19 世界の真実
「並行世界?」
ユリが呟く。
俺を見る。
ぽかんとすることにも疲れたような、虚ろな瞳。
「――なんだっけ。SF読むんだよね、ジン」
「…………」
俺はさすがに黙り込んでいる。
青峰と名乗った女性が小さく笑って、身を乗り出す。
ユリを見て。
ユリだけを見て。
「――ねえ、おかしいと思わなかった?」
「…………」
ユリの、疲労した当惑の眼差し。
表情は空白に近い。
「あなたは、そうね、まだ子供だったし、記憶も混乱していたから、違和感は然程でもなかったのかも知れないけれど――」
数え上げるように、女性の指が動く。
照明の光を弾いてきらきらする、ペールグリーンの爪。
「実際の国際情勢とは異なる国際情勢。そっちではアイスランドは紛争地帯なんですって? 実際は――今はもうどうともいえないけれど――昔のアイスランドは、幸福度数世界一の国よ。
そっちには、国連は存在しない。
日本に天皇がおらず、従って皇居も存在しない。
第二次世界大戦も存在しない。
寺社仏閣も存在しない。
――そもそも学校で歴史を教えない」
「――――」
歴史?
「国語学習に古典が含まれない」
古典?
「天羽くんの能力は、彼の中の常識にも影響を受ける。
そのために、文学作品や歴史観の一部は再現されたようだけど、あちらの次元で発生したものは一つもない」
ユリが俺を見る。
なんだか半笑いみたいな表情。
俺は首を傾げる。
なんかこう、全てがふわふわしている感覚。
待って、そもそも、どうして。
「――何かの社会実験?」
俺は呟くように尋ねた。
女性はちょっと顔を顰めたものの、嘆息して、ぶっきらぼうに応じた。
「口も利けるのね。まあ、そりゃそうか。
――そうね、紗綾ちゃん、これを見て」
そう言って、女性が立ち上がり、マグカップを持ってデスクの方へ移動する。
メッシュチェアにどさりと腰掛け、右手のそばにマグカップを置いて、ホロキーボードを叩く。
ホロスクリーンに幾つかのウィンドウが展開されていたが、それらが最小化されて、映像が浮かび上がる。
俺は瞬きする。
最初に思ったのは、映画の宣材でありそうな映像だな、ということ。
――灰色に澱んだ町並み。
排煙と化学物質に汚染された空気。
その下に横たわる低い建物の群れ。
フードを被りゴーグルをつけ、酸素マスクじみたマスクで顔を覆った人々が、足早に通りを行き交っている。
街路樹は望みようもない。
「衛星画像を拡大した映像よ」
女性は言って、ぎっ、と音を鳴らしてメッシュチェアを回転させ、ユリに向き直る。
「正史では色々あって――まあ、環境は人間の生存にとって厳しいものになりつつあるの。
宇宙産業分野では、居住可能型惑星の探索に注力すべきという声もあるけれど、そんなの、どこにあるのっていう話よね。人間は光の速さには追い着けない、何光年も先でそんな奇跡みたいな星が見つかったところで全くの無駄。
そこの有害な野生動物を駆逐して、未知の細菌やウイルスを研究してワクチンを作って、人間が住める文明レベルの都市を築いて――なんて、考えるだけで眩暈がする愚行よ。
――というわけで、九年前に、我々能力分野からのアプローチが試みられたの」
微笑む、スパイシーレッドのルージュで彩られた唇。
「もちろん、天羽くん――天羽成織くんの能力が詳らかになったからよ。
彼が、言葉どおり異次元を創造して――」
閃く右手の手振り。
「そこを上手く運用できるか見るの。天羽くんの寿命は、恐らく考えに容れなくていいのよ――一度存在を確立された異次元は、天羽くんに何かあってもそのままでしょう。
けれど、例えば新天地に移ったとして、移住がスムーズにいかなければ損害が出るし、シミュレートは精緻に行わなくてはね。
――我々はその新天地を、今のところ“フェイク”と呼んでいるんだけどね。
フェイクが作成されたのは今から九年前――天羽くんが十二歳のときね。
クリエイトの性質なのか、天羽くんの性質なのか、現実に近い異次元しか造れなかったようで――」
肩を竦める。
「――何が起こったかというと、人間まで生えてきちゃったっていうわけ。それがフィギュアね。
九年前に発生した、仮想の人類」
「――……は?」
俺は思わず声を出し、自分のその声を聞いて初めて、今なにを聞かされたのかを悟った。
――頭痛がする。
脈拍がどんどん速くなっていく。
何かの質の悪い冗談だと思いたい。
それを、その冗談を、そんな真顔で語らないでほしい。
俺は何かを言おうとして息を吸い込んで、
「――――」
口を閉じた。
言葉が見つからなかったからではなかった。
瞬きをする。
俺は今、この女性が言うことを嫌だと思った。
咄嗟に否定しようとした。
――それは、どうしてかというと。
「能力者である天羽くんが創り出したからでしょうけれど、今のところ確認できている限りでは、フィギュアの全員が能力者。
ただし天羽くんは、世界級の能力は与えていない」
「――――」
「フェイク創造時に、事故があってね。
――紗綾ちゃん、あなたが巻き込まれてしまったの」
痛ましそうに顔を顰める女性。
口許の皺。
ユリは瞬きもしていない。
俺の腕を抱き締める手の力も緩まない。
「あなたと天羽くんは――数少ない、世界級の能力者どうしで、お友だちでしょ?
だからそこにいたんだけれど、――もう、当時は行方不明者が出たというので、このプロジェクト自体廃止するべきという世論すらあったのよ。
天羽くんも落ち込んでしまって――でも、いいわ。
こうしてあなたは見つかったんだもの。ね、紗綾ちゃん?」
ユリは目を見開いている。
「本当に、よく無事でいてくれたわ。
――私たちはね、フィギュアを観察して、彼らの有用性を図っているの。労働力として価値があるなら活用すべきだし、危険が大きいなら――つまり、彼らが排他的な集団意識を獲得しているようであれば、排除すべきだし」
女性がまた、端末に目を落とす。
そして、やや慌てた様子で苦笑した。
「――もちろん、紗綾ちゃん。フィギュアは人間とは違うんですからね。そこは、わかってるわよね?」
ユリが息を吸い込んだ。
何かを呑み込もうとするように。
「……あなたたちがこっちに来るとき、黒づくめの格好してますよね。ヘルメットして」
突然の話題の転換に、女性は驚いたようだった。
ぱち、とマスカラで伸ばされた睫毛が瞬き、しかしすぐに優しげに微笑む。
「ああ、そうね。あれが安全装備なの。
天羽くんがね、編集権限というものをくれているのよ。そのための装備でもあるわ。編集権限で、私たちはフェイクにあるオブジェクトは意のままに動かせるというわけ。
万が一フィギュアが敵対行動に出ても安心、なんだけど、どうにもね。
彼らの能力の性質は、フェイクより現実に近いみたいで――たぶん、能力として認識されるからね。こちらの、現実の世界の能力と同等の情報として処理されるから、天羽くんの能力と相殺してしまうんでしょうね。
――まあ、ともかくフィギュアの能力は、この装備も貫通してしまうのだけれど、今のところ重大なインシデントは起こっていないわ。派遣部隊の中には、フィギュアにひどくやられたっておかんむりの人もいるけれどね」
勢いよく喋る女性。ユリは瞬きしている。
「編集権限……」
「そうよ」
「そのヘルメットが、その仕組みなの?」
「まあ、簡単に言ってしまえばそうね。私たち、つまり実在している人間が、このヘルメット、あるいは――派遣部隊の人には配給されているんだけど――それ専用のブーツとか、グローブとか、他にも色んなアイテムね。それを持っていれば、フェイクのオブジェクトに干渉したり、こっちとあっちを繋げたりできるの。近くにフィギュアがいたら巻き込んでしまうから、使い勝手については改善要望が出ているけれど。
――そういうことを生身で出来るのは、天羽くんだけね」
女性が手を伸ばして、軽くヘルメットを撫で、その手をまたデスクの上に戻す。
ペールグリーンの爪がデスクに当たって、かちん、と音がする。
「あと、ヘルメットには簡易スキャン機能もあるわ――対人でも対フィギュアでも、おおよその能力値を測れるのね。
だからあなたがあなただってわかったのよ、紗綾ちゃん」
「あの、わたしたち――向こうの人たちは、あなたたちのことを見ても、忘れるみたいですが」
「向こうの人たち――フィギュアのことね。
それは、天羽くんがそうしてくれてますからね。その場を逃げ出しちゃったフィギュアについては、記憶のぼかしにまだ難があるみたいだけど、天羽くんはさすがね。
干渉事象の結果とか、向こうの記録メディアに残ったデータは、派遣部隊が消すしかないけれど」
ユリが息を吸い込む。細く。
「告知実験って、さっき言ってた……」
「ああ、あれね」
女性はマグカップを持ち上げ、紅茶を飲み、またマグカップを置いた。
嬉しそうに目がきらきらしている。
ユリが興味を持ったことが嬉しいのだろう。
「大したことないのよ。フィギュアに、“あなたはフィギュアなんですよ”って教えたときにどういう反応を示すのか、その実験なの。
ほら実際、そういう告知を行うことになるかもしれないわけでしょ? それで、プレテストみたいなものね。
最初に、やたらと派遣部隊と衝突することが多かった、男の子の形のフィギュアが選ばれたんだけどね。派遣部隊ののろまが彼を逃がしちゃったのよ。
――あ、でもさっき、石黒さんがやっぱり捕まえたとか言ってたな」
後半は独り言じみた小声だった。
――俺は、胃袋が冷たい手でぎゅっと握られたような感覚を覚えた。
透真、透真は大丈夫だろうか。
もう考えるまでもない。透真の心を折ったのはこの事実だったのだ。
どういう証拠を見せられて、透真がそれを信じざるを得なかったのかはわからないが――
「もしかして、今、俺たちと一緒にいた人たちにも、同じ説明がされてるの?」
と、堪りかねて俺。
女性は、「犬が喋った」みたいな顔で、胡散臭そうに俺を見ている。
そのとき、このわけのわからない事態に巻き込まれてから初めて、俺は腹を立てた。
俺は、この女性が言うことを嫌だと思った。
咄嗟に否定しようとした。
――それは、どうしてかというと。
――俺が生きているからだ。
「――あのさ、俺、生きてんだけど」
気づくとそう怒鳴っていた。
女性がびくっとして、デスクのホロキーボードに手を伸ばす。
警備ボットのようなものを招集するつもりかもしれない、とは思いながらも、俺は荒らげた声を抑えることが出来なかった。
――だってそうだろ。
――こんな、こんな……
――『フィギュアってなんですか』『それよ』
――仮想の人類。
――『私たちはね、フィギュアを観察して、彼らの有用性を図っているの。労働力として価値があるなら活用すべきだし、危険が大きいなら――つまり、彼らが排他的な集団意識を獲得しているようであれば、排除すべきだし』
――今さらどうにもならないことを論われて、他所から評価されないといけないような立場である、その理由が俺にはわからない。
過去の重みと未来への展望、それぞれを天秤にかけて、どちらが偉いのか決めなければいけない理由がわからない。
「九年前に発生しました、それがなに?
それが事実かどうかも俺はわかんないし、じゃあ俺の十年以上前の記憶はどこから来てんだよって思うけど、」
透真。
パニックになったときに、「尋ちゃん」と俺を呼ぶ透真。
あれは透真の幼少期の呼び方が、パニックで表出するものだ。
――俺たちが九年前に発生しただけだというならば、そもそも、その幼少期は存在しないはずで。
「だから、それも含んだ状態で、天羽くんが発生させたものなのよ。ただの設定よ。
ぽんと置いてスタートボタンを押された、そんなものなのよ」
「で、だからなに?」
俺は怒鳴った。
頭に血が昇って、耳許で血流の音がして、
――生きてる。
感情に合わせて身体が動く。
感情は勝手に動く。
こういう状況ですね、じゃあこういう感情を出力しましょう、そんなプロセスはない。
感情を簡単な名前で括ることも出来ない。
怒っていて、怖くて、悔しくて、反射的な反発があって。
「それが、今この瞬間、ここで俺が生きて考えて、腹を立ててることへの否定になるの? ならないだろ。
それが、俺が存在してることの否定になるの? ならないだろ?」
このときの俺の咄嗟の反発を、もうちょっと整理して考えると、こうだ。
確かに歴史は――その中から学びを得て、歴史が繰り返すのを防ぐこと、あるいは直面した困難に対して突破口を開く知恵を見つけ出すこと、そのことにおいて確かに重要だろう。
替えが利かないといってもいい。
だが、俺たちはそれを他所から、曖昧な形で与えられた。
歴史?
確かに俺は、人間が辿ってきた道筋を学問として扱うことは知らない。
そして同時に思うのは、歴史に固執し慣習に縋り、知識を知恵とできずに形骸化させて腐らせ、その海で溺れ死ぬ、そういう文明もあるだろうということで。
――その二つを分けるのはなんだろう。
思うに、今だ。
今このとき、何をしたいか、何をすべきか、考えて模索する、その瞬間にこそ価値がある。
「歴史がないから、なに? そんなのこれから作っていける、作っていこうとする意思に意味がある。
これから俺たちが作っていけるものを持ってるってだけで、あんたらそんなに嬉しいわけ? 偉いわけ?
ここで俺が色んなこと考えたり、感じたりするのは、俺に歴史がなくても十分出来てることだろ。
じゃあ、俺たちは俺たちとして、ここにいるってことだろ。
俺が何をどう考えるかとか、何が好きかとか、何が嫌いかとか、何を感じてるかとか、そういう存在の証明はある。俺がそう感じることには価値がある!
今この瞬間、ここで、俺は人間として、生きてんだけど!!」
女性は軽く息を吸い込んだ。
びっくり箱を見たあとみたいに。
「そんな気がするだけよ」
「それがなに?」
俺はもう立ち上がっていた。
ユリがとうとう俺の腕を離して、目を丸くして俺を見上げている。
「そんな気がする、それでいいじゃん。
俺は生きてるだろ? ちゃんとあんたの目で見てよ。
こういうはずだっていう先入観じゃなくて、道端でばったり俺に会ったらどう思うか教えてくれよ。
――生きてるだろ? 生きてるように見えるだろ?
どこで俺とあんたたちを区別するんだ。俺が生きてる、これ以上に俺の存在で重視されることがあんのか」
「だから――」
青峰と名乗った女性の顔は強張っている。
そのとき俺は、ユリがマグカップを持ち上げ、ソファから滑り降りて、ソファを回り込んでいることに気づいた。
けれど女性は気づいていない。彼女にとっては理解不能で持て余す、俺というものを見つめている。
「スタートボタンが押されただけ? じゃあ、今、あんたがストップのボタンを押してみろよ。俺がこうやって怒鳴ってるのを止めてみろ。
あんたらの都合なんて知らない。
スタート地点がどこであっても、俺の人生はまったく無意味になったりはしない!!」
そしてその瞬間、ユリが手に持っていたマグカップになみなみと残ったままの紅茶を、思いっ切り女性にぶっかけた。




