15 砂上の楼閣
翌朝、俺は五時ごろに目を覚ました。
眠気が綺麗に去っていったので、なんとなくギズモを引っ張り寄せて起動させたが、メッセージフィードにものすごい量のメッセージが届いているのを見て、ちょっとギズモを伏せてしまった。
――罪悪感がすごい。
だが、今日は土曜日。
学校は休みで、友達には俺の異常事態が長引いていることは悟られなくて済む。
しばらくごろりと横になったままでいて、俺はふと思いついてミュージックフィードにアクセスして、例の――ユリが好きだと言っていた――アニメのOP楽曲を流し始めた。
流し始めた一曲目は、一昨日の夜にユリが流したものではなくて、どうやら直近のシーズンのOPではなく、少し前のシーズンで採用されていた曲のようだった。
明るくてポップな曲に合わせてキャラが踊る。
それをしばらく眺めて、俺は曲が終わるのを待たずに再生停止した。
――あんまり好きじゃないかもしれない。あるいは気分じゃない。
どうにももう寝付けないので、開き直って起き上がる。
シャワーを浴びようとバスルームへ向かうと、センサーが反応して、受信していたメッセージを洗面台の鏡面が表示した。
『黒川くん、おはようございます。ご協力ありがとうございます。本日はBGS規定の服装をしていただきますので、クローゼットの中をご確認ください。朝食は配膳ボットが06:30にお届けします。07:30までに部屋の外に出てください』
「……はぁい……」
なんとなくそう返事をして、鏡面の右上で点滅する時刻表示を確認。05:22。
どうせ起きて部屋で座っていても、あれこれと考えてしまって気が塞ぐだけだ。
俺はバスルームの扉の横のコントロールパネルを触って、お湯張りを指示した。
水位を適当に選んで温度を設定すると、バスタブにお湯が注がれる音が聞こえてくる。
数分で、電子音とともに「お風呂の用意ができました」というアナウンスが流れた。
バスタブの中で脚を伸ばして座っていても、結局は考えても仕方のないことをあれこれ考えてしまった。
――透真、今なにしてるだろ。
――透真、本当に透真じゃないのかな。
――っていうかマジで、侵入者がどんどんBGSの人を偽物と入れ替えていたり、するのかな。
――っていうかそもそも、侵入者の目的って何なんだろ。
「――あーっ」
途中からそうやって考えるのが嫌になって、俺はバスタブのセンサーに手を翳した。
目の前にホログラムでゲームフィードが展開されて、適当にオセロを選んで遊んでみる。
二勝一敗したところで、俺は風呂を出た。
クローゼットを開けると、宮佐さんたちと同じグレーの野戦服が掛けられていた。
マジか、俺、これ着るの?
自分が着るのにさえ半笑いだったのに、朝食を終えて部屋の外に出て、実に一日ぶりに透真の顔を見ると、その安堵もあって思わず声を立てて笑ってしまった。
透真も同じ野戦服だ。
透真の方は、顔を見せるや笑われて、すっかり困惑したらしい。
色素の薄い癖っ毛を引っ張って、「俺、何かした……?」と不安そう。
「ごめんごめん、顔を見て安心した」
透真は曖昧な、探るような表情を浮かべた。
「俺の顔を見て? でも――」
「もう、いいじゃん。安心したんだから」
俺はちょっと乱暴に透真の言葉を遮って、誤魔化すためにちらっとギズモを見る。
ちょうどそのときメッセージフィードが更新されて、友達の佐原悠人からの『じん、生きてる?』というメッセージがプレビュー表示された。
無言でそのプレビューを消す。
昨日と同じく警備ボットが俺たちを待っていて、「ご案内します」の表示を点滅させながら、滑らかに動き始めた。
エレベーターホールに案内され、エレベーターが到着して乗り込むと、「九階です」と告げられる。
ホログラムの階数ボタンは、三十階と二十九階、六階がグレーダウンして選択できないようになっていた。
察するに、一昨日の夜中の侵入者騒動があって、また修復されていないのだろう。
「9」のボタンを押す。
ぐいん、と上昇するエレベーター。
ちらりと見遣ると、透真は意外にも落ち着いていた。
そのことが、これまでの――病室で透真が目を覚ましてからの――彼に記憶を取り戻させようとする周囲の働きかけが、如何に透真の自己肯定感を削っていたのかを物語っている。
――記憶がないことは、不具ではない。
――知らないことが自然ならば、覚えていなくて不思議はない。
そのことが、透真の危なっかしいメンタルを支えているかのようだ。
けれど。
――実際は、透真の記憶を消去したのはユリなのだ。
つまり、ここにいる透真が本物なのであれ偽物であれ、本来ならば覚えているはずだったことを忘れているのは事実。
そんなことを考えていると、不意に透真がこっちを向いて、目が合った。
透真がにこっと笑う。
「ここでさ、俺がいきなり尋に襲い掛かったりしたらやばいよね」
俺は目をぱちくりさせる。
「なんだそれ」
「なんか、ほら、映画であるじゃん。人型兵器を敵陣に送り込む的な……」
「いやおまえ、病院で検査されてるじゃん。確実にヒトではあるわけじゃん」
「あ、そっか」
二人して笑い出したところで、九階に到着したエレベーターの扉が開いた。
そこに、さっきのとは別の警備ボット。「ご案内します」の表示が点滅する。
そうして案内されたのは、意外なことにビル内のクリニックだった。
そこで透真と別々の診察室に案内され、優しそうな先生から、「緊張してる?」「朝ごはんは食べられた?」「体調はどうかな?」と問診を受ける。
熱を測って平熱であることを確認され、たとえこれからショックなことに出会ったとしても、ここのクリニックは俺の味方だから、と念押しされて問診は終了した。
診察室を出ると、そこには既に透真が待っていて、「早いな?」と目を見開く俺に照れ笑いする。
「先生も、俺の事情は知らないんでしょ? なんか、『藤生くんなら大丈夫ですねー』で万事終了したよ」
なるほどね。
クリニックの外で警備ボットが待っており、また俺たちを案内する。
同じ階の一画の、今度は広いレクリエーションルームのようなところに案内された。
グリーンを基調とした内装で、図書スペースがあり、マッサージチェアがあり、軽食も出てくる自販機があり、簡単に身体を動かせる小さなジムのような一画もあり。
無人ではなかった。
宮佐さんが図書スペースにいるし、与座さんがルームランナーで走っている。
斉郷さんがマッサージチェアで寛いでいるし、津布久さんがテーブルに座って、イヤフォンで音楽を聴きながらギズモをいじっている。
俺と透真がきょとんと眼を見開いていると、顔を上げた津布久さんが、「あ」と声を出して、イヤフォンを外した。
「透真。――え、なに? 復帰するの?」
透真がかくかくと首を振る。
与座さんがルームランナーから下りて、笑いながら言った。
「違う違う。なんか思い出さないかと思って、思い出の地巡りをするんだよ、このあと」
あ、そういう設定なのか。
ひょこ、と、ユリが顔を出した。
宮佐さんの足許で、床に直に座って宮佐さんの脚に凭れていたようだ。
俺と透真に気づいて、ユリが立ち上がる。
手には読書端末。
図書館もそうだが、ここの図書スペースも、専用の図書データベースにアクセスできるレクティオを貸し出す仕様らしい。
ユリが動いたからか、宮佐さんも顔を上げて、俺たちを見た。
途端にあからさまに顔を顰められたので、俺はしゅんとする。
透真が戦慄した声音で、「俺ら、何かしたっけ?」と囁いてきたが、何かしたのはユリです。
ユリが立ち上がり、レクティオを持ったままこっちに駆け寄ってきた。
野戦服ではない――動きやすそうなパーカーにハーフパンツ、その下にはレギンスを履いている。
「おはよう、診察だった?」
目の前に来たユリに声を掛けられて、透真が反応に困ったようなので、俺が答える。
「うん。透真は一瞬で終わったみたいだけど」
「まあ、トーマくんだからね」
ユリがそう言って肩を竦め、その拍子にレクティオのタイトル画面が見えた。
――ル・グィンの『闇の左手』。現在全体の二十七パーセント。
なんだかそれが印象に残った。
――一昨日、俺が読んだことのあるといった、古いSFを読んでいるユリ。
「何か飲む?」
「ええっと、出発までここでのんびりしてていいの?」
「そうだねー、ブリーフィングはもう終わってるから」
「そうなんだ。じゃあ……」
自販機の前までユリに引っ張られていった俺と透真が、それぞれホットココアとキャラメルラテを選ぶ。
ユリは便乗してホットレモンを選んでいる。
それぞれ飲み物を持ってテーブルの方に移動し、津布久さんとは離れた席に座ったとき、心配そうにこっちをガン見する宮佐さんが目に入った。
「――ユリ、お父さんが……」
「心配そうだねー」
「目が怖いんだけど……」
「過保護だよねー」
ユリが悪戯っぽく笑いながら、宮佐さんに手を振る。
宮佐さんは、「俺は全く何も気にしてませんけど?」という表情をなんとか作って、唐突に猛然とレクティオの仮想ページをスライドさせ始めた。
ユリがあからさまに嬉しそうににやついているので、透真が、「この子はちょっと性格が悪いんじゃないか?」と疑うような目でユリを見ていたが、俺にはそうじゃないとわかった。
――お父さんが心配してくれるのが嬉しいのだ。
――お父さんの反応が、これまでとずっと変わっていないのが嬉しいのだ。
――それは即ち、宮佐さんが本物だという希望になるから。