ぶぅの大学デブゥ
2019年4月1日、大学1年生になったぶぅは、オリエンテーションと健康診断のため大学へ行った。
「身長ちぢんでた……」
「その年でちぢむことあるのか」
「あるよ、あとちょっとで160だったのに……」
夕方帰ってきて、最寄駅でうんちんと合流した。通学定期券を買いたくて、でも中学高校と自転車通学であんまり手筈がわからないし、行きしな延々と続く列を見ていて、ちょっと気後れしていたんだ。履修ガイドやらシラバスやらサークル勧誘チラシやら詰まった重たい紙袋はうんちんに任せて、列に並んだ。
「仲良くなれそうなやついたか?」
「ウーン微妙。なんか一部だけすごい盛り上がってて、見てるだけで疲れちゃった」
「付属高校のやつらかね」
うんちんは大学の非常勤講師で、ぶぅのN大には週二で通っている。まだその4月から二年めのペーペーだけど、一年めから付属高校からのエスカレータ組の悲惨なありさまは散々目にしていた。
「わかんない。でもみんなにインスタ聞いて回ってたり、『サークル決めた?』とか聞いてきたり、前で先生がしゃべってるのに……」
「大学デビューってやつだな。そういうやつらが授業中に勝手に出ていったり、スマホでゲームやりだしたりして、動物園化していくのよね」
「ほんとに……?」
ブロッコリーの笠みたいな髪の先っぽだけ染めている男子たちや、やけにお高くとまった目で周囲を見回してはわざとらしい小声でしゃべっている女子たちや、両者がゴリラみたいに両手を叩いて笑っている耳ざわりな大声を思い出して、ぶぅはどんより暗い気分に落ち込んでいた。
「なあんか、うまくやっていけるかフアン……」
「最初はそういう、悪目立ちしたがるやつらが目に入っちまうもんだよ。授業が始まったらだんだん消えてくから気にすんな」
「それならいいケド……」
「私立ってどこもそんなもんだ。まともなやつもいるって、たぶん」
「うん……」
「ちょっと後悔してるだろ」
「なにを?」
「国立蹴ったの」
「……」
「これがTOKYOだよ、TOKYO!」
「ねえ! しっ!」
うんちんがふざけだして、まわりの目が気になる。ガヤガヤしているけど、オリエンテーション中でもおしゃべりをやめない人たちを目の当たりにしてきたところだから、迷惑じゃないか敏感になっていたんだ。
「おながずいだ〜」
「なに食いたい?」
「にく!」
「じゃ行くか」
ようやく定期券は買えたときは晩ご飯どきだった。駅ビルにある焼肉屋さんに入って、カルビとタンをたらふく食べた。うんちんはジンジャーハイボールばかり飲んでいた。
「入学式いつだっけ」
「あさって」
「お父さんとお母さんは?」
「くるよ。夕方には帰るみたいだけど」
「車?」
「うん。あーあ、なんかN大にいるの見られたくないナア……」
「ハハハ、なんだそれ」
「ライスおかわり!」
「ハイハイ」
実はぶぅが地元の国立大学を蹴ってN大を選んだ理由は、うんちんいわくのTOKYO以外にひとつ、大きな理由があった。それをうんちんが知るのは、まだ先のことだった。
もちろんうんちんは入学式には行かなかったけど、ぶぅのパパママには会えた。夕方ぶぅのマンション前で待っていたらブウンと車が横付けされて、
「うんちゃん!」
「おお! 元気そうだな」
「お久しぶりです」
「もう、りっぱになってえ」
「そんな変わってないですよ」
「ダッハッハ!」
元アムラーのワンレン細眉のママと、バシバシ肩に手を置いて豪快に笑うパパ、朝早くに北陸地方から6時間かけて車でやってきて、式ではママが動画を撮りパパは感涙にむせんでいたという。
「ぶぅちゃんスーツ似合いますねえ」
「ばかにしてるでしょ!」
「してないしてない!」
ぶぅはぷんぷんしていた。靴ずれができていて痛かったし、眠たいだけだった式中も奇抜な格好をした学生たちがざわざわしていて不快だった。車の中でその話題になって、二人とも笑っていたと聞いて、少しほっとした。
「やだ、ほんとに地下室じゃない!」
「たしかにあの写真は詐欺だなあ」
「でもお風呂はいい感じねえ、ウォッシュレットないのは残念だけど」
「ああちょっと寝転がるぞ──」
「まだ荷ほどきしてないの? さっさとやっちゃいなさいよ──」
「いいのわたし自分でやるから!」
「わたしじゃなくて『ぶぅちゃん』だろ!」
「うんちんうるさい!」
「あああつかれたあ」
大の字で寝そべってから肘をついたパパ、うんちんは壁にもたれて座る。
「こっちで頑張ってるってな、兄貴から聞いてるよ」
「まだまだ全然です」
「忙しいところ悪いけどさ、面倒見てやってくれよな」
「もちろん任せてください」
「そうそう、名刺渡しとくよ──」
ぶぅとママは水回りであれこれしゃべっている。
「ハイター買った?」
「うん」
「とりあえずそれ週一やっとけば大丈夫。あと油を捨てるときは──」
8年ぶりに二人の肉声を聞きながら、うんちんなんだかなつかしかった。特にパパなんて、ぶぅが生まれる十年以上も前から、ぶぅさえ写真でしか知らない二十代後半のころから、たくさん遊んでもらっていた。
「せっかくだし一杯やりたいなあ!」
「やりたいですね」
「なあ、帰り運転かわってくれよう」
「だめ、あたし寝たいから」
「あっそ……」
「これからとんぼ返りですか」
「一泊する予定だったんだけど、明日の朝イチで客先に出ないといけなくなってさ」
「大変ですね……」
ママが顔を出して、引っ込んだ。パパは工務店の社長さんで、そのころは事業拡大のためあちこち忙しくしていた。数十分、パパとうんちんは8年ぶんのよもやまを、ママとぶぅは掃除のコツを、話していた。
「ねえ、そろそろ出ないと──」
「おっもうそんな時間か」
ママがやってきて、パパは起き上がった。ぶぅがブラウスのままベッドに腰かけて、ボクを抱いた。少し涙ぐんでいた。
「うんちゃん、なにかあったらいつでも連絡してね」
「了解です」
「じゃあ行くか、──っておいおい」
「あらあら」
「送ってく!」
振り向いてパパは苦笑、ママも気づいて苦笑、ぶぅはまっかな目で立ち上がった。
「ぶぅちゃん寂しいのねん」
「べつに!」
車を回してくると言ってパパは先に出た。ママが靴を履いている間、冷やかすうんちんにぶぅはぷりぷり返事する。
「次いつ会えるかわかんないぞ」
「……ふん!」
「アッ!」
先にママが出て玄関ドアを支えている。ぶぅが靴を履くとき、うんちんまじめにつぶやいた。ぶぅは立ち上がりうんちんのつっかけを踏んづけドスドス出ていく。裏返ったのを直していると、ドアが閉まった。
「……」
再び開けたら、やっぱりぶぅはママに抱きついていた。
「まったく甘えんぶぅだねえ」
「あっそれなつかしい!」
「……」
ぶぅの頭をやさしく撫でながら、ママは笑った。いつかおばあちゃんちで、うんちんと肝試しから帰ってきて、半泣きで抱きついてきたときのことを思い出していた。
2階エントランスまでの短い間、ぶぅはママにしがみついたまま、ムカデ競争みたいに歩いていった。マンションを出たら、車のそばでタバコをふかしていたパパが吹き出した。
「パパにもだっこしてもらう?」
「やだ」
「いやですって」
「はいはい、さっさと帰って酒飲んで寝ます」
ついでにスマホをボンネットに置いて、四人ならんで写真を撮った。ママはうんちんの腕を組んで、ぶぅはパパの腕を組んで、みんな笑っていた。テールランプが見えなくなっても、ぶぅは唇をとがらせて、しばらく見送っていた。
週明けから前期授業が始まった。うんちんは一・二年に必修の英語科目の先生だけど、ぶぅのクラスの担当じゃなかった。でも同じ2号館の階が違うだけだから、初日の最後の授業が早く終わったぶぅは、その足でうんちんの教室に行ってみた。
「──語学とは何語でも、最終目的は自己表現なんです。これからの時代は特に、読む聞くなんてスマホが全部やってくれますからね。この授業では、その目的をしっかり自覚して、一年間ついてきてください」
まだ大学で教えだして2年めのうんちん理想に燃えていて、各期初回はガイダンスで60分程度で終わるのが慣例なのに90分まるまる使っていた。廊下から隠し撮りしていたらチャイムが鳴って、出てくる学生たちの流れが一段落してから、入った。
「今日はもう終わりだっけ」
「うん、これからサークル見てくる」
「一人で?」
「や、必修科目でグループになった子たちと、一緒に見に行こって」
「ついにぶぅちゃんもデビューか、デブゥしたのか……」
「なに! 変な子じゃないから!」
「まあよかった。早く行きな、おれももう帰るし」
うんちん板書をサッと消して、さっさと荷物をまとめだした。
「そういやさっき写真撮ってただろ」
「なんでわかったの!」
「よく見えるんだよ。立ってみな」
「へえほんとだ……」
まだちらほら学生が残っている中、初めて立った大学の教壇は、一段以上になんだか高い気がした。
「うんちんの授業受けてみたいなあ」
「モグリに来てもいいぞ」
「でも英作文はにがて……」
「主語は『I』じゃなくて『ぶぅちゃん』だろ!」
「なんで!」
それから2号館の出口まで一緒に行った。うんちんの首にあるネームカードと苗字は違うし、目もとが似ているくらいだし、身長は30cmもっと違うし、バレることはないだろうけど、なんだか照れくさかった。
「酒飲まされんなよ」
「うん」
「じゃあ失敬」
「しっけしっけ!」
明るく言ったけど、去っていく背を見ているとまたなんだか寂しい気分がして、でも待ち合わせ場所にタマちゃんとエマちゃんを見つけて駆けていったら、
「おそ〜い!」
「やっぱり新歓ライブやるって。行こ行こ!」
楽しくなってきた。歩きだして振り返ったら、うんちんが桜並木のところで運動系サークルにビラを渡されていて、あわてていて、二人に気づかれないようプッと笑った。