14 世界がひっくり返るようなこと
「――は……?」
俺は絶句する。
――透真を心配していたユリ。
そういえば昨日も、「自分から外に出るなんて珍しいな」と言われていた。
つまり、BGSが透真を迎えに行くとなれば、ユリはそこにおらずにはいられなかった。
昨夜のエレベーターの中で見た、凄まじいばかりの後悔の表情。
――あれは、ユリ自身が、透真の記憶を消していたから?
そのまま数十秒はそうして身動きひとつ出来なくて、
「……じゃあ……」
ようやく、のろのろと動き始めた脳みそで、言っていた。
「じゃあ、透真は……やっぱり透真本人、ってこと?」
勢い込んで息を吸い込む。
続いて頭に血が昇る。
「だったらなんで、さっき透真を庇ってやらなかったんだよ!」
「聞いてよ!」
と、ユリも声を大きくする。
俺がぐっと堪えて黙ると、ユリは唇を噛んでから、言葉を続けた。
「トーマくん、先月の――六日か、侵入者の撃退に派遣されて、戻って来てから、様子がおかしくて」
「…………」
「トーマくん、普段はわたしに話し掛けてきたりしないのに、あの日は話し掛けてきて、いきなり、『自分がBGSに入ってからの記憶を全部消してほしい』って言い出したの」
「透真から?」
俺は思わず笑ってしまう。
「そんなわけないだろ。あいつ、記憶喪失だって、めちゃくちゃへこんで、落ち込んで――」
「そんなの、いざ記憶がなくなったら自分がどう思うかなんて、あのときのトーマくんが知ってたわけないじゃん」
ユリがいささか乱暴な口調で指摘してきて、俺は黙り込む。
「当然、わたしだって断ったよ。わたし、一日一回限定の能力だから、いつ何に使うかは気をつけてて、お父さんに言ってから使うことが多いし――」
「…………」
「でもトーマくん、あのときはほんとに様子がおかしくて、断ったら殺されそうだったし、理由を訊いてみたら――」
ユリの視線が、透真がいる隣室の方に動いた。
壁を透かしてその向こうの透真を見ようとしているように。
「――『世界がひっくり返るようなことを知っちゃったから、消してほしい』って。『絶対誰にも知られちゃいけない、みんな不幸になる』って」
「世界が……?」
スケールがおかしい。
ユリが俺に視線を戻して、「ね?」と、同意を求めるように、縋るように首を傾げる。
「わたし――あの侵入者に、『嘘をつかない』って決めることも、たぶん出来たの。バーターは重くなっただろうけど、不可能じゃなかった。
でも出来ないって言ったのは、」
息を吸い込む。
「トーマくんが言ってたこと、絶対、侵入者に何かを吹き込まれたってことでしょ?
トーマくんがBGSを忘れたいと思うようなことを――世界を見捨てたいと思うようなことを、聞いたってことでしょ? 聞いて、しかも納得するような何かがあったってことでしょ?
だったら、もし同じことをあの侵入者が喋ったら、もう取り返しがつかないって――それが事実だって確定しちゃって、みんな不幸になるんじゃないかって、不安で」
「――――」
俺は何も言えない。
「それで、」
ユリが震える声で続ける。
「今日、あの侵入者の取り調べ動画を見て、――思ったの。トーマくんの言ってた、『世界がひっくり返るようなこと』って」
「――――」
俺は息を呑む。
「……透真が、――本人じゃないってこと……?」
しかしすぐに首を振る。
「いや、でも、透真が偽物なら、当然それは本人もわかってたはずで――」
「わかってなかったかも」
ユリが言う。
「本人だって刷り込まれてるのかも。それで、こう――自覚せずにスパイに使われる、みたいな」
第一、と言葉を継いで、ユリは声を落とす。
「偽トーマくんにその自覚があるって踏んでるなら、サンジョーさんたちももっとトーマくんのことをギリギリ締め上げると思う。だから、本人には自覚がないことが前提――というか、まあ、サンジョーさんたちからすれば、『偽物だってこと含めて忘れてる』って思ってるかもしれないけど、とにかく、そうなんだよ」
俺は口をぱくぱくさせる。
衝撃を受け続けているところになお衝撃を落とされて、頭が全然回らない。
だが、ふと違和感。
「待てよ、透真が――ある時点で、『おまえは偽物なんだ』って言われたとして、だよ。どの立場で、記憶を消してほしいなんて気持ちになるんだよ」
「万歳三唱、侵入者様さまになるはずだって?」
ユリの語調はやや辛辣で、それ以上に慎重だ。
「それは……わかんないけど、たとえばジンくん、いきなり、『きみはジンくんじゃないんだよ』って言われたら、ショックでしょ。侵入者側も、なんだろ、そういう……偽物のことを、情報収集ツールくらいにしか思ってなくて、メンタル面は放置してるのかも。で、なんかこう、未知の技術で頭の中から情報だけ抜き取る、みたいな……」
「SFじゃあるまいし……」
呟きながらも、俺の語調も弱くなる。
「って言っても、今さらか……」
不確定要素があまりに多い。ユリも言及しているが、たとえば隣室にいる透真が――仮に、万が一――透真じゃなかったとして、それをあいつ本人がわかっていて、そらとぼけている可能性。
まあ、これは、あの透真の様子からしてなさそうだけど。
そして、透真が透真じゃなくて、それをあいつ自身が知らない可能性。
そうすると今度は、偽物はどの時点での記憶を持って、本人に化けているのか――
――たぶんそれを見極める意味もあって、三条さんたちは俺に同行を迫ったのだろうが。
思えば俺が考えつくような違和感、そもそも三条さんたちだって検討しているに決まっているのだ。
俺がパニックになっていただけで、実際にはその辺の前提も踏まえた上での今現在の対応なのだろう。
つまり三条さんたちも、隣室にいる透真がSF映画よろしく、心はBGS側、脳みそは侵入者側に属していることを検討しているわけだ。
ユリが頷く。
こくこくと、何度も。
「それで、もし――トーマくんが、トーマくん自身じゃないってことを、侵入者から言われて、それが本当だってわかる証拠があったなら、――それって、世界がひっくり返るようなことだなって」
「――――」
「それに、」
ユリは堰を切ったように続ける。
「もしそうだったら、いつからなのか、わからないでしょ?」
「…………」
「トーマくんが――本人と入れ替わったのは、みんなは記憶喪失のタイミングだと思ってるわけでしょ? でも違う――記憶を消したのはわたしだから。
だったら、いつからトーマくんがトーマくんじゃなかったのか、わからないでしょ?
――それはすごく怖いし、それに、」
ユリがぎゅっと唇を引き結んで、囁き声で続ける。
「――もっと悪いことに、他にもいるのかもしれない。
それが、『世界がひっくり返るようなこと』なのかもしれない」
「――――」
俺は凝然とユリを見据えてしまう。
「……入れ替えられてる人が?」
「そう。たとえばサンジョーさんがサンジョーさんじゃないかも知れない。ヨザおじさんがヨザおじさんじゃないかもしれない」
その言及に宮佐さんを含めるのを避けたことで、ユリが、いつの間にかお父さんが得体の知れない誰かに替わっている――その可能性を最も恐れていることが俺にも痛いほど伝わってきた。
「わたしでもそれを思いつくんだもの。これをお父さんとか……ヨザおじさんとか、背広組の人とかに言ったら、――そんなの魔女狩りが始まっちゃう」
魔女狩り――耳馴染みのない言葉だが、まあ何を言わんとしているのかはわかる。
俺は息を吸い込み、何か気の利いたことを言おうとして言葉に詰まり、やがて頭を抱えた。
「――……なんで俺にそれを言うの……」
漏れた言葉は情けなかったが、ユリはそのときばかりは理路整然と答えた。
「だって、侵入者がBGSの人間を狙って偽物と入れ替えていってるなら、ジンくんは絶対に本物なんだもん」
それに、と言葉を継いで。
「知り合ったの、昨日でしょ。じゃあ、きみが偽物だろうが本物だろうが、知ったことじゃないんだもん。わたしが知り合ったジンくんは、きみだけ」
あと、と言葉を継いで、警戒するように俺を見る。
「きみが知り合ったわたしも、わたしだけだよね」
「そういうことをわざわざ付け加えられると、怖くなるというか」
慄く俺に、ユリは涙目。
「待って待って違うごめん、このままきみが外に走って行って、手あたり次第いろんな人に通報し始めたら困ると思っただけだって!」
ユリ、必死の力説。
ああ、まあ、確かに、それはそうか。
俺は呻き、そしてふと、昨日の自販機の前での会話を思い出した。
「ユリちゃん、きみ――」
「ん?」
――語ってもいいけど、プレゼンも忘れられちゃうと思うとなぁ。
――何かの拍子に思い出すかも。
――それはあるかも。
「透真って、何かの拍子に記憶を取り戻すのも、有り得るの?」
俺の質問に、ユリは大きな淡褐色の瞳を瞬かせてから、答えた。
「――正直、わかんない。わたしが決めたのは、このアニメの終了と引き換えに、トーマくんがBGSに入ってからのことを忘れる記憶障害を起こすことだけ。だから普通の記憶喪失と同じで、何かのきっかけで思い出すことはあるかもしれない」
俺は目を細めた。
「――透真が記憶を失くすのは、きみにとって利益だったんだ? バーターが不利益だったってことは?」
ユリは顔を顰めた。
「だって、トーマくん、断ったらわたしを殺しちゃいそうだったんだもの。トーマくんの記憶を吹き飛ばすのがわたしの利益になったのは、わたしの身の安全がわたしにとって利益だからだよ。しかもとびっきりの。人間、保身が一番ですから」
「透真が、そんなに?」
俺は思わず、透真がいるはずの隣室の方を見遣る。
「それはなんというか……透真らしからぬというか」
そう言ってしまってから、その言葉の意味に気づいて、俺は項垂れる。
衝撃ではあったが、「だからどうする」という話ではあった。
それに、まだ何も確定じゃない。
くわえて、昨日から衝撃が連続して襲ってきているせいで、一つ一つの威力が削がれているというもの。
俺に出来るのはせいぜい、明日現れる(かもしれない)、本物の透真が能力を使ったとて、偽物にだって能力は使えるかもしれないということを警戒しておくことくらい。
ユリとしては、溜め込んでいた秘密を吐き出したことで気が楽になったらしい。
直前の張り詰めた雰囲気もどこへやら、「話し終わったし、じゃ」という感じでもなく、そのままソファで寛ぎ始めた。
俺もなんとなくそのまま、興味の湧かないエンタメフィードを見たりしてソファで姿勢を崩している。
一度、ユリのギズモがメッセージフィードの更新を知らせて音を立てた。
ユリは「お父さんだ」と呟いて、何事かを返す。
直後、俺のギズモが新規のメッセージフィードの開設を知らせて音を立てた。
やり取りをしたことのない人からメッセージが来たということだ。
驚きながらフィードを開くと、「宮佐恵互」の文字。
なんで俺のフィードアドレスを知っているんだ――とは思ったが、考えてみれば、このギズモは一晩与座さんの手許にあったのだ。
アドレスの登録なりなんなり、出来ただろう。
メッセージには、「今、ヒメユリと一緒か?」とある。
なんだろう、文字から感じる怒りってあるんだな。
俺は顔を上げて、ユリを見る。
「なあ、きみのお父さんから、きみと一緒かって訊くメッセージが入ってるんだけど……」
「え、うそ」
と、ユリが目を丸くする。
「やばぁい、わたしが変なメッセージを送ったからだ」
「なに送ったんだよ……」
辟易しながら、「一緒です」と返す。
即座に返信があった。「ヒメユリに変なことしてみろ、おまえの氷像を玄関ホールに飾ってやる」。
「きみのお父さん、なんかめっちゃ怒ってるっぽいんだけど――」
俺が言うと、ユリは気まずそう。
「ごめん、『今どこ?』が鬱陶しくて、『ジンくんとデート』って送っちゃったの」
「何してんのマジで!」
叫んで、なぜか居住まいを正してメッセージを返す。
「ユリさんのメッセージは冗談です。俺が透真のことでへこんでいたので、励ましに来てくれたみたいです」。
ややあって、返信。「ヒメユリに触るな、変なこと言うな、変な気を起こすな」。
「はい」と返信した上で、ユリにげんなりした視線を送る。
「お父さん、めちゃくちゃ心配してるよ。それにきみのメッセージだけで、一瞬で俺は嫌われたみたい」
ユリは嬉しそうに、うふふと笑った。
「お父さん、心配性だから」
――じゃあ、宮佐さんは本物なんだろうな、と言い掛けて、それはあまりにも無神経な言葉だと気づいて、俺は声を呑み込む。
代わりにどうでもいいことを言った。
「そういえば、ユリちゃん――」
「ユリでいいよ」
「じゃあ、尋でいいよ。
――ユリ、ここって俺みたいな人間に昼メシって出るの? それともどこかに買いに行ったり、食べに行ったりしていいの?」
「いやさすがにジンくん――ジンを外には出せないんじゃないかな。配膳ボットが運んで来ると思うけど」
「透真と一緒に食べたりは?」
「んー、どうだろね。お父さんに訊いてみるね」
ユリがギズモを操作して、間もなくして言った。
「お父さんがトーマくんに訊いてくれたけど、トーマくんは一人で食べたいんだって」
「まあ、そうか……」
「わたしが一緒に食べてあげようか?」
「なんでそうなる」
夕飯前に、また呼びつけられて一人で会議室へ。
今度は「背広組」と呼ばれていた中の、下代さんと西平さんしかいなかった。
警戒心満点の俺に、「まあそう身構えないで」と衒いなく言って、二人が説明してくれたところによれば。
まず、俺は親のことも学校のことも気にしなくていい、とのことだった。
「なんでですか?」と食い下がって訊いてみたところ、どうやら下手な小細工はせず、ただ全ての行政機関が俺の行方不明の報を無視するように手を回したらしい。
こわ……。
マスコミの方にも(はっきりとは言われなかったが賄賂かなんかで)、高校生行方不明の捜索願を警察が握り潰したぞ、というタレコミがあっても無視するように手を回したとか。
こわ……。
もう親とのメッセージフィードを見るのが怖い。
「全て恙なく片付けば、なかったことになりますから」
とは西平さんの言。
ユリの能力のことだろう。
続いて、明日のこと。
俺は透真の真贋の見定めのために連れて行かれる。
当然、同行者は今回の透真にかかった疑惑について知っている人間に限られるが、たまたまごく近くに侵入者が出たという誤報が出ることによって、偶然にもすぐ近くにBGSの制服組が一定数おり、何かあればすぐに駆け付けられる態勢にはなる予定、とのことだった。
「私たちにも通信をつないでいてもらうから、状況は逐一伝わる」
と下代さんが言う。
俺は言葉を呑み込む。
呑み込んだ言葉は、「何もかも上手くいった場合、ここにいる透真はどうなる予定なんですか」だった。




