21 バトン
またも尻からの着地。
なんなんだよマジで!
すぐそばで、ユリのくぐもった「ぐえっ」という声も聞こえている。
――祈る間もあらばこそ、俺は顔を上げた。
ここは――あの空き地だ。
間違いない。
ただいま、俺の世界!
干渉事象の白い罅割れのエフェクトが閉じていく。
向こうとこっちを無理に繋げるその通路が消えていく。
よろよろ立ち上がる俺のそばで、ユリもヘルメットを毟るように脱ぎながら感動の表情。
「やった……」
ユリが万感の思いを籠めて呟いた、その瞬間、俺はようやくその場の空気を感じ取った。
――重い。
重い以上に暗い。
そしてそれ以上に虚ろ。
護送車、ワンボックスワゴン、配置は変わらずここにある。
ワンボックスワゴンに関しては、真上から鋭利な刃物で両断されたような異様な壊れ方をしているが――まず間違いなく、ユリ(と、ついでに俺)が向こう側に拉致されたときに壊れたのだろう――、車内システムが生きているらしい――その徴に、フロントガラスの隅に、通信中を示す白い小さなランプが点いたままだ。
つまり、車内システムを通じて通信を繋いでいた三条さんたちにも、ここでのやり取りは聞こえたはずで。
――ここでのやり取り。
風が吹く――これが偽物だというのなら、何が本物と言えるのだろうとさえ思う、夏の暑気の和らいだ十月の、徐々に冷えていく香りのある風。
その風の中で、この場に取り残されていた、透真と宮佐さん、与座さんが、凍りつくほどの戦慄の中で沈黙している。
そしてその他には四人の侵入者――
――告知実験。
俺は透真が泣いているのではないかと思った。
だが透真は泣いていなかった。
ただ疲れ切ったような表情、乾いた虚ろな瞳。
透真が、ユリが定義した記憶障害すら破って記憶を取り返したのは、「フィギュア」という言葉を聞いた瞬間だった。
つまりそれほど印象に残っていた。
それほど傷になっていた。
その一言。
――それを、間違いなく、再び、聞かされた。
これまでの五年間を思い出したなら、連中があれこれと暴露するのを、力づくでも何でも止められたんじゃないの? と、後になって透真に訊いたことがある。
宮佐さんや与座さんは、「我々の目的を話します」と言われれば、一応は聞く姿勢に入らざるを得なかっただろうが、内容を既に知っていた透真なら止められたんじゃないかと。
するとあいつは、「それをしていいかわからなかった」と答えた。
俺たち被造物が、造物主に手を上げていいものか迷ったんだ、と。
――どうかあなたたちは、同じようなことを考えないでほしいと俺は思う。
被造物であれ、副産物であれ、――生まれて生きているものにはなんであれ、生を勝ち獲る権利があると、俺は思う。
少なくとも一方的な搾取に耐える必要など一つもないと。
俺は息を吸い込む。
四人の侵入者は、驚きというにもあり余るものを持ってこちらを見ていた。
中の一人、ついさっきまで捕らわれの身だったはずの――白井と呼ばれていたか――は、いつの間にか自由になって、石黒と呼ばれていた――多分リーダーだろう――奴のそばにいる。
白井が俺を見て、すごい勢いで何かを喚いたが、俺は聞いていなかった。
透真の、寄る辺を失ったような顔、それを見ていた。
――いきなり行方不明になったと思ったら記憶喪失になり、と思ったら桁違いの能力を開花させ、続いて立て続けに誘拐に遭い、奇妙な政府機関で働いていたことが明らかになり、そして今、並行世界とやらの事実を人より先に知っていたことが判明した俺の親友――
そいつのために言ってやるとすればこれしかない。
これ以上にぴったりな言葉は思いつかない。
思いついたとしたらそれは、聞くに堪えない罵詈雑言になりそう。
俺は、唖然としてこちらを見る石黒の顔を見た。
彼がユリを見て、「保護を……」と呟いているのが聞こえたがどうでもいい。
ユリは一目散にお父さん目掛けて走っている。
俺は人生で初めて、他人に中指を立てて怒鳴った。
「おまえら、マジで性格悪いぞ!」
石黒、と呼ばれた男が、ユリから目を離して俺を見る。
――ようやく俺は納得した。
はじめから、彼らが妙に淡々として事務的だった理由。
愛想笑いすら浮かべた理由。
――俺たちを人と見ていなかったからだ。
だから、対人でこそ動く情動は、何一つとして動いていなかったのだ。
石黒はしばらく黙っていた。
それから口を開いたときには、その声にはいっそ興味深げな響きすらあった。
「――ああ、繋がりました。補永紗綾さんは、我々が考えるよりも深い混乱状態にあるそうです。
なんと、青峰博士を昏倒させて備品を強奪――」
左耳のインカム。
あっちの世界と通信が繋がっているらしい。
「ただ、告知はされたようで――」
石黒が俺を見る。
現象を見る目。
観察対象を見る目。
「――きみ、聞いたとおりですよ」
石黒が愛想よく言う。
「きみたちは、この世界は、我々がたかだか九年前に創り出しただけのものなんです。
――それでどうして、きみはそんな顔をしているんですか」
「あんたに俺の表情がわかって良かった」
俺は荒い語調でそう怒鳴る。
「なんでかっていうと、俺が怒ってるから」
「怒る? ――怒る、妙ですね」
「なにも妙じゃない」
俺は断言する。
「だって、俺はここにいて、生きてるからだ!」
直後、眼前が塞がる。
――干渉事象、あるいは編集権限の白い罅割れのエフェクト。
無数の輝線。
俺の足許が盛り上がり、さながら俺を喰おうとする蛇になってしまったかのように首を擡げ、
真っ暗になった。
ここからしばらく、透真が話す。
□□□
俺が話すのはこの一幕だけ。
そばではヒメユリが宮佐さんにしがみついてわんわん泣いている。
十代半ばの女の子が力の限り泣いているのは迫力がある、とぼんやり思ったことは覚えている。
宮佐さんは反射のようにその背中を撫でている。
この人はいつもそうだ。
宮佐さんのヒメユリ。
宮佐さんの自慢。
目に入れても痛くない愛娘。
宮佐さんはヒメユリのために働き、ヒメユリのために禁煙し、休日にはヒメユリを連れて出かけて彼女を満足させることに心血を注ぎ、三条さんたちがさり気なくヒメユリを手許に置こうとするのを断固として阻んできた。
だが、さすがのその宮佐さんも力が抜けている。
与座さんは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔、笑おうとして笑えていない顔から回復しない。
与座さんそんな顔はやめてくれ、年長の人のそんな顔はいっそグロテスクでさえあるから。
――ああ、違うのか。年長の人ではないのか。
この世界に、それほど長く生きてきた人はいないのか。
ワゴンの車内システムから、微かに聞こえてくる通信の向こうの声――全員が混乱している。
俺みたいに。
一人であの事実を告げられた、俺みたいに。
猜疑と懐疑の塊の俺が、本物の世界の歴史、本物の世界の伝統、本物の世界の芸術を教えられて、完膚なきまでに叩きのめされた――あのときみたいに。
「――ヒメユリ?」
宮佐さんが呼ぶ。
殆ど疑わしげに――無理もない。
あの人たちの振る舞いが正しいなら、ヒメユリは俺たちとは違う、本物の人間だ。
そう思うと、ヒメユリの際立って可愛らしい容姿にも納得がいく、と思った――これはここだけの話。
だってヒメユリが本物の人間ならば、それは彼女もまた、いわば造物主の系列にあるわけで――
「ヒメユリ……か?」
「その名前つけたのお父さんじゃん!」
ヒメユリはめちゃくちゃに泣いている。
「今さら違うって言われるとか最悪すぎる!」
全てが目まぐるしい。
明らかになったこの世界、大泣きしているヒメユリ、宮佐さんと与座さんの、拠って立つところを失ったと言わんばかりの、不安定な眼差し。
ワゴンの車内システムが繋ぐ通信の向こう、雲霞の如く湧いた蚊がぶんぶん唸っているような声。
詳らかになったこの現実。
侵入者――いや、侵入者と呼ぶことすら烏滸がましいのか、むしろ所有者とか造物主の手下とか、そんな風に呼ぶべきなのかもしれない――は、そのうち一人が俺たちを見て、残る全員が尋ちゃんを見ている。
今さっき、仮にも造物主の一団を、「性格が悪い」と言い放った尋ちゃんを。
――尋ちゃん。
――俺がこの一ヶ月の間、頼り続けた尋ちゃん。
――凭れ掛かるばかりの俺に、嫌な顔さえ見せなかった尋ちゃん。
――わけがわからなかっただろうに、ここまで付き合い続けてくれた尋ちゃん。
――そんな尋ちゃんも、仮想の人間の一人だ。
そう思うと息も出来ない。
俺自身が仮想の人間。
両親も仮想の人間。
友達も仮想の人間。
誰かがそう設定したから、自分はそういう人間だと思い込んでいるだけの。
これじゃあきっと、本物の世界の牛や豚の方が自立性があるというもの。
九月六日の夜、ヒメユリを捉まえて記憶を消すよう脅しつけた、あのときと同じ切迫感が喉を塞いだ。
――息が出来ない。
――もう何を見て、どう振る舞えばいいのかわからない。
――俺は俺じゃなかった。
――じゃあもういっそ忘れたい。なかったことにしたい。ゼロに戻したい。
記憶がなかった俺よ、不安だったな。
でもそれも、この閉塞感、この切迫感、この危機感には勝らないのだ。
尋ちゃんに向かって、造物主の一人が話し掛けている。
穏やかな語り口調。
教師みたいな。この人は間違いを言わないだろうな、と思える説得力のある、淡々として落ち着いた、言葉の一音一音が丁寧で滑舌のよい、その語調。
「――きみ、聞いたとおりですよ」
言葉を遮ってはならないのではないかと思う――だって彼らは本物だから。
でもその一方で、酷いことを言わないでくれ、とも思う。
尋ちゃんは優しい人だから。
人が好くて、意外にもメンタルが強くて図太い一面もある、――お気楽主義な尋ちゃん。
その尋ちゃんのお気楽さを剥がすような容赦のないことを、言ってほしくなくて、
「きみたちは、この世界は、我々がたかだか九年前に創り出しただけのものなんです。
――それでどうして、きみはそんな顔をしているんですか」
――そんな顔?
俺は尋ちゃんの顔を見る。
保育園からの幼馴染、そのはずだ。
でもそれはただの設定のはず、俺の脳に書き込まれたただのシナリオであるはず。
けれどやっぱり知っているように思うその表情。
尋ちゃんの、――諦念でも驚愕でも驚嘆でもない、その顔。
――激怒に近いその表情。
「あんたに俺の表情がわかって良かった」
尋ちゃんは声を荒らげている。
「なんでかっていうと、俺が怒ってるから」
造物主の一人が滑らかに首を傾げる。
「怒る? ――怒る、妙ですね」
「なにも妙じゃない」
尋ちゃんが怒鳴る。
「だって、俺はここにいて、生きてるからだ!」
――生きてる?
生きてるんだろうか、俺たちは。
――俺には、もう、わからない。
この世界は偽物なんだと言われた。
そうかもしれない。
本物の世界に比べれば、ここは色褪せていて、深みに欠けていて、情緒に迫るものもないのだと言われた。
そうかもしれない。
でも俺の網膜は空の青さを感じているし、肌は風を感じている。
秋の匂いがするのを感じ、車の排気ガスに顔を顰めてしまうこともあれば、道路の片隅のアスファルト、誰も見ないだろうそんな末端の部分の罅割れの形が面白いこともある。
炎天下を歩いた後にコンビニに入って買って、溶けないうちにと慌てて食べるアイスは美味しい。
真冬に暖かい毛布にくるまって、休日に二度寝するのは気分がいい。
俺たちの生命がどこで定義されるのか、それが世界の真偽に拠らないものなのか、俺にはもう、わからない。
――直後に与座さんがはっと息を詰める。
俺の視界はコマ送りになる。
干渉事象の白いエフェクト。
盛り上がる地面。
尋ちゃんがそこに消える。
あの侵入者――いや、あれも造物主の一人なのか、BGSで捕虜になっていた青年、彼の、まるで応援しているサッカーのチームがゴールを決めたときのような笑顔――マジであいつむかついてたんだよね、という声が聞こえる。
「ジン!」
ヒメユリが叫ぶ。
何か言おうとする。
ヒメユリの稀有な能力を使おうとして、躊躇っている。
尋と引き換えに出来るものが咄嗟に思い浮かばないのか。
それほど尋には価値があるか。
本物のきみにとって、偽物の尋は、そうであっても、それほど価値があるか。
けど、俺はもう、何もかもわからない。
だから、俺がすべきなのは、したいのは、出来るのは。
「ヒメユリ」
名前を呼ぶ。
この子には本物の名前があるのかもしれない、先程呼ばれていた気がするが俺は覚えていられなかった。
それに、ヒメユリはその名前を呼ばれて振り返った。
俺を見る、大きく瞠られた淡褐色の瞳。
「ヒメユリ、お願い」
口走るように告げる。
「俺の能力を、尋に移せない?」
尋ちゃん。
――『そのメンタルと、あの機転だろ? 能力の等級が高けりゃ、ある意味透真よりBGS向きなのにな』
目を見開くヒメユリ。
宮佐さんと与座さんが、咄嗟にだろうが動こうとした身体を押さえ、俺を振り返って愕然と顔を強張らせる。
全てがコマ送り。
俺が覚えているのは、そのとき感じた風に微かに排ガスの臭いが混じっていたこと、ユリの髪が口許にくっついていたこと。
「俺が――」
わかっている、俺は先月まで、BGSの最高戦力の一人だった。
能力だけでいえば宮佐さんより頼りにされていた。
それをちょっと誇っていた部分だってある。
だって、
「俺が、ちゃんと出来れば、この場はなんとかなるんだ」
俺が派遣された先で、なんとかならなかったことはない。
「でも、もう、俺には出来ない」
声が詰まる。
「もうしんどい。俺には出来ない。
俺には俺が生きてることさえわからない。
だから、」
息を吸い込むことすら苦しくて、肺の中に残った空気で囁く。
「――生きてるってことがわかってる、尋ちゃんに俺の有用性をあげたい」
ヒメユリが愕然とし――しかし転瞬、その眼差しが引き締まる。
彼女が声を出す。
いつもよりも上擦った声、泣き止んだばかりでしゃくり上げるような声で、しかし敢然と。
「――トーマくんの能力をジンくんに移す。ジンくんはトーマくんの能力を使えるようになる。
代わりに、」
対価の選択は、
「――誰も今日のことを忘れない!」
俺が話すのは、この一幕だけ。
――ヒメユリはこの瞬間、さすがにわかっていたはずだ。
俺たちの世界、この偽物の世界の事実が、どれだけ俺たちを苦しめるのか。
そしてヒメユリは、彼女の故郷の人間、本物の世界の本物の人間が、今後――この事実を俺たちに、偽物の世界の偽物の人類に広めるだろうことを警戒したに違いない。
そしてそのときに、この場にいる偽物の人間が、それでもこの偽物の世界のために、何か出来る余地を残したかったのだろう。
それは、ヒメユリが、本物の世界よりも、偽物の世界を選んだということ。
――忘れてしまえば、学びもなくなる。
――忘れてしまえば、警鐘は鳴らせない。
俺がそうだったように。
俺は何もかもを放り出して目を閉じて、記憶をゴミ箱に投げ捨てることを選んだが、ヒメユリはそのゴミ箱にあらかじめ蓋をして、鍵をかけてしまった。
ヒメユリにとっては利益となる、この場の状況を変える一手。
それに対応する不利益は、今日のこのことを忘れられなくなる俺たちの煩悶。
そしてそれゆえの、ヒメユリへ向けてしまう、どうしようもなく湧き上がる恨み。
この偽物の世界の成り立ちを否定するには、さすがに対価に出来るものはなかっただろう。
ヒメユリの能力にはその足枷が掛かる。
けれど尋、尋が自らの活路を切り開くに足るだけの改変は、――ここにいる俺たち三人、そして通信の向こうにいる十一人の憂悶――
それら全てと引き換えなら、叶えることが出来たのだ。
さあ、俺は尋にバトンを渡す。
1時間後に次話投稿があります。




