
「このビル、ここにしか自販機ないの? そんなことないだろ……」
「まあ、そうね」
と、ユリ。
今は白いTシャツの上からカーディガンを羽織り、下はネイビーのスウェットパンツ、足許は白いサンダル。
髪はまとめてお団子にしている。
「なんかトーマくんが心配で、もしかしたらいるかなぁと思って降りてきたんだけど、わたしが出ていくより先にきみが来ちゃって」
「マジか」
俺は呟いて、ホットレモンを手に隣に座ってきた彼女をぽかんと見遣る。
「え、おまえ――いや、きみ……」
「ヒメユリ。スターリリィ。ユリ。なんでもいいよ」
「ユリちゃん」
いちばん人名っぽいのを選んだ。
「ユリちゃん、きみ、透真の彼女?」
ユリは口を開けて笑った。
「まっさかぁ、違うよ!」
「あ、そう」
「でも顔見知りではあるからね。顔見知りが記憶喪失だよ? そりゃあ心配でしょ?」
「まあ、うん」
「でもジンくん、いいこと言ってたねぇ」
にこっと微笑まれ、俺はたじたじ。
話を逸らすべく、気になっていたことを尋ねる。
「ユリちゃん――きみ、名前は?」
「だから、ヒメユリ。スターリリィ。ユリ」
「いや、本名……」
言ってしまってから、俺は「あ」と。
「ここの人たち、実は全員コードネームとか?」
ユリはまた笑った。
あははは! と、衒いのない軽やかな笑い声。
「違う違う! あー、あのねえ、わたし、決まった名前がなくて」
「え?」
「わたし、トーマくんと同じなの。記憶障害」
「え?」
「小さい頃に自分が誰かわからずふらふらしてるのをお父さんに見つかって、拾ってもらったの。八歳くらいのとき」
「そんなことある?」
ご存知、出生と同時に受ける遺伝子検査は義務だ。
父母およびその親族に扶養の責任があり、それからは逃れられないのだ。
「あったみたい。で、お父さんも最初はわたしを持て余したけど、すごく可愛がってくれて、今やわたしのお父さん」
「それなのに名前が」
「ヒメユリちゃん、って呼ばれてて、それが定着」
「そんな、猫みたいな」
「気に入ってるから、いいかなって」
ユリは頓着なく笑う。
俺は咄嗟にギズモを出そうとして、それが取り上げられていることを思い出した。
とはいえユリに挙動を見られ、ユリは大きな淡褐色の瞳を瞬かせて、「どうしたの?」と。
「煙草? あ、未成年か」
「あ、いや、ギズモ」
「なんで? わたしと喋ってるのに?」
「違うって。ヒメユリって花の名前だろ? どんな花なのか調べようと思って」
「ああ」
そう言うと、ユリがポケットからギズモを引っ張り出した。
ディスプレイに触れると、ホームに設定されている画像が見える。
女児向けのアニメのキャラクターだ。
肩にふわふわした小さい生き物を乗せて、きらきらしたステッキを構えているキャラ。
「え、好きなの?」
思わず訊いてしまう。
だってどう見ても、対象年齢は小学生までなんだもん。
「好き。可愛いしかっこいい。そして約束されたハッピーエンド」
歌うようにそう答えて、「変わった子だな」と思う俺を置き去りに、ユリはインフォメーションフィードにアクセスした。
「ヒメユリ」と検索窓に打ち込むと、結果が返される。
俺もギズモの検索結果に目を落とした。
表示された、くっきりした濃オレンジの六弁花を見て、俺は思わず、「似てねぇ!」と。
「ぜんぜんきみのイメージと違う!」
「へえ、どういう花のイメージだったの?」
「白くてちっちゃくて可愛い花」
「え、ありがとう」
ユリが真顔でそう言ったので、俺は「何が?」と。
きょとん、と瞬きして、ユリは首を傾げる。
「だって、わたしを見てそういうのを連想したってことでしょ? 毒々しくて黒くて不吉な花、とか言われるより嬉しいよ。
しかも、可愛い。わたしが可愛いってことでしょ? ありがとう」
「…………」
俺は黙って俯いた。
インフォメーションフィードを閉じたユリが、ギズモに時刻を表示させる。
22:35の表示を見て、「あと二時間もないね」と。
そういえば、日付が変われば――と言っていたっけ。
俺は顔を上げて、ギズモを見るユリの横顔に視線を当てた。
「――ユリちゃん、世界級の能力者って、マジ?」
世界級というのは都市伝説の産物で、実在しない。
そんなのは常識のはず、なんだけど。
「まじだよー」
ユリは軽やかに返答した。
その声音の――なんていうんだろうな、連想したものは雪だった。
俺が小学校四年生くらいのときに一度だけ見た、積もってまっさらに白く道路を染め上げた雪。
人の足跡も何もない、綺麗な真綿みたいな雪。
そういう声だった。
嘘とか虚飾とかのない、素直をそのまま音にしたみたいな声。
「……世界級って、マジでいるんだ……」
俺が呟くと、ユリは顔を上げて、俺を見た。
にやっと悪戯っぽく笑っている。
「怖い?」
「なんか制限があるっぽいけど?」
俺が反問してみると、ユリは「ち」とわざとらしく舌打ちする。
面白い子だ。
「ばれてたか。――そのとおり。
たいへん便利な能力ですが、用法用量をお守りください。限度は一日一回です」
「二十四時間間隔じゃないと駄目ってこと?」
「のんのん。時計の時刻どおりです。だから、二十三時五十九分と、〇時〇分に連続使用も可能だよ」
ちっちっ、と指を振られる。
俺はむしろ感心してしまった。
「なるほど、それで俺から、今日の放課後からの記憶をさくっと消せちゃう能力なんだ?」
「そのとおり。――ごめんね?」
申し訳なさそうに眉尻を下げて顔を覗き込まれ、俺は仰け反った。
「まあ、うん、思うところがないでもないけど、どうせ明日には忘れるんだろ。気に病まないで」
「優しいこと言うね?」
「いや、俺が忘れるなら、きみが気に病んでもどうにもならないじゃん」
「確かにそうだけど、気持ち悪くない?」
「そんなえぐいことしないと記憶を消せないの? 副作用があるとか?」
「いや、消すこと自体はさっくりと。副作用もないはずだけど」
「じゃあいいや」
「怖くない?」
「怪我を治してくれたのに?」
目を丸くして尋ねると、ユリが首を傾げる。
「うん?」
「だから、今日の一回。俺と透真のために使ってくれたんでしょ?」
「――――」
「あの場で俺の記憶を綺麗に消して、放り出す方が遥かに簡単だったじゃん。誰だっけ……よ、与座さん、だっけ。あの人もそのつもりぽかったし」
あのとき、車の中で、「なんとか出来るか」と与座さんは言っていた。
そしてユリがじっと彼を見て、それで初めて、「怪我が先か」と思い至った風だった。
「――――」
黙り込むユリに、「そういえばさ」と俺。
「トイレの電気がどうこう、って言ってたけど、あれ、なに?」
「ああ……」
ユリは小声で、ゆっくりと答えた。
「わたしの能力って、好きなことが出来るんだよね。本当になんでも。
一回あったのは、お父さんをアメリカに瞬間移動させたことかな」
「すげ……」
「でも、タダでとはいかなくてさ。代金がいるの。
それが、わたしが、実現させようとする事柄で受ける利益と同等の不利益を被ることなの。それも、わたしの主観で」
「ん?」
「わたし、スイカが嫌いなんだよね」
「夏の風物詩を」
「水じゃん、あれ。種もすごい入ってて食べにくいし。
――だからさ、たとえば、わたしが、『お父さんは一瞬後アメリカに到着します! 代わりに、スイカが消滅します!』って宣言したとして、わたしは不利益を受けないわけよ。スイカ、嫌いだから」
「なるほど。そこはきみの好物じゃないといけない、と……」
「そういうこと」
「……つまり俺と透真の怪我が治ることできみが受ける利益は、このだだっ広いビルのただ一箇所のトイレの電気が切れるのと、同程度だったと……」
「てへ」
ユリは棒読みでそう言った。
愛路さんが爆笑した理由がやっとわかった。
「でも、もう違うかもね」
「え?」
「今、きみが怪我したら、もうちょっと大変な代金が必要になると思うよ」
「どういうこと?」
瞬きする俺に、ユリはにこっと微笑む。
「だって、お話ししてみて、ジンくんってばいい人なんだもん。怪我されちゃうと、もうトイレの電気では釣り合いがとれないかな」
俺は照れ笑いを誤魔化すために変な顔をした。
「――ああ、だから、与座さん、あのとき、名前は後だって言ったのか」
名前も知らぬ通行人その一、と、名前を知っている誰か、では、主観的な価値は異なる。
そういうことだろう。
ユリが目を瞠って俺を見た。
「ジンくん、頭いいね」
「どうもどうも」
「これは、あれだな。きみが今日の夕方からのことを忘れるのと引き換えに、何かBGSのためになることが出来ちゃうかもな」
「…………」
俺は目を見開いた。
――それはつまり、俺が記憶を失くすことが、ユリにとっての不利益だということか。
「――そりゃどうも」
「いえいえ、苦しゅうない」
ユリの言いように笑ってしまう。
けれども、この話題からはもう引いた方がいいと判断して、俺は別のことを言った。
「さっきのアニメ」
「これ?」
ユリがギズモのホーム画面を示す。
俺は頷く。
「そんなに面白い?」
「語ってもいいけど、プレゼンも忘れられちゃうと思うとなぁ」
「何かの拍子に思い出すかも」
「それはあるかも。
――えー、でもいざ語るとなると難しいな。まず、ほら、可愛い」
「目がでっかい」
「OPもいい曲だよ」
「今度調べて聞いてみようかな。――あ、調べようと思ってたことも忘れるのか」
ユリがギズモを操作して、ミュージックフィードにアクセスした。
サブスクフィードの一つだ。
そして、「あなたがよく聴いている曲」という一覧から、ポップな音楽を流し始める。
薄暗いレストエリア、二度と来ることはないだろう、都心の政府の一機関のビルの一画で、二度と会うことはないだろう女の子と、アニメの主題歌を聞いている。
なんだろう、この時間は。
――俺はそう考えていた。
あと一時間半くらいで俺の人生から消えてしまうらしい、この時間は、俺にとっての何だろう。
――でも、なんだろうな、この時間が存在したっていう事実は動かないな。
「話の筋も結構面白いんだよ。心を掴む筋立てというか」
「うん」
「うわあっ! ってなることはあっても、ちゃんとハッピーエンドにしてくれるし」
「ハッピーエンド好きなんだ?」
「幸せなのが一番だからね。え、もしかしてハッピーエンドは安っぽいとか思ってる?」
「思ってないよ」
「――まあ、このアニメ、終わっちゃうんだけどね」
ユリが唐突に寂しそうに言ったので、俺は驚いた。
俺でもコラボ商品とかで目にすることは多いメジャーな作品なのに。
「え? そうなの? 長寿作品のイメージだった」
「うん、シリーズの最初からだと二十年くらい続いたらしいね」
「終わるんだ? なに、スポンサーが離れたとか?」
「ううん。――ほんとに後悔」
ユリは悔しそうにそう言って、ギズモに目を落として、曲に合わせて表示されている、くるくる踊るキャラクターをじっと見てから、顔を上げて俺に視線を向けた。
「アニメとか観る? 本を読んだり?」
「まあ、それなりに。――SFは結構好きだよ」
「たとえば?」
「たとえば? ――うーん、めっちゃ古い作品だけど、ブラッドベリの『華氏451度』とか、ル・グィンの『闇の左手』とか、伊藤計劃の『虐殺器官』とか――」
「読んだことないな。小難しそう」
「科学的なところは飛ばしつつ読んでる。物理とか、俺、めちゃくちゃ成績悪いよ。
――それとか、歴史改変要素とか結構好きでさ。そんなわけないだろっていうのが当然のように語られるの、パラレルワールド感があって好き」
「歴史改変?」
「たとえば――そうだな、作中世界では、日本とアメリカが戦争をしたことがあることになっている、とか」
「あるわけないのに?」
「あるわけないのに」
ユリが微笑む。
いつの間にか流れている曲が変わっている。
プレイリストを自動再生しているようだ。
「まあ、あるわけなかったのに、きみはここにいるんだしね」
俺も微笑む。
「あるわけなかった世界線に、明日から戻るわけだけどな」
ユリがちょっと悲しそうな顔をして、その些細な眉の寄り方、口の端の下がり方、首の傾げられ方に、俺は世界が爆発するんじゃないかというような重大性を感じる。
ユリは笑顔が似合う子だった。
悲しむときは、全世界が喪に服すべきというような、一種独特の、劇的ささえ伴って眉を下げる子だった。
――そしてそのとき実際に、ビルが震えるほどの爆発音が轟いたので、俺はユリが悲しんだがために世界が爆発したのではないかと、一秒のあいだ考えてしまった。
でも、当然、違う。
ユリが顔色を変えて、周囲を見渡していた。
警備ボットの警報が響き始めた。
――さてここで、あなたは疑問に思うだろうか。
俺はここで、この出来事を語っている。
本当ならば、日付が変われば忘れるはずだったことを。