戦乙女の嘆き
登場人物の名前は神話から引用していますが、深い意味合いはありません
「まったく、どいつもこいつも! 腰抜けのいくじなし共め!!!」
がつん、とジョッキをテーブルに叩きつけるのは、戦乙女のひとり、クレフティヒ。『力強い者』の名の通り、がっしりとした体躯で二の腕も引き締まっていて、同じ戦乙女の中でも優れた筋肉を持っていた。
「まあまあ、お姉様」
「美しいお顔が台無しですよ」
そこへ、クレフティヒの妹分がやってきた。空になったクレフティヒのジョッキに勢いよくドリンクを注ぐ金髪の娘がモルゲンロート、口元を拭うオレンジの髪色の娘がアーベントロート。この二人は双子だ。双方ともに非常に稀な美しさを持っていて、この二人がいるだけで場の空気が一変して華やぐ。だからといってクレフティヒが醜いわけではない。むしろ、妹達と比肩しても遜色ない美しさを持っている。双子が月明かりのような繊細な美しさだとしたら、クレフティヒは太陽のような輝きの美しさだ。そんなわけでクレフティヒはこの場所で注目を浴びていたわけだけれど、そんなこと気付きもしないクレフティヒは二人にそっぽを向いて、管を巻いていた。
「いいのだ、そんなことは。それよりもあやつら! 最近のエインヘリヤル達ときたらなっていない! なんなのだ、どいつもこいつも、戦に誘えば二言目には『自分にはできません』などと。栄えある神々の戦だぞ、エインヘリヤルともあろう者が、諸手を上げずになんとする!」
クレフティヒの言葉に双子は顔を見合わせた。彼女達も戦乙女だ、言わんとすることはわかるが、同時に現在ではそういった者たちが多いのも仕方のないことわかっている。
戦乙女とは、神々と巨人の戦『ラグナロク』に備えるため、人々の魂を戦地へ誘う乙女だ。彼女達に選ばれた魂はエインヘリヤルと呼ばれ、神々の戦士となるのだから名誉なこととされる。
だがそれも今は昔。神々の地ヴァルハラもずいぶん様変わりして、かつて終末戦争とされた『ラグナロク』はその意味合いを大きく変えた。
世界は一度、確かに『ラグナロク』を迎えたのだ。神々と巨人との戦いは熾烈を極め、いつ終わるともしれない闘いは——ある日唐突に終わった。
それは主神の「なんかもう飽きたわ。疲れたし休みたい。」の言葉に、対峙していた巨人が「わかる。スポーツ観戦とかしながら葡萄酒飲みたい。」と返したのがきっかけだった。争いを好む神もいて反対の声も上がったが、大半の者は長きに渡る争いに嫌気が差していた。主神が乗り気だったために、終戦しようという意見でまとまった。
そこからはあっという間だった。あれよあれよとその日のうちに終戦が決まり、互いの被害に関して賠償が決まった。会議が行われた地には様々な競技場が造られ、そして次の日には、お互い腕に覚えのある者を選出してのスポーツの試合の予定が組まれたのだった。
勝敗は決めるが、それはどちらが優れているかを決めるものではない。勝者は次の種目を決める役割を与えられるが、敗者も勝者同様健闘を讃えられ、素晴らしい試合をすることだけが求められた。ただ全力を尽くし楽しむことを目的とすること。それが新しく定められた『ラグナロク』のすべて。
神々の黄昏は代理戦争の名の元、神々と巨人のお楽しみ会に置き換わったのである。
それに何より、現代では下界の様子もだいぶ違う。古代や中世では下界も混沌としており、そこかしこで争いが起きていた。そんな中で戦士に選ばれるのは、それこそ戦の為だけにヴァルハラへ招かれたものだったが、今ではそんな者は数えるほどしかいない。なにか一芸に秀でた者、それが現代のエインヘリヤルの選定条件だ。
戦争は終わったのだ。人の世界でも神々の世界でも。
今や猛きエインヘリヤルに求められるのは敵を薙ぎ倒す膂力ではない。その腕力をもって円盤を遠くに投げて記録を競うことであったり、俊足をもって相手を素早く抜き去りゴールポストに球を入れることであったり、策略を用いて陣地取りゲームで知力を競うことであった。
そうやって時を重ねること幾星霜。今回の競技は厳正なるくじ引きの結果、バーリトゥード——なんでもありの格闘技に決まった。
これには神々も驚いた。選ばれる〝競技〟に定められているのは、この世のありとあらゆるスポーツだ。スポーツと人々に認識されているものが選択肢に含まれる。カラテ、プロレス、ムエタイなどはあっても、これが選択肢に含まれているとは神々も思っていなかった。
だが、永らく平和的に競技が行われていたのも事実。少々刺激が欲しくなっていた神々と巨人は、そのまま今度の大会を行うことに決めた。
そこで困ったのが下界の魂の選定だった。なにしろ下界から戦が消えて久しい。スポーツとはいえなんでもありの格闘技、そうとなると一筋縄ではいかない。闘ったことのある現代人がどの程度いるだろうか。いや、現代でも戦はあるが、古代と比べると内容がずいぶん違う。盾を持ち剣を振るい、敵に猛然と襲いかかる戦士を見慣れた神々を、現代の格闘家が楽しませることができるのだろうか?
戦士の選定を任されている戦乙女達は、ここのところその話題で持ちきりだ。事情が事情なので神々もエインヘリヤルを選べない戦乙女に理解を示している。多くの戦乙女が、今回は戦士の選定を諦めている。
モルゲンロートとアーベントロートも選定を諦めている戦乙女だ。彼女達は現代の人間が、争うことをそもそも行っていないことを知っている。
だが彼女達の麗しの姉はそうではないらしい。そういえばクレフティヒはいつも、ただのスポーツはつまらない、と溢していたっけ。
双子は顔を見合わせてから、空いている椅子に腰掛ける。
「そうは言っても、お姉様。今回の競技は難しいですわ。なにしろなんでもありの格闘技なんですもの」
「モルゲンロートの言う通りです。お姉様、そんなにがっかりなさらないで。なんでもありということは、場合によっては殺害の恐れもありますもの。現代のエインヘリヤルには荷が重いというものです」
優しく語りかける双子に、クレフティヒはむう、と唇を尖らせる。
「お前達までそんなことを。現代の事情は、私だって把握している。だが聞けば戦士はまだ一人も決まっていないと言うではないか。それではラグナロクが成り立たない。そんなこと、これまで一度だって無いだろう?」
「それは、そうかも知れませんが」
「お姉様。何事にも例外はございますよ。今回がその初めてかも知れませんわ」
クレフティヒはジョッキを傾けた。注がれたのは麦酒でも蜂蜜酒でも葡萄酒でもなく、葡萄の果実水だ。アルコールに弱くて、クレフティヒは酒が飲めない。なのにクレフティヒの有り様は完全に酔っ払いそのものだった。酒は飲めなくても酒のつまみが好物で、こうしてよく酒場で果実水を飲んでいる。そうしていると、周りの雰囲気で酔っ払いのようになってしまうのが、モルゲンロートとアーベントロートの敬愛する姉だった。双子はそんな姉が可愛くて仕方がない。だからこうして、あまり好まない酒場などに赴いている。
クレフティヒが酒場にやってくるのはなにか考え事がある時だ。この時は、どう考えても先のラグナロクに関することであると、そう踏んでいたのだが、まさしくその通りであったらしい。さすがに今回の種目はどうかと思ったが、神々がそうと決めたのなら覆ることはない。ほんとうに一人も戦士が決まらなかったら、多分血の気の多い神が試合に臨むだろう。彼女達はそれでいいと思っているが、真面目な姉はそうはいかないらしい。完全に据わった目で文句を言い続けている。
「だいたい、一人も名乗り出ないというのがおかしいだろう。多少なりとも心得のある者がいるはずだ。なのにどの戦乙女も戦士を選べずにいる。お前達も、候補の一人もいないのか?」
クレフティヒの言葉にアーベントロートは頷く。
「ええ。わたくし達もまったく」
モルゲンロートは、アーベントロートの言葉に続ける。
「そうおっしゃるお姉様は、なんだか心当たりがいるようですわ。もしかして目をつけた者が?」
居るのか、という意味でクレフティヒの顔を覗き込むと、彼女は力強く頷いた。
「いる。だから探しているんだが」
「えぇっ」
アーベントロートは驚いた。さすがは麗しの姉である、現代に残る狂戦士、もとい勇敢な戦士に心当たりがあるらしい。だが、顔の広い彼女達だったが、そんな強者の話を聞いたことがない。それはいったいどこのどちら様だろうか。
だが、これでわかった。クレフティヒは自らが見つけた戦士を出せずにいるのだろう。神と巨人と、そのどちらかと闘わせることになるのだろうが、人の魂では相手にさせて貰えないから、同じエインヘリヤルを誰かに出してもらう必要がある。
「お姉様。そんな戦士を見つけられたのですか」
さすがお姉様、とモルゲンロートが言うと、クレフティヒは得意な顔をしたが、その後で意外そうに双子を見やった。
「ああ。とは言っても、どこにいるのかまではわかっていない。ヴァルハラにいることはわかっているのだが」
「まあ、そうなのですね。でもそんな魂なら、誰かが選ばずとも自ら名乗り出そうなものですが」
「そうなのだ。だから不思議でな」
「その者の名は何と?」
「それは、お前達も知っているだろう?」
「えっ?」
双子は顔を見合わせた。本当に、心当たりがない。
首を傾げる妹達に、クレフティヒは呆れたように言った。
「この間映像を見せてくれたろう。その中にいた戦士の一人だ。名はお前達が教えてくれたではないか。アイオロス、と」
「あら」
「まあっ」
モルゲンロートは目を丸くして、アーベントロートは両手を口元にやって小さく悲鳴を上げた。
クレフティヒの言っている映像、というのはもちろん覚えている。そこにいたという戦士もだ。だがそれは、下界で創られた映像作品であり、決して本物ではない。
そう——クレフティヒは映画の中の登場人物を、本物の戦士だと思っているのだ。
そういえば、とモルゲンロートは思い返す。映画鑑賞中、やたらと質問が多かった姉に。映画は中世を舞台にしたものだったのだが、この戦の本質はどうとか、どちらの陣営の誰が英雄になるのだとか。こんな戦いを見たのは久しぶりだとか言って喜んでいて、双子は楽しんでもらえたようで良かった、と思っていたのだが、まさかノンフィクションだと思っていたとは。
アーベントロートは、クレフティヒが映画とかのサブカルチャーを理解していないことにうっすら気付いていたが、まさかあんなカメラワークが現実だと思うとは思わなかった。あまりに見所を写しすぎているのだから……と思ったけれど、色々な映画を観て喜ぶ姉が可愛くて、早く本当のことを伝えるべきだったと自分を責めた。
双子はそれを一瞬で思考し、そして視線が合った瞬間にお互いの考えを完璧に読み取った。そんなお姉様本当に可愛らしい、とそこまでを完璧に。
けれど今はそれどころではない。この場を乗り切らなくては、と思ったところで、二人同時に閃いた。
「……そうでした、そうでした。さすがはお姉様、素晴らしい記憶力ですわ」
「ええ、ええ。本当にわたくし達のお姉様は素晴らしいです。あのアイオロスに目を付けるんですもの」
にっこりと麗しく。双子は敬愛する姉に、満面の笑みを向けた。
「ご案内致しますわ。お姉様の選んだ、戦士の元へ」
双子は件の戦士——を演じた役者の元へ、クレフティヒを案内することにした。
その映画に出たのは売れずに燻っていた時のことだ。ヒューゴは当時のことはあまり思い出したくないと、そう思っている。
オーディションに受かったのはたまたまだった。監督が、腐っていたヒューゴの顔が、苦悩する主人公にピッタリだと言って選抜したのだ。それだけだったので、演技力が足りていないとか、主人公がぱっとしないとか散々な言われようだった。もっとイケメンの方がいいんじゃない?なんて、街中で何度聞いただろう。
もっともヒューゴも同意見だった。役者を目指してはいたが、花形なんてなりたいわけじゃなかった。主人公の親友とか、活躍する恋人を応援する理解のある彼氏だとか、そういうポジションになりたかった。今ではずる賢く小心者だなと思うが、当時は本当にそういうのが良かったのだ。
初めての主役、初めての大舞台。だが内容は格好いいスマートな現代を舞台にしたものではなく、泥にまみれる中世の復讐鬼を描いたものだった。
戦場でモーニングスターを片手に、国を陥れた敵国の兵士達に襲いかかる。技術なんて持っていない、ただ鈍器で殴りつけていくだけの戦闘シーン。それが、ヒューゴの容姿にぴたりとはまっていたのだから、監督の審美眼は本物だった。結論からいうと、初の主演映画はそれなりに売れた。監督の名前もヒューゴの名前も一緒に売れた。あれはヒューゴの、まさに転換期だった。
……まあ、それからはそういう役しかオファーが来なかったから、良いような悪いような気もするが。
とにかくそうやってハマり役を得て、ヒューゴはほどほどの役者になった。恋人のできないまま、数年後に事故死しなければもっと良かったのだが。
「今日も恐ろしいくらいのいい天気だな。吐き気がする」
天界というのは悪天候というのが存在しないらしい。少なくともヒューゴは見たことがない。今日も快晴で青い空が眩しい。眩しすぎて、あの時のようにくさくさしているヒューゴには毒だった。
何が良かったのか、伝説に聞く天界などというところに連れて来られて、何をするでもなくただ過ごす毎日。一応朝と夜があって下界のような生活ができるのは良かったが、目的もないと地獄のようだった。やることが無いのが本当に辛い。他のエインヘリヤル達は、各自でなにかをする者もいたが、ヒューゴはそこへ混じろうとは思えなかった。なにしろヒューゴにはできることがない。神々の為に神殿を補修したり、庭を整備したり。芸を磨くなんてもっての外だ。だってここには、ヒューゴより優れた役者がたくさんいる。脚本家も居れば舞台監督もいた。有名な女優も俳優も、オーケストラだっていたから、しがない映画俳優のひとりであるヒューゴの出る幕は無かったのである。
そんなわけでやることもなくただ過ごしているだけのヒューゴの日課は、その辺をぶらぶら探索することだった。なにしろこの天界というのはとにかく広い。各地にエインヘリヤル達のための生活施設があったので、そこを巡るように天界中を移動していた。気に入ったところに定住すればいいと思って、天界に来てからはずっと彷徨っているような状態だった。
多少、他のエインヘリヤルと接触することはあったが、基本的には干渉しない。だからヒューゴは、このヴァルハラについて疎かった。
この日も日の出と共に立ち寄った施設を出て、さてどちらへ行こう、と丘から辺りを見回している時だった。すっと日が陰ったのに気付く。
たまに通り雨が降ったり、大きな鳥が飛んでいったり、はたまた羽根のある天使が通ったりするから、この時もそうなのだろうと空を見上げた。見えたのは、羽根のある天使だった。それも三人。
ヒューゴはいつも通りそれを眺めていた。天使はエインヘリヤルと違って、それぞれ明確な役割を持っているらしかった。遠くに見える大きな城に向かって行ったりするのをよく見かけた。それを見て、せっかく天界などというところに来たのだから、空くらい飛べるようになっていてもいいのに、なんて思ったりしていた。
ぼうっと眺めていると、天使達はふっと進行をやめて、そして何かに気付いたように下降していた。さっき出てきた施設に用があるのかと思っていると、だんだんとこちらへ向かってきているように思えた。
おや、と思った時には、三つの影はヒューゴの間近に降り立っていた。
こんなにも間近で天使を見たのは天界に来た時以来だ。ヒューゴは驚きながらも天使達を観察していた。
先行してやってくる二人はよく似た顔立ちだ。雰囲気も似ているが、髪色が異なっており衣装の趣向はだいぶ違う。金髪のほうは華やかだが、オレンジ色の髪色のほうは艶やかだ。二人は足早にヒューゴの元へやってくると、両側から耳元に囁いた。
「いいこと。お前は今から〝アイオロス〟よ」
「役者の端くれならなりきりなさい。お姉様の前だけでもいいから」
「はっ?」
目を白黒させるヒューゴを無視して、天使は振り返った。向こうから最後の一人がやってくるためだ。ヒューゴも二人に倣って、その一人を迎えた。
視線を上げた先の天使の姿に、ヒューゴは息が止まった。
先にやってきた二人は確かに美しい。だが、目の前にいる天使の美貌はどうだ。陽の光を受けて黄金に輝く髪を靡かせ、丘の上からやってくる姿は絵画のようだった。しっかりとした体躯は非常に健康的で、見事な装飾の施された鎧が豊かな胸を押し上げる。きゅっと締まったくびれも強調されるデザインで、彼女の魅力を引き立てていた。
象徴的なのは、その瞳だ。深い深い青。深海を覗いているような、星の瞬く時間帯の空のような、いや、むしろ夜明け前だろうか。そこへ光が射して、淡い藤色にも見える。
朝露で濡れていた足元の芝生がきらきらと輝く。まるでその天使が輝いているようだった。
ほぅ、とため息が聞こえた。ヒューゴはそれが自分が出したのかと一瞬思ったが、直後に「お姉様、きれい……」と聞こえたので、二人いる天使のうちのどちらかのものだとわかった。
「アイオロス。探した」
目の前までやってきた天使は言った。ふわりと微笑む美貌に瞬きを忘れてしまう。ヒューゴは目の前の光景が現実なのかわからなかった。その天使が、あまりにも美しすぎるのだ。ぱかりと口を開けて惚けていると、右側から天使につつかれた。
「〝アイオロス〟。こちらは戦乙女のクレフティヒ様です。わたくし達の姉ですわ」
「お姉様はね、お前のあの『映像』をご覧になって、興味を持たれたそうよ」
映像、と聞いて合点がいった。件の映画のことだろう。あれを見て、この美しい天使様はヒューゴの元へ来た、というわけだ。役名でヒューゴを呼ぶのがどういうことかはわからない。役者の名前まで覚える気がないということだろうか。
とりあえずヒューゴは、かの役のことを思い出した。話に乗っておいたほうが良さそうだと判断したのだ。
「わたしに何か御用でしょうか」
さっと膝を折って首を垂れる。映画の〝アイオロス〟は国に仕える兵士だった。王家への忠誠心が非常に強く、それは戦場へ出ても変わらなかった。
だが、それが災いした。敵国の策略で国が窮地へ追いやられると、王家は尻尾切りとしてアイオロス達の部隊を内通者と偽って処分しようとした。そうすることで王家の失敗を誤魔化そうとしたのだ。それでも王家のため、国のために戦うアイオロスだったが、次第に王家への猜疑心が生まれていく。だんだんとそれが強くなるにつれ、アイオロスは何のために戦えばいいのかわからなくなった。そうして王家を信じられなくなっていったアイオロスであったが、最終的に自分の故郷を守りたいという思いを貫き国を救った。しかしアイオロス自身はそれまでの言動を咎められ、処刑されるに至る。間者ではないかと疑われ、疑いが晴れてもあまりに残虐な振る舞いであったことを責められるのだが、そうしなければ自身の身が危うかったし、国を救うなど到底不可能だった。結局のところアイオロスの行いは自己満足だったのか、というところで物語は終わる。
いずれにせよ、付き従う相手には丁寧な態度を取る男だったから、ヒューゴのこの行動は間違いではないだろう。
「頭を上げなさい。お前に頼みがある」
頭上からの声は玲瓏として、ヒューゴの耳によく馴染んだ。なんだかこれだけで心臓がバクバクしている。いや、魂の状態なのだから、心臓の音ではないのかもしれないが。
とりあえず言葉の通りに姿勢を戻すと、天使が目の前にいる。あまりに眩すぎて目が潰れそうだ。
クレフティヒはそんなヒューゴを気にも留めず言葉を続ける。
「お前を勇敢な戦士と見込んでのことだ。次の『ラグナロク』に挑戦して欲しい」
「『ラグナロク』に、わたしがですか」
「ああ。お前なら問題ないだろう。競技はなんでもありの格闘技だが、得意な得物を使用することが認められている」
なんでもあり、とヒューゴは繰り返す。一気に不安感を覚えた。そもそも格闘技の心得なんてない。だが、今のヒューゴは〝アイオロス〟だ。アイオロスなら、競技に出ることはできるかもしれない。即答はしないだろうが出場することはあるだろう。
けれどヒューゴはあくまで役者、闘士でも格闘家でも戦士でもない。どうしたらいいんだ、と混乱しつつ、それを表情に出さないように必死に堪えていた。
怪訝な表情のヒューゴに、クレフティヒもまた眉を寄せる。
「どうした。お前ほどの戦士ならば挑んでみたくなるだろう?」
まずい、とヒューゴは感じた。この美しい天使に見限られたくないと、なぜかそう思ってしまった。でも、だからと言って自分が出場することなど考えられない。
それで言葉に詰まっていると、左右からこほんこほん、と咳払いが聞こえた。それにはっとする。無意識のうちに呼吸が止まっていたようで、一時的に苦しさから解放された。酸素を吸えたことで思考が戻ってきた。そうだ、この二人の天使は真っ先に自分に駆け寄ってきて、アイオロスとしてもうひとりの天使を迎えるように言ってきた。きっとなにか考えがあるのだろう。
「お姉様。きっとアイオロスは、今回の『ラグナロク』に他のエインヘリヤルが参加しないことを知っているのですわ」
「神々と巨人はともかく、エインヘリヤルはエインヘリヤル同士でしか試合を行うことはありませんからね」
「加えて今回はバーリトゥード。同等のちからを持つもの同士ならば良いですが、差があると試合になりません。それもアイオロスがお答えできない理由かと」
二人の天使はさり気なくヒューゴに情報を与えてくれた。なるほど、参加者がいないらしい。理由は競技が危険なものだからで、それによって人間の参加が一切なくなりそうになっている、と。
ここでなんと答えるのが正解だろうか。へたに勇み込むのは良くない気がする。相手がいれば是非とも参加したい、だなんてのは一番良くなさそうだ。万が一相手を用意されても困る。きっと格闘家も天界に数人いるだろうから、そういう人を用意されてしまったら怪我だけで済まないかも知れない。いや、格闘家ならまだましだ。中には腕に覚えはあるものの品行方正ではない者だっているだろう。もしもそんな奴が相手になったらたまらない。
ヒューゴはクレフティヒに向かって、申し訳なさそうな表情を作った。
「わたしは戦士ではありますが、仕えるべき王家、国に見限られた身。そんな者が神々の御前で試合うのはいかがなものかと」
あくまで戦う意志がないわけではないとしつつ、自分には資格がないことにする。完璧に近い答えではないだろうか。言葉遣いは正しいものかと冷や汗をかきながらヒューゴは続ける。
「そのわたしがクレフティヒ様の戦士として参加するのは望ましくない。申し訳ありませんが……」
自分は参加する気はないのだと、そう告げた。二人の天使に言葉を止められたりしなかったから、おそらく及第点だと思う。
だが、これでクレフティヒが納得するだろうか。
「……たしかに、『ラグナロク』は見世物ではない。神々と巨人との代理戦争のようなものだ。内容は変わっても本質までは変わることがない」
今はただのスポーツ観戦会、のようになってしまっているが、元はと言えば終末戦争の代わりに行われているのだ。崇高なものではないかもしれないが、街にやってくるサーカスとはわけが違う。競技場では屋台が出て、映像再生のアーティファクトで試合の内容が放送されるようになったけれど、あくまでこれは神々と巨人の戦いなのだ。
クレフティヒはそう言っていかに『ラグナロク』の参加が名誉なことなのかを説くが、〝アイオロス〟が頷くことはなかった。
「らちがあきませんわね」
それまで黙っていた二人の天使のうち、オレンジ色の髪の天使がそう呟いた。金髪のほうも、ふう、とため息を吐いて、困ったように頬に手を添える。
「ねえ、アイオロス。お前なら次の『ラグナロク』に出られるような戦士に、心当たりがあるのではなくて?」
そうきたか、とヒューゴは目を細めた。双子の詳しい思惑はわからないが、相手をアイオロスが推薦することは規約に反するわけではないらしい。都合の良い対戦相手を用意しろと、そういうことだろうか。
ヒューゴはとりあえずそれに乗っておくことにした。
「なくは、ないですが。名乗り上げないところを見ると、奴も似たようなものなのかもしれません」
「では、その者を説得できれば良いわけですね」
「そううまくいくかはわかりませんが」
双子は、ヒューゴの言葉に頷いてみせる。
「お姉様。アイオロスの推薦する相手は、わたくし達が説得してみますわ」
「ですのでお姉様は、ひとまず先にお戻りになって。きっとうまく事を運んでご報告いたします」
「いや、私もその者の説得を……」
「いけません。お姉様のエインヘリヤルはすでにアイオロスに決まっていますもの」
金髪の天使の言葉に、クレフティヒがそれは、と口籠る。ひとりの天使が複数人戦士を選ぶことはできないらしい。
「そ、そうか。そうだな。では悪いが、モルゲンロート、アーベントロート、後を頼む。私は先に戻っているよ」
「それで、どういうことでしょうか」
クレフティヒが去って、小さな影になるのを見届けてから、ヒューゴは残った二人の天使に訊ねた。二人は笑みを浮かべたまま名を述べた。クレフティヒの妹で、双子だという天使は、ヒューゴにねぎらいの言葉をかける。
「台本もないのに、よく切り抜けたと、まずは褒めてあげましょう」
「それは、どうも」
「おおよそのことは分かって? アイオロス……いいえ、ヒューゴ」
ヒューゴは驚いて目を見張った。
「俺の名前を知っているのか?」
「ええ。お姉様にあの映画を勧めたのはわたくし達なの」
「まさかこんなことになるだなんて。お前にも迷惑をかけたわ。ごめんなさいね」
悪びれた雰囲気はほとんどないが、天使に謝罪されるとは思っていなかったヒューゴはさらに目をぱちくりと瞬かせた。
「天使様に謝られるとはな」
金髪のほうのモルゲンロートは小さく首を横に振る。
「悪いとは思っているのよ。けれど、わたくし達はお姉様のほうが大事なの」
「言いたいこと、分かるかしら?」
オレンジ色の髪のアーベントロートはモルゲンロートの肩に手を乗せ、挑発的に笑みを浮かべる。ここまできたらヒューゴを巻き込んで、クレフティヒのためにどうにかして『ラグナロク』に参加しようということだろう。ヒューゴは諦めて、思いっきりため息を吐いてやった。
「わかった。協力しよう。クレフティヒ様のために、次の『ラグナロク』へ……ええと、エインヘリヤ? として出ればいいんだな?」
「エインヘリヤルよ」と正して、アーベントロートは満足そうに頷いた。
「そういうことよ。お前が話のわかる人間でよかったわ」
「それはどうも。だけどどうする? 知っていると思うが俺はただの役者だ。戦士でもなんでもない。どう考えても、格闘技の試合なんて無理だぞ」
「演じればよいのではなくて?」
「無茶言わんでくれ」
ヒューゴは盛大に顔を顰めると、大袈裟に手を振り回す。
「格闘技ってのはそう簡単に身に付かないんだ。それこそ何年も修行がいる。ましてやなんでもありなんだろう? ってことは、武器も身体もなんでも使って、相手を殺すための試合になるに決まってる。それをどう演じろっていうんだ」
「それほど難しいこと?」
「一筋縄ではいかないってことさ。だいたい相手もそれを分かっていないと演技にもならない」
言ってヒューゴは、ぴたりと動きを止める。そしてつい今しがた出た自分の言葉を反芻した。
相手も分かっていなければ、演技にならない。では相手も分かっていれば、それは演技になるだろうか。
「なあ、お二人さん。聞きたいことがあるんだが」
急に態度が変わったヒューゴに、双子はそれぞれ首を傾げる。
「なにかしら」
「今までに行われてきたのはスポーツだけなんだな?」
「ええ、そうよ。神々が望まれたのは競技の観戦だから」
「本当の試合?」
「ええ。手を抜いたものなんて行われたことはないわ。あったら雷で打たれてしまうから」
そうか、とだけ返したヒューゴに、双子は更に困惑して、それぞれ反対の方向に首を傾げた。
「それがどうかしたのかしら?」
「それなら、なんとかなるかも知れないぞ」
「え?」
ヒューゴは、ヴァルハラに疎かった。
不運にも通り雨に見舞われた。足場がぬかるんで動きづらい。アイオロスは大きな水溜まりに舌打ちをして、対峙するエインヘリヤルを睨みつけた。
前代未聞、なんでもありの格闘技——実質殺し合いの『ラグナロク』は数刻前に開始された。前座として行われた異種格闘技が終わると、闘技場に勇敢な戦士として登場したアイオロスだったが、内心緊張して震えが止まらなかった。
開始の合図とともに戦士二人が駆け出す。大きく振りかぶった剣は、大きな音を上げて火花を散らした。
一度、二度、打ち合って振り抜くと、アイオロスは盾を振り回す。相手は後ろへ跳んでそれを避けた。アイオロス——ヒューゴは、その時に相手役の男が足を滑らせたのを見た。
(やはり、まずいな)
長引かせるのはまずそうだ。通り雨は想定外だった。事が露見する前に決着をつける必要がある。ヒューゴは右手の剣を握り直すと、間合いを取るためゆっくりと左の方向へ歩き出した。
それを、クレフティヒと双子の妹達は、巨大な水鏡の前で観戦していた。宙に薄く広げられたそれに、闘技場の様子が映し出されている。
闘技場には集音と撮影用のアーティファクトが設置され、そのアーティファクトから水鏡に映像が送られてくる。つまるところ試合中継されているのだ。この二つのアーティファクトは、構想があったものを今回の試合用にわざわざ造られたと聞いている。神々もよほどこの試合が楽しみだったのだろうと、クレフティヒは感嘆したのだった。闘技場で遠くから観るのと違って、戦士達の様子が拡大して見られるのが良い。
「これはすごいな。新しい試みだが、きっと神々もお気に召すだろう」
「ええ。うまくいったようでよかったです」
「相手の男——ネストルと言ったか。どういった戦士なんだ?」
「とある地で勇敢に敵軍を打ち破ったと……アイオロスと似たような境遇であったそうですわ。戦士としての実力は、どちらかというと将としての能力を買われたそうです」
「では」
「ええ。剣の腕は、アイオロスの方が上でしょう」
モルゲンロートはそのように答えた。ここまでは順調だ。あとはヒューゴ次第。
モルゲンロートとアーベントロートは、やや緊張した面持ちで視線を合わせ頷き合う。これほどまでに緊張感を持った『ラグナロク』があっただろうか。
どうか最後まで無事に済みますように。祈りながら、視線を水鏡へと戻した。
がつん、と盾で剣を防ぐ。空いている右手の剣を突き出すが、やはり読まれていた。盾で軌道を変えられて姿勢が崩れる。剣の重さに体を持っていかれないように踏ん張るが、ぬかるんだ地面では思うようにいかない。それを気取られないようにステップを踏んで後ろへ下がる。そして剣を振り上げ、強く打ち合った。三度打ち合うとそのまま力を込めて、拮抗したように見せかける。
「やるじゃないか」
「お前こそ」
振り払って交差した剣を払い、刃を返すが剣で受けられた。また拮抗する。
「長引かせるのはまずいな」
「ああ。運が悪いな」
「そうだな」
「ヒューゴ。この後は予定通りに?」
「もちろん」
今度はネストルの方が、剣をいなした。腕力はネストルの方が上だ。びりびりと腕の痺れを感じて、ヒューゴは顔を顰める。トレーニングはしてきたがやはり時間が足りなかった。トレーナーに言われたを思い出して、息を整えるように意識する。
台本では、この後十分ほど打ち合ってから、〝アイオロス〟が負けることになっている。
〝ネストル〟を請け負ってくれた俳優にはヒューゴは面識がなかった。双子の天使に計画を持ちかけて、それで紹介されたのだ。ヒューゴよりは格段に名の売れた俳優だったので受けてくれるか不安だったが、話を聞いた彼は快く受けてくれた。それどころか監督や脚本家にも声を掛けてくれたのだから感謝が尽きない。殺陣があるのでトレーナーも準備され、装備も新調された。多くの協力者の元、計画は始まる。
ここまでは台本通り。ただ通り雨が想定外だった。激しい通り雨——スコールのように打ち付けた雨粒は、闘技場の土を沼地のように変えてしまった。これにはヒューゴも戸惑ったが、それを表情に出すことは許されなかった。仮についてくれたマネージャーを経由して、ネストル役の俳優には台本の通りの進行をするように伝えた。予定ではほどよくアドリブを織り交ぜて打ち合うことにしていたが、それは最低限に、できればやる、くらいに変更された。
緊張は打ち合っていくうちに多少解れた。練習通りの動きができていることに安堵したが、油断はできない。刀剣は本物だ。下手をしたら大怪我では済まない。
練習の通り何度か打ち合いをして、体力は減っているが、気持ちに余裕ができた時だった。これなら少し打ち合う回数を増やせるかもしれない、と思ったその時。すっと陽が陰った。
まさか、と空を見上げる余裕もなかった。先ほどのような激しい雨が降ってきた。泥を巻き上げ、肌をしたたかに打つ。どおおおん、と雷まで鳴っている。
——運が悪い!
ヒューゴは焦った。天候の崩れることのない天界だ、雨は想定していなかった。なぜ想定しなかったのだろうと、考えの甘さを嘆いたがそんなのはどうでもいい。今この時を切り抜けなければ!
ヒューゴはネストルを演じている俳優と視線を合わせる。相手が伺うような表情でいたので、映像ではわからないよう、小さく頷いた。
「これ以上は無理だ。終わらせよう!」
「わかった!」
雨音で声はかき消されているだろう。雷の音も都合がいい。二人はこれで最後だとばかりに雄叫びを上げて——これは台本通りだ——駆け出す。
ネストルが腕力を武器に力一杯剣を振り下ろす。アイオロスはそれを剣で受け流した。お返しとばかりに蹴りを入れる。ネストルは腹にそれを受け体勢を崩した。
好機とばかりにアイオロスは追撃を加える。が、剣は盾で防がれてしまった。ならば次は、とアイオロスは考え、剣を警戒して盾を左上へやった。だが、次のネストルの攻撃は頭突きだった。顎にそれを受けて、アイオロスの視界は揺れる。
ネストルはそこへ追い打ちをかける。盾でしたたかに右腕を打ち付け、アイオロスに剣を落とさせると、剣の柄で後頭部を殴打してアイオロスに膝をつかせた。
ばしゃり、と泥が跳ねて、アイオロスの顔までをも汚す。殴打の衝撃から復帰できないアイオロスを、ネストルは留めとばかりに頭上へ大きく剣を掲げた。
その時だった。かっと辺りが白む。直後、空気を激音が震わせる。——雷だ。
水鏡の向こうの神々が声を上げる。闘技場にその声は届かないが、一瞬ネストルの気が逸れたのは事実だ。その隙をついて、意識を取り戻したアイオロスが反撃を仕掛けた。勢いよく立ち上がり様に頭突きを返してやる。油断が生まれていたネストルはそれを喰らってしまい、足元が不安定になる。
アイオロスはこの機会を逃さなかった。盾で殴りつけてさらにネストルの体勢を崩させたのだ。三度、それぞれ打ち付ける角度を変えて猛攻を加える。雨音に金属音が混ざる。それは激しい雨音を掻き消すほどのものだった。
堪らず片膝をついたネストルに、このまま押せば——とアイオロスが追撃を仕掛けようと、大きく剣を振り下ろした。
だが、その手から剣が抜けた。ネストルに盾で打たれた腕では握力が保たなかった。加えて、雨で柄が滑っていた。飛んでいった剣は泥に落ちて飛沫を上げた。
ネストルはそれを横目で見遣り、それからアイオロスを見上げる。視線が合った。これ以上の好機はなかった。ネストルは右足を踏み出し、立ち上がり様に渾身の一太刀をアイオロスに浴びせた。
鎧を切り裂いて、血飛沫が雨に混じる。雷が遠のいているのに気付いたのはその時だ。
弱まる雨の中、アイオロスは崩れ落ちた。
「ヒューゴ。うまくいったって?」
天界の景色の良い場所にはいくつもベンチが置かれている。そのうちの一箇所で、ぼんやりと空を見上げているヒューゴの元を訪れたのは、あの〝ネストル〟を演じた俳優だ。名前はレオ。風格が出るようにと伸ばしていた髭を剃り落とした普段の彼はきらきらしいイケメンだ。お陰様で、と返したヒューゴは、差し出されたレオの手を取ってきつく握手した。
「いやあ、頑張った甲斐があったな。雨が降ってきた時はどうなることかと思ったが」
「そうだな」
ヒューゴは手にしていたジョッキにワインを継いで、レオに渡した。双子の天使から報酬にと受け取った極上のワインだ。世話になった人達に配ってもまだ寝床に何本もある。もちろんレオにも何本か渡しているが、仲間と飲み会をして全て空けてしまったと聞いている。
レオはありがたく、とジョッキを受け取って豪快に飲み込んでいく。
「いやあ、うまい。こんなに良いものを貰えるほどのことじゃなかったと思うがなあ」
「ここのところあんな試合はなかったって話だからな。よほど楽しんだんだろう」
そいつはいい、とレオは笑い声を上げる。
「じゃあ、俺達にまた仕事ができるかもしれないってわけだ。ヒューゴ様々だな」
レオの言葉にヒューゴもまた笑った。一仕事終えた後の休暇は、いつ味わってもいいものだった。
ヒューゴがモルゲンロートとアーベントロートに提案したのは、『映画の撮影』だった。
どういうことだと問う天使に、ヒューゴはこう答える。
「つまり、当日、本番を映像として撮影するんだ。観戦するのは映し出される映像だが、リアルタイムで行われる。その映像を記憶媒体で記録しておく」
「それにどんな意味があるというの?」
「何度でも見返せるだろう? まったくの無意味じゃないさ。それにそれだけじゃない。試合は映画の一場面なだけだ」
理解できない、と天使の表情は告げていた。
「映画の内容は、戦乙女が神々と巨人のためにエインヘリヤルを一生懸命探すって内容にする。前代未聞の難題に、それでも必死で戦士を探す戦乙女。主演はクレフティヒ様だ。だけど彼女には撮影をしていることは秘密にする。そのほうがリアリティがあるだろうから」
ヒューゴの提案に、モルゲンロートは「そんな!」と声を上げる。
「お姉様に秘密でそんなことを? そんなことできないわ。それに、そんなこと神々がお許しになるとは思えない」
「そうか? 前例がないだけじゃないのか。それにあなた達が提案したじゃないか、演じることはできないのか、と」
「それは、そうだけれど……」
モルゲンロートはクレフティヒに内密で事を運ぶことに抵抗があるようだ。神々を欺くことになるはいいのだろうか。
黙り込むモルゲンロートとは対照的に、アーベントロートは考え込んでいた。ヒューゴはどうだろう、とアーベントロートに声をかける。
硬い表情ではあったが、アーベントロートは「いいかもしれない」とそう返した。
「アーベントロート! 正気なの?」
「正気ではないかもしれないけれど、わたくしは冷静よ、モルゲンロート。こんなことは初めてだけれど、神々も下界の映像作品はよくご覧になっている。それをこのヴァルハラで創ることに、なにか瑕疵があって?」
ゆるゆるとモルゲンロートは首を振る。肯定ではない、信じられない、といった様子だった。
「それにね、モルゲンロート。これは好機かもしれないわ。……わたくしは『ラグナロク』がこのままでいいとは、どうしても思えないの」
その言葉にモルゲンロートははっとする。
それは、モルゲンロートも感じていることだった。永きに渡り続いている『ラグナロク』。その有り様は停滞していて、それを神々も良しとしているが、それがだんだん歪んでいっているようにしか思えないのだ。今回なんでもありの格闘技なんてものが種目に選ばれたこと、それがその発露の一端ではないかと、そう感じてしまった。
神というのは完成された存在だ。朽ちることはないが進化することもない。ただ、堕ちることはある。停滞していく先が堕落ではないと、そう言い切れる保証がどこにあるだろうか。
どこか不快なその感覚は戦乙女たちに共有されていた。彼女達はより効率良く魂を集めることができるようにと、そのようにできている。心の奥底で、ずっとその不安が燻っていた。もしかしたらあんなに真剣に戦士を選ぼうとしていたクレフティヒも、その感覚があったから、〝アイオロス〟を探していたのかもしれない。
「アーベントロート……本気なのね」
天使にも進化はない。神によって完璧に創られるからだ。
だから、この天界になにか変化をもたらせるとしたら、それは人間の魂だけだった。
「だからと言ってお姉様が不利益を被ることはだめよ。それが、わたくし達が手を貸す条件」
アーベントロートはヒューゴに向き合う。もちろん、とヒューゴは返して、まずは協力者を探すことにした。
役者と監督、脚本家が揃って、天使は神に協力を乞うた。創造を司る神にアーティファクトの製作を依頼し、親しい戦乙女に〝ネストル〟の選定を願った。そうしてあらかた見通しが経ってから、脚本を上位の神に献上した。『ラグナロク』の運営に携わり、主神にも進言することができる一部の神にだけ計画を告げ、どうか支持して頂きたいとそう述べた。クレフティヒの耳に入らないよう、口の堅い同胞にも協力を仰いだのが良かったらしい。神々はその計画を許してくれた。
そうして行われた、『ラグナロク』当日。通り雨によって剣を手からすっぽ抜いたトラブルはあったが、おおよそ台本通りに試合が済んだ。血飛沫はあらかじめ仕込まれた血糊だ。打撲はそれなりにあったが、渾身の演技は、録画されたものを見返してみるといい出来だった。試合直後、クレフティヒが駆けつけることが予想されていたので、治癒を得意とする戦乙女に会場に控えてもらい、あたかも死の淵から蘇ったように見せかけた。その際に、クレフティヒが安心感から涙を流したのは想定外だった。余すことなくその姿は記録され、美しさに神々も巨人も天使達も、もちろんエインヘリヤル達も魅了されたのだった。
映画の本編は、『ラグナロク』の競技がバーリトゥードに決まり、クレフティヒが戦士を探すところから始まる。そしてその嘆きを受け、エインヘリヤルとしてヒューゴが立ち、姉妹達が尽力して影ながら『ラグナロク』を成功させるところまでを描く。エインヘリヤル達の演技の特訓から、映像用のアーティファクトの製作、神々への協力を仰ぐ姿も盛り込まれたドキュメンタリーだ。
その完成形が、『ラグナロク』本番の試合。ヒューゴが倒されることで、初めて完成される作品。
「戦乙女の嘆き」と題されたヴァルハラ初の映画は大好評だった。
ヒューゴは後日、双子の天使に呼び出される。天界にいくつかあるうちの館へと導かれた。報酬はすでに受け取っているので何用かと思っていると、なんと主神からだ、と投影機を差し出された。一介のエインヘリヤルが主神から言葉を賜るだなんてことあり得ない。驚いていると、投影機に映像が映し出される。
「安心なさい、録画だから」
アーベントロートはそう言うが、なにが安心なのかさっぱりわからなかった。
主神からは、先の『ラグナロク』の健闘を讃える言葉を頂戴した。そして、主神も映画を観たのだと聞かされる。あまりのことに硬直していると、次も楽しみにしている、という言葉が聞こえて、それで映像の再生は終わった。
「喜びなさい、ヒューゴ。これほど栄誉なことは無いわ」
「エインヘリヤルが主神にお言葉を賜るだなんて……前代未聞だわ」
紅潮した双子とは対照的に、ヒューゴの顔色は悪い。いいんだろうか、とそれだけがやっと口から出た。
「『ラグナロク』を、本当の戦いではなく、演技でも良いということにしてしまったのに。主神はお怒りではないのか」
双子は、あら、と意外そうな声を上げる。
「そうなることはわかっていたのでは?」
「いや、なんだか……ようやく自覚したというか」
呆然とするヒューゴの姿に「なにを今更」とモルゲンロートは呆れた。
「わたくし達は覚悟していてよ。『ラグナロク』は変えられてしまった。たった一人のエインヘリヤルによって。神聖な戦いから完全に娯楽になってしまった」
その言葉はヒューゴに重くのしかかった。まさにモルゲンロートの言う通りなのだ。あくまで『ラグナロク』は代理戦争として行われてきた。内容は戦いではなくても、勝敗があってその試合はごくまっとうなものであった。それが、本気であったとは言え、演技でも受け入れられるという前例を、他でもないヒューゴが作ってしまった。
「俺は……俺は、なんてことを」
青褪めて項垂れるヒューゴに、双子が歩み寄る。
「悲観することはないのよ」
「ええ、ヒューゴ。お前は良くやってくれたわ。わたくし達の想像以上に」
「それは、どういう」
顔を上げたヒューゴの視界に入ってきたのは、慈愛の表情を浮かべる美しい天使だった。二人は言う。これは、神々が望んでいた結果でもあるのだと。
「神々が望まなければ、そもそも実行させたりはしない。わたくし達は天使だから、神々の意志には逆らわない」
「けれど、わたくし達の計画は、止められるどころか推進されたわ。神々がその道筋に行き先を創られたの。これは紛れもなく神々の意志よ」
「神々が『ラグナロク』の改変を希望されたって言うのか。なぜ」
「このままのかたちで『ラグナロク』が続いていたら、きっとヴァルハラは堕落に満ちていたでしょう。それを避けるために、無意識下で戦乙女達が変化を望んだのではないか。神々はそう判じた」
ヒューゴは息を呑む。だってあれはヒューゴのただの思いつきだ。それがそんな大それた事になるはずがない。そう訴えたが、双子はゆるゆると首を振るだけだった。
「そんな馬鹿な。どうしてそれがこんな事になる?」
「そもそもの発端はお姉様だから」
「クレフティヒ様が? なにか関係があるのか」
双子の天使の姉にあたるという、美貌の天使を思い浮かべる。彼女達三姉妹の他にも戦乙女とは会った。いずれも確かに美しかったが、この三姉妹と比べると、あきらかに格が違った。いや、この双子も、クレフティヒと比べると……
そう考えてヒューゴは、畏れ多くもそれを言葉にする。
「あなた達は美しいが、クレフティヒ様は、その……なにか違っているような気がする。他の戦乙女達ともだ。それはなぜだ?」
「お姉様は、特別だから」
アーベントロートはふわりと微笑む。モルゲンロートも、喜色を浮かべて言うのだ。いわく、クレフティヒは戦乙女であって戦乙女ではない、と。
「それはどういう意味だ?」
「そのままよ。お姉様は戦乙女ではあるけれど、そのままの戦乙女ではないの」
「もしくはそれ以上の存在でもあると、そういうことね」
戦乙女、天使の、それ以上の存在というと、とヒューゴが考えたところで、モルゲンロートに体の向きを強引に変えられ、アーベントロートに背中を押され、館から強引に出された。
いきなりのことでつんのめって、踏ん張りきれずに顔から地面に倒れ込む。あらごめんなさいと、まったく悪びれていない声が背後から聞こえた。
鼻を強く打った。折れていないかと、起き上がりながら当てた手に目をやると——指の隙間から見覚えのある衣装が見える。
掌に血が落ちているのに気付かずに、ヒューゴはさらに視線を上げた。
「アイオロス。大丈夫か?」
そこには女神に勝るとも劣らない、戦乙女の姿があった。
「……クレフティヒ様」
「血が出ているぞ。あれほどの戦いをやってのけるのに、戦場でなければそんな怪我をするのか」
ふふ、とクレフティヒが笑う。普段はどちらかというと凛々しい顔つきのクレフティヒが微笑むと、その美しさに呼吸が止まる。撮影のため一緒に行動する機会のあったヒューゴでさえいまだに慣れずにいるから、レオをはじめとする撮影班は、姿を見る度に呆けて計画どころではなかった。あの日の競技当日は、クレフティヒに良い映像を観せるためというのもあるが、レオ達が使い物にならなくなっては困るので、試合中継することになったのだった。
クレフティヒは胸元からスカーフを抜き取ると、立ち上がったヒューゴの顔を拭ってやった。真っ赤になるヒューゴに気付かないクレフティヒは、笑みを浮かべたままその顔を覗き込む。
「聞いたぞ、アイオロス。あの戦いをご覧になった主神から、お言葉を頂いたと」
ヒューゴは、なんとか頷いた。
「ええ、まあ」
「実に栄誉なことだ。私も嬉しいぞ」
クレフティヒの喜び溢れる声は、ヒューゴの心を揺さぶった。ヒューゴもまた嬉しそうなクレフティヒに喜びが溢れる。
「わたしに何か御用でしょうか」
ヒューゴがそう問いかけたのは、クレフティヒがどこかそわそわしていたからだ。もじもじと汚れてしまったスカーフを弄っている。これは、後ろで館の扉の隙間から様子を伺っている双子が回収するだろう。顔半分しか見えないが、お姉様可愛らしい、とでも思っていることが容易に想像できた。
「その、アイオロス。お前が良ければ、なのだが」
「……はい。クレフティヒ様が望むのであれば、ご協力は惜しみませんが」
「ま、まだ何も言っていないだろう! いやしかし、そうだな。お前に頼むのがもっとも良い」
こほん、と咳払いをひとつ、クレフティヒは改めてアイオロスへと向き直る。
「この度の『ラグナロク』がうまくいったのはお前のお陰だ。私からも礼を言う」
「ありがとうございます」
うん、と頷いて、クレフティヒは続ける。
「それでだな、次の『ラグナロク』も、お前を参加させるよう神々から承った。良ければ、次回もまた私と組んで、『ラグナロク』へ挑んで貰えないだろうか」
クレフティヒは思い切って伝えた。神からの指定とあればこれまた名誉なことだが、アイオロスはあまり『ラグナロク』に乗り気ではなかった。だから断られるかもしれないと思ってのことだったのだ。現に返答を待っているがアイオロスは何も言ってこない。そろりと下げていた視線を上に向けたが、アイオロスは驚愕の表情で固まっていた。
クレフティヒはそれを拒否だと捉えた。そんな事を言われるとは思っていなかった、だから返答に困っていると。……実際には頬を紅潮させたクレフティヒの上目遣いの破壊力が凄すぎて、ヒューゴはメデューサの瞳を見てしまったように硬直していただけなのだが。
クレフティヒは悲しくなった。なんとなくアイオロスはクレフティヒの頼みを断わらないと思っていたのだ。
だめだろうか、と涙目のクレフティヒの囁き。それが止めだった。
「…………いえ、是非に」
絞り出された声に、ぱっと明るくなる表情。後ろからは黄色い悲鳴がふたつ聞こえた。
この方は天使などではなく小悪魔ではなかろうか。ヒューゴはぼんやりする頭でそんなことを考えた。
これより後、神々と巨人の代理戦争『ラグナロク』は、時に楽しく、時に激しく、様々な競技が行われることになった。スポーツだけではない、芸を披露することも含まれるようになった。
天使とエインヘリヤル達は神々と巨人を楽しませるために。そして神々と巨人は、天使とエインヘリヤル達を褒め称えその芸を映像として残す。そうすることで、次々とやってきては去っていくエインヘリヤル達に刺激を与え続けた。
そこにはもう、戦乙女の嘆きはなかった。
おわり