23 拝啓、こちらの現実のあなたへ
その後すぐに、俺は俺に何が起こったのか聞いた。
聞いた直後はさすがに絶句した。
「ば……馬鹿なの……?」
「ごめん」
「ごめんなさい」
「え? って、ってことは、透真は……?」
「世にも珍しい、何の能力もない人間になりました」
「馬鹿……」
「尋ちゃんの方が上手く使ってくれると思って」
んなわけないだろ、と見遣った先で、透真は清々しく、それでいて寂しそうに笑っている。
「もう、俺は頑張れないから」
とはいっても、透真が無罪放免自由の身、これからは普通の学生に戻ります――と事が運ぶかというと、そんなことはない。
「まあ、俺はBGSについてがっつり色々知ってるし、侵入者……って言っていいのかな、あの人たちとやり合った回数も多いから、データ的な面で役に立つことはあるし」
と、記憶がなかったころの仔犬ムーブとは天と地の差の落ち着きようで話してくれた。
ちなみに、俺にも内緒でこっそり特務機関の英雄をやっていたことについては、なぜかめちゃくちゃ謝られた。
言い出せなくて――と言われたが、待ってくれ。
「そもそも、俺たちそんなにべったり仲良しなわけじゃなかったじゃん? お互い言ってないことの方が多いくらいだろ」
「…………」
「――え、ごめん。ごめん透真。そんな顔しないで」
一方の俺。
俺はあのあと、当然のようにBGSビルに引っ張って行かれ、当然のようにメディカルルームに放り込まれ、当然のように脳波スキャンを受けさせられた。
夕方まで待って結果が出てみると、まあ、そうですよねという結果。
つまり、産業級大都市クラスの念動力。
俺の生来の発電能力も残っているが、検査結果は圧倒的念動力者として返ってきた。
「なんでわざわざ検査したの? わたしがやったんだから確実なのに」
と、ユリはじゃっかんお冠。
俺はそのときには疲れ切っていて、「うん、そうだな」と相槌を打つのが精いっぱいだった。
あと、俺の家族への言い訳はどうするんだろう。
結構大騒ぎになっていると思うが、BGSは約束通り、ちゃんとその辺を考えてくれるんだろうか。
どのみち、今日の分のユリの能力は使われたので、どんな細工を期待するにせよ明日以降になるが。
もうギズモを見るのが怖いというか、ギズモから怨念が漂ってくるのが感じられるレベルである。
そしてそんな一身上のことを気にしていられないくらい、俺の検査が終わってからは質問に次ぐ質問。
俺とユリと透真、宮佐さんと与座さんはBGSビルの会議室に連れて行かれ、そこで下代さんと西平さんに質問攻めにされた。
――侵入者が話したことには信憑性があるか。
――その場にいて、彼らを間近に見ていて、彼らが嘘をついている様子はなかったか。
――俺とユリが向こう側に連れて行かれたときに見聞きした全て。
それらを延々と問い質される。
もう途中からは壊れたオルゴールみたいなもので、通信が筒抜けになっていたのだから隠し立てすることはない俺たちは、全部正直に答えていく。
途中で西平さんが蹌踉とした足取りで席を外し、しばらくしてから真っ青な顔で戻ってきた。
途中、宮佐さんが尋ねた。
「――あのさ、三条さんは? いつもこういう重要なことは直接仕切りたがるだろ、あの人」
「三条は……」
下代さんが言葉に詰まる。
「その、通信を聞いて……ショックが大きくて」
「――――」
俺とユリへの質問の時間は長かった。
あちら側で見聞きしたこと。
のみならず、感じたことまで。
「――別に、空気が違うとかはなかったです。普通に、こっちと変わらない感じの」
「管制室みたいなところがあったんで、そこでこっちに来てる侵入者と通信を繋いで、指揮を執ってるんだと思いますけど」
「あちらが言うには、この世界を作った能力者は天羽成織というそうで、声も聞きましたけど、――本当に普通の感じ。神々しいとか、有難みがあるとか、そんなのは全然」
質問はユリの出自にも及ぶ。
「つまり、あちらの世界では、世界級の能力は通常に認知されて、カテゴライズされているということよね?」
「きみの能力はインステッドと名前がついていたわけだ」
「あなたは――あなたは、あちら側の人だったのね」
ユリは相当怯えていた。
そりゃあそうだろう。
さすがに、「人体実験だ!」とかいう運びになったら助けなくては。
途中から、ユリは宮佐さんの手をがっちり握って離さなくなっており、宮佐さんは、口には出さなかったものの、めちゃくちゃ嬉しそうだった。
質問が一通り終わって、ユリが例のヘルメットと青峰博士の端末を下代さんたちに提出する。
下代さんは眉間を揉みながら、「ああ、ありがとう」と甚だ薄いリアクションを示し、それから天を仰いだ。
「――この世界が、一人の能力者が創り出したフェイクで、誕生からまだ九年しか経ってなくて、しかも本物の世界の環境悪化のために、そっちの世界の住人が移住してくるための候補地でしかなかったなんて」
俺は鼻白む。
「……あの、そういう言い方はどうかと」
「逆にあなたたち、よくあの状況で頑張れましたね」
と、下代さんはもはや自棄になったような声で言う。
スーツのネクタイを緩め、血走った目を擦って、彼はぼやくように。
「通信のこっち側――指揮Gは……もう、地獄のような空気でしたよ。今もです。
今もこっちでは、侵入者の言うことが根も葉もない虚偽だったと証明しようとして躍起になってる連中と、すっかり気力を失くした連中に二分されています。
僕と西平は、動いてるだけでも褒めてほしいくらいですよ」
「まあ、どちらかというと、ここで連中の言ったことが嘘だったんだってことがわかることに賭けて、気力を掻き集めて来たんですけどね」
と、西平さん。
目の下が赤くなっている。
「私――私が中学生のときに数学オリンピックの予選を通って喜んだり、高校受験で合格して嬉しかったり、大学生のときに真剣に恋をしたりしたの、あれが全部嘘だったなんて」
「しかもね、今、九歳までの子供たちはいいですよ。でも僕らは――全員、実は、同い年」
下代さんが俺たちを指差し、唐突に箍が緩んだように笑い始めた。
「いやいやいや、違ったね。ごめんね、ヒメユリ、きみがいちばん年長だ」
「きも……」
ユリが呟き、下代さんの顔が強張り、余波で宮佐さんもちょっと悲しそうな顔をした。
「いや、昨日までがどうだったにせよ、今のわたしたちの価値を決めるのは、今のわたしたちの振る舞いだと思いますけど。
――ねえ、ジン?」
「なんで俺に振る……」
俺も随分げっそりしていた。
時刻はもう午後七時を回っている。
普段なら全然元気でいられる時刻でも、激動の一日の後なので疲労困憊。
「――よくあの場で頑張れましたね」
下代さんが項垂れながら繰り返した。
与座さんが、「まあ……」と呟く。
「――ぶっちゃけ半信半疑だったってのと、藤生がショックを受け過ぎてて逆にこっちは冷静になったってのと、そこの……黒川?」
「俺ですか?」
「そう。黒川がもう迷いなく、俺たちは生きてるって断言してくれたもんで、ちょっともうそっちを信じてみようかと思えまして」
「ヒメユリが泣きそうだったんで、いったんあの場を片付けてから考えようと思ってね」
透真が、透き通るような微笑みを浮かべて肩を竦めた。
それを見てわかったが、透真は本当に、もう頑張れないのだ。
俺たちに生があることを信じられなくなっている。
「――正直ね、侵入者の言うことなんか信じられるか、って切って捨てるのは簡単なんですよ。でも、こちらがどう判断しようが、事実は事実だ。
彼らの言うことが事実だとすれば、有り難くないことにあらゆることの筋が通る。
――そして、事実だとすれば……」
下代さんが呟き、組んだ手指に額を預ける。
「……今後のBGSの在り方は、どうなるだろう――」
「――そんな、身売りするみたいなこと言わないでください」
思わず俺は声を出していた。
「ただ黙って受け容れてたら、連中、あっという間にこっちに移住してきますよ。
俺たちを人とも思ってない連中が」
「我々は人なのかな」
「当たり前でしょ!」
俺は声を荒らげる。
半分は透真に向かって。
でも、透真はもう、この話題に関しては、透き通るように儚い、繊細な微笑みしか浮かべてくれない。
「さっきも言ったでしょう――天羽って人はそもそも、ここを、移住先の候補として作るはずだったんだ。少なくとも連中の話では。
だったら、人を作り出すにせよ、あっちの連中にただただ従うロボットみたいなのを作る方が、のちのちの都合は絶対に良かったはずでしょう。
――でも俺たちはそうじゃない」
断じて違う。
「変な連中が、記録も記憶も改竄してこっちの世界に侵攻してきていることに気づいたら、組織立ってそれに反抗しようとした」
記憶を持ったままの人々が寄り集まって、確認し合って、己の境界を侵してきた何者かを嗅ぎつけて。
「その反射とかその本能とか、それを俺たちがどこから獲得したと思いますか?」
断言する。
「俺は、それが生命だと思う」
人は与えられた環境で生きるしかないが、生き方は選べる。
歴史がないなら作るという意思、人として生きるという意思、その意思を持つこの一瞬にこそ価値がある。
下代さんが鼻を啜って、顔を上げた。
顔色がくすんでいる。
目の下には隈が出来つつあって、ネクタイを緩めた襟は歪んでいる。
けれども、その瞬間の彼の目を、俺は覚えている。
針で刺したような光が、ぱっと浮かんだその瞳。
歪んだ襟を正すような仕草をして、下代さんは微笑んだ。
「――BGSが、今後も変わらず、この世界の安全を守っていくとして、」
透真が何か言おうとしたのを手で制して、下代さんは無精ひげが生え始めた顎を撫でる。
「告知実験、と言っていましたね。今後、侵入者は我々に対して、彼らから見た我々の真実を広めていくのかもしれない。
そうなったら――」
下代さんは唇を舐める。
苦渋の表情に、しかしそのときばかりは、閃くようなユーモアが煌めいた。
「自分が真顔でこの台詞を吐くことがあろうとは思わなかったけれどね。
――そうなったら、人心が乱れるぞ」
「先手を打ってなんとか出来ないもんかね。
こっちは幸いにも、連中にそのつもりがあるってことを前以て知れたんだ。これを無駄にしたくない」
宮佐さんが身を乗り出して言い、唇を噛んで少し考える。
「なんでもいい――こういうのは好きじゃないが、宣伝戦みたいな――」
「訴求力を求めるなら、エンタメだ」
与座さんも身を乗り出す。
「エンタメの形で流布した思想っていうのは、結構根強い」
下代さんが瞬きした。
そして、俺を見た。
「それなら――」
俺は首を傾げる。
「はい?」
「……いや」
下代さんが呟いて、隣の西平さんを振り返ってから、両手で顔を拭った。
「話すとしても明日以降になるかな。
――皆さん、今日はもうここまでにして休みましょう。各々ゆっくり風呂にでも入って、何も考えずに寝ましょうね」
大賛成。
今日もどうやらこのビルに泊まっていいみたいなので、俺は他の人たちと一緒に、よろよろしながら会議室を出た。
エレベーターホールで、階下に向かう俺と透真、階上に向かう他の人たちが別れてエレベーターを待つ。
透真は三十階にある自分の部屋に戻れば、と思わなくもなかったが、どうやら貸し出されている二階の部屋をそのまま使うつもりらしい。
そのとき、「げ」と与座さんが声を漏らした。
目を向けると、ギズモを手にした与座さんが顔を歪めている。
「どうした?」
宮佐さんが尋ね、その口調は威厳があるというか詰問口調というか、むしろ怖いくらいなのに、左腕にユリが甘えてしなだれかかっているから、怖いと微笑ましいの間を行ったり来たりする印象になっている。
いえ、と口の中で応じて、与座さんが俺を見た。
「――須郷からメッセージが入っててな。
あー、一昨日の夜に会ったと思うが」
「あ、わかります」
「須郷から、おまえがどこにいるか知ってるかっていうメッセージが来てて――」
宮佐さんが顔を顰める。
俺はどうすればいいのかわからず、咄嗟に宮佐さんを見ていた。
「――無視するのも不自然だな。二階のエレベーターホールにいると伝えろ。
おまえ――尋、須郷に会っていけ。今日は透真の記憶を取り戻すための思い出の地巡りだったっていう設定だから、下手なことは言うなよ」
念を押され、俺はじゃっかんびびりながら、「はい」と頷く。
結局心配だったのか、その場の全員が俺と一緒に二階に降り、エレベーターホールで待機することになった。
待つこと数分、上階から降りてきたエレベーター。
電子音とともに扉が開き、俺は固唾を呑む。
かなりショックなことが大きかった一日で、これから会う人にはそれを悟られてはいけないわけだが、そのことに緊張する。
手汗が停まらない俺の手を、透真がぎゅっと握ってくれて、これじゃ昨日までと反対じゃん、と思った――
が、扉が開き切った瞬間、俺は思わず大歓声を上げていた。
「――江守さん!」
そう、須郷さんと一緒にエレベーターから駆け下りてきたのは、間違いなく江守さんだった。
一昨日、俺の護衛としてついて来てくれた人。
干渉事象の影響を受けた人。
透真の手を離し、宮佐さんと与座さんの間に割り込むようにして前に出て、江守さんに駆け寄る。
江守さんからもこっちに駆け寄って来てくれて、二人して同時に口を開いた。
「――江守さん本当にすみませんでした!」
「黒川くん本当に申し訳なかった!」
口を閉じ、目をぱちくりさせ、今度は落ち着いて、江守さんが口を開く。
「――マジで悪かった。護衛でついて行ったつもりが、まさか足を引っ張るとは」
「え、いや、そもそも俺が行くって言わなきゃ起きなかったことなんで。
そんなことより本当にすみません、思いっ切り感電させちゃって――」
「いや、それについては感謝してて、あのままだったらと思うとぞっとする。
映像見たけど、俺、やばかったな」
須郷さんがにこにこしている。
「今日、私たちも仕事だったんですけど、なんか誤報だったらしくて、何事もなくて、」
俺は表情を変えないように気を配った。
ユリだけがちょっと頷き、わざとらしくギズモを取り出していじり始める。
「それで戻って来たら、江守さんが帰って来てて」
「いやあ、政府御用達の病院の個室なだけあって、夢のような待遇だったぜ。
あと、ちょっと肝臓の数値が悪くなりかけてるから、しばらく酒はやめろって言われちゃった」
「このやろう、こっちは真剣におまえを心配してたのに……」
宮佐さんが本気で腹立たしそうに呟き、「なんか、戦争起こして三条さんから江守を取り返しに行きそうな勢いでしたもんね」と与座さんが横から言う。
「えっ、マジですか、大袈裟な」
「こいつ……」
拳を振り被った宮佐さんに、「すみません」と素早く江守さんが頭を下げる。
ふふ、と小さく笑ってから、須郷さんが透真に目を向けた。
ぱちり、と瞬きして、首を傾げる。
俺たちが今日知ったことを何も知らない、無邪気なまでの、その仕草。
「――今日は、思い出の地巡りをしてたんだっけ?
何か思い出せた? 藤生くん」
「――――」
透真が自信なさそうに微笑んで、「すみません……」と呟くように答える。
慌てたように須郷さんは手を振って、「そんな、そんな」と。
「無理は良くないものね。でも――そっかぁ……」
しゅん、と彼女が肩を落としたところで、「よっしゃあああ!」と、この場では異質な声。
は? と、そちらを見遣ると、ユリ。
ユリが、我を忘れた様子でガッツポーズを見せている。
「……どうしたの?」
ドン引きながら尋ねると、ユリはたちまち我に返り、恥ずかしそうに宮佐さんの蔭に隠れた。
そのまま、ちょいちょい、と手招きされたのでそばに寄ると、宮佐さんが恐ろしい咳払いを立てた。
俺はびくっとしたが、ユリは平気そうに、「お父さん、うざいよ」と。
宮佐さんは割と洒落にならないショックを受けた顔をして、江守さんと須郷さんが噴き出した。
透真と与座さんは気の毒そうに苦笑している。
ユリのそばで「どうしたの?」と改めて首を傾げると、ユリがこっそりギズモを見せてきた。
――ユリのこよなく愛するアニメシリーズ、透真の記憶とともに終止符を打たれたはずのあのアニメが、再開されることを報じるニュースフィードの記事だった。
「…………」
俺は瞬きし、言葉に詰まってから、当たり障りのない言葉を掛ける。
「ええっと、良かったね?」
「これで生きられる」
ユリは心底幸せそうだった。
「誰かさんが自力でなんとかしてくれたせいで、天秤の均衡が戻ったのよ」
ユリの能力が招いた結果が他所からひっくり返された場合の、これは稀有な例で――天秤の片側に載せられた報酬が失せたならば、もう片側の分銅も消え失せるべしという、これは一種の摂理なのか。
そう思いつつ、ユリがこの一事を以てあまりに幸福そうに微笑むので、俺もなんだか嬉しくなって、今度は心を籠めて言った。
「――良かったな」
□□□
その翌日、俺とユリが、BGSがちゃんと考えてくれているのか怪しい――ということで、俺の家族や学校に対する言い訳をうんうん言いながら考え込んでいる途中、俺は下代さんから通信で呼び出された。
ユリも来ていいよということだったので、ユリもとことこついて来る。
呼び出されたのは七階の会議室。
今回は、座っていたのは下代さんだけだった。
ネクタイも外したラフな格好になっていて、まあまあ掛けて、と笑顔で促される。
はい、と頷いて、促された席に座り――俺は首を傾げた。
目の前には電子書類。
あんまりにも如何にもな感じで置いてあるので、俺はついつい、許可を得る前にそれをスクロールしてしまった。
小さい字で、なんか小難しいことがいっぱい書いてあって、ところどころが英語だ。
テキストを翻訳にかけることまではわざわざしないなぁ、という感じがあって、読み流す。
しばしの沈黙ののち、はっとして顔を上げると、下代さんは笑顔。
昨日よりは元気そうだ。
「――読んだ?」
「え?」
「それ」
「あ、まあ……?」
「最後までスクロールして」
指示されて、首を傾げつつ指示どおりにする。
最後に署名欄が現れた。
なんとも古風なことに、タッチペンでの署名と指紋の登録を求められる。
「署名して」
「はい?」
「いいから。きみ、色々知っちゃったでしょう? 秘密保持契約だよ」
「俺、一応まだ未成年ですが」
「きみの親御さんへの説明はなんとかするよ。第一、きみが契約してくれさえすれば、親御さんには追認を求めれば足るんだから」
「はあ……」
なんとなく釈然としないながら、俺は電子書類に署名して、指紋を登録した。
途端、書類のデータが下代さんの手許のギズモに飛んだらしい。
俺の手許のディスプレイには、「署名を確認しました」という表示が出現した一方、下代さんのギズモが音を立て、下代さんがしめしめと言い出しそうな顔でギズモを眺め始める。
なにこれ……?
鈍い俺がぽかんとしている間に、下代さんが顔を上げた。
ユリは俺の隣で呆れている。
「下代さん、汚いですよ」
ユリが小さく呟いて、「え、何が?」と俺がユリを振り返る間に、下代さんはギズモを仕舞い込んでにっこり。
「――おめでとう、黒川尋くん。
これにてきみもBGSの一員です」
「――は?」
俺、硬直。
待って。
今の契約書。
中身ちゃんと見てなかった。
「秘密保持契約って……」
「口先ではなんとでも言えるね」
下代さんはいい笑顔。
俺は口をぱくぱくさせ、ユリを振り返る。
ユリはさすがに呆れ果てていた。
「ねえ、さすがに、ここ政府の特務機関だよ? 署名を求められたらちゃんと読んだ方がいいって」
「サインする前に言ってほしかった……」
「いや、こうなるだろうなって気はしてたから」
いや、俺も、透真の能力を持ち逃げは出来ないだろうと思ってたけどね。
色んなパターンを考えてたけどね。
たとえばまた他の人にこの能力が移植されるとか。
――でも騙まし討ちにされるとは思っていなかった。
「おい……」
「でもどうせ、聞いてもサインしてたでしょ?」
ユリが首を傾げる。
淡褐色の大きな瞳。
俺は下代さんに、やや警戒を籠めて向き直った。
「……新規メンバー募集ってことは、BGSは――」
「存続する。引き続きこの世界を守る」
下代さんが断言して、俺はほっとして息を吐いた。
「で」
と、下代さん。
どうやらここからが本題らしい。
「昨日も話したけれどね、――まあ、この世界の成立経緯には、あれこれとショックな点が多い」
肩を竦める。
「西平さん、いたでしょ? 昨夜からもう限界だったみたいで、今は病院にいてね――まあ、はっきり言っちゃえば、メンタルクリニックだけど。三条さんとも連絡がとれなくて、今朝から」
「――――」
「それで、話に出たでしょ? 宣伝戦」
「はあ」
「効果があるかないかはわからないけれど、いったんそれで手を打とうと決まった。打たないよりはマシだろうとね」
「なるほど……?」
「もうちょっといい反応をしてくれ。こっちは昨日の夜中まで、それから今日の夜明け前から、関係の方々に連絡をとってあれこれ説明して、BGSの存続とこの作戦を勝ち獲ってきたんだぞ」
「あ――ありがとうございます」
頭を下げる。
それでいい、とばかりに鼻から息を抜く下代さん。
「それでね」
下代さんがテーブルの上で手を組んで、やおらこちらに身を乗り出す。
「――きみに協力を頼みたいんだ」
ぽかんとして瞬きする俺に、下代さんは滔々と告げた。
「きみの立場は感情移入がしやすい。蚊帳の外から事件の中心へ。
――だからきみの経験したことを、一種の自伝小説みたいにしてほしいんだ」
「待って待って待って……」
俺は腰を浮かせた。
「ちょっとそれは……あの、文才とか……」
「こちらで出来る限り支援はするし、藤生くんや宮佐さん、もちろんヒメユリにも協力を頼む。
きみ一人で作業するわけじゃない」
口をぱくぱくさせる俺。
下代さんは微笑んだ。
「――きみは寸分の迷いなく、僕たちを生きていると言った。
この世界は本物だと言った。
だから、きみが適任だ」
「――――」
俺は、どさりと椅子に座り込んだ。
だったら、もう、
「……わかりました」
斯くして、この宣伝戦は始まる。
拝啓、向こうの現実へ。そこを生きている人々へ。
――これはあなた方への挑戦状でもある。
俺たちはたぶん、あなた方が思っているよりもしっかり生きている。
生きているからこそ葛藤し、自分たちの生の真偽を悩み、そして誰かの助けになればと思ってこんな作戦に出たりする。
あれよあれよと舞台が整い、俺は聞き手になってくれる下代さんやユリ、透真を前に話すことになる。
適宜彼らの言うことも取り入れて。
その話のデータを小説っぽくしてリリースするらしい。
あなたの目に触れるといいんだけど。
□□□
さて、もうおわかりかと思う。
近いうちに、あなたたちは、とてもショックなことを知るかもしれない。
でもそれは、あなたたちの価値を否定するものではないと思ってほしくて、俺はこの宣伝戦に賛成した。
あなたの価値を決めるのはあなたの振る舞いであり、あなたのスタートラインではない。
スタートラインがどこに引かれていたにせよ、あなたが生きるこの一瞬は本物なんだ。
そしてこの一瞬を生きようとする意思にこそ価値がある。
それが俺たちを人間たらしめる。
□□□
というわけで、この物語は、最初の一文に戻る。
「さて、どこから話せばいいんでしょうね?
――スタートから? わかりました。
じゃあ、あのときから。
廊下の空気が罅割れるのに出遭ったところから」
「自伝小説っぽく、劇的にしてくれ」
「自伝小説っぽく、劇的に、ですか?
――困ったな。でもわかりました。
お役に立ちますよ。
――じゃあ、始めます」
これにて完結となります。
お付き合いいただきました方、
本当にありがとうございました!!