Gの気配
6月は、だいたいの大学生にとってはユーウツな月だ。朝起きたそばからジメジメするし、キャンパスは生乾き臭まみれだし、祝日だってない。一年生は特に授業をたくさん履修していて一限9時からも多い。
「やるき出ないよお……」
「この時期はしょうがないよな」
「ぶえぇぇぇ」
梅雨入り宣言のあった週の土曜午後、しとしと雨の中ぶぅは駅前タリーズにいた。家にいても気分までどんよりしてくるから、パソコンを持ち出して課題をしていたんだ。でも全然はかどらなくて、夕方うんちんが来たときもテーブルにつっぷしていた。
「なんの課題?」
「えーご、毎週ひゃくごじゅうワーズ以上で日記」
「担当ネイティヴだっけ、芸がないねえ」
一・二年生のうちは英語が必修科目だ。入学時にやらされたクラス分け試験の点数に応じて、ぶぅは全6クラス中の上から2番めにいた。うんちんはぶぅとは別の学科の3番めのクラスを教えている。
「150語くらい楽勝だろ、国立に受かったぶぅさんなら」
「英語にがて……共テでも一番できなかったし……」
「だからBクラスなのねえ」
「そうです!」
英語が苦手なのは、恥ずかしがり屋ということが大きい。高校のとき外国人のセンセイに話しかけられて、頭ではわかっていても言いよどんでしまっていたクチだ。
「得意なのは?」
「教科? ちり」
「暗記できるなら、ジャパニーズイングリッシュもできるはずだけどな」
「んー、アルファベットがきらい」
「タリーズいるくせに」
「それとこれとはべつ!」
「わかったわかった」
地理が得意になったのは、二人ともそのときは忘れていたけど、昔おじいちゃんおばあちゃんちでぶぅパパが昔使っていた地図帳を見つけて、うんちんと問題を出しあっていたことも大きかった。
「とりあえずさっさと片付けちまえよ、メシ食えないぞ」
「ぶええぇぇん」
「もう一杯なんか飲むか」
「みずでいい……」
うんちん水をつぎに行ってから本を読みだした。いやいやパチパチやりだしたぶぅ、夜7時を回ってやっとこさ終わらせて、結局そのまま牛丼お持ち帰りコースになった。
「先週も牛丼だったな」
「そだっけ」
タリーズからという径路まで同じ、自炊は三日坊主だったけど、ぶぅが来るまでファストフードを滅多に口にしなかったうんちんも実はちょっと楽しんでいた。
「なんで大学って90分なの!」
「おれに言われてもなあ」
「眠たくなったってしょうがなくない!」
「まあ、今の時代には合ってないかもな」
「ほんとにもう!」
ぬか雨の帰り道を腕振り大股のぶぅはぷりぷり、その週ある授業中こっくりこっくりしていたらおばさんセンセイにイヤミを言われて顔から火が出るほど恥ずかしかったのを、うんちんにやつあたりしておいた。
「ただいまあ」
「唐揚げチンするか?」
「しなくていいよ、おなかすいた〜」
ぶぅが手を洗っている間、うんちんキッチンでお箸とかコップとかそろえて先に部屋へ入ってきた。電気をつけて、むわっときて、
「相変わらず──」
ハッと立ち止まっては室内をきょろきょろする。ぶぅは英語より掃除と片付けの方が苦手だ。忙しいときは服に教科書ノートにメイク道具にお菓子の空袋にほったらかしがち、実家でもそうだった。
「……」
テーブルに牛丼やら置き、ベッドの上に転がっていたボクをむんずと掴んで、ちょっと躊躇しつつ匂いを嗅いだ。
「むしあつ〜」
ぶぅがやってきて、テーブル上のリモコンを手にピッとエアコンをつける。
「やっぱりからあげ──」
「まて」
「なに」
いぬ好きだからか、本人いわく「長年タバコを嗜んでいるから」かはわからないけど、うんちんはかなり鼻が利く。一方ぶぅは同じくいぬ好きで実家にいぬがいるけど鈍感、うんちんをけげんに見つめる。また粗相をしちゃったかと一瞬よぎった。
「なんかカビくさい」
「……エ」
うんちん低い声でつぶやいて、天井とか壁とか白い面を舐めるように見回した。ぶぅはきょとんとして、うんちんに渡されたボクに顔を押し付けてきた。
「……これかな」
「生えてる?」
「たぶん、ドア自体なんかしっけてるし」
「たしかに……」
うんちんドアの両面を見比べて室内側を指差した。はめ込みすりガラスの縁がつうっと黒ずんでいる。心なしかむにゃっとした手ざわりでもある。ぶぅ宅は半地下ほぼ地下だから、晴れでも日差しが入ってこないし、風も滅多に吹いてこないんだ。
「──わっ、くろ」
ぶぅはティッシュで拭ってみて、すぐにくしゃくしゃ丸めてキッチンのゴミ箱に捨てた。それだけで嗅ぎ取れるものかとうんちん続けてきょろきょろ、
「このカラーボックスもあやしいな」
「白いよ?」
「表はな。ちょっとずらしてみていいか」
「ウン」
ドアぎわの角に置いているカラーボックスに目星をつけた。引っ越してきた翌日うんちんと買いに行った家具のひとつだ。ひと棚が50cm四方で2列かける3段ある重厚な木製の横向き、その端をうんちんちょっと持ち上げて、壁から離した。
「ギャッ!」
「おえええ!」
同時に叫んだ。背にはめ込み式のベニヤ板6枚ぶん塗装されていない裏面が、どこもおどろおどろしいまでに黒ずんでいた。
「どうしよう! どうしよう!」
「とりあえず口と鼻ふさいどけ!」
「──!」
泣き顔のぶぅ、よりによってボクを鼻と口に押しつけた。うんちんただちにカーテンを開けて窓を全開に、むっと湿気が雨だれの音といっしょに入ってくる。
「よけいカビ生えそう……」
「いったん換気だ、いったんな」
うんちん洗面台の下の棚から掃除用具を箱ごと持ってきた。ぶぅはボクを顔に押し当てたまま、もっとカラーボックスを動かせるよう足で絨毯をめくった。ぺろんと裏面が現れてぞわっと鳥肌が立ったけど、絨毯はぶじだった。
「ぜんぜんきづかなかった……」
「家にいないときエアコンは?」
「消してる……」
「この時期はずっと除湿つけといた方がいいな」
「いまも除湿にする?」
「そうしよう、窓閉めて」
素地の木目に生えちゃったカビは、乾ぶきしたりシュッシュしたりしてみても鉛筆をこすったみたいに滲んでしまう。
「これたぶん落ちないぞ……」
「ベニヤの裏だけ?」
「白塗りされてるとこは拭いたら取れるな」
「じゃあベニヤだけ外して捨てよ。その方が風通しよくなるし」
「そうするか。この長い板だけ外せば片方は抜き取れるだろ、その後これ上下逆に置いて、またおんなじように」
「おっけ」
「いったん中の全部出すか、これ組み立てたのって六角?」
「残してるよ」
うんちん棚の中身を出しにかかる。ぶぅはカラーボックスとは反対の壁側にあるベッドの足もとクローゼットに向かいかけ、ぐっと固まった。
「ないならおれんちから持ってくるぞ」
「や、あるけど、あのなか……」
「──ずっと閉めてるのか」
「うん……」
「やばそ……」
ぶぅはクローゼットを、寝るときそこに空間があるとなんだか気になるし、備えつけの衣桁があるから普段着はそこに掛けているし、ずっと閉じていた。
「中は冬物か」
「うん、あとここの契約書とか、家電の説明書とか、トランクとか」
「とりあえず開けてみな」
「うう……」
「カビって胞子だから、空気にまざるぞ」
「まざって、どうなるの?」
「それを吸った人間の気管支とか肺に生える」
「──それほんと? うそ?」
「まじまじ」
ちびりそうなくらい怖かった。ふと小さいころうんちんに怪談のたび確認していたように訊いてみたけど、返事もそのときと同じだった。
「引っ越したいよお!」
「いいから開けな」
「うう……!」
しのび足で近づいて、手をかけて、駄々をこねて、開けて、ベッドに倒れ込んで、枕の方まで後じさって、ぐっと中を睨みつける。5月の連休で使ったキャリイングバッグをしまいこんで以来だけど、一見して異常はない。
「──大丈夫そう」
「いや、におうな」
「うそ!」
うんちん嗅ぎつけて鼻をつまむ。ぶぅおそるおそる肝試しみたいにその腕にしがみついている。
「これだろ」
「……!」
ハンガーに引っ掛けていたリュックサックだ。高校のときから使っていて持ってきたけど、大学で同じものをちらほら見かけるので封印していた。黒地の表面がところどころ粉をふいているみたいに白い。
「すてる!」
「中なんも入ってないか」
「タブン……」
「よく見といた方がいいぞ、おれ一回それでパスポート捨てちゃったことあるし」
「え〜……」
うんちんゴミ袋を取りにキッチンへ、ぶぅはテーブルの上のペンをつかみ取り、やっぱりボクをマスクがわりにしながら、ペン先でハンガーから外して、底が白くなっていないのを確認して、床に置いた。ファスナー開けっぱなしの口を指先でつまんで開いて、
「ぎゃあっ!」
文字どおり後ろにふっ飛んだ。空っぽの中は薄く雪をかぶったようにまっしろだった。
「コケテラリウムかよ……」
「も〜ヤ〜!」
うんちんため息まじりにうまいこと言った。ぶぅは布団の上でのたうち回っていた。
それから室内じゅうベッド裏まで調べつくしてから、うんちんは牛丼を、ぶぅはチーズ豚丼を、レンジでチンしてそのままキッチン地べたで食べた。
「これからどうしよう……」
「エアコンは除湿で、換気扇といっしょにフル稼働だな。あと除湿グッズか」
「どんなの?」
「除湿機がいいだろうけど、置くタイプのやつとか、掛けるやつとか」
「お金なくなる……」
「こっちは大丈夫かね、シンク下とか」
「……!」
目が点のぶぅ、ごくりと喉を鳴らして、シンク下のとびらを見つめた。白い木材の面にも、ふちにも、取っ手にも、黒ずみはない。なのに、なにか黒い。ぞくっと鳥肌が立った。
カビは序章にすぎなかった。そのうち招かれざる客が、足のたくさんある方や糸を吐きがちな方などが、お構いなしにやってきた。いつだってうんちんは勇敢に闘って、ときどき犠牲になった。詳しくはいずれ話そう。
ひとまずその夜、ぶぅは一睡もできなかった。