おのぼりぶぅちゃん
七月半ば、ぶぅ初めての大学の定期試験を翌週に控えた土曜日は、朝からしとしと雨だった。
「なんか今年は長いな、梅雨」
「もう服ないよお」
例によって二人は駅前タリーズにいた。いつもはぶぅがその週の課題をやってから夕方くらいに集まるのに、まだお昼前だ。
「除湿機いい感じかね」
「ウン、朝出るとき回していったら、夜もう水のタンクぱんぱん」
「それで洗濯物も乾きそうだな」
「え〜部屋干ししたらまたカビ生えそ……」
「まあなあ」
ほぼ地下ぶぅ宅がカビに侵食されつつあるとママに知らせたら、すぐにパパ送り主で新品の除湿機が送られてきた。あと除湿剤も陳列棚かってくらい置きまくって、なんとかなっている。
「ドラムたたきたい……」
「サークルは?」
「試験前は活動できないんす」
「サークルって試験前ほど行くもんじゃないのか」
「過去問でしょ、わたしそういうの好きくない」
「好きくないねえ」
「うんちんはしてた?」
「過去問? もらったこともあげたこともなかったな」
「あっ友達いなかったんだっけ」
「ウッ」
「ぷっ」
うんちんの大学生活は「栄えある孤立」だと、いつかのお正月ぶぅは聞いていた。今は教壇でかっこつけているのに「ぼっち」だったなんて、と最近よく思い出し笑いをしちゃうんだ。
「で、今日はどうするんだ、こんな早くから」
「恵比寿!」
「行くのか」
「ウン」
「なにしに」
「ガーデンプレイスいってみたい」
「なんで知ってんだ、そんな有名かあそこ」
「いろいろあるんです」
「友達と行きゃいいじゃん、バンドメンバーとか」
「だめ二人ともレポートやるって」
「そのレポート終わったのか、ぶぅは」
「……まだ……」
「……」
「行ったらがんばれる!」
「わかったわかった」
その週アルバイトも休みをもらって勉強してきたし、気晴らしがほしい。うんちんも試験前でいろいろ疲れぎみで、めずらしく二つ返事で本日のコーヒーを飲み干した。
「30分くらい?」
「もうちょいかな」
「ふんふふん、ふんふん」
タリーズを出たら、鼻歌まじりでゴキゲンなぶぅを差し置いてうんちん券売機に直行する。
「パスモないの?」
「特急よ特急」
「エ!」
むかし民間企業で働いていたころのトラウマで混みあう電車がヘビやサソリより嫌いだから、せっかくの休日に嫌な思いをしたくないし、せっかく特急停車駅が最寄りなんだし、片道500円かける2の上乗せくらいどんと来いってわけだ。
「へえこんなきっぷなんだ」
「まだちょい時間あるな」
「あっじゃがりこ買いたい!」
ぶぅ初の特急券を手渡されいよいよわくわく、うんちんを誘ったのは電車賃とかご飯代とかもろもろ払ってもらえるからだけど、特急にまで乗れるなんて、棚からぼたもちってやつだ。
「きた?」
「いそげ!」
改札前の売店に入っていろいろ買い込んでいると、軽快な音楽とアナウンスが聞こえてきた。急いで上りホームに向かったら、いつも追い越されるだけの特急列車がでんと待っていた。
「まあまあ混んでるなあ」
「すご……」
新幹線のグリーン車みたいに二人席が左右に並んでいて、外からじゃ見えない木目の内装にきょろきょろ、指定席の窓ぎわを占めた。
「らくだ〜」
「帰りも絶対乗るからな」
それから二十分ちょっと、うんちん快適にリクライニングして、ぶぅはおやつぽりぽり窓に張りついていた。ふだんアルバイトに通学に眺めている景色がびゅんびゅん流れていって、
「アッ──」
「いつも見てるだろ」
「なんかちがう……!」
大学の最寄駅にさしかかって、高架を走る窓から2号館が見えた。あっというまに通り過ぎていって、なんだか胸のすく思いだった。
「乗換えどっち?」
「山手線。埼京線なんて存在しない」
新宿駅はものすごい人出だった。行きかう足がぐずつく空模様みたくのろくて、なんだか空気までどんより重だるくて、さっさと通り抜けた。
「うんちんガーデンプレイスいったことあるの?」
「一回だけな、もうだいぶ前だけど」
「なにしに?」
「映画、というか映像作品を一本観たな、あとコーヒーも飲んだ」
「一人で?」
「……おっ雨やんできたなあ」
「ぷっ」
山手線は内回りに乗った。渋谷駅でごっそり降りて目の前の席が空いたけど、あと一駅だとうんちん耐える。
「で、なんでガーデンプレイスなんだ」
「ないしょ!」
「最近ないしょ多くないか」
「そだっけ。今なんじ?」
「十二時半くらい」
「おなかすいたあ」
「……」
「じゃがりこはべつだから!」
「まったく……」
ぶじ恵比寿駅に着いて、うんちんすいすい東口へ向かう。改札を出て、ぶぅは落ち着かない。さっぱり雨はやんでいた。
「まって、あれ乗るの?」
「そうそう直通のやつ」
「歩いて行けないの? ふつうに、道路で」
「そりゃ行けるけど、あそこの階段で──」
「階段いこ!」
「なんで?」
「いいから!」
せかされるまま地上に下りた。ぶぅ街路樹とか低層オフィスビルとか街ゆくオシャレな服装をちらちら見やっていて、うんちん納得する。
「キンチョーしてるな」
「べつに!」
「おのぼりぶぅちゃんだねえ」
「わたしは街を見たいんです!」
「ガーデンプレイスは?」
「いく!」
「そっちじゃないぞ」
「……」
ずんずん両手を振って大股で歩き出したぶぅ、くるっと回れ右して一転しおしお戻ってくる。ぎごちなくてせわしなくて、笑っちゃう。
「あそこの高いの、あのへん」
「ふえ〜」
「メシ先に食ってくか?」
「や、ガーデンプレイスでたべよ」
「……!」
「なに!」
「いてっ! じゃあ行くか」
もちろん昨夜ぶぅは寝る前スマホにかじりついていろいろ調べていた。目を丸くして手を口に添えて冷やかすうんちん、ばちんと背中をはたかれ馬みたいに歩き出す。
「なんかふつうのオフィス街みたい」
「ここはな。でも時計広場はちがうぜ」
「ふうん」
「……」
「……」
「──!」
ものめずらしそうなぶぅ、さりげないひとことに気づかない。うんちん特急でリラックスするうち思い当たっていたんだ。ハッと振り向いたらうんちんワッハと笑って、
「やっぱりハナダンか」
「そうだよ! 悪い!」
「ぶーぅちゃん」
「ねえやめて!」
「ぶぅ、おれと付き合わなあい?」
「わたしドーミョージ派だから!」
ちょっと先を歩きながら、首をグキッとかしげたり、甘ったるい声を出したりする。
「あんなガキのなにがいいのかねえ」
「いいの!」
「絶対『ぶーぅちゃん』の方がいいだろ。あっち名前なんだっけ」
「ハナザワルイ」
「早ッ」
「ねえ!」
ぶぅはテレビドラマが好きだ。中学に入ったくらいから、よく観るようになった。受験勉強のときも、ちょっと古くさいドロドロした午後の再放送を観て息抜きしていたくらいだ。
「あのドラマ、もうだいぶ前だよな」
「にせん、ごねん?」
「そうそうおれこっち来てすぐの年だ、まだテレビあったし」
うんちんテレビは一人暮らし2年めに捨てたきり、その直前に観ていた。
「わたし4才とか」
「観てたのか、4才で」
「や、ドラマ観たのはもっと後だよ、うんちんと会わなくなった後」
「だよな、話した覚えないし」
「中2とか」
「十年前のドラマだろ、知ってる友達いたか?」
「いたよ、ハナダン有名だから」
「ふうん」
「わたしはマンガ読んだのが先だけどね」
「まじか、原作?」
「そうです」
クンと顔を上げて鼻高々のぶぅ、まだ「推し」という言葉がなかったころの話だ。
「ドラマよりもっと前だろ、なにきっかけで知ったんだ」
「おねえちゃんに借りた」
「ん? ──ハアなるほど」
「ハナダンめっちゃ好きなんだよね」
うんちんピンときた。ぶぅママのお姉さん、シズカさんだ。面識はないけど、ずっと独身で家も近くて、ぶぅをかわいがってくれてぶぅもよくなついている人だと、昔から端々に聞いていた。
「お元気なのか」
「うん、最近ママより元気かも」
「へえん」
ぶぅとは叔母・姪の関係だけど、「おばさん」って呼ばれるのがいやで「おねえちゃん」って呼ばせるうちに、ぶぅも本当の姉みたいにいろいろ話してきたんだ。ぶぅママに輪をかけて元アムラーで、今も繁華街でスナックを経営している大のおしゃべり好き、うんちんちょっとブルッとした。
「自慢できるな、聖地巡礼って」
「そうなんす! いっぱい写真送ってやる!」
そこで視界が開けた。赤信号の丁字路のむこうに煉瓦づくりらしき色味に囲まれた広場がある。半円形のアーケードがのびる右手に、駅前から見えたビルがひときわ高い。
「あそこ」
「──!」
うんちん指さすところを、ぶぅは口まんまるで見つめた。街路樹にまぎれた広場のまんなかに、石づくりの奇妙な、でも見慣れた直方体が立っていた。あちこち家族連れとかデートとか、たくさん人がいたけれど、誰のことも目に入らなかった。
「じゃあ帰るか」
「ウン」
「なんでだよ、写真撮るんだろ」
心ここにあらずの横顔がジョークにもぽかんとうなずいて、うんちん吹き出した。ひしめく雲が流れていって、みるみる日差しが落ちてくる。
「おお晴れてきた」
「エっちょっとまって」
「待たねえよ、青だ」
「まって! ねえ!」
どしどし横断歩道を渡るうんちん、まだ心の準備ができていないぶぅその腕をつかんで引きずられるようについていった。
「あらっなんか変なとこ押しちった」
「……」
「おっけおっけ。笑えよぶぅジータァ」
「はやくして!」
シズカさんに送った写真は、石づくりのそばに立つ顔まっかっかの全身ショット、イーッと歯を剥きだして、両手をにぎりしめ肩をいからせ、人目が気になる中わざとらしく手間取るうんちんをうつむきがちに睨みつけて、いかにもぶぅらしい一枚だった。
その日、関東地方の梅雨が明けた。