04ブイヤベース
今日の海は穏やかで太陽を遮る雲も殆どない。
こんな日は海面に出て外の空気を味わうのがちょっとした贅沢だった。
ヴォルティが海底調査員になって初めて、海から出て空を見た日を今でも鮮明に覚えている。
映画や教材の映像で見たことはあったが空はこんなにも、高く青く美しいものなのかと、言葉に出来ない感情に襲われた。
太陽は眩しく雲は流れ風が頬を撫でるあの感覚は海底都市では知ることも出来なかっただろう。
一度夜に海面に出たこともあるが月も星も一層輝いて宝石のようだったと記憶している。
海面都市は全てが人工的に作られていた。
太陽の代わりの灯りも風も、全て人の手によって外の世界を真似て作られている。
それが普通で当たり前だったが海の中以外の世界を見ると、やはりあれは人工なのだと痛感してしまうものだ。
そして外の世界を知れるのは一部の人間だけで、都市に暮らす殆どの人はそれらを知らないまま生きている。
海面へ出るのはそれだけの船が必要だが海面都市にはそれだけの船がない。
一番海面へ出る機会が多いのは漁船だろう。
海中で網を張るより海面から網を降ろす方が効率がいいと授業で聞いたことがある。
その時に海面へ浮上するそうだ。
次に調査員だろうか。
今のヴォルティのようにちょっと気分転換に休憩、と海面に出る調査員は割と多い。
そう、ヴォルティだけではなく近くにはリノも海面から出て潜水機のハッチを開けて外に出ている。
「あ~………、いい天気だよなあ」
リノは器用に潜水機の上に立ち背筋を伸ばす。
あのまま落ちたらどうなるのだろう。と、余計なことが気になった。
「昔はこうやって日光浴するのが当たり前だったらしいよなーいいよなー」
「羨んでも仕方ないだろ」
「わーかってるよ」
大陸の上で寝転んだり、走ったり、昔は何だって出来た筈だ。
羨ましいとはヴォルティも思う。
だが仕方のないことなのだ。ヴォルティが生まれた時には既に世界は海しかなかった。
『おいお前ら、そろそろ戻って来いよ』
「あ、はい」
もう少しのんびり、といきたいところだが今はまだ仕事中だ。
言い換えれば今は2人してサボっていることになる。
ニッケルから通信が入り、これ以上空を見上げていると流石に怒られてしまうだろう。
残念だがまた今度、そう考えてハッチを閉じる。
潜水機は再び海の中へと沈んで空は一瞬で見えなくなった。
『ポイント17、何か見付かったみたいだ。行ってくれ』
「了解っス」
画面に表示された指定ポイントが光る。
わざわざ集合命令を出すぐらいだ。よほどのものがあったのか。
指定ポイントには数機の潜水機が既に集まっている。
「どうしたんスか?」
『ああ、ヴォルティはアームで左の岩退けてくれ。下引っ掛かってるんだ』
ヴォルティ達が搭乗している小型潜水機はアームが2本設置されている。
それで掴んだり持ち上げたり引っ張ったりと様々なことが出来るようになっていて調査においては非常に重要な装置だ。
そのアームで指定された岩、というよりビルか何か建物の一部だろう、それにアームを固定させた。
『よし、そのままずらしてくれ』
海中とはいえ重量があるものは少々時間を要する。
無理矢理引っ張るとアームのワイヤーが千切れるので気を付けなくてはならない。
『固定したまま下がればいいのよ、何ちんたらやってるの?』
「固定したままだと切れるだろ。何回かに分けて巻き取らないと」
集中していた横からミランダの指摘が入った。
ミランダにはミランダのやり方があるのだろうがヴォルティにもヴォルティのやり方がある。
それにミランダとて経験豊富、という訳でもなくヴォルティと同じ若手に分類されている調査員の女性だ。
そのミランダに指摘されると、何故か素直に聞けなくなる。
『お、おいおい、落ち着けよお前ら。避けれたからいいだろ?』
言い合いになりかけたのを察知したのかリノがヴォルティとミランダの間に割って入る。
ミランダはまだ何か言っていたが無視して動かした建物の一部を海底へ降ろしアームを収納させた。
他の調査員の『若いなあ』なんていう声が聞こえる。
『こんなところで喧嘩なんかすんなよな』
「してない。向こうが何か言ってきた」
『何かって何よ。アドバイスしてあげたんでしょ!』
「頼んでない」
『はあ!?』
『まあまあ!後にしろって!』
リノが2人の潜水機の間に潜り込んで物理的に言い合いを止めた。
ミランダはリノより1つ上、ヴォルティより2つ上の調査員だが経験的にはさほど差はない。
それなのにあれこれ言ってくる上に気が強いものだからヴォルティは少しめんどくさいと思っている。
『さ、さぁてー!下に何があったんだろうなあー!』
『わっざとらしいわね』
潜水機のモニターには建物の下に引っ掛かっていたらしい頑丈そうな箱形の何かが写し出される。
拡大してみるとダイヤルがついた古いタイプの金庫のようだ。
凹みや部分的に錆びのようなものが見えるも比較的綺麗に形を保っている。
『金庫じゃない、流れ着いたのかしら』
『おーいいじゃん!中何が入ってるんだろうな』
「結構綺麗だな」
それなりの大きさのある金庫だ。
大抵、ああいうものの中には貴重品が入っていて金庫が見つかると皆テンションが上がる。
険悪な空気があったヴォルティもミランダも金庫へと意識が移ってしまったらしい。
それを感じ取ったのかリノの声も普段よりも高くなっていた。
『よーし、デイビッドチームはそいつを持って帰還してくれ。他は探索を継続。指定時間になったら引き上げろ』
「了解っス」
ニッケルの指示で各自行動を再開する。
何か面白いものでも入っているといいなあとヴォルティも少しわくわくとした気持ちを抑えきれないまま、再び調査へと戻った。
「開けるの手間取ってるみたいだぜ」
支部へ戻ると金庫の扉は未だ閉ざされたままだった。
ダイヤル式だからそこが錆びてしまったのか腐食してしまったのかなかなか回らないらしい。
こじ開けるという方法もあるがそれは最終手段であり、金庫そのものも貴重だから出来れば壊さず状態良く保存したい、というのがある。
なので出来るだけ既存の解除方法を試みるのだがそれも難しそうだ。
しかもこじ開けるとなってもそう簡単に開かないのでこれは時間が掛かるだろう。
金庫はそもそも頑丈に作られている。
「お前どうする?見ていくか?」
「いや、時間掛かりそうだから帰る」
何だかんだでリノと一緒にいることが多くなってしまったのが不思議だが、気軽に話せる点では楽ではある。
そのリノもこのまま金庫の様子を眺めている気はないらしい。
「ところで今日飯なんだけどさあ」
「いやいい」
「まだ何も言ってないだろ!」
またこの間のようについて来る気なのだろうが、今日はそうはさせない。
リノは1人で食べるより誰かと一緒に食べるのが好きらしいが巻き込むのは勘弁してほしいのだ。
「待てって!今日幸子は…!」
まだ何か騒いでいるリノを置いてさっさと支部を出る。
平然を装っているが、腹が減って仕方ない。
今日は何が食べられるのか想像するだけで涎が溢れるのだ。
そう思うと自然と足早となり駆け足気味に第2エリアまで来たのだが。
ヴォルティを待ち構えていたのは残酷な現実だった。
「どうして!」
定休日。
そう書かれた札が無情にも「幸子」の扉に掛けられている。
定休日。定休の日。予め日を定めて業務を休む日だ。
まさか、今日が幸子の定休日だとは。
ヴォルティはあまりの衝撃に膝から崩れ落ちた。
「だから言っただろ、幸子今日やってないって」
「聞いてない!」
「お前が聞いてなかったんじゃねーかな!?」
追い掛けてきたのか、リノが呆れ顔で肩を落とすヴォルティを見ていた。
確かに休みは必要でありヴォルティにも休みはある。
しかし、しかしそうだとしてもこのショックからどう立ち直ればいいのか分からない。
今日は何を食べようかと、それを楽しみに1日頑張ってきたのにそれがなくなってしまった今、どうすればいいのだ。
今更晩ご飯にレーションなど食べたくない。
「そこまでショック受けてるお前に俺がとっておきの店教えてやるぜ!」
「いやいい」
酷く落胆するヴォルティとは逆にどうしてかリノは楽しそうに見える。
人の不幸が楽しいのか、悪趣味な男だ。
「だから何でいっつも断るんだよ!ロベルトさんに連れてってもらった店だぞ!」
「じゃあ行く」
「お、おま…お前!」
幸子に連れて行ってくれた先輩のロベルトが教えた店なら信用出来る。
すくりと立ち上がると早く案内しろと言わんばかりの顔でリノを促した。
そのヴォルティに対しリノは文句を言いたげではあったが小さく小言を言うだけで移動を開始する。
進む先は第5エリアのようだった。
「アントレ?」
「店の名前なんだよ」
「前菜が?」
「深く突っ込むなよな…」
海底都市は区によって雰囲気が異なる場合もあるが、エリアで変わることはない。
第5エリアも他のエリアとほぼ同じ作りになっていて、メイン通りの建物一階に「entrées」と書かれた看板が設置してある。
外見からこだわっているようで大陸文明を真似ているのか木目のシールが貼られていたり、樽やワインの瓶が置かれていたりと「幸子」とはまた違う装いだ。
リノは扉の取っ手を掴むとそれを引く。
ここも自動ではなく手動らしい。
「いらっしゃい」
「お、空いてる空いてる」
店内は抑え気味の照明と落ち着いたBGMが相まって雰囲気が良い。
テーブル席が2つとカウンターがありそれなりの広さがあった。
カウンターの中には赤い髪の優男がグラスを布巾で磨きながら挨拶を1つ。何やら爽やかな男だ。
「リノくんじゃないか、久しぶりだね」
「ローランさん!いやー色々あったんですよー!あ、こっち後輩の!ヴォルティ」
「同期っス」
またしても良からぬことを言い出したリノの言葉を少々強めに否定する。
テーブル席には一組の客が座って食事をしており幸子とはまた違う香りが漂っていた。
「カウンターでいいかな?」
「座れりゃ何でもいいですよ。あっ先にワインください!お前酒どうする?」
「酒は……、あまり飲まない」
言われた通りに揃ってカウンターに腰を下ろす。
とにかく腹が空いて仕方ない。酒なんて飲んでいる暇などないのだ。
メニューのホログラムを表示させるも全く初めての店だから料理名を見ても分からないし想像も出来ない。
幸子と同じメニュー名もなく困ったなと思っているとヴォルティの前にグラスに注がれた水が出された。
中には氷と輪切りにされた黄色い果実、レモンが入っている。
「レモン水だよ」
「へえー…レモン」
一口飲んでみるとほのかな酸っぱさがあるものの爽やかさかあって酒とは違い喉に刺激もなく非常に飲みやすい。
気に入って半分程を一気に飲んでしまった。
それを見たのかリノが「早えーわ」と言っている。
そのリノの前にはグラスに注がれたワイン。色が濃いので赤ワインというやつだろう。
海底都市には成分調整アルコールといわれる酒は3種類しかない。幸子で飲んだビール、リノが飲んでいる赤ワイン、あとは白ワインだけだ。
「今日のおすすめはブイヤベースだよ。どうかな」
「あ、じゃあそれで」
「俺も…よく分からないからそれで」
ローランと呼ばれた店主は人の良さそうな笑みで準備を始める。
ブイヤベースとは何だろうか。聞いたことがあるようなないような、という感覚で、要は何か全く分からないということだ。
勧められるがまま、それを注文して出来上がるのを待つことにする。
「いい店だろ、ロベルトさんもよく来てたらしいぜ」
「幸子しか行ったことないから店の良し悪しが分からない」
「幸子ってミツルくんのところだよね?僕も何回か行ったよ、美味しいよね」
会話の途中からローランが入ってくる。
料理人は他の店の料理が気になったりするのだろうか。それとも研究の為か。
ローランは幸子だけではなく他の色々な店へ食べに行っているらしい。
そんな話をしている最中、温めていたのか鍋の蓋を開けるとそこから湯気がほわりと立ち上る。
匂いが一層強くなって腹が鳴った。
「さっ、トマトと海鮮のブイヤベースだよ。お待たせ」
「赤い!」
「ヴォルティお前飯の前だと急にテンション上がるよな」
白い皿に溢れんばかりに盛り付けられているのは大きな海老と沢山の貝、赤いスープの中には他にも何やら具がいっぱいに入っている。
この赤さはローランが言っていたトマトだろう。映画で見たトマトは確かに赤かった。
これはすごい。
横でリノが何か呟いていたようだがそんなことまるで聞こえない程ヴォルティは感動している。
「おお…、熱い」
一緒に出されたスプーンを手に、どれから食べようかと贅沢に悩む。
どれもこれも美味しそうで目線はさ迷うばかりだ。
「何だよ食べないのか?」
「食べる!」
「う、うん…、どうぞ…」
リノは既に海老を口にしている。
そうか、先ずはこの主張している海老からか。
大きな海老はスプーンですくい上げるには少々重い程で何とか尻尾を避けて向きを合わせると、迷った末に一口で食べてみる。
リノの「ええ…」という声が聞こえた。
「おいふい!」
「わあ本当かい?ありがとう」
ぷりぷりとしているが以前食べた帆立や蛸とはまた違う食感で、広がるトマトの味に負けないくらいに別の味と香り、たぶこれが海老の味だと思うが、それがヴォルティを誘うのだ。
「熱い!」
「そりゃ一口でいきゃそうなんだろ!」
海老は噛めば噛む程柔らかな甘味が現れるが噛めば噛む程熱さが襲ってくる。
しっかりと熱が通っているらしい。
けれどそんな熱さを忘れるぐらいに旨味が最初から最後まで口の中に残ってくれる。
海老はこんな味なのか。時々、沈んだ建物の中に潜んでいるのを見るが沢山の足が気持ち悪く思っていたが、撤回しよう。
君は美味しい。
「野菜も煮込んであるから美味しいよ」
「野菜」
ローランがグラスにレモン水を追加しながら教えてくれた。
アトラ区から直ぐのタブ区はエリアの殆どが野菜の生産エリアであり昔から様々な研究がされていて、水耕栽培により早い段階から野菜は栽培されている。
根菜類も栽培に成功しており珍しいもの以外なら大体の野菜は海底都市にはあるらしい。
実際に見学したことはないが記録映像を見たことがあって、そこにはケースの中で何の問題なく育っていると音声が入っていたのを思い出す。
まあ、大陸文明とは違い品種は1種類しかないし勿論産地もない、とのことだ。
「味染みてて旨いなー」
「染みる…染みるって言うのか…」
スープに沈んでいた野菜を一緒に口に含むとその柔らかさに驚く。
中までスープの味がして、これが煮込むということなのかどうか分からなかったがリノの言葉で合点がいった。
ヴォルティは食事のありがたさを知ったばかりで表現の仕方がまだ分からない。
美味しいかそうでないかのどちらかだ。
このくたくたで柔らかく透き通る野菜は煮込まれたことによってスープの味が染みているのか。
それにしてもこの野菜は一体何だろうか。栽培されている際の様子は知っていても切り刻まれると分からなくなる。
葉もの野菜というのは分かるのだが後で聞いてみるかと、考えながら最後の一滴、すくえるぎりぎりまで口にしてスプーンを置いた。
この熱いスープは食道を通って胃の中まで暖めてくれる。
思わず溜め息のような息が漏れた。
「君よく食べるね、お代わりするかい?」
「いります!」
汁物と侮っていたが沢山の貝は食べ応えがありこの一品で一食として完成されている。
幸子しか知らなかったヴォルティの世界がまた少し広がった。
なんという幸福。
祝福の鐘が鳴っているかのようだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます!」
再び置かれた皿には満タンのスープと海老、貝と野菜。
先程一皿丸々食べきったというのに目の前に食欲が沸き上がってくるから不思議でならない。
先程は一気に食べてしまったから今度はゆっくり、と思ったが口に入れると次も次もとどんどん食べてしまった。
この不思議な魅力に囚われてしまって逃れられることは出来ないだろう。
「な…なくなった…」
「だから早えーんだって!」
この後リノが一皿平らげる間にヴォルティはもう一度お代わりしてローランを驚かせた。
「おい見てみろよ、時計だ」
次の日、難航していた金庫の解錠に成功したらしく、デスクには中に入っていたらしい時計が何本も並べられていた。
どうやらコレクターの金庫だったようで厳重に保管されていたのか状態が良い。
しかもどれもこれも大陸文明で有名とされていたメーカーの物ばかりで資金力のあったコレクターと予想された。
これほど状態良く見つかることは少ないので皆一目見ようと集まっている。
「凄いな、かっこいい時計だ」
「だよなあ。あれ幾らぐらいしたんだろうな?」
大陸文明の価値と海底都市の価値は違うから厳密には分からないが相当な値段だったと推測される。
これだけのものをよく集めたものだ。
「これだけ発見出来たんだから特別ボーナス出るだろうな」
「いいな、ご飯が食べれるぞ」
「お前飯ばっかだな…」
調査をしていく上で貴重な物を見つけるとランクによって本部からボーナスが発見者に支給されることがある。
だから皆金庫を見つけるとテンションが上がるのだ。
今回はあれだけの時計だからデイビッドチーム全員にボーナスが出るだろう。
ああいった発掘品はトレージャ区に持っていって調べられた上で用途を決めるが状態が良いから展示されるかもしれない。
そうなればボーナスの額も増える筈だ。
羨ましい。
「たんまり出たらお前らにもおごってやるよ!」
「本当っスか!ご飯食べたいです!」
朝から機嫌の良いデイビッドがヴォルティとリノに声を掛けた。
岩を引っ張っただけだが一応手伝ったから何かしら恩恵があるらしい。
何一つ躊躇せず返事したヴォルティにミランダが冷たい目をしていたがそんなこと気にしている場合ではないのだ。
美味しいご飯が食べられる、それだけしかヴォルティの頭にはない。
何を食べさせてくれるのか、今から楽しみでしょうがなくヴォルティはスキップでもしそうな勢いで自分の潜水機へと向かった。