床の中から合掌された雪降る前、ひとときの話
家紋武範様主催『知略企画』参加作品です。
ヒュルルル。身を切る冷たいからっ風が、死神が笛吹く様に音を立てて隙間から入り込んだ、もう数刻もすれば夜見世が始まる頃の楼閣。
ひとときの話。
廻し部屋の遊女達が大部屋で火鉢の側で輪になり、今夜辺りは降るかもしれない、こんな日にお茶引きはやだねぇと、声高に話すのが廊下に漏れている。
忙しくなる前のほんの息抜きの時間、振り袖新造、笹雪は温かい綿入れの着物を身に付け、懐には温石ひとつ忍ばせている。台所に無理を言って作って貰った熱い卵酒の器を、冷めぬ様袖で包みしんしんと冷えてくる廊下を、きしりみしりと歩く。
ふう。息を漏らせば霧の様に真白く広がる。大部屋の前を通り抜けるのに少しばかり気を張る。中にかつて同じ姐の下にいた『楓』が突き出しを終え、張り見世女郎として雑魚寝部屋に居ることを知っている彼女。
「それにしても、さ! 楓。あんたは貧乏クジ引いたよねぇ、アーハハハ! あの子の様に、野郎にうつつを抜かした梅乃なんか、とっとと見限っていたら、道中はれて今頃、部屋持ちだったのにさ!」
揶揄する声。歩みが止まった。
「梅乃もさ、間夫に入れ込み、太客の糸屋の旦那を手放すなんちゃ、馬鹿もいいところだよ」
「そうそう、その旦那が笹雪の突き出し道中に、ポンっと、大判小判、大枚出したそうじゃないか、太夫は鼻高々だそうだよ」
「どんな拵えになるんかねぇ。きっと打ち掛けも総縫い取りかねぇ。小間物屋に聞くと、流行りのギヤマンの笄やら、大振りな鼈甲の櫛やら、簪しは名にちなんで翡翠の細工物を入れる様にと、そりゃ、太夫から細かく注文が入ってるんだって」
詮索の声。聞き耳を立てた。
「おやおや、この子ったらむくれたよ」
「陰でコソコソ、間夫を手引きする様な禿なんちゃ、楼主からしたら信用ならんからね。あんたはもう終わっちまったんだよ」
キャハハハ。嘲笑が上がる襖戸の向こう側。いい気味だと、笹雪の中で女が嗤う。
「あんたはここではいっち、低いんだからね! 炭もらって来いよ。寒いんだから」
慌てて動いた。顔を会わせば嫌味のひとつも言わなくてはいけないからだ。
すゝすゝ。板張りの廊下を先に先に行く。
布団部屋へと。姐女郎に嫌われた紅葉の頃、暗い夜を過ごす様、度々命じられ、腕を掴まれ引き摺られ行った場へと。年中冷えた黴が漂い混じる、湿気ったホコリくさい空気を鼻に感じる毎に、何時も思い出す過去の出来事。
ひとつふたつ前の年、訳がありそれまで世話になっていた花魁『梅乃』から離れた紅葉。今は筆頭花魁『若竹太夫』の元で新たなる名を与えられ平穏に暮らしている。
「ふう。これでお前も楽になる。太夫が梅乃には勿体ないと言うからね。部屋替えだ。今日から『笹雪』だよ。若竹の下で、しっかり励みな」
楼主に呼び出され、帳場で言われた紅葉の頃。その時、頭を下げながらどうしようと思った。否は許されない少女の立場。それを言えば、大見世『松葉屋』から出されるのだから。
(太夫の元では、随分良い暮らしになったけど。もっと、なんとかならなかったかな)
昔の事を思いだし、つっと足を出す。裾が割れ『おささ』と呼び可愛がる太夫に、面白半分で爪紅を塗られたほんのりとした紅色が目に入る。
(あの頃、色ボケを治そうと、そりゃぁ。懸命に考えたんだけどな)
「告げ口して! 折檻された姐さん放っといて! 太夫に媚び売って、そっちに行く! 卑怯者!」
火を吐く言葉が今尚、笹雪の頭の中に焼け焦げを残している。
梅乃が恋に溺れたと知ると、率先してその相手を引き入れていた楓。
梅乃に取り入ろうと必死になっていた楓。見目麗しく敏い紅葉を嫌っていた、ひとつ上の少女。
「間夫なんて、あねさまいけない、楼主に叱られる」
間夫が通って来たら知らせろと、禿達は楼主から命じられている。
「あねさま、折檻される。縛られて、錫杖持ちに棒でさんざ、叩かれるよ!」
年若の妹に言われた梅乃は、煩い!と、手にした扇の骨が折れるまで小さな彼女の背中を叩いた。音が漏れぬ様、楓が部屋にある三味線を手に取ると拙く鳴らす。唄う為に声を張り上げた、あの座敷での日々。
傷は残らなかったが、冷える季節には背中がしくしくと痛む、笹雪立ち止まり背を伸ばした。
考えた。恋に狂う前は優しかった姐を救う為に、何よりも楽しみな三度の飯が手につかぬ程に思い詰めた、紅葉の頃。
(いつ糸屋の旦那様に、楼主に、バレるか。ヒヤヒヤして心配で飯も食えなくなっていた)
菜っ葉と揚げの味噌汁をくるくるかき混ぜ、ぼぅ……、と目を椀の中に落とし策を練っていた、膳の前の時を思い出す。食が進まぬと隣に侍る楓から告げ口をされ、要らぬなら飯を喰うなと梅乃に突き放されたあの頃。
(お狐さんにお詣りに行ったっけ、あねさまが悪い男と縁切り出来るように、元の優しいあねさまに戻る様にって)
奥に奥へ向かう。巡る、ひとつふたつ前の年の嫌な日々。
(賽銭がないから、ケチなお稲荷さんからは、多分、知らん顔されたけれど。その証拠に最後の最後まで、間夫とは別れてなかった)
煤けた天井を見上げた。コトコト軽く音響かせ、裏を走る鼠の音が聴こえた。それに混じり声が蘇る。
「紅葉」
塗りが剥げた鳥居を潜り、何時ものように柏手をうっていると、名を呼ばれ振り返ったあの日の事を忘れは出来ない。
「若竹あねさま」
慌てて頭を下げた。その日は楼主から部屋代が足りぬと言われ、機嫌が悪くなった梅乃にいきなり頬をはつられ、質屋に使いに出された彼女。頬がピリリと痛んでいた。
(腫れてたらどうしよう)
「可哀想に。ほっぺが腫れてる。酷い事をする」
ひとつ、ふたつ。新緑の色も鮮やかな友禅の鼻緒が近づく、普段着にも贅沢に焚きしめられた香が濃くなり、ひやりとした手があてられた。
泣きそうになった。頭に過る『女は意地と張り』その教えが、鼻の奥をツンと硬くする。胸の中を熱く痛くする。
涙ひと粒はらりと流すなら、旦那衆と寝間の中。すれば金になる、勿体ない事はするなと、女将に厳しく躾けられた紅葉は、歯を食いしばり顔を上げた。
「お詣りですか? あねさま」
ほう。気丈な紅葉に対し、目を軽く見開いた若竹の顔がそこにあった。
「お前は? 頼まれて来たのかえ?」
「悪いご縁を切りたいからお詣りしてます」
ハキハキと精一杯、去勢を張り正直に返答をした。既に廓内で梅乃の間夫の噂は広まっていると気がついている紅葉。恋なんぞするもんじゃねぇ、太客から貢がせた飾り物を質屋に入れてまで、自分の揚げ代、自分で払うなんて無駄と、子どもながらの頭で思っていた当時。
「梅乃のアレのことかえ?」
ツゥと紅の口角が面白いと上がり、女狐の様に目が嘲笑う若竹。アレとは多分、男の事だろうと思いついた紅葉は小首を傾げ思案をする。
(どう話したら、絵馬代貰えるだろう)
『縁切りをするのなら、お狐さんのお社の裏の大欅に打ち込まれている五寸釘に、願いを書いた『逆さ絵馬』を下げたらいい。それでもだめなら』
それでもの先は知らない彼女。半分、聞きかじった縁切りのマジナイ話。間夫の事を話そうか。それともねだろうか。絵馬堂に意味ありげに、チラチラ視線を送り頭を捻っていると。
「おやおや、願掛けしたいのかえ?」
敏い若竹が口火を切る。それに乗ろうと即座に判断をした紅葉はこくこくと頷いた。
「芸事の上達かえ? お前は見目も良い。芸事も達者にこなす。いずれ松葉屋筆頭に昇るだろうと、皆楽しみにしているのに、そんなかわゆい禿の頬を打つなんて、傷が残ったらどうするんだ」
さわさわ。冷えた若竹の手が、やわやわと癒やす様に動いた。結局、そのままに芸事の上達を願う言葉を書いて、裏に行けずに終わった紅葉。
「わっちはちょっと、用があるから先に帰りな」
境内に来ていた飴売りにひとつ買ってもらい、とっとと帰れと追い払われた禿の少女。
(多分、拾われたんだ。あの日に。しばらくしたら梅乃あね様は間夫がバレて借銭が増えて折檻受けて、手引きした楓と、部屋持ちから廻し部屋になった)
それから。こまねずみの様に、大部屋の先輩遊女に使い回される日々に堕ちた楓。流行り風邪を引いた梅乃が病に伏し、向かう布団部屋に移されたり。楓が紅葉のせいで、見世に出れぬ梅乃の借銭を着せられたと、喚いて部屋に押しかけ騒ぎを起こしたり、くるくる巡った日々。
(どうしてこうして、酷い事をされた梅乃あね様に、あれこれ手配して運んでいるんだろう)
手の内にある、ぬくぬくとした器に面白くないものと、愉快を感じる。
(若竹あね様が行けって言うから、来てる)
「おささは、かわいいねぇ。縁切り絵馬はご利益ありありだよ」
ホクホクとした弾む声。旦那衆がいない時には、ひと目千両を惜しげもなく撒き散らす若竹。大勢の妹がいるその中でも、頭ひとつ抜き出て見目が良く、甲斐性がある笹雪は目をかけられ可愛がられた。
「本当は初っ端からお前をほしいと、楼主に言ったんだけどね。梅乃がどうしてもと頭を下げてきたから譲ったのに、約束げんまん破ったんだよ。アレは。だから。ククク。いい気味だ」
ツン! と。顔を背けた彼女。
(ええ?)
知らぬ話に驚いた彼女。あれこれ聞きたかったが、掘り進めると藪蛇になる気がし、知らぬ顔をした。
「お前、いい気味したいと思わないかえ?」
不意に来た、若竹の企み話。
「持ってる物を施してやんな。台所には言っておく。アーハハハハ!、きっと寝床の中で、手をあわして笹雪を拝むから」
訳がわからず、あね様どうやって?と聞いた、まだ初心だった、ほんの少し前の笹雪。
しんしんと冷える床板。湿気った黴臭いホコリまでも凍っている気がする、奥の奥。ヒュルルルと隙間風の音。布団部屋とは名ばかりの、押し込み部屋。
コトン。板戸の前に器を置いた。
ガタン。動きの悪い板戸を開ける。
病の臭い、籠もった陰の気。使われず空いていた時に閉じ込められた昔の頃。そこに今、打ち捨てられ横になっている、遊女が独り。
「梅乃あね様、今日は卵酒持って来れたよ。久しぶりだね。お飲みになるかえ?」
鼻に袖口を当て落ちぶれた姿を見る度、嗤いが浮かぶ口元を隠し、笹雪は声掛け、しずしずと器を手にし中に入る。かすれた声で、ありがとう、ありがとうと梅乃が言う。
飲ませはしない。座り込むと着物が汚れそうだから。何時も枕元に置いて出る。縁が欠けた空の器がコロンコロンと布団の周りにいつくか転がっている。
見下ろす床の上にはせんべい布団に、カサカサと垢にまみれやせ細り、目が落ち窪み見る影もない梅乃が居る。骨ばった手をあわせ、笹雪を見て涙を浮かべている。
「ひどいことをしたのに。紅葉は、優しゅう、してくれる。あの時は、すま、なんだ」
視線の下には咳き込み跡切れ跡切れの細い声を出す、かつて世話になった彼女の姿。
ヒュルルルと雪起しの風が降りて来る。
ホウ。と息を吐くと綿の様にモワモワ濃く白い。
「今宵は雪が降るかもしれない」
大部屋で聴こえた声。
ごそり。手を差し込み衿元のあわせから錦の布地、中には綿に包まれた温石が入った小袋を取り出す笹雪。天井近くにある、小さな細長い格子戸の灯り取りの窓から、氷の様な風が吹き降りて来る。
「あね様に」
ゴトリと。立っていた足元に落とした温石。 それは手を伸ばして届くか届かないかの距離。ついと、裾をさばき部屋を出た笹雪。板戸を閉めながら、明日から来ることはもう無い。礼も謝罪も飽き飽きと吹っ切れた。
(もう、お腹いっぱい。梅乃の惨めなの見ても面白くなくなっちゃった。早く死んだらいいのに。道中も近いしね。楓の羨む顔を見なくっちゃ。彼女がここに来たら。……、……。フフン。また愉しめるかな)
蜘蛛の巣を張り巡らす様に、楓の身の上に良からぬ事があれと願う笹雪。
ヒュルルル。身を切る冷たいからっ風が、死神が笛吹く様に音を立てて隙間から入り込んだ、もう数刻もすれば夜見世が始まる頃の楼閣。
ひとときの話。
お読み頂きありがとうございました。