18 こちらの現実へおかえりなさい
急変した事態に、とてもではないが頭がついていかなかった。
俺は立ち上がることも忘れ、ぽかんとして周囲を見渡していた。
壁面を覆うコンピュータ。
無数のスクリーン。
円環状に配置されたデスク。
人の気配がある。
多くはないが、十人くらいか。
――ここはどこ?
俺の隣には、というよりも密着して俺にしがみつくような格好で、ユリがいる。
ユリもまた目を見開いて、俺と違って驚愕よりも恐怖が色濃く滲み、今にも溢れそうな表情で、周囲を見渡している。
「……お父さんは……?」
その顔を見ているうちに、俺の頭にもじわじわと事態の重要性が沁み込んできた。
――急転直下だ。
どうしよう。
これはもう、間違いなく誘拐。
三日間で二度目の誘拐に遭うとはなんということ。
ついでに俺はどうでもいいだろうが、宮佐さんからすればユリは取り返したいだろう。
つまり価値ある人質だ。
やばい、人質として侵入者に捕まってしまった。
硬直した俺は、身体中から嫌な汗が噴き出してくるのを感じている。
直後、視界に女性の脚が入った。
パンツスーツに包まれた女性の脚。
風変わりな菫色のパンプスが、かつかつと床を踏んでいる。
ユリが、ますます強く俺の腕にしがみついた。
待ってくれ、まずはこの事態をなかったことにしてくれ、と思うものの、ユリも咄嗟にバーターになるものの判断をつかねているのだろうということはわかる。
俺の心臓は早鐘を打ち、その瞬間はユリの心臓も全く同じで、俺たちは二人で二つの心臓を共有して鼓動のリズムを架け橋にして理解し合った。
お互いのパニック、お互いの恐怖、お互いの困惑、お互いの驚愕。
俺もいつの間にかユリの手を強く握っていて、これは絶対に離したら駄目だと思った。
強く思った。
まるで、俺の全身がこの場所の異物感を敏感に捉えていて、ユリだけをその例外に置き、ユリなしにはもうどこへも戻れないとわかっているかのように。
菫色のパンプスが、目の前にまで来て止まった。
パンツスーツに包まれた脚が、屈み込んだ。
そして、声がした。
「――さあ、もう大丈夫よ。石黒さんから連絡は受けました。
怖かったわね、よく帰ってきたわ、紗綾ちゃん」
俺はユリの顔を、そこに浮かんだ困惑と拒絶を見た。
「……さ、あや?」
彼女が呟いた。
喉に絡んだ声で。
「誰ですか?」
ユリが息を吸い込む。
縮んだ肺を懸命に押し拡げるようにして。
「ここ、どこですか?」
菫色のパンプスの女性は微笑む。
レトロなデザインの眼鏡を掛けた、化粧の濃い顔。
彼女は言った。
「混乱してるのね。わかるわ。
でも、もう大丈夫よ」
「何がですか?」
ユリの声は震えている。
「ここはどこですか?」
どうやら菫色パンプスの女性は、ユリが涙ながらに自分の胸に飛び込んでくるものと思っていたらしい。
ちょっと鼻白んだ顔をした。
だがすぐにその表情を慈愛の微笑で覆い隠し、女性は言った。
「ここ? ――そうねえ、」
少し考えるような間を置いて。
「言うなれば、――紗綾ちゃん、こちらの現実へおかえりなさい、ってところかしら」
俺たちは、というよりユリは、その管制室にいる人たちからじろじろ見られながら、管制室を連れ出された。
菫色パンプスの女性は、「ごめんなさいね、咄嗟に編集して連れて来られるのがここだけだったの」と言ったあと、俺を見て、形のいい唇をひん曲げたものである。
「――フィギュアがいるけれど、これはどうしましょうね」
「なんのことですか?」
ユリの声はどんどん震え、俺の腕をものすごい力で抱き締めている。
女性は軽い戸惑いを浮かべて、「ま、お気に入りならいいわ」と言って、俺たちをまとめて連れ出したのだ。
連れ出された先の廊下は――なんていったらいいかな、この辺のことについては後からめちゃくちゃ訊かれたけれど、上手く説明できない。
金属的、というのか、無機質な感じのする廊下だった。
僅かずつ湾曲していて、窓はない。
擦れ違った人は僅かに二人。
ユリは震えながら周囲を見渡して、「お父さんは……」と力なく何度も呟いている。
聞こえていたのは俺だけだっただろう――そのくらいの小声。
肺が豆粒程度の大きさに縮んだような。
女性は、よくよく見ると左耳にインカムをつけていた――というのも少し違うか、耳殻に沿って金属の蓋を被せて、それを外科的な手法で固定しているようだった。
女性は喋った、とにかくよく喋った。
どうやらめちゃくちゃ興奮していたらしい。
「紗綾ちゃん、私たちみんな諦めていたのよ。お父さんお母さんに連絡しましょうね。奇跡だわ」
――そんなことを。
やがて、ユリと俺は小さな部屋に通された。
どうやらこの女性のオフィスに当たるらしい、やはり窓はなく、ホロスクリーンが展開されているデスクと、デスクの後ろに応接セット。
デスクの隣には簡易キッチン。
「紗綾ちゃん、座ってちょうだい。お茶を淹れるわ。
まあ、ほんとに、よく無事だったわね! 大変だったでしょう――」
応接セットのソファに座ったのは、勧められたから座ったというよりは、ここで反抗したらどんな目に遭うかわからなかったから、という方が正しい。
ユリは細かく震えていて、今にも泣き出しそうだった。
俺だって泣きたかったし、なんなら、「今すぐこれをなかったことにしろよ!」とユリを怒鳴りたい衝動すらあったが、ユリがあまりに震えているので、むしろ俺がしっかりしなければという謎の義務感に駆られてじっとしていた。
が、口を開けばパニクった悲鳴が飛び出すのは確定していたので、ぎゅっと口を噤んだままでいた。
菫色パンプスの女性は簡易キッチンに立ってマグカップを二つ用意し、ポットにミネラルウォーターを注ぎ入れて、温度を設定して沸かしている。
その間もずっと、紗綾ちゃん、紗綾ちゃん、と呼んでいた。
俺はデスクを見ていた。
デスクの隅に、侵入者が被っているものと同じ、フルフェイスの黒いヘルメットが置いてある。
――マジで侵入者の巣窟に引きずり込まれてしまった……。
震える俺とユリ。
女性はポットのお湯が沸くまでの間に、デスクに歩み寄ってホロスクリーンに手を翳し、ホロキーボードを出現させると、それを素早く操作した。
俺はじっとホロスクリーンを見ていて、スクリーンに閃いた文字の中に、「カウンセラー」という一言を見つけていた。
ポットがピーッと音を立て、俺とユリはびくっとする。
普通、お湯が沸くときって、もうちょっと柔らかい電子音が鳴るじゃん。笛みたいな音だったんだよ。
女性の方は落ち着いて、マグカップにティーバッグをセットした上でポットからお湯を注ぐ。
そして、ティーバッグを上下させてからそれをカップから引き揚げ、二つのマグを手に、俺とユリの正面のソファに滑り込んできた。
片方のマグは女性の手許に、もう一つのマグはユリの前に出される。
湯気を立てるマグカップを、ユリは当惑の眼差しで見つめていた。
「紅茶よ」
女性は言って、力を籠めて繰り返した。
「本物の紅茶よ。久しぶりでしょう。
――ああ、自己紹介が遅れたわね。私は青峰よ」
ユリは俺の腕を抱く手にますます力を籠めながら、見開いた瞳を上げて女性を見て、わななくような声で尋ねていた。
「――……さっきから、何を言っているのかわかりません。紗綾って誰ですか?」
「まあ」
青峰と名乗った女性は目を丸くし、そのときちょうど、ぽん、と音を立てた彼女の――携帯端末と思しきガジェットに目を落とした。
ギズモに似ているが少し違う。
端末を見て、女性が何か呟く。
誰かからメッセージを受け取ったようだ。
それから、気を取り直したように視線をユリに戻した。
「――カウンセラーに連絡を取ったの。あなたのようなケースは初めてだけど、長い間行方不明だったんですものね。
カウンセラーから、幾つか指摘事項がきていて……」
ちら、と端末を見る。
端末を持つ指の、長い爪。
ペールグリーンに塗られた爪。
「……もしかして、だけれど、あなたはショックのあまり記憶障害を引き起こしている可能性があるんじゃないかしら、って」
「――――」
「それに、九年だものね……九年。
ごめんなさいね、私みたいなおばさんからすると、九年って正直あっという間で。こないだも二十二歳の子が部下として着任してきて、十三歳のときに見学でお会いしましたよって言われて、いやあの小さい子が!? ってもう、びっくりしちゃって……」
あっはは、と笑ってから、女性はユリが微塵も笑っていないことに気づいたらしい、こほん、と咳払いして、表情を改めた。
「でも、あなたにとっては思春期を含む九年だものね。
それで、カウンセラーが――」
また、端末をちらり。
「――あなたが、長いあいだ一緒にいたせいで、フィギュアを、自分と同じような人間だと思い込んでないかしらって、指摘してきてね」
ユリは瞬きもしなかった。
「フィギュア、って、なんですか。お人形さん?」
「それよ」
女性が俺を指差した。
俺は瞬きした。
ユリがますます強く俺の腕を抱き締める。
「――はい?」
「だから、それよ」
女性はそう言って、端末をかつんとテーブルに置くと、ソファに深く腰掛けて脚を組んだ。
「あなた、本当に忘れているのね。
――いいわ、どうせ、告知実験とやらの被検体の数も要ることでしょうし――」
俺をちらりと、こちらが驚くほどの冷ややかさで一瞥してから、女性はユリに視線を戻して、微笑んだ。
温かく。
「説明するわ。楽にして」
ユリは俺の腕を抱えたままだった。
紅茶だけが冷めていく。
女性は軽く嘆息してから、また端末を持ち上げる。
今度は何かの資料に目を通しているようだった。
「――ええ、間違いないわね。インステッドの能力者は二人しかいないし、片方は真柴さんだもの。
あなたの能力は、あの場の簡易スキャンの結果、間違いなくインステッド」
端末をスクロールする。
「あなたのお名前は補永紗綾ちゃん。二一三七年五月十六日生まれ、今は十七歳ね。
あなたはね、八歳のときにとある事故で行方不明になってしまったの。
能力はインステッド――世界級の能力の一つね。Aの代わりに同等の価値のあるBを。
自分の能力は把握しているかな?」
ユリは無言で瞬きしている。
「お父さんもお母さんも、お元気よ。
紗綾ちゃん、このあと色々と検査があるでしょうけれど、終わったら面会だって出来るわ。
――それで、ええっと、フィギュアね」
女性は俺を横目で見て、鼻で笑い、紅茶を一口飲んだ。
「このプロジェクトについて話すしかないのかしら――ちょっと長くなるけれど。
ええっとね、まず、ここは地球よ」
いきなりの大前提に、俺は状況も忘れて笑いそうになった。
そりゃそうでしょ、地球でしょ。
火星でどうする。
が、青峰と名乗ったその女性の顔は真剣だった。
「ここが地球よ。紗綾ちゃん、あなたが行方不明になっていたあの場所はね、フェイクなの」
「――――」
「――――」
何を言われているのかわからない。
俺は無言で瞬きをする。
パニックが喉許まで込み上げてきながらも、現実感のなさに支えられて、ただただぽかんとしていた。
「世界級の能力の一つに、クリエイト、というのがあってね。まあ、恵まれたのは一人だけなんだけど。
紗綾ちゃん、あなたと彼はお友だちなのよ。きっと天羽くん――彼にも、あなたが見つかった報せが入ってるわ。きっと大喜びよ」
「――――」
ユリが、微かに首を傾げる。
「あなたのインステッドは、Aの代わりにBを。そういう能力でしょ?
明日晴れさせて、代わりに来週は雨でいいです、みたいな、ね?」
「――――」
「クリエイトはね、実在する別次元を作り出す能力なの」
――世界がひっくり返るようなこと。
――特務機関の英雄が、記憶をゴミ箱に放り投げ、世界を見捨てるに足る事実。
「あなたがさっきまでいた世界はね、紗綾ちゃん。
そうやって、天羽くん――天羽成織くんという人が、九年前に作り出したばかりの、この本物の宇宙の並行世界なのよ」




