09 BGS向きなのにな
黒川尋の申出では、ここから先の記憶に曖昧なところがあるという。
そのため、編集において適宜、当時の記録と居合わせた当事者の証言を申し述べることで補完したい。
――10月16日木曜日23:09、BGSビル六階東側モニタリングルームの試験室の非常用梯子が破損。
同時に、黒川は侵入者に突進した。
このとき、観測室では、斉郷えりが試験室への非常ドアのロックを解除しようとして、名屋雪斗に制止されている。
「侵入者が隔離されてるんだぞ! わざわざ鍵を開けてどうする!」
「でも中に一般人がいます!」
「悪いが今は一般人より透真だ!」
そしてそのやり取りに被せるようにして、宮佐恵互が声を上げていた。
「――いや、見ろ!」
黒川が侵入者に突進する。
黒川自身も認識していたようだが、侵入者からすれば、黒川がBGS職員か否かの区別はついていなかった。
ゆえにこのとき、侵入者は最大限の警戒を以て黒川を迎撃しようとした。
侵入者が、軽く踵で足踏みする。
――干渉事象の、罅割れに似た白いエフェクト。
通常、BGSの職員であれば、干渉される事象を迎え撃つべく動くもの。
だがこのときの黒川にとっては、そのエフェクトは、本人の言を借りれば、「なんか嫌な感じがするもの」でしかなかった。
そのため、黒川は後ろに跳んだ。
その背後では、今しも破損した梯子がぐらぐらと揺れながら倒れ掛かろうとしている。江守公基は転落こそ免れていたものの、機動的に動ける状況ではなかった。
黒川が、落ちかかる梯子に掴まり、梯子もろとも床へ向かって落ちていく――
――転瞬、干渉事象により、床が体積を増して持ち上がっていく。
黒川は、「天井が落ちてくるか、床が持ち上がるか、そんなところだろうと思っていた」とのこと。
黒川はさらに、この数時間前、彼の通う高校において、初めて干渉事象に遭遇したときのことを思い出していたという。
――蛇腹の如くにねじれて変形した天井と床の只中で、通常と変わらぬ床の上に立ち続けていた侵入者を。
そのため、黒川はこの瞬間、侵入者周辺の床は変形しないのではないかと推測していた。
その考えは当を得ている。
そのときの床の変形を喩えるならば、さながらベーグル。
侵入者の周囲のみが落ち込んだ円環状。
このとき、自身の視野が狭くなる干渉事象を用いたということが、この侵入者がまだ若かったことを示している。
次瞬、梯子が床の上に崩れ落ちる。
クッション素材の床とぶつかり、音は然程ではなかったという。
黒川は梯子の落下を予期している。
落下が想定よりも早かった――床が持ち上がった――ことにも、概ね平静。
宮佐曰く、「さながらエスカレーターから降りるときのような」着地だったという。
床を足で捉え、黒川が立ち上がり、このとき侵入者は黒川が反撃するものと想定して身構えていたが、黒川は床が落ち込むその中央へは進まなかった。
落ちかかる梯子を掻い潜り、彼が走った先には、心神喪失状態にある江守である。
黒川は江守に体当たりし、梯子の下敷きとなる位置から彼を救出――のみならず、そのまま急勾配の滑り台を滑るようにして、床が落ち込むその中央――侵入者が待ち構えるそこへ向かって、勢いよく滑り落ちていった。
同時に黒川は、江守に向かって能力を使っている。
このとき観測室にいた宮佐ほか四名が、「ごめんなさい!」と叫ぶ黒川の声をスピーカーから聞いている。
黒川の能力は、極めて一般的な質の放電能力。
威力としてはスタンガンの、少しばかりの上位互換。
――干渉事象の支配下にあり、かつ、侵入者からの指令が追いついていなかった江守は無抵抗。
まともにその電圧を受けて、痙攣と共に気を失う。
黒川が認識していたのは、これも本人の言を借りれば、「あの人――江守さんですね、なんかやばいと思って」である。
かくして黒川と、失神した江守が侵入者に向かって滑り落ちていく。
侵入者は、表情などは窺えようもないが、戸惑った様子であったという。
――当然である。
彼からすれば、身構えていたところに黒川が反撃してくることがなく、肩透かしを喰らった直後だったのだ。
侵入者はまず、干渉事象を解除。
――持ち上がっていた床が戻っていく。
同時に侵入者は、支配下にあるはずの江守を動かそうとして、彼が失神しているという事実の把握に、数瞬を要した。
そのときには既に、黒川が立ち上がり、侵入者に向かって殴りかかり、
「――ああ、あの馬鹿」
と、観測室で漏れた複数の声をマイクが拾っている。
だが、同瞬、黒川が怒鳴っていた。
「――梯子をこっちに! 透真!」
さて、編集としても、このときの黒川の機転には敬意を表したい。
――このとき、一に、黒川は、生身で侵入者に向かっていくことの愚は察していた。
ゆえに策を欲していた。
多少なりとも侵入者の不意を突こうとして、梯子が降ってくれば多少は侵入者も怯むだろう、と考えたようだ。
そして二に、黒川は侵入者が、藤生透真の名前を知っていたことを覚えていた。
藤生が産業級大都市クラスの能力を持っていることを踏まえ、侵入者が藤生を必要以上に警戒するだろうことに期待した。
そのために、健忘のためここで能力を揮うことは出来ないと重々わかっていながら、藤生の名前を叫んだのである。
くわえて、観測室にいる他の念動力者が混乱しないよう、藤生の名前を後に叫んだ。
反応したのは与座貴一。
与座の能力で、破損して倒れた梯子が侵入者に向かって吹き飛んでいく。
そして侵入者は、その――いわば特大の砲弾と化した――梯子に対処しようとしながら、同時に、藤生透真を警戒していた。
ヘルメットの頭が周囲を見渡す――
梯子に白い罅割れのエフェクトが走り、梯子がぐにゃりと曲がる。
黒川は足を止めていない。
侵入者の視線が逸れた、注意が逸れたその瞬間に、侵入者のそばから撤退して、梯子の後ろに回り込んでいる。
梯子がぐにゃりと曲がったことを見て取ったときの彼の、恐怖に近い表情はカメラに映っている。
だが黒川はそのまま、梯子の蔭で侵入者の背後に回る。
クッション素材の床にあって、彼の足音は聞こえない。
侵入者の意識はそこから逸れている。
元よりここまで、黒川が反撃してくると身構えた侵入者は、肩透かしを喰らってばかりなのだ。
黒川に対する脅威度評価を下げていたとして、何らの不思議もない。
さらに後からわかった事実をつけ加えるならば、このとき侵入者は黒川の能力を測定できていた。
能力として一般的な、日常級Bクラスのものであると。
侵入者は吹き飛んでくる梯子に対処しつつ、そのヘルメットに覆われた頭は、観測室の窓を見上げていた。
梯子がぐにゃりと曲がって吹き飛び、侵入者から見て右側の壁に激突して落下する。
同瞬。
侵入者の背後から、黒川が彼に組み付いた。
途端に弾けた電光は、侵入者からすれば脅威ではなかっただろうが――目は眩んだだろう。
侵入者の須臾の混乱、その隙に、黒川が背後から膝を蹴ってバランスを崩させる。
不意を突かれた侵入者が、前のめりに倒れる。
次瞬、斉郷えりがドアのロックを解除して、名屋雪斗と宮佐恵互が、試験室に向かって飛び降りていた。
「――あの子、機転がすごいね」
斉郷えりが強化ガラス越しに見守る眼下では、史上初となる快挙が達成されようとしている――即ち、侵入者の生け捕りである。
彼らの目的の解明、彼らが使用する未知のテクノロジーの解明含め、侵入者の確保はBGSの悲願ではあったが、これまでそれが達成されたことはなかった。
立ち回りに未熟なところもあったことから、斉郷はあの侵入者が、侵入者の中でも年少の個体だということはあるのだろうか、と疑っていたという。
宮佐が能力を存分に使い、試験室の気温が急激に下がっている。
その一方、黒川は彼自身が気絶させた江守に駆け寄り、彼を仰向けにして、肩を叩いて応答するかどうかを確認し、呼吸を確かめている。
「息はしてます――」
黒川のその声をスピーカー越しに聞きながら、ここまで固唾を呑んでいた藤生が呟く。
藤生は、照明で白く照らし出される眼下の試験室と、明かりが落ち、窓から差し込む試験室の明かりのみを光源とする観測室を比べて、「ここはまるで舞台袖だな」と思っていたという。
「……尋ちゃん――明日、表彰されるはずで」
「表彰?」
「今週の月曜日、尋ちゃん、駅で人が倒れたのに遭遇して、」
「――――」
「周りがみんな動けない中、尋ちゃんだけ動いて、心臓マッサージして、そばの人にAED取りに行かせて、しかもちょうど電車が来る時間だったんで、周りの人に頼んで、この近くに人が寄らないようにしてくれますか、とかも全部、手配したらしくて。それでその人、助かったって」
「へえ……!」
「尋ちゃん、そういう、躊躇いなく動ける、機転の利く人なんです」
そのとき、非常ドアから宮佐が戻って来る。
宮佐は試験室の床から非常ドアまで、彼の産業級大都市クラスの温度掌握の能力で局所的に極端に温度を下げ、氷の階段を生成している。
なお、どのデータベースを検索しても、同様の芸当を可能にするのは宮佐恵互ただ一人である。
宮佐はこのとき、生成した階段の強度を確かめる意味もあって、先に観測室に戻ったようである。
「俺が言えることじゃないけど寒みぃ!
――透真、おい、ショックで何か思い出したりしたか?」
藤生が怯えた様子で首を振る。
宮佐ががっくりと肩を落とすも、すぐに顔を上げる。
「えり、透真と何話してたんだ?」
「あの子、」
「なんだっけ、ヒメユリが呼んでたな。ジンだっけ」
「そう、その子。その子が明日、表彰されるはずだった話を聞いてたんです。――なんでも、駅で倒れた人の人命救助をしたらしいですよ」
「あ、月曜にニュースフィードで流れてたやつ? 高校生が回りの人間に指示出して、人命救助したってやつ?」
「それじゃないですか? ――なんか、周りの陣頭指揮を執ってその人を助けたんですって」
「へえ!」
宮佐が目を丸くする。
そして振り返り、非常用ドアから黒川を見下ろす。
黒川はこのとき、江守のそばに付き添ったまま、名屋に押さえ込まれて暴れる侵入者を、不安そうに見つめていた。
「――へえ、そりゃあ惜しい」
宮佐が呟く。
「そのメンタルと、あの機転だろ?
能力の等級が高けりゃ、ある意味透真よりBGS向きなのにな」
そしてこのとき、名屋が招集していた応援が到着した。
□□□
宮佐さんが氷で階段を作り上げたときもびっくりしたが、それ以上に、宮佐さんがさっさと一人で観測室に上がってしまってびっくりした。
嘘だろ……黒づくめ、絶賛暴れてる最中なんですけど。
またあの、白い罅割れのようなエフェクトが走ったらどうしようと思うと、俺は不安で泣けてくる。
名屋さんはどうやら、体勢の利を得た瞬間に、がっちりと黒づくめの全身を押さえており、もう黒づくめは指一本動かせないらしかった。
それでも名屋さんは、能力の出力を上げながら、無我夢中の様子で黒づくめを締め上げ続けている。
はらはらしながら待つことものの二、三分で、応援らしき人たちが息せき切って駆けつけてきた。
その中に、夕方に透真をえらくびびらせた、あのアッシュグレーの髪の子もいた。
彼らが黒づくめを包囲して、ようやく俺はちょっと気を抜けるような心地を覚える。
へとへとになった名屋さんに代わり、別の人が黒づくめの確保を続ける。
「生け捕り?」
「え、マジで?」
「歴史に残るよ!」
「史上初!」
そんな、暢気といえば暢気な、高揚した、それでいて緊張したようなやり取りが交わされる。
空気がぴんと張り詰めていた。
俺はまだ江守さんの隣にいた。
咄嗟のことだったとはいえ気絶させてしまい、罪悪感がすごい。
定期的に呼吸を確認して、祈る――マジで生きてて、マジで生きてて、あと一時間もしないうちに、ユリがこの人を治療できるはずだ――
斉郷さんもこっちに降りてきて、不安でいっぱいの俺のそばに来てくれて、江守さんの様子を見て、「大丈夫だよ」とにこっとしてくれる。
俺は危うく恋をしそうになるほどほっとした。
透真は観測室にいるように言われたらしい。
強化ガラスの窓を見上げても、こっちに比べて暗い観測室の様子は見えないが、恐らくこっちを覗いているだろうと当たりをつけて、俺は手を振って、「大丈夫だよ」とアピールしておいた。
――そんな俺たちを他所に。
大勢のBGS職員に囲まれた状態で、侵入者、と呼ばれていた黒づくめのそいつのヘルメットが剥がされた。
途端、張り詰めていた空気が緩みそうになる。
――というのも、ヘルメットの中から現れたのは、汗ばんで髪が額に張りついた、せいぜいが十九歳くらいに見える、まだ若い――どう見ても日本人という見た目の、ごく普通の青年の顔だったのだ。
「――こいつが、テロ組織の一員なの? マジで?」
と、アッシュグレーの髪の女の子が口走る。
侵入者、と呼ばれていたその青年は、殆ど義憤を感じさせるような、燃えるような目でBGSの職員たちを睨め回す。
そして、怒鳴った――これが、BGSが確認した初めての、侵入者の声だった。
その言葉の始めが、長いこと黙っていたからか掠れて潰れた声になっていて、聞き取れなかった。
「――……ギュアの分際で、てめぇらなんだよ!」
「――――?」
全員の顔に疑問符が乗る。
こいつ何言ってんの、と思ったのは俺だけではないらしい。
そして、その青年は俺を見た。
BGSの職員たちの囲いを通して、間違いなく、まっすぐに俺を見た。
その燃えるような瞳で。
俺はぞっとした。
「――おまえ、ちょこちょこ逃げ回りやがって、馬鹿にして――」
俺は思わず小刻みに首を振ったが、侵入者と呼ばれた青年の目には、激昂以外の色は見られなかった。
彼が怒鳴った。
「顔、覚えたからな。――ただで済むと思うなよ」